07 6月
神の可能性に心を開く ジョン・ポール・ジャクソン 6月7日
神の可能性に心を開く
ジョン・ポール・ジャクソン
私は、神から昔受けた油注ぎを大事にしてそれを固守している教派の中で育ちました。それは、「聖霊に満たされたことを証明できるのは、ただ一つの事実によってのみである。」という信仰を土台にして建てられた教派でした。
しかし、この信仰の土台は正確とはいえません。というのは、この「一つのこと」をしないクリスチャンが病人のために祈り、その結果、病人が癒されるのを私は見てきたからです。もし彼らが聖霊で満たされていないとしたら、病人の癒しは誰の力によるというのでしょうか? サタンですか?
古い油注ぎにしがみついていることの証拠は何でしょうか。もしあなたが「私は聖霊の働きにおいて最高のところまで到達している。」と思うならば、そうなのです。「今自分が到達した地点よりも上はない。神がなされる可能な限りのことはここにすでにある。私は完全なクリスチャンの生き方をしている。」という風に思い、敵の巧妙な罠にかかってしまうのです。
リバイバルを殺すもの
リバイバルはすべて、このように人々が考えてしまうことによって終焉を迎えます。 それは、初めは心によぎる微かな思いから始まるのですが、それが心にしっかり根づくともう取り去るのが困難になります。「神がなされることのすべてがここにある。」という思いは、2つのことに端を発しています。一つは、神を知り尽くすことができると信じ込む狭い考えであり、もう一つはプライドです。 私たちが神の偉大な働きを経験したときは、そのような間違った考えではなく、「これは、神がこれからされようとしている新しい冒険のほんの始まりにすぎない!」と言うべきなのです。
新しい冒険の始まりを促す
私たちは思考のプロセスを変えなければなりません。神の能力を制限するのをやめねばなりません。確かに、私たちは今までになかった素晴らしい経験を味わっているかもしれませんが、だからといって神がそれ以上のことがもう出来ないわけでは決してありません。
しかしながら、私たちがこのように考えるのはとても難しいのです。今までに何人もの優れた神のしもべたちが、自分が経験したことを「これこそキリスト教の根本だ。」と信じて、それを土台にして教派を建て上げてきました。「これこそが神がなされる最高のものだ。」と考えてしまうからです。
そして、自分が勝手に定めた限界(バウンダリーズ)を超えて神が進んでいかれると、古い油注ぎに固執しているので神のご計画についていくことができず、取り残されてしまいます。 そしてパリサイ人と同じようにこう言うのです。「私が持っている古い皮袋は十分役に立っている。 えっ、新しいぶどう酒ができたって? そんなはずは絶対ない! そんな渋いものがぶどう酒だなんて! 私のぶどう酒のように甘くないではないか!」と。
これは誰にでも起こりえることです。私の教会でも起こりえますし、あなたの教会でも起こる可能性があるのです。 教会で神の働きが起こると、「これこそ最高のものだ。これ以上のものはない。」と思ってしまうとすれば、そこで止まってしまいます。
もし、私の教会で神が大きく働かれたとしても、「とうとう私たちは最高の地点に到達した!」とは言いたくはありません。それだけは絶対に避けたいのです! 私は今も神の偉大な働きを祈り求めています。しかし、それと同時に私たちが絶対に 「これ以上のものはない。他のどの教会もこんなすばらしいものは持っていない。だからすべての人がここに来るべきだ!」とは言わないような心を与えられることを祈っているのです。
神の働きを止めないように
私たちの人生の中で神がされることは、すべて始まりにすぎず、これからされるすべての事のほんの入り口なのです。それは出発点なのです。ですから、その時点で私たちがどのように応答するかによって、神のそれからの動きが決まります。もう自分は最高のものを手に入れた、と考えて神の働きを止めてしまうことは避けねばなりません。
少し違う視点で言いますと、イエス様と静かなときを過ごすときに、「私はもう最大限深く主と交わることができている。」と考えないでください。神はいつでももっと深いところのある方であり、どんなに神との交わりが深くなったとしても、それはまだ表面をかすっただけのものに過ぎません。 あなたが神との交わりを深めることこそ、あなたの本当の冒険なのです。(終わり)
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