11 10月
神の御性質にあずかる特権(2) ポール・キース・デイヴィス 10月11日
神の御性質にあずかる特権(2)
ポール・キース・デイヴィス
神に使われるための11の必須条件(先回からの続き)
1.弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさらない
マタイ10:24-25「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。 弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。」
私たちは「さらに大きなわざ」を行う世代が現れることを約束されています。しかしながら、これはまず、イエスがされたのと同じわざをもっと多くの人がすることを表しています。誰が自分の師よりもまさることを望めるでしょうか?今は何千人という人がイエスと同じ油そそぎを受けて、イエスがされたのと同じ業をしながら世界を回っています。そのように、マタイ10:8「病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」を本当に受け取るならば、マタイ10:18-25に書かれている迫害に耐える備えもしなければなりません。
私たちは師よりもまさるものではないのです!もし人々がイエス・キリストを迫害したのなら、私たちがイエスと同じ業をしたときには、人々は私たちをも迫害するのです。奇跡を求めるならば、それと同時に人から誤解されたり、嫌がらせを受けたり、個人的な攻撃を受けたりすることを覚悟しなければなりません。そして、迫害されたときは、キリストがされたように対応せねばなりません。それが、超自然的人生を歩むための条件としてアレン師に与えられた第一のものでした。
2.弟子は師にまさるものではない。しかし、完全な者は師と同じになる
アレン師はこう言っています。「第一の条件の言葉を聞いて、私の心はへりくだらされ砕かれた。しかし、神が次に言われたのは、私は師よりまさることは決してないが、師のようにはなれるということであり、それを聞いたとき私の心は急に栄光の炎の中に高く上げられた。」
ルカ6:40「弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。」
御言葉は私たちに、この世の霊に打ち勝って生きるようにと語っています。私たちの決断の仕方、考え方、生活様式は、この世からの影響を受けることなく、聖霊と完全に調和して生きることが可能なのです。このことは、主が私たちに命ずることが、必ず実行可能であることをよく表しています。そして、それは聖霊と完全に一つになることによってのみ可能となります。
アレン師はこのように書いています。「この言葉は先の言葉よりも、もっと私を驚かせた。絶対これは無理だ!人間が完全を望むなんてことができるだろうか。でも確かに神は私ができないと知っておられることを、やれと言われる方ではない。そして疑いもなくこれは神の声なのだ。私は天の父にパンをお願いしたのだから、石をくださることはないはずだ。…この言葉が聖書の中にあることを知ったとき、私の心は嬉しさでふるえた。それはマタイ5:48で、『ですから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。』とある。」
3.天の父が完全なようにあなたも完全でありなさい
この条件が示していることは、私の著書「Thrones of Our Soul 魂の王座」の中で書いたことと深くかかわっています。それは霊、魂、体の完全なる全き聖化と関係しているのです。私たちの霊は新生したときにあがなわれました。次に知性、意志、感情が神の御言葉にしたがって聖化されていきます。そして私たちは、アダムが罪を犯す以前の状態へと形造られていくのです。神はアダムの霊、魂、身体の中に君臨され、完全にアダムを支配しておられました。それは、最後のアダムである主が、この世に生きておられるときもそうでありました。そしてその主が、私たちも同じように神とそのような関係になる道を備えてくださったのです。
4.キリストが私たちの模範
第一ペテロ2:21-23「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」
アレン師へのこの条件は、私たちの毎日の生活に関することで、私たちの日常の心の思いを問題にしています。しばしば、私たちは難しい問題にぶつかったり、裏切られたり、身に覚えのないことで告発されたりします。クリスチャンとして私たちは表向きは人を赦すと言いますが、心の中では恨みを抱き、密かに主が彼らを懲らしめるようにと願うのです。しかし、純粋なキリスト教は、言葉だけでなく心から相手を赦し、何のこだわりもなく真心からその人を祝福できるものです。そして、これが私たちが御国の真の子供である証拠です。
5.自分を捨てる
ルカ9:23「イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」
イエスが歩まれた道は自己否定の道でした。アレン師に示された自己否定の課題は、個人的な生活様式や自分の好きなプロジェクト(それはつい時間を取りすぎてしまうもので、そのような時間はもっと実を結ぶことに使うべき時間です。)に対するもの(自己否定)でした。アレン師にとって、それは祈りと断食の犠牲的な生活の訓練を意味していました。他の人にとっては、別の訓練があるかもしれませんが、そのいわんとするところは同じです。私たちは時間を真の実を結ぶことに使わねばならず、時間とエネルギーを私たちから奪う霊的なブラックホールを避けねばなりません。
しばしば、クリスチャンとって自己否定とは、神と時間を過ごすために楽しい仲間や個人的な興味から退くことを意味します。私たちが神に近づけば、神は私たちに近づいてくださると約束していてくださいます。
6.十字架
いくら自己否定をしても、もし十字架を背負いイエスについていかないならば、何の役にもたちません。ルカ9:23に「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十 字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」とあります。
イエス・キリストの十字架は、世の初めから計画され隠されていた奥義です。新生したすべてのクリスチャンは、自分の信仰がはっきり革新されるためには、十字架のヴィジョンを見ることが必要です。私は以前、主がエルサレムの通りを十字架の重みに耐えながらゆっくり歩まれるヴィジョンを見ました。そして、主が力尽きて倒れられたときに、それはクレネ人シモンにとっては運命として定められていた場所でしたが、シモンがそこに立つのを私は見ていました。
