18 1月
2008年は信仰の門に入る年 サンディー・フリード 1月18日
2008年は信仰の門に入る年
サンディー・フリード
ごく最近のことですが、私は天国の目覚まし時計が鳴る音で目を覚ましました。神が「起きなさい!」と私に声をかけられたのです。自分の目覚まし時計を見ると(鳴るようにセットはしていませんでした)5時11分でした。主が「イザヤ51:1に目を覚ませ」と言われるのが聞こえました。
イザヤ51:1 「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。」 (参考までに次の節51:2を併記します。訳者注:「 あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ。わたしが彼ひとりを呼び出し、わたしが彼を祝福し、彼の子孫をふやしたことを。」)
今年2008年に私たちは何を探すのか?
聖徒の皆さん、あなたは義を追い求めていますか? 勿論そうでしょう! 主はあなたの祈りに答えていてくださいます。今というシーズンは、アブラハムの信仰に注目すべきであると主は言っておられます。神は私たちをアブラハムと全く同じように創られました。私たちも信仰の民なのです。あなたは正しく神に従いたいですか? 勿論そうですね! それならば、アブラハムにみならってください。解放を必要としていますか? それならば、あなたという人間が切り出された石切り場をよく考えてみてください。あなたもアブラハムと同じ信仰を内に秘めているのです。
2008年に私たちが主を探し求めることを、主は望んでおられます。もし主を探し求めるならば、主を見出すであろうと言われます。神の国を求めるならば、すべてのものがそえて与えられるのです。モーセは神の奇跡を「見ました」が、それだけで満足せず、主と深く交わって「主の道」を知ることを求めました。(詩篇103:7)神の道(やり方と方法)を知りたいと切に願った結果、彼はイスラエルの最も偉大な指導者の一人となりました。次の箇所からモーセの心を理解してください。
出エジプト33:12-13 「モーセは主に言った、「ごらんください。あなたは『この民を導きのぼれ』とわたしに言いながら、わたしと一緒につかわされる者を知らせてくださいません。しかも、あなたはかつて『わたしはお前を選んだ。お前はまたわたしの前に恵みを得た』と仰せになりました。それで今、わたしがもし、あなたの前に恵みを得ますならば、どうか、あなたの道を示し、あなたをわたしに知らせ、あなたの前に恵みを得させてください。また、この国民があなたの民であることを覚えてください」。(口語訳)
新しいシーズンに大切な二つのこと
アブラハムと新年に関しての二つの重要なポイントを、主は示されました。それは、2008年は偉大な信仰の年となるからです。私たちは新しい門の前に立ち、信仰がますます大きく増し加わる信仰の門に入っていこうとしているのです。それは神の御国をうち立てるための門です。そして今は建設と設立のシーズンでもありますが、それらは人の手によってではなく、大建築家である神のデザインによってなされなければなりません。
もはや、自分の考えとか昔から皆がやって来たやり方で建てようとしてはいけないのです。今というシーズンに御国を建てるためには、私たちがキリストの思いを持つことが必要です。「主の方法」で建てなければ、すべての働きはむなしいのです。詩篇127:1に「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」と書かれています。
建てる者の働きがむなしいという意味は、人間的な考えでことを進めるやりかた(何でも自分で工夫するパターン、神のものでないシステムやパラダイム)が作品を損なうばかりではなく、そこに人間的ながんばりがあるということです。私たちは過去の経験をもとにして建ててはいけないのです。そして、主が建てなかった町の門に見張り人(とりなし手)を配置するのもむなしいのです。ですから、もし私たちがある一つの門の見張り人として立てられているのなら、自分が守っている町がしっかりした土台の上に建てられているかどうかを確かめねばなりません。土台に欠陥があるために崩れていく町の門で見張りをするのは、時間と労力の全くの無駄使いです。
神はアブラハムをそれまで住んでいた町から呼び出して(全く見知らない)新しい町に向かわせました。これは今、神が私たちに注意を喚起している「新しいこと」の一つだと思います。新しいことの一つは「新しい建築プラン」です。私たちは今まで古いもの、古い数々の門を固守してきました。しかし、今、主は全く新しい何かを建てようとしておられますから、私たちがその新しいものを(主の設計図と)主の方法によってのみ建てるように念には念を押しておられるのです。主はこれから神殿を建て直そうとされており、そのために改めてしっかりした土台を築き直すと言われるのを私は聞きました。その上で「新しいこと」の門に見張り人を立てる、と言われるのです!新しいことが来る―という変革に対しての備えをしてください!
