10 9月
戦士の民(1) リック・ジョイナー 9月10日
戦士の民—–新しい教会のリーダーシップ
リック・ジョイナー
渡橋 喜代佳 訳
戦士がこれからの教会リーダーである
「兵士は多いが、戦士の数は多くはない。」かつて特殊部隊の将校が私にこう言ったことがある。自分の職務をとても真剣にとらえ、非常にうまくやりこなせるプロの兵士は多いが、戦士に会ってみると、その両者の違いははっきりしている。
まもなく、十字架の兵士全員が真の戦士になっていくだろう。今まさに、教会のリーダーシップが、プロの手からその真の戦士たちの手に移されようとしている。
戦士とは、戦いの音のする方に駆け寄って行く者であり、そこから逃げることはない。戦士は、争いや危険な状況の厳しさの中でうまく事をやりとげる。また、反対や困難に直面したからといって失望することなく、かえってそこで本領を発揮する。そして、これこそが、これからの新しいクリスチャンの気質となるのだ。これから登場するクリスチャン世代が穏やかで優しい世代だと予想するなら、まもなく明らかにされようとする戦士の民を見て、衝撃を受けるだろう。
神は戦士である
神は戦士である。神は「万軍の主」、「軍の将」という呼び名を、他のすべての呼び名の10倍も多く用いておられる。神は戦いの神なのだ。今のこの時代に神を啓示しようとする人々は、戦士としての態度や訓練を身につけていくようになる。今起こされつつあるクリスチャンが、この世の知るかぎり最悪の困難な時代に仕えるために整えられているからだ。たとえ時代が最悪でも、彼らは信仰と確信をもってその困難に立ち向かっていき、「勝利者」の呼び名を獲得するだろう。なぜなら、けっして反対や困難、戦いに屈することなく、完全な勝利を得るまで戦ったあのヨシュアのように、彼らも勝利を得るまで戦うからである。
これから出てくる戦士クリスチャンには、ヨシュアと同じこの固い決意が見られる。自分たちが何者で、どなたから遣わされたのかを知っており、自分たちが代表する御国の力を知っているからだ。ダビデ王の屈強な家臣たちのように、彼らの功績も国外にまで響き渡り、王の敵の心に恐怖心を叩き込んでいく。
この戦士世代が表舞台に出て来るにつれて、彼らはキリストのからだにインパクトを与え、変革をもたらせるようになる。そして、その変革は深みにまで及び、教会は、人の集まり(コングリゲーション)というよりも、軍事基地と考えられるようになる。真剣な軍事訓練や、かつて例をみない、戦略として先手を打っての霊的軍隊の派遣というのが、上官命令になっていくのだ。
戦いの時がきた
伝道者の書3:8に、「戦うのに時があり、和睦するのに時がある。」と記されているように、今は戦いの時である。聖書に出てくる最高の礼拝者の一人、ダビデ王が最高の戦士の一人でもあったというのは、けっして偶然ではない。真の礼拝と戦いは、完全に両立するのである。いったいどうやって、神を真に礼拝する者でありながら、この時代の悪に憤ることなく、真理の側に立って捕われ人を解放するために悪に立ち向かうこともしない、ということがあり得るだろうか。
今まさに起こされようとしている戦士たちは、人々をとりこにしているあらゆる悪の要塞に憤り、神の強力な武器を用いてその要塞を打ち破っていくようになる。
この徹底的な変化が教会にもたらされて、真のクリスチャンはことごとく、福音の真理のためには何をも恐れぬ戦士になっていく。その際起きてくる性格上の大きな変化は、彼らがこの世の知りうる最高の戦士の最高の規律に従って生きることにより、その基礎が築かれ始める。その最高の規律とは、日毎に死ぬ、自分のために生きるのではなく王のために生きる、福音のために一切のことをする、というものだ。
ルカ9:23~24で、主はこう言われている。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。」
これが真の弟子、すなわち、真の戦士の規律である。今にこの世は、真の弟子がどのようなものであるかを目の当たりにするだろう。すなわち、真の地の塩、世界の光としての姿である。
