19 4月
望みの門 フランシス・フランジペン 4月19日
望みの門
フランシス・フランジペン
私たちは往々にして、信仰の力は強調するけれども希望の大切さは過小評価してしまいがちです。
しかしながら、「信仰とは望んでいる事がらの実体(ヘブル11:1)」とあります。 ですから、まず神に対して強い希望を抱かなければ、私たちの信仰は役に立ちません。実際、私たちがトランスフォームされるための最初のステップは、私たちの中の希望が目ざめることです。
私たちはキリストを信じた後でもなお、失敗をします。私たちが罪を犯してしまうと、自分は有罪であるという思いに縛られ、その思いが希望の声を窒息させてしまいます。イスラエルがカナンを征服したときの話を考えてみてください。主はカナン人の富でイスラエルを繁栄させようとされました。しかしそのためには、一番初めのエリコの戦いの勝利品はすべて神にささげることを条件とされました。残念なことに、アカンという男が主の命令に背き、金、銀、シヌアルの外套をとり、テントの中に隠しました。その彼の罪の結果として、次の戦いで36人のイスラエル人が小さなアイの町に負かされ侮辱され死にました。
主がアカンが犯人だと示されましたので、ヨシュアは彼と彼の家族を、全財産と共に谷に連れて行きました。聖書に次のように書かれています。「『なぜあなたは私たちにわざわい(trouble)をもたらしたのか。主は、きょう、あなたにわざわい(trouble)をもたらされる。』 全イスラエルは彼を石で打ち殺し、彼らのものを火で焼き、それらに石を投げつけたーーーそういうわけで、その所の名は、アコルの谷と呼ばれた。今日もそうである。」(ヨシュア7:26,26)
アコルという言葉は「troubling 悩ませる 困らせる」という意味で、一人の人の罪が多くの人の上に困難と苦痛をもたらすことを表しています。勿論アカンにとって一番辛かったことは、自分の犯した罪のために妻と子供たちまでが死に追いやられたということです。彼らが抱き合って恐ろしい刑罰を待っているとき、自責と後悔の念がアカンの心には耐えがたいほどにあふれたことでしょう。
個人的な失敗
後にアコルの谷は、最悪の刑罰を表す象徴となりました。それは死と荒廃の場でした。勿論、今日私たちは罪を犯した者や無責任な行動で他の人を悲しませた者を、石打ちにはしません。しかし、罪にはその結果が必ずあります。 私たちの身体は石打にはなりませんが、公に有罪であると判決を受けることは、石打の刑と同じくらい人間の心を打ち砕きつぶしてしまいます。 事実、私たちの多くの者はアコルの谷を個人的に経験しています。そこでは私たちの不道徳な行為や、賢明でない行動が他の人に苦しみを与えてしまったのです。
もしかしてあなたは姦淫を犯してしまったかもしれません。それはあなたの配偶者や子供たちに非常な苦しみをもたらしました。また、あなたはイライラして不注意な運転をしていたために事故を起こし、他人に怪我をさせたり、最悪の場合は人を死なせたりしたかもしれません。あるいは、あなたがクリスチャンとしてよい見本を示さなかったために、あなたの子供たちが神から離れていってしまったかもしれません。私たちが失敗を犯す可能性は無数にありますが、その結果はほとんどいつも同じです。それは、あなたの人生の上にのろいがかぶさったかのようになることです。
自分の心が自分を責めることだけでも苦しいのですが、あなたの失敗を知っている人たちが、「あなたにはもう希望がない。」と声を合わせてあなたに言うときは非常に辛いものです。あなたに対する世間の反感や冷たい目、批判的な態度は、アカンが肉体に受けた石と同じくらい、あなたの魂に鋭く突き刺さるのです。 確かにあなたの肉体が死ぬことはありませんが、その代わりにあなたの希望が死んでしまうのです。今まで希望と期待をもって将来を眺めることができたのに、今や心痛や後悔があなたの将来への視野を塞いでしまいます。
私たちが真に悔い改めることによって心が清くされ強められることだけが、自責の重荷から解放される唯一の方法です。ですから、失敗や罪、その結果ののろいからあなたが解放される唯一の道は、聖霊によって私たちがトランスフォームされることです。
残念なことに、敵は多くのクリスチャンを不信と自責の思いの中に閉じ込めてしまっています。彼らは自分のしたことが悪かったことは自覚し、そのことを憎んではいますが、その罪の意識の重荷から自分を解放することができないでいるのです。私たちの贖い主はとりこの解放を宣言するために来られたことを思い出してください。(イザヤ61:1参照) 主は監獄に入っている人たちのことだけを言っておられのでしょうか? そうではなく、主は過去の失敗のとりことなってしまっているすべての人のために来てくださったのです。神は私たちが過去の失敗から学ぶことを望んでおられますが、そのとりこになることは望んでおられません。イエスは、アコルの谷に夢が埋もれてしまっている人たちを解放し回復するために来てくださいました。
個人的な悲劇
私たちが負っている重荷は、自分の道徳的な失敗の故ではなく、人生のなんらかの惨禍から来ていることもあります。
人間の魂が受ける最大の試練の一つに、愛する者の死があります。そのような損失は非常な重荷を私たちに与え、私たちを過去のとりこにしてしまいます。アブラハムの父、テラの物語は、愛する者の死から離れられなかった人物を深い洞察をもって描いています。
テラには3人の息子がいました。アブラム、ナホル、ハランです。聖書には「ハランは父テラの面前で彼の生まれ故郷であるカルデヤ人のウルで死んだ。(創世記11:28)」とあります。息子を失うことは非常な痛みをもたらします。特に自分の腕の中で息子が死ぬのを見るのは、全く打ちのめされるような経験です。
その後しばらくして、カナンに新しい土地を見つけようとして、テラは家族をつれてカルデヤ人のウルを離れました。 しかしその途中で、テラは死んだ息子ハランと同じ名の町を通らねばなりませんでした。テラはカナンへの旅を続ける代わりに「ハランに着いてそこに住んだ。(31節口語訳)」のです。
愛する者の死を悼み、その人を慕わしく思うのは当然です。しかしながら、人生の中で起こる悲劇は、その痛みを忘れるのは誠実ではないという誤った忠誠心で私たちを縛ってしまう恐れがあるのです。飛行場でチラッと見た他人の顔やラジオからふと流れてきた歌で、その人の心は何