01 4月
十字架を抱いて命の木を生きる ポウレット・リード 4月1日
生まれるときと死ぬとき
十字架を抱いて命の木を生きる
ポウレット・リード
預言的なヴィジョン
私は2002年にミネソタ州のミネアポリスで行われた女性の使徒的預言的カンファレンスに出席しました。そのとき、一つのヴィジョンを見せられたのですが、 最近そのヴィジョンを主が思い出させてくださいました。私が友人たちと共に王なる主を礼拝していたとき、そのヴィジョンを見て私はびっくりしたのでした。私は霊の目でそれを見て、震えました。そこには私の身体(多分キリストの身体なる教会をあらわしている)が、白いガウンを着てうつむきに川に浮かんでいました。ちょっと見たところそんなに変なことではありません。ただ単に水の中でいろんな変わった姿勢をして遊んでいるだけかもしれません。でも私の身体はずっとそのまま長い間浮かんでいるのです。私ははっとしました。そして聖霊に聞きました。「主よ、あんなに長い間うつむきに水に顔をつけて浮かんでいるということは、私は死んでいるに違いありませんね!」 その時、神様は力強い静かな「アーメン」で私を満たしました。
そこで、私はそのヴィジョンをもう一度注意深く調べて見ることにしましたが、3つのことに気がつきました。まず、それが普通の川ではなく、神の川であることがわかりました。第二に、私は救いの衣を着ていて花嫁の正義の外套をまとっているのがわかりました。(イザヤ61:10) 第三に、私の両腕はまっすぐ前に伸ばされ、その手は王の差し出した笏をしっかり握っていました。
絶えず祈りなさい
愛する皆さん、天の父は夢やヴィジョンで警告を与えてくださり、人生で起ころうとしている様々なことに対して私たちが祈りの備えができるようにしてくださいます。しかし、人々が実際にヴィジョンを生きはじめると、あらかじめ備えよという神からの警告を忘れ勝ちになります。そんなとき聖霊が「わたしの息子、娘よ、わたしはおまえの霊を備えようとした。わたしはおまえを守ろうとしているが、しかしまた、完全な霊にもしなければならない。」とささやかれます。伝道者の書3章でソロモン王が>「すべての営みには時がある。」と教えているとおりです。黙っているのに時があり、話をするのに時があります。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時があります。泣くのに時があり、ほほえむのに時があります。そして「生まれるのに時があり、死ぬのに時があります。」(伝道者の書3:2)
あるときには、私たちは神の川の中で障害物にぶつかってばかりいて、目的地につくのがどんどん遅くなるように思えるときがあります。私たちはそれに対して縛ったり解いたり、叫んだり泣いたり、障害物を横に押しやったりします。それは多くの場合正しいことです。しかし、私たちが懸命に祈ったり戦ったりしているときに、真に静まって全能の主に介入していただく心を持つならば、主がこうささやかれるのが聞こえるでしょう。「愛する子よ、聞きなさい。あなたが戦っているのは敵からの障害物ではないのだよ。それは木だ。わたしはその木の上で死んだ。おまえも神の川を流れていくとき、あなたが死ぬまではその木に何度でもぶつかるだろう。」
十字架を抱きなさい
あの荒削りの十字架に出会うたびに私たちは自分の世界が少し揺さぶられるのを感じます。そして実を結ばない枝が剪定される痛みを感じます。プライドは去らねばならず、高慢も取り払われなければなりません。肉欲、罪、嫉妬、疑い、野望、欲望等々、すべて肉なるものは十字架にかけねばなりません。実を結ばない枝は私たちから切り取られ、遠くに流れいって忘れられ、もはや決して木につながれることはありません。いのちの木は、私たちからイエスに属さないものがすべて取り払われないと、手に入れることはできません。私たちを十字架にかけて殺す木は、同時にそこから力が湧き出る木でもあるのです。パウロが「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者のなかからの復活に達したいのです。」と言う通りです。(ピリピ3:10,11)
神の川の水が増すに従って(エゼキエル47参照)、川は深くなり誰も渡れなくなります。しかしその川が流れていくところではすべてのものが命を得て生きます。私たちは神の道に出ていって神がご自身の素晴らしさを人々にみせることができるようにせねばなりません。木にぶつかって私たちが死ぬことによっていのちが生まれるのですから、その木を避けてはいけません。私たちの兄弟パウロのように言うことができますように。「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、命にあって新しい歩みをするためです。」(ローマ6:4)
勿論「木」にぶつかるのは痛いことです。死と復活の間には必ず痛みが伴うに違いないのです。そのときのために祈りを積んで備えることは助けとなります。すべてのことにシーズンがあり、この痛みのときも又過ぎ去ると知ることができます。神が私たちを栄光から栄光へと変えてくださるのを知り、変えられるときにはいつも痛みが伴い精神的な危機感があることを覚えて、それを喜ぶことができます。愛する皆さん、困難だとあなたが感じるときはほとんどの場合、あなたが取った道は正しい道なのです。しかし、自分に死ぬことに焦点を当てるのではなく、自分に死ぬこととは神の静かで暗い胎内に入ることであり、そこで新しい命がはぐくまれていると言う新生の奇跡に目を留めようではありませんか。
私たちが恐れを覚えるときに天の父にそれを告白すると、即座に恐れを克服す信仰が与えられるのですから、どうか心配しないでください。それがイエスがマタイ26:39でなさっていることです。「それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。『わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。』」
私たちがいのちの川を流れていくとき、神は決して私たちが耐えられないようなことは与えられないのですから安心してください。主は教会をご自分の身丈にまで成長させてくださるのですが、それと共に次のように約束していてくださいます。「しかし、主は『わたしの恵みは、あなたに十分である。と