24 8月
いと高き神の聖なる山に登れ トッド・ベントリー 8月24日
いと高き神の聖なる山に登れ
トッド・ベントリー
栄光の王を求め仰ぎ見よ
「これこそ、神を求める者の一族、あなたの御顔を慕い求める人々、ヤコブである。」詩篇24:6
ここで神は何を言っておられるのでしょうか。 主は、「わたしはヤコブという名で呼ばれる一族、一世代を立てあげたい。 彼らは、即ち、わたしの手のわざではなくわたしの御顔を慕い求める者、わたしをしっかりと捉えたいと願う者、わたしの栄光にふれ、変えられ、変革されてわたしと共に君主になることを熱望する者、闇の王国を制覇してわたしのちからを表わす者だ。」といわれているのです。
神のちからは、神のちからを求める者を通してではなく、神ご自身を求める者を通してあらわされます。 神が私たちのエゴや名誉のために私達にちからを注がれることは決してありません。復活のちからは、神を知り、また知りたいと願うもののためにあります。イエスの足元にすわる者、主の御そばにいることだけを願う者のためにあるのです。
主の臨在なしには一インチも動くな
出エジプト記33章で、モーセはシナイ山から出発してイスラエル人を約束の地へ導くようにと命じられました。神はご自分の顕現の臨在を彼らのうちから取り除くので、主の臨在はモーセの前を進まないであろう、とモーセに告げられました。しかし主は、主の約束や祝福、守り、油注ぎ、御手の業はすべて成就するであろう、と言われました。さらに道案内として御使いを遣わすとまで言われました。しかし、モーセはそれでは満足しませんでした。彼は主の臨在を望んだのです。彼は幕屋の外にテントを張り、嘆願しました。「今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください。そうすれば、私はあなたを知ることができ、あなたのお心にかなうようになれるでしょう。」
ある人たちは、キリスト教にちからや祝福、守り、油注ぎがあればそれで満足します。 つまり彼らは、「はい、主よ、どうか私の負債をなくしてください。打ち破りをお願いします。お言葉で約束してくださっていることをしてください。 あなたがご存知の私の必要をどうか満たしてください。」という気持ちを持っているのです。 彼らは、「どうかもっとよい説教ができ、サタンを追い出し、病人をいやし、御国の業ができるように、油注ぎをください。」というのです。しかし、神は言われます。「よかろう。しかし、あなたが求めるのがそれだけならば、わたしの臨在はあなたがたのうちにはないであろう。わたしの御顔を求めないならば、私の御手の業も期待してはいけない。」
出エジプト記33章に現されているモーセのような心を持つ者たちを主は求めておられます。「主よ、はっきり申しあげます。私は行きません。私は行きません。絶対に動きません!あなたの臨在が伴わなければ、私のミニストリーを進めることはしません。 あなたが私を救ってくださったり、私の敵を追い出したりしてくださっても、それはどうでもいいのです。また、私に油注ぎを下さることもどうでもいいのです。 あなたのちからで約束されたものを全部くださることもどうでもいいです。あなたの祝福が私たちにとどまり、約束の地へと導いてくださるとしても、それは私が欲しいものではありません。あなたの顕現の臨在が私と共にないのならば、私は動きません。絶対に! あなたの臨在がなければ、すべて何の意味もありません。」
主を知ることができるように
出エジプト記33:13で、モーセは「あなたを知ることができるように」といっています。ところが11節では、「主は人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。」とあります。モーセは神とすでに親しく語りあう関係を持っていたのに、なぜ「主を知ることができる」ことを願ったのでしょうか。 モーセは私たちよりずっと主の栄光を経験していたように思えます。私たちにとっては夢のようなことですが、彼は神の領域のことを実際に体験し、その中を歩んでいました。しかし、彼は主の臨在の中に座してもっと主を知りたいと願い、主の臨在なしで出発することを堅く拒みました。モーセは神と語るだけでは満足できなかったのです。もっと主を求めました。彼は真に神を知りたかったのです。
モーセが「あなたの栄光を見せてください。」といった意味は、「どうか、あなたのもっとも内なるもの、あなたという方そのもののリアリティーを見せてください。あなたの栄光が降り注ぐ中であなたを知りたいのです。あなたの御性質をあらわして(啓示)ください。」といったのです。 そして神はモーセに栄光をお見せになり、主の御性質をあらわされはじめました。「主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく …… 」 しかし、これは決して主の御性格に関する集中講義ではありませんでした。モーセが受けたのは、頭の知識ではありませんでした。神は「私はこういうものである。」といわれたのではありませんでした。神の栄光が下った途端にモーセは新しいレベルへと引き上げられ、以前は全く知らなかった神を神の啓示により知ることができたのです。
啓示は栄光の中に
私が教えることはすべて、私の上に神の栄光が下ったときに啓示で受け取ったものです。 啓示ですから、私は一瞬にしてある事柄を知ることができます。ある集会の中で、ある日主の栄光が下り、私は突然このような言葉を口に出していました。「ここにいる人の中に心臓の疾患を持つ人がいます。」そしてすぐにそれが誰であるかがわかり、会衆の中からその人を見つけました。 主の栄光の中では物事を知る力がはたらくのです。私たちが栄光の領域に入り、天国と同じ環境のなかで動くとき、啓示を受けます。
主の栄光が下ったところ(領域)では、信じられないようなことが起こります。キャサリン・クーマンはこの栄光の中でミニストりーをしました。彼女は神がしておられることを見て、それを宣言するとそれが起こりました。これと同じことが私のミニストリーでも起こりました。私がつんぼの人の耳が聞こえるようになるのを霊で見ると、ある人の耳が開くのです。そういうときには、人々は前に出てきて手を置いて祈られなくても、座席についたままでいやされます。(終わり)
トップページへ戻る