神に安息する
今は建設途上であり、多くの働きが必要とされていますが、神はこのことを通じて私たちを主の安息へと導き入れようとされています。イスラエルの民が荒野でさまよっていた期間中、神は「主の道」を彼らに示そうとされました。しかし、彼らはうなじがこわいまま変わろうとはせず、主を本当に知ろうとはしませんでした。つまり彼らの土台そのものが神不在という汚れで汚され、奴隷メンタリティーでしか神をとらえることができませんでした。ですから、彼らの古い考えの上には自分たちの未来を築くことが出来なかったのです。トランジションの時(過渡期)には、神は異なる話し方で異なることを話されると私は以前教えました。
「Destiny Thieves」という著書の中で、私はトランジションの中で敵がどうように私たちを惑わし誘惑してくるかを詳しく説明しています。注意を怠ると、主が前進させようとしておられるにもかかわらず、私たちは過去に主が語られたことだけに頼ってしまうのです。私たちが前進するためには、古いパターン(道しるべ)に頼るのではなくて、新しいところに向かうための新しい道案内を毎日その日その日、今日の導きとして聞かねばならないのです。
完成するための油注ぎが来る!
もし今日、主の御声に聞き従い主の導きに背かないならば、私たちは荒野をさまよい歩くサイクルから抜け出て、主の安息に入ることができるのです! そうです、働きながら同時に主の安息に入ることが出来るのです。何故ならば自分の力でがんばることは終わったからです。そして私たちは、仕事を「完成させる」力を主からいただくのです。私たちは建築し、安息し、そして超自然的に「完成させる」油注ぎによって力を受けるのです。イエスが私たちの完成であり、固い岩なる主の上に主の御声とデザインに従って建てるならば、私たちは自分に与えられた仕事を完成することができます。イエスは御自分に与えられた仕事を知っておられ、それから目を離さず、一心に決意された十字架の御業を完成されました。
ヘブル3:7-11にあるように、イスラエル人は反抗し心を頑なにしたので、主は決して彼らを安息に入らせないと誓われました。愛する皆さん、これは今日の私たちでも同じなのです。主の道を求め主の御心に従わなければ、私たちは決して安息を見出すことは出来ないのです。キリストというしっかりした土台の上に主の計画に従って建てるのでなければ、決して安息を得ることはないのです。
しかし、希望があります! 私たちは今日、安息に入ることができるのです。ちょうどヤコブが旅の途中で「その場所」に来たとき天が開いたのと同じように、私たちは「今日」と呼ばれる「その場所」にいるのです。神は今、天を開いて私たちが安息の場に入れるようにできるのです。私たちがしなければならないのは、ただ、一歩踏み出して神を信頼し、私たちの人生、ミニストリー、ビジネス、そして将来を建てあげるために「主の道を示してください」とお願いすればいいのです。神はヘブル4:2で、イスラエル人は神が約束したことと信仰とを結びつけられなかったので、安息の地に入ることができなかったと言われています。愛する皆さん、今私たちは神が言われたことと私たちの信仰を結びつけ、主の方法に従って建設していく入り口の門の前に立っているのです。
アブラハムが探し求めた町は、堅固な土台の上に建てられた町でした。その土台とは「神と神の道を知る」という土台でした。私たちは真にこの土台の上に自分たちの家を建てるのでなければ、もろい基礎の上に無駄に壁を建て増ししているだけです。そのような建物は、どうせいつかは崩してもう一度土台から建て直さねばならないのです。
主からの最初の重要な啓示は、クリスチャンが「町を探している」ことに関してでした。アブラハムがウルを去ったように、私たちは慣れ親しんだものから離れねばなりません。今まで通ったことのない道を行くのですから、自分が何を探しているのかもはっきりとはわかりません。アブラハムはウルという町から出ていきましたが、ウルという言葉には「炎,火」という意味がありますが、それに加えて「光になる」と訳すことができます。アブラハムは心地よい「わが家の火」を後にして、人々のために「光となる」ことを求めたのです。彼はどのようにして光となったのでしょうか? それは、信仰によって踏み出したことによってです! 彼は私たちが後についていけるように道を照らしてくれたのです。彼の行動を信仰と希望のお手本として私たちは使うことができるのです。彼は聖書には「信仰の父」として記されています。アブラハムは私たちが後をついていくお手本となり、行くべき道を明々と照らしてくれたのです。
アブラハムは何を探したか?