シモンは、世の初めから、まさにその場所に、その日に立つように定められていたのです。彼の運命は史上最大の人間のドラマの中で、カルバリまでの残りの道のりを主の十字架を背負うということでした。私はこのヴィジョンを見ていましたが、私がその十字架をあの時にかつぐという光栄にあづかりたかったと、私の心が叫んでいるように感じました。けれども、紀元33年にその栄誉をいただいたのは、この男一人でした。私はシモンが主の流された血潮にまみれて十字架をかつぐのを見ていたのですが、その時主が「わたしの十字架はそれをかつごうと願うもののために、いまも備えられている。」と言われるのを私は聞いたのでした。
自分のために定められている運命を達成するために、日々十字架を負ってキリストについていくのは、私たちの特権です。
7.私は衰えねばならない
ヨハネ3:29-30 「花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。 あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」
アレン師は次のように記しています。「この7番目の条件において、神は私のプライドを扱い始められた。私はそれまで、自分はプライドが高いと感じたことがなかった。プライドに関して、誰かの説教を聞いて示されたり、誰かに直接指摘されたり、あるいは聖霊からの真摯な取り扱いを受けたりしたことはあった。しかし、自分にはプライドがあるかもしれない、と少しでも感じたときは、私は、多くの人がするように、それは『自己尊重』であり『威厳』であり、『育ちのよさ』、『気高さ』なのだ、と言い逃れをして問題をそのままに放置してきた。けれども、神はそれを『罪だ』とはっきり言われた。箴言21:4に『高ぶる目とおごる心―悪者のともしびは罪である。』とあるとおりである。
神は、私がいかに神なしでは何もできない存在であるかを、はっきり示してくださった。私の努力など何の役にも立たないことも。私は今まで認識していなかったのだが、私の最善の努力さえ神なしには取るに足らないことであると知らされた。神は、私の人生のすべてを神のコントロールに委ねることを要求された。そうするには、私のタレント、知識、能力が、それが何であれ、すべて神の前で覆い隠されねば(衰えなければ)ならなかった。」
8.あの方は盛んにならねばならない(ヨハネ3:30)
アレン師の言葉です。「大草原の中を車で走っていて、遠くに山があるのに気がついた、という経験をあなたはお持ちだろうか。初め、その山はとても小さく見える。でもなおもドライブをして山に近づいていくと、山が急速に大きくなるのに驚くであろう。勿論山が大きくなるのではない。山は最初見たときと同じ大きさなのだけれど、あなたが山に近づいたので、大きく見えるのだ。これこそ、神が「盛んになる」ということと全く同じ現象なのである。神はすべての人にとって同じ神だ。しかしある人々にとっては、神は小さく縮んだような無能な神で、何か重要なことをしてくれることなど期待できないように見える。その理由は人々が神から遠く離れて暮らしているからなのだ!私たちが『神に近づきなさい。(ヤコブ4:8)』と教えられている理由はここにある。
多くの人は、自分と神との間に沢山のものが入り込むのを許してしまったゆえに、神とひどく離れてしまっている。ある者たちは、口先は神に近づいているけれど、心は遠く離れている。(マタイ15:8-9) 神は『彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。』と言われる。神に近づく唯一の方法は、あなたと神の間に入ってしまっているものが何であるかを、真剣に、本気で探し出して、それらを除くことだけだ!」
9.無駄な言葉、愚かな話をやめる
マタイ12:36 「わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。」
「本当の霊性を持っていないことを一番暴露するのは、愚かな話や冗談や、無駄な言葉だ。絶え間なく愚かな話をしたり、馬鹿げた冗談をいう事ほど、その人が人の魂の苦しみに無関心な浅薄なクリスチャンであることを示すものはない。大抵の人は、そんなことは些細なことだと思うかもしれないが、これほど破壊的で人の間で伝染していく霊的病気は他にあまりない。」とアレン師は言っています。
10.からだをささげる
ローマ12:1 「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」
私たちの中で、神にすべてをお委ねしていない部分が大きければ大きいほど、敵は私たちの魂に取り入ってくることができます。使徒パウロは私たちが完全に神に委ね、服従する生き方のすばらしさを教え、勧めています。
ウイリアム・ブランハムは、あるとき、彼の霊的賜物の中で一番すばらしいものは何かと、人から聞かれました。多くの人は、彼はきっと霊的な識別力や知識の言葉、あるいは、癒しの賜物を彼が挙げるだろうと思っていました。けれどもそうではなく、彼は『私の一番の賜物は、私が横に退いて主に座を譲ることができる能力です。』と言ったのです。これは、終末の時代の御国の子供として神を求める人々の特徴となり目印となるでしょう。
11.神の御性質を持つ者となる
第二ペテロ1:4 「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」
私たちが主の御性質にあずかる者となる、というのは神の約束であり、他の総ての聖書の約 束とおなじく、私たちはそれを信じなければなりません。恵みによって救われた罪人である私たちが、天国に行けるだけではなく、この世でも欲のもたらす滅びを免れることができるというのは、全く驚くべきことのように思えます。けれども、それが私たちへの約束であり、義しい人々はその約束の成就を見るようになるのです。偉大な十字架の力により、弱く罪ある人間も、神と結びあわされることによって、肉体があるままでこの地上で神の御性質といのちにあずかることができるのです。
神の御性質を知ることは、神の力を知ることであり、そのとき私たちは神の祝福を運んでいく管になることができるのです。(終わり)
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