私たちがすでにこの世に対して死んでいるなら、この世が私たちに対してできることは何もないし、私たちがこの地上で恐れるものも何もない。何も恐れず生きる人々こそ、この地上でもっとも強力で自由な民である。この地上に再び姿を現す、そうした民以上に敵の陣営を震撼させるものは、他にはない。その民はすでに私たちの中に存在しており、今姿を現そうとしている。かつてこの地上で生きたどの世代とも違う、新しい世代なのだ。主は、本当に、最後に最高のものを取っておかれたのだ。
戦わなければ勝利はない。戦いが大きければ大きいほど、勝利もまた大きい。「クリスチャンに苦難などはない。もし苦難があるとしたら、それは信仰によって歩んでいないからだ」という、非常に巧妙な考えが教会の多くに蔓延している。けれども、これは、聖書が語っていることとは正反対である。主イエスも、使徒たちも、クリスチャンが召されている試練や苦難について説明しておられるのだ。試練には目的があるし、ゆるがない信仰で試練に立ち向かうなら、勝利がある。大使徒パウロの働きについても、こう記されている。「弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、『私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。』と言った。」(使徒14:22)
クリスチャン生活には問題や困難が伴うということを認めようともしない、そんな偽りの教えに従った世代は、あるいは、歴史上もっとも弱々しいクリスチャン世代になったと言える かもしれない。最近の世代には、倫理道徳や誠実な生き方、基本にあるはずの勇気といったものが見られなくなった。それは、聖書的な信仰というよりは、ドラッグによる意識朦朧の状態に似ていると言わなければならない。けれども、こうした状況にも変化が出てきた。変革が完了するまでずっと、その変化は継続していくだろう。
衝撃隊
この世が1世紀からこのかた見たこともないほど闘争的な、新しい種類のクリスチャンが世に出ようとしている。彼らは、1エーカーの土地さえも十字架の敵に明け渡すことはしないとの固い決意をもっ て生きている戦士であり、闘士である。今起こされつつある世代は、この世の勢力が脅しをかけてくると、クリスチャンというのは臆病で、こわがっておどおどするものだという印象を、この先永久に変えていくだろう。現在はこうしたクリスチャンの弱々しい印象があるため、その第一波は、現勢力の中に恐れと驚異の念という衝撃波をつくり出す。ちょうど、ギデオンの敵陣突破が残りのイスラエルの民を立ち上がら
せ、分捕り物を取らせたように、このことが他の全クリスチャンを、その本来の性質やあるべき姿に目覚めさせていくこととなる。
自分の武器を手入れせよ
兵士たちは、肝心な時に武器が機能しなければ、自分や多くの者たちが命を落としかねないということを知っている。それで、彼らは自分の武器の手入れや管理に多くの時間をかけている。使徒パウロは私たちに与えられている神の強力な武器について語っているが、その武器のことを理解しているクリスチャンはわずかであり、それをうまく使えるクリスチャンとなると、さらにその数は減る。けれども、それにも変化が見られようとしている。私たちは、もっとも優秀で信頼できる主の兵士として、ゆだねられているものに対して、普通の兵士がしているのと同様の管理を日々していくようになるのだ。
私たちの戦いの武器は肉の武器ではなく、それよりはるかに強力だということを理解しなければならない。神の強力な武器は、愛、真実、真理に対する妥協のない愛といった、霊的なものである。油注ぎのもとで語られた真理こそ、この地上で最強の力となる。すぐれた兵士のように、私たちにゆだねられた尊い真理を絶え間なく手入れし、管理している必要がある。私たちは、何のためらいもなく、つねに標的の中心に命中させることのできる、もっとも熟練した狙撃兵にならなければならない。私たちの武器は、いざという時に動かないという事があってはならないのだ。
国々はやがて、圧倒的な軍隊によって宣言される真理の、圧倒的な力に膝をかがめるだろう。そして、その軍隊は、この時代の最大の闇に立ち向かい、それを押し戻すのである。あらゆることにおいて、彼らが何の妥協もせずに決然と立つため、すべての悪はその前で退却するようになる。
