09 11月
師のようになるための代価 フランシス・フランジパン 11月9日
師のようになるための代価
フランシス・フランジペン
霊的訓練
「クリスチャンは訓練された者とされていない者との2種類に分けられる。」とは、私が最近出会ったある牧師の言葉ですが、この意見に私は全く賛成します。残念ながら多くのクリスチャンは、救われたらそれが到達点で、それでよしと考えてしまっています。確かに救いは一つのゴールではあります。しかしそれは同時に、救われた者がキリストに似る者となるために歩み始める出発点でもあるのです。救われて生まれ変わることは、暗やみから光に入ることであり、そこからあらゆる忍耐、信仰、霊的訓練を用いて真の目標に近づくために歩みを始めることなのです。
主イエスは私達をただ助け出すだけではなく、訓練したいと思っておられることを先ずはっきりと認識してください。そして霊的訓練を受けるためには代価を払う必要があります。霊的成長をするためには、そのために時間を使わねばなりませんし、神に従っていく栄光ある道を会得するためには、いつも従順に主に従うという決意がなければなりません。そうすれば私たちにトランスフォーメーションがおこります。主イエスも次のように言われています。
ルカ6:40 「弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。」
私の人生の最大の願いは、「完全に訓練されること」です。すべての面において私の師、主イエスキリスト、のようになることを私は熱望しています。
訓練の方法
霊的訓練を受ける方法にはいろいろあります。しかしどの方法を選ぶにせよ、霊的成長を遂げるための根本的な条件は、トランスフォームされたいと真剣に求めるあなたの心です。例えば今この瞬間でもあなたは聖書を手にとって聖霊に教えてくださいと請うて、あなたの霊的訓練を進めることができるのです。イエスが次のように言われたのを思い出してください。
ヨハネ14:26 「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」
聖霊は私たちを導き、慰め、力を与えてくださいます。聖霊は私たちに「すべてのことを教え」てくださる生涯の友であられます。聖霊をあなた個人のトレイナーとしてお迎えしてください。聖書を開き、聖霊が洞察力や啓示を与えてくださるように、また、様々な力を与えあなたをトランスフォームしてくださるようにとお願いしてください。そして何かの真理や奥義が示されたらそれをすぐに書きとめてください。ベッドのそばにもノートとペンをいつも用意しておいて、寝ているときに主が与えてくださる重要な夢や考えを記録してください。(詩篇127:2)
このように私たちは主に救いだけではなく、霊的な訓練や見分け、洞察力をくださるようにとお願いするべきなのです。霊的訓練を受けていないクリスチャンは、自分の周りで何かが起こったとき、それを霊的洞察力で見分けたり理解したりできません。しかし霊的訓練を受けているクリスチャンは同じ状況の中でも、聖霊によって導かれ、物事を霊的に識別して対処することができ、すべての場面で効果的に働くことができます。
聖書には次のように書かれています。
ヘブル5:12-14 「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。」
5:13 まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。
5:14 しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。
14節「しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」という言葉に耳を傾けてください。「おとな」「経験」「見分ける感覚を訓練された」という鍵となる言葉があるのがわかります。
未熟で乳飲み子のようなクリスチャンは、効果的に機能することができません。しかし経験をつんでおとなになったものは、「キリストのみこころ」を持ち、すべてのことをわきまえることができるのです。(Iコリント2:15、16) 訓練によって彼らは人生のあらゆる場面で勇敢にうまく機能して働くことができるようになっているのです。
よいミニストリーから訓練を受ける
このように私たちはみんな聖霊から個人的に訓練を受けますが、主はまた他のミニストリーを用いて私たちを訓練され教育されることもあります。神はクリスチャンが孤立するのではなく相互扶助の関係をもつようにと計画されました。私自身も、主から直接教えられるのではなく、他のクリスチャンから教えてもらうように主が計画されることがあることを経験してきました。
コルネリオが神を求めていたとき、み使いはペテロを招いてキリストに関する真理を聞きなさいと指示しましたが、これは非常に重要なことです。どうしてみ使いは自分で直接コルネリオに話さなかったのでしょうか? それは、コルネリオにとって他の人から神のことを聞くことが重要であり必要だったからなのです。私たちはへりくだって神に立てられたリーダーを敬い教えを受ける必要があるのです。
しかし、主は私たちが盲目的に人に従うことを望んでおられるのではありません。まずそのリーダーの心の中にキリスト御自身がおられるかどうかを見極めなければなりません。あなたの牧師の心の中に大牧者キリストの愛が顕われているかどうか見てください。説教者の声の中に大預言者キリストの義の導きがあるかどうか聞いてください。そのリーダーが伝道者、牧師、預言者、教師、あるいは使徒のいずれであったとしても、その人の中にキリストというお方をあなたは見なければなりません。そのときは、あなたは信仰をもってそのミニストリーのプログラムに参加して訓練を受けてください。
あなたはつねに主にのみ目を留めるのですが、主の次の忠告も忘れないでください。
マタイ10:41 「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。」
「預言者を受け入れたり」「義人を受け入れたり」する者 も彼らの「報い」 を受けると書かれています。ある人を「預言者(あるいは義人)だというので」受け入れるという意味は、その人の持つ霊的権威と彼が神から霊的召命を受けていることを認めることです。つまり、その人はあなたに必要な霊的資質をもっていることを認めることであり、その人からあなたは霊的分与を受けて成長したいという願いを表明することでもあります。(霊の分与impartationは、新約の聖書的慣わしであり、聖霊を通して行われます。マタイの10章に説明されています。ローマ1:11、Iテサロニケ2:8も参照してください。)
リーダーたちは決してキリストの代わりにはなれない
勿論、あなたを訓練するために神が一時的に用いられるリーダーは、決してキリストの代わりにはなりません。ある訓練のために主があなたのためにその人を用いられたにすぎません。ですからあなたが尊敬し教えを受けたいと思う人と出会ったら、主に従うようにその人に従ってください。そしてキリストを見つめ続け、主があなたをそのリーダーを通して訓練してくださるようにと祈ってください。聖書には次のように書かれています。
エペソ4:11-12 「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり」あなたの目標は人間のあとについていくことではなく、「奉仕の働き」のために訓練され整えられることであることを忘れないでください。
弟子の訓練
マタイの10章にもどりますが、イエスは預言者や義人にむかって次のように言われています。「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなた方に告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」(42節)
リーダーたちには、毎日多くの責任と仕事が課せられます。 しかしイエスは彼らにむかって「群集の中から真の弟子を見分けよ。」と言っておられるのです。すなわち、まだ霊的に子供(小さな者)であっても、彼らがあなたのところに「一人の弟子として(学びたいといって)」来るならば、彼らのために時間を使いなさい。それによって彼らの渇きをほんの一時でもいやすことができるなら(水一杯でも飲ませるなら)あなたは決して報いに漏れることがないよ、と主は言われているのです。
今は、一つの家に何冊も聖書はあるけれどそれを学ぶ時間は人々には一分もないような時代です。しかし主は、私たちが霊的訓練を受けることを真剣に求めるようにと願っておられます。私たちの年齢や経歴はみんな違いますが、すべての者に次のような主の約束があるのですから。
「しかし、十分訓練を受けたものはみな、自分の師ぐらいにはなるのです。」 (終わり)
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