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Walk With God Ministries

11 10月

主のみ言葉を信じる    JP ジャクソン   10月11日


主の御言葉を信じる

ジョン・ポール・ジャクソン

自分がどのくらい成熟した大人になったかを知りたいならば、問題を一つ見つけて見ればすぐにわかります。 人の徳(新しい性質)というものは、平穏なときにはぐくまれますが、それが真に身につくか着かないかは、問題が起こったときに私たちがどう対処するかにかかっています。誰かに感情を刺激するボタンを押されると、内的感情の温度は急上昇し、私たちは自分の「肉」をどのように扱うかという大変重要な選択を迫られる情況に置かれます。

この選択をせねばならないときには、一人の人が必ず肉に死なねばなりません。 そして、その一人の人とは常にあなたなのです。 あなたは感情の嵐の只中で軽率に行動してしまった後にその過ちを自覚して肉に死ぬか、あるいは、神に従ってその場ですぐ死ぬことを選ぶこともできます。どちらにせよ、あなたは死なねばならないのですから、出来るだけ早く済ませてしまったほうがいいのではないでしょうか。


神と結ばれた心

悔い改めには必ず自分に死ぬことが要求されます。自分が悪かったことを認めて赦しを請うことは、文字通り自分のたましいを死刑に処することです。 ナイフが自分と罪を切り離すために入ってくるとき、私たちのたましいがびっくりして息を止めるのを感じます。こんなひどい仕打ちを受けるようなことをしたのでしょうか、とたましいは泣き言をいい、注意をしないと私たちはたましいをかわいそうに思い、CPRを始め、息を吹き返させようとしてしまいます。 悔い改めは自分が正しいとする権利をとりさり、コントロールする権利をうばいます。それはあるときには不公平だと思えることもあります。あるときには問題の解決から後退しているように感じることもありますが、そうではありません。

自分の成熟度のテストを受けて失敗した場合、神は私たちが成功することよりも、努力をしたことを喜んでくださっているのだということを、私たちは忘れがちになります。失敗したことで自分が嫌になり、イライラし、自責の念にかられ、恥と思い、人から拒絶されたと思ってしまい、神からも見捨てられたように感じてしまうのです。 最悪の場合は自分と神との関係が薄れてしまったかのように考えてしまい、自分がよくならなければ、神は自分に近づいてくださらないと思ってしまうのです。 神は私たちの内に住んでおるのですから私たちが感じることを神も感じておられるのだ、ということを忘れてしまうのです。

主は私たちの感情を感じることができるお方です。主は無感情な神ではありません。主は感情で満ちておられ、私たちのために感情を動かしてくださる方なのです。主は私たちが何をしているかを見られ、物事が私たちの思うように行かなかったり、私たちが傷ついたりすると悲しまれます。私たちがストーブに触って火傷をしたり、友達に笑われたりすると、主は悲しまれます。主はすべてを見ておられ、私たちが流す血の一滴一滴、すべての心の痛みを、私たちと一緒に感じていてくださるのです。

霊的成長を遂げるためには、イザヤ63:9を言葉通りに信じて受け取らねばなりません。「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、」とあります。主は私たちの悲しみをご存知なだけではないのです。私たちの悲しみを見て、それは大した問題ではないといって、すぐに私たちに悲しみから立ち直ることを要求する方ではないのです。主は実際に私たちの悲しみを経験されるのです。たとえそれが疫病のように嫌うべきこと、即ち、私たちが故意に犯した罪のための悲しみであったとしてもです。

御ことば通り信じる

私たちが霊的に「うまく」やっているときには、神が愛していてくださることを信じるのは難しいことではありません。しかし、失敗したあとにそう信じるのは困難です。自分が穢れていると感じるときに、主は私を美しいといってくださることを信じるのはほとんど不可能です。敵は私たちの思いの中に侵入してきてささやきます。 自分は人間のくずだ、まったくもう救いようがないほどどうしようもない人間だ、と感じるのです。そしてそのときに又、自分に死ぬかどうかの選択を迫られることになります。

その選択とは次のようなものです。主の御ことばとおりに信じるか、それとも自分の頭で物事を捉えてしまい、「もしかして主は聖書の中に書かれている通りに実際に慈しみ深い方であるかも知れない。」という可能性を無視してしまうか、という選択です。 私たちが自分を愛するようにではなく、「もしかして」主は「わたしはあなたを愛する」 という主の御ことばとおりに私たちを愛してくださっているかもしれないのです。

私たちが痛みの中で呻いているとき、たとえそれがどのような痛みであったとしても、主はひざまずいて私たちの足を洗い、傷を包帯で包み、そっとキスをして「大丈夫だよ」と言ってくださるのです。
そのときに私たちの徳(新しい性質)が懐妊されます。それは、私たちが完全な時にではなく、「主は私を愛していてくださる!」と心の底からわかったときにです。(終わり)

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