18 2月
キリストの思い フランシス・フランジペン 2月18日
キリストの思い―無私の愛の態度―を持つ
フランシス・フランジペイン
Iコリント2:15,16「しかし、霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない。『だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか』。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。」(口語訳)
これは新約聖書の中で最も驚くべき言葉の一つです。私たちが肉的な嫉妬や恐れ、不信仰というような思考から解放されて、その代わりに「キリストの思い」を持つことが実際に私たちに可能である、とパウロは語っているのです。この論理は非常に深く素晴らしいものです。主に関して教訓的な教えや真理を教わるということと、実際にキリストの思考を持つのとは、実際、全く違うことです!
パウロは次のように言っています。
Iコリント2:11-13「いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。 この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。」
私たちが新生したとき、自分の霊の中に神の御霊を受けます。霊的な人というのは、その人の中で神の霊が優勢になった人のことです。霊的な人はすべてのことをわきまえるdiscern、あるいは見極めるappraiseことが出来るとパウロは言っています。いくつかの聖書はこの言葉を「裁く judge」 と訳していますが、それは非常に残念なことです。というのは、ある人たちは、ここに「裁くjudge」という言葉があるので、批判的になってもいいと受け取ってしまっているのです。そしてそういう批判的な態度こそが霊的であると思ってしまっているのです。
神は私たちが人を裁き批判的になることを喜ばれません。そうではなく、私たちが物事を識別し見分けることを望んでおられます。実際のところ、霊的な人とは、批判的な態度を捨てて、その代わりに人を赦し人の罪を贖っていく態度を持つ人のことであり、それこそがキリストの思いなのです。イエス様はいのちをどのように考えておられるでしょうか? この世界の不完全さをどのように見ておられるのでしょうか?
キリストの態度―無私の愛
パウロはピリピ2:5-8で次のように言っています。
「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」
キリストの取られた態度は単純明快でした。主は人類が堕落し神に反抗している状態を見て、それを救うために必要なことをすべてされたのです。この世は裁きを受けて当然だったのですが、「わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。」と言われました。(ヨハネ12:47)そして、この贖いのわざを広めるために「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」と言われたのです。(ヨハネ20:21)
神の御子はこの世の必要を見られたので、ご自分を無にしてそれを満たされました。神としての存在、特権、力、地位をすべて捨てて人のかたちをとられました。そして更にご自分を卑しくし死にまで従い、私たちの永遠の救いを確保されました。これこそが私たちが持つべき「キリスト・イエスの思い」なのです。
無私の愛という性質から生まれ出るのがキリストの思いです。私たちは人のためにいのちを捨てるために召されているのだ、ということを受け入れた瞬間に、キリストの思いを持つこととはどういう事かを理解し始めるのです。
霊的な人はすべてのことをわきまえ、判断します。彼は必要とそれに対する答えがわかります。そして救いを達成するために必要なものとその答えとの間の橋渡しとなることをためらいません。霊的な人は識別力があります。彼は人間の心の動きを知り、人は悪魔のたくらみに引っかかりやすいことや、傷つけられたときはなかなか立ち上がれないことも知っています。霊的な人は自分に対して神が恵みを下さったことを知っているので、他の人にも解放が来るように自ら犠牲を喜んで払うことができます。
愛する皆さん、あなたの持っている動機が愛であり、希望によって導かれているならば、また、キリストに似たものとなりたいと望み、へりくだることを愛し、人に対して腹を立てずにいるならば、あなたはきっと神の思いを見つけ出すことでしょう。あなたはキリストの心を勝ち取り、所有しているのです。
祈りましょう。
「主イエスよ、私はあなたと同じような考え方をしたいと、どれほど願っていることでしょうか。主よ、あなたの心を持ち、あなたの思いで動かされたいと願っています。主よ、どうかもっと聖霊様のご性格を受けることをかなえてください。神が私の周りでおきていることをどのようなお心で見ておられるかを私は知りたいからです。
あなたの栄光のために祈ります。アーメン」(終わり)
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