11 8月
主の親しき友ウォルター・ビュートラーについて ウエード・テーラー 8月11日
主の親しき友ウォルター・ビュートラーについて
ウェイド・テイラー
ウォルター・ビュートラー師は私が学んだ聖書学校の教師でした。師は他に類を見ないほどに主イエスを個人的に親しく知り、主と共に歩いた人でした。稀にみるような主との親しき交わりの中での彼の生活は、周りの者にもその素晴らしさがよく分かりました。師が教えている教室に、主イェスはしばしば訪れてくださり、ご自身を顕され、師に教えを受けていた学生たちの人生の上に働いてくださいました。 その一人であった私の人生もチャレンジを受け変えられてゆきました。
師は度々学生たちに、主を個人的、体験的に知るようにと勧めました。師自身のユニークな主との霊的歩みと体験を話してくださり、私たちももっと主を熱心に求める気持ちを持つようにというチャレンジを与えてくださいました。
師のミニストリーにより、私の霊的な歩みの2つの面が非常に重要になりました。 第一は、「主を待ちのぞむ」という質の高い時間をついやすことのはかり知れない恩恵を理解したことです。第二は主の「顕現的な臨在」(Manifest Presence)を体験することが可能であることを知ったことです。師の教えのおかげでこの2つは私の人生の中で現実のものとなりました。
ビュートラー師が教えられた霊的原則は、私の霊的生活に大きな影響をあたえ、私のミニストリーの基礎原則ともなりました。
それは「私たちが神のために愛の家を建てるならば、神は私たちのためにミニストリーの家を建ててくださる。」というものです。
この原則は真理であり力があることを私は証言することができます。
ビュートラー師は広範囲にわたって海外でのミニストりーを行い、「主の顕現の臨在」と「神の導き」について1974年の亡くなる直前まで教えられました。
あるペンシルバニアのペンテコステ派聖書学校にビュートラー師が訪れたときの一学生の記録をここに載せます。
「神の祝福だけでなく神ご自身を求めたウォルター・ビュートラー師の思い出」
ウエスタン・ペンシルべニア聖書学校の学生たちは興奮で騒然としていました。ウォルター・ビュートラー師が来週この学校に来るというのです。私は彼の話を聞いたことがなかったので、上級生たちがこんなに興奮するのなら、素晴らしい人に違いないと思いました。
とうとうその当日となりました。 会堂は一杯になりました。学生だけではなく、遠いところからも人々が詰めかけていたのです。
彼が話し始めると、今まで私が聞い話とは何か少し違うことに気がつきました。彼がイエスについて話すとき、イエスについての大量の情報を提供するのではなく、あたかもイエスが彼の友達であるかのように話したのです。このことが私の興味を引いたので、私はもっと注意深く聞くことにしました。彼の話す話はただの話以上のものだということがわかってきました。それは彼が友達イエスと一緒にした冒険談の数々だったのです。
彼は彼の友達(イエス)のことを教えるために世界中に出かけていきました。通常一人で旅行をしましたが、神の臨在がいつも伴っていたので、実際のところ一人ではなかったのです。彼とイエスがロンドン行きの飛行機に乗って大西洋上空を飛んでいたときの話です。二人で愉快な旅をしていたのですが、イエスが急に「ウォルター、今度はピラミッドのところで会うからね。」と言われていなくなるのがわかりました。彼はロンドンに到着すると、すぐにエジプト行きのチケットを買い、エジプトに行き、ピラミッドのところで腰をおろしました。 すると、彼の友達(イエス)の臨在を感じました。間もなくエジプト人のビジネスマンが彼の横に座りました。主が彼をエジプトに呼ばれた理由はこの人だったということが彼にはわかりました。彼がこの人に友達のことを話し始めるのに時間はかかりませんでした。エジプト人は、「主は私の友達にもなってくれるでしょうか?」と聞くので、彼は喜んでイエスを紹介しました。そして、また飛行機に乗って旅を続けたのです。友達と一緒に。
ビュートラー師は、彼が友達と一緒にした冒険談をいくつか話してくれましたが、一つの話を忘れることができません。彼があるときバンコックの飛行場につくと自分のスーツケースがありません。彼はモテルに行き、そこで飛行場からの連絡を待ちましたが、なんの連絡もありません。彼はまた飛行場にいってコンベイヤー・ベルトのあたりを見回しましたが、ありません。もうなくなってしまったとあきらめて、必要なものを買うことに決めました。その場を去ろうとしたとき、突然主の臨在を感じました。 主はそこを立ち去りたくないのだ、と彼は感じました。もし、主がここにとどまりたいのなら自分もいなくてはならないと、彼は思いました。彼は友達の臨在を感謝し礼拝しました。深い礼拝をささげていると、彼のスーツケースがベルトにのってきました。 別の飛行機の荷物にまぎれてしまっていたのです。
友達の話をし終えると、彼はとても変わったことをしました。彼はゆっくりと会衆に背を向け、じっとそのまま立っているのです。こんなことは見たことがない、と私は思いました。誰も動きませんでした。聖なる静寂がその場を覆いました。 沈黙がしばらく続きましたが、突然一人の女の人が泣きながら立ち上がり、会衆の前で自分の罪を告白し始めました。信じられないことでした。ビュートラー師といえば、彼は彼女が告白を終わるまで会衆に背を向けたままでした。彼女が終わるや否や、他の人が立って罪を告白し、そのように次々と人々が立って自分の罪を告白したのです。ついには私も立ち上がりました。主の臨在が満ちていました。それは厳かであり、憐みに富み、愛にあふれていました。 やがて静かさが戻ると、彼は会衆の方に向き、彼の友達を愛してくれてありがとう、と私たちに感謝を述べてから壇上から去っていきました。(終わり)
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