この世の軍隊は殺したり、破戒したり、略奪したり、荒らしたり、強姦したりして、領土を進軍して行くが、来たるべき軍隊は、そうではない。破戒行為の代わりに、その軍隊に征服された人々には、いやしや回復、解放がもたらされる。彼らがやって来るのは、取るためではなく、与えるためなのだ。そのような軍隊がやがてこの地上に解き放たれようとしている。それは、いまだかつてこの地が見たことのない軍隊である。そして、今まさにこの地上全体で、その一員となるべきすべての人に軍隊の召集がかけられているところだ。
この軍隊は、その一員ではないすべての者に恐れを抱かせるだろう。その中には、多くの眠っている、あるいは、惑わされているクリスチャンも含まれる。この世は、いまだかつてこのようなものを見たことがない。エリヤの霊は、主の初臨の時、主のために道を備えるようにと、バプテスマのヨハネに与えられていたが、今や、主の再臨の備えをするために、何万人もの人々に下っている。ちょうど、ヨハネを見るために、ユダヤのすべての民が彼のもとに来たように、今起こされつつある人々の声を聞き、彼らからバプテスマを受けるために、すべての国々が彼らのもとに来るようになる。
新しいラッパの音
前述したように、教会がこの決意を自分のものにするにつれて、教会は軍事基地として考えられるようになり、効果的な霊的軍隊を訓練したり、装備したり、配置したりするための軍事基地の特徴を呈するようになる。やがて、教会は、陸・海・空軍等を有する一軍隊として、実際に編成されていくだろう。これら軍隊はすべて、相互援護を行ない、機会を活用できるよう互いに助け合って、一致と調和の中で共に機能していけるようにもなる。
今は教理上の強調点が教会内での運動やグループの特徴になっている場合がよくあるが、このように、教理上の強調点よりも、機能や目的の方を中心にした組織化が始められていくだろう。
苦難の時代が進んで行くにつれて、十字架の兵士たちは、これからなされる軍事訓練や軍事行為とともに、危機のただ中における彼らの愛や揺るぎない平安によっても、知られるようになる。彼らの行く先々で、愛や平安、揺るぎない安定感がもたらされるからだ。彼らは、真の自由の戦士であり、被抑圧者の真の擁護者であって、罪とそれがもたらすすべての結果という、あらゆる束縛の中でも最悪のくびきから、人々を自由にするために戦うのである。
変化
実際には、どのようにしてこのことが起こるのだろうか。言葉では明確に意識していなかったにしても、すでにこの変化を経験し始めている運動や宣教団体が多くあり、なかには教会もある。リーダーたちは、ただ教理上の強調点というよりも、共通の目的や働きを中心にして集まり始めている。これが起こると、かつては互いの対立点にみえた教理が、互いに補足するものとして見られるようになるだろう。心や動機の中に、御国の拡大という高次元の目的を維持している人々には、この変化は容易である。
他の人々にとっては、この変化は必ずしも容易ではないかもしれないが、それでも、変化は起こってくる。ちょうど、世界大戦のために国民が動員され、一般市民だった人々が、世界を支配しようとしている悪の存在を知って、すぐれた戦士になっていったように、やがてクリスチャンも、前世紀に世界が直面したのよりもはるかにまさる悪や脅威に気づくようになる。多くの者は、今世界を脅かしている悪の圧制に屈するよりは、たとえそれが死であっても、どんな代価でも払う方がよいと考えるようになる。偽りの下で生きるよりは、真実のために死ぬ方がいいのだ。
来たるべき時代には、十字架の兵士として生きる目的の重大さが、すべての真のクリスチャンとともにますます宣言されるようになる。仕事や物質的な快適さの追求が、信者の一番の目的になるのではなく、真理のために戦うことが、私たちの人生の主要な焦点、目的になっていく。キリストに似ていることや、私たちが召されている働きをすることが、人生の成功を測る真の基準になるだろう。ちょうど、兵士が日常の雑事にかまけることがないように、十字架の真の兵士も、もっとも簡素な生活をして、一時的でなく永遠にかかわる事に身をささげるのである。
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