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Walk With God Ministries

23 11月

非難の中を主と歩む   ビクトリア・ボイソン  11月23日


非難の中を主と歩む

                                       ビクトリヤ・ボイソン

詩篇84:10「まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです。」

 幻の中で、私は長く続く道をイエスと共に歩いていました。 主の片方の腕は一緒に歩いている私の身体を抱かれ、もう一方の手で大きな十字架のついている黄金の大盾を持っておられました。主はその盾で私たちを覆い、多くの火矢を防いでおられました。

主と共に歩いていくと、両側に人々が立っていて私たちにむかって告発糾弾、不当な判決という火矢を投げつけました。彼らは偽りを信じ込んでいて、私を激しく非難し、告発の矢を投げつけていたのです。

ほとんどの矢はイエスがその盾で防いでくださいましたが、時々防ぎきれなかった矢が私を突き刺しました。その矢は私の霊に刺さり、私は大きな痛みを感じました。

激しい痛みでしばらくの間、私の身体は麻痺し、動くこともできず、矢を投げつけた相手に対抗することもできませんでした。 しかし感覚がもどると、私の心は彼らに対する怒りで一杯になりました。そして彼らにむかって、自分はそんなものではない、言葉を発しました。すると彼らはもっと激しく私を糾弾したので、私の痛みはひどくなるばかりでした。

すると、イエスが御腕で私をぐっと御自分の方に引き寄せられたので、私の顔は主の胸の中に埋まってしまうほどでした。しばらくの間そうしていると、私の痛みは主によって吸い取られてしまい、私の心と霊は主の中でいやされ回復していきました。

長い間その道を歩きました。両側に立つ敵からは容赦なく非難の言葉が投げつけられていました。 攻撃は何回も繰り返されました。 私はこの戦いが何であるのか、また、どこに向かって歩いているのかも分かりませんでした。ただ、私はイエスのそばにいなければならない、ということだけははっきり分かりました。 戦いは非常に激しかったので、イエスの中だけが安全な場所だったのです。

御座からの輝く光

 前方を見ると、遠くにぼんやりと光が見えました。なおも歩いていくと、その光は明るさを増していきました。歩けば歩くほど光は輝きを増し、それと同時に敵からの攻撃は弱まっていきました。やがてイエスと私は神の御座までたどりついたのです。

御座からは光が輝き出ていて、その光が触れるすべての物の中に光は浸透していくように見えました。光には神の慈しみと厳しさがあるのが感じられました。神は義であられ、また慈しみ深い方でした。私は畏敬の念に打たれましたが、自分が全く安全であることも感じていました。

イエスはまだ私の身体に腕を回しておられましたが、私にもっと御座の近くに進むようにと促されました。 そして、父なる神にむかって「お父様、この者は非難と告発の道を忠実に歩いてきましたから、あなたからの栄誉を受けるのにふさわしい者です。どうか祝福してください。」といわれました。

白い滴る炎

父なる神は御目をイエスから私のほうに移され、私をご覧になりました。そして御手を私のほうに愛をこめて差し出されると、その御手から白い液体の炎が滴り落ちました。 父なる神は全体の御姿がその炎そのもののようでした。 

炎の滴りが私に振りかかると、それは私の身体を貫き、私の身体は力が失せて立っていることができませんでした。床にくずおれた私の上に、なおも父の御手から炎のしずくが滴り続けました。やがて父は御手を私の上から引かれましたが、私はなおもそこに横たわっていました。

イエスは優しく御腕で私を助け起こしてくださいました。一言も言葉を交わすことなく私たちは近くの丘まで歩いて行き、腰をおろしました。そして、これから起ころうとしていることを、主が話してくださいました。

「父とわたしは、あなたがこの丘の上に立つことを計画してきました。あなたがこの丘の上に立つとき、父とわたしは人々をあなたのところに連れてきます。それは、彼らも父の輝く炎を体験し、傷をいやされて回復し、自分に与えられた使命を全うできるようになるためです。人々がわたしを見つけられるように手伝ってくれますか?」

苦痛と非難の旅

父なる神に触れられた衝撃から私はまだ力がなく震えていましたが、「はい。」とうなずきました。しばらく丘の草の上で休むようにと言われて、主は私を一人にされました。

そこにじっと横たわりながら、私は今まで歩いてきた道について思いをめぐらしはじめました。私に投げつけられた非難を思い出したとき、私は大きな痛みを感じました。そしてその瞬間に、イエスもご自分への非難を浴びながら同じ道を歩かれたのだ、ということに気がついたのです。ただ私と違うことは、主はただお一人で、防ぐ盾も持たずに歩かれたということでした。私の戦いは非常に困難なものでしたが、イエスが共におられず、また、盾で守られていなかったならばもっと厳しいものであったことでしょう。平安が私の心をみたしました。 そしてIペテロ2:21-23を思いだしました。

「 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」(1ペテロ2:21-23)

皆さんの中の多くの方が、父なる神の栄光の御座にまで通じているこの道を歩くようにと召されていると思います。それは大変困難な道ですから、あなたは弱リ疲れ果てることでしょう。でもその報酬を考えてください。父の栄光に勝るものはないのです。敵の非難、告発はあなたを父から引き離すことはできません。しかも、敵の非難が大きければ大きいほど、あなたはもっと大きな父の栄光を見ることができるのです。なぜなら「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられる。」(詩篇34:18)とあるからです。

あなたの周りで今戦いが激しくても、救い主なるイエスの御そば近くにとどまっていてください。主の中にこそ、あなたの避けどころ、力があるからです。代価がいかに大きくても「まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさる」(詩篇84:10)ことを決して忘れないでください。

神はあなたと

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