WWGM

Walk With God Ministries

05 10月

静まることの大切さ    グラハム・クック   10月7日


静まることの大切さ(Crafted Prayer より抜粋)

グラハム・クック 

静まることこそ天と私たちの間のコミュニケーションのチャンネルを開くものです。私たちはみな絶えず頭の中で何かを話しています。私の友人のイギリスの心理学者ジム・マックニーシュ氏は、これを「頭の中の騒音 ヘッド・ノイズ」と呼んでいますが、それは内部の声であり、私たちの生活のサウンド・トラックです。絶えず流れている一方的な意識の流れ的な会話で、私たちの人生の一時一時にコメントを言っているようなものです。

私が今話そうとしている「静まること」とは、どこか静かな場所に行くことではなく(確かにそれはしばしば助けにはなりますが)、あなたのこの頭の中の声を黙らせることなのです。その声を黙らせるには訓練が必要ですが、神の御心を知るためにはどうしてもそれが必要ですし、主が共にいてくださいますから、あなたにも出来ます。

私たちが性急にとりなしの祈りを始めてしまうと、このヘッド・ノイズをそのまま祈りにしてしまいます。主の御前で「静まる」ことをせずに自分の力で祈ってしまい、自分が直面している状況のプレッシャーやパニック状態の重荷を負ったままで神のドアの前に来てしまうのです。私たちはごちゃごちゃと沢山の言葉を祈り、静かになることはほとんどありません。これは全く神のなさることと正反対なのです。

神はいつも静かにしておられ、めったに話されません。主が私たちのうちで話されること(speak in us)と主が私たちにむかって話されること(speak to us)とは違います。「主が私に語られた。(spoke to me)」という表現を私たちはよく使いますが、実際にはそれは私たちの霊の中に蓄えられた言葉、考え、思い、会話、聖句などの中から神がそのときに選んであなたの意識の中に思い起こさせてくださるものなのです。コンピューターの中にファイルを導入するように、私たちの中にすでに蓄えてある宝を主が引き出してくださるのです。「ああ、本当にそうだ。主が語ってくださったに違いない。」と私たちは思います。それが内なる声(speak in us)です。

神は静まった心の中で時々語ってくださり、主が語られるときは重大事なのです。主があなたに語られる(speak to you)ときには、神はあなたに何かを確かに分与されます。そしてそのとき主の臨在感は深いのです。主が一度話されると地が創造されました。神が語られると確実に何かが起こり、何かが揺り動かされ、何かが創造され生み出されます。主が私たちに語られるとき、主の臨在のダイナミックな剰余が私たちのうちに必ず残り、それは全く特記すべき事件となります。

詩篇46:10で神はダビデに「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」といわれました。困難な状況におかれていたダビデに語られたこの言葉は、深い主の臨在をもたらしました。46篇が地震の描写で始められ、「静まれ」で終わっているのは興味深いことです。神だけが地震の最中に静けさについて語ることができるお方です。あなたの人生が足元からガタガタと崩れていくときに、神だけが「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」と語ることができるのです。

神を知ることは平安と静けさを通して与えられます。神は私たちを戦士として戦場に送ることを望まれますが、もしそれに先立って静けさを見出していなかったならば、戦場でどうやって平安を見出すことができるでしょうか。敵に対する一番の武器は安息です。なぜならば安息により私たちは神のうちの秘密の場所に隠れることが出来るからです。サタンは想像を絶するほどの敵意と悪意をもって私たちを憎んでいますが、バカではありませんから、あなたを至聖所の中までは絶対に追いかけてはきません。そこは主の臨在の場でありそこに行けば主と対決しなければならないことをサタンは知っているからです。私たちは主ご自身を避難所、砦、秘密の隠れ場とすることによって、敵が私たちに触れることができないようにする方法を学ぶ必要があります。敵があなたを見つけられなければ、あなたに害を加えることもできないのです。神はあなたのためにご自分の中に秘密の場所を備えていてくださいます。

主と共に歩むためには、あなたはパニックになってはいけないのです。主と共に歩むためには、心配したり不安になったりすることがあってはなりません。秘密の隠れ場が私たち一人ひとりのために用意されています。たとえどんなことが起こっても、主とともに生きることができる場所を、主は愛であるゆえに愛をもって備えていてくださいます。主はそれがどこにあるかを私たちに教えたいのです。なぜならば神の子たちが秘密の場所に入ったならば、その時こそ人生を心から楽しむことが出来るからです。どんな困難が襲っても彼らはそのチャレンジに立ち向かうことができます。静まることなしには私たちの神の経験は限られたものになります。(この神の前で)静まることは主に安息するための先駆けとなる準備であり、それは主の臨在の中に絶えずとどまるための霊的訓練を意味します。この安息、この静けさ、この神のうちにある秘密の隠れ場こそが、主との絶えざる交わりを与えてくれます。これが聖書のいう絶えざる祈りなのです。(終わり)


トップページへ戻る

Post a Comment