アブラハムが探した町とは、神によって設計され建てられた堅固な土台を持つ町でした。アブラハムは神ご自身から召し出されたので、慣れ親しんだ居心地のよいものを後にする力を与えられたのでした。(創世記11章参照)もし、彼がウルにとどまっていたならば、彼は何の希望も繁栄の約束も子孫もなく永久に古い場所に閉じ込められていたでしょうし、私たちのための信仰の土台も作れなかったでしょう。慣れ親しんだもの(宗教的考え方、信じ方等)から切り離されることがあなたにも起こることを予期しなさい。もしあなたが神に従う決意をしたならば、あなたが慣れ親しみ今まで自分の人生をその上に築いてきたものから、神は必ずあなたを切り離すでしょう。だから覚悟をしなさい! 主はいつも私たちを主の似姿へと変え、完全なものにしようとしておられます。神や神のブループリントなしで建てるのではなく、主が望まれるものを建てたいと私たちが求めることを、神は望んでおられます。
もう一度言いますが、2008年は私たちの信仰を完全に主のみ手にゆだねる年です。自分の信仰を信じるのではなく、主御自身と主のみ言葉を信じる信仰です。そうです、私たちは主のみ言葉の上に立ちます、というのは、主とみ言葉とを切り離すことはできないからです。多くの人は、ただみ言葉を口にすればよいのであって、み言葉を与えてくださった方と親しい関係を持たなくてもよい、とだまされています。主への信仰のみによって生きるようにと、主は私たちを召しておられます。主との親しい交わり(Intimacy)が必要です。アブラハムはただみ言葉を聞いて出発したのではなく、神はそのみ言葉を実現させる力を持っておられると信じる信仰で一歩を踏み出しました。彼の信仰はただ神にのみありました。これが2008年に私たちが建てはじめるためにしっかりした土台を持つということの一部です。
探すべきものを知れ!
アブラハムは行き先は知らなかったかもしれませんが、自分は何を探しているのかは知っていました。彼は神によってデザインされた堅固な土台を持つ町を探していたのです。
私たちも2008年にはそれと同じものを探さねばなりません。私と夫は、フルタイムの牧師として20年近く働いてきましたが、同時にマーケット・プレイスで注文住宅の建築の仕事を30年以上して来ました。ですから家を建てるときの土台の重要さを十分に知っておりますが、土台を据えるための基本的な法則があります。
足場をまず築き、床岩に届くまで地面を深く掘って支柱や杭をそこにしっかりと固定させねばなりません。この作業が正しく遂行されないと、家の土台が沈んだり、建物の重さでひびが入ったりつぶれたりしてしまいます。霊的にも同じことがいえます。今という新しいシーズンに正しい建て方をしないと、私たちはつぶされてしまうのです。私たちはまたもや荒野の中をさまよい、神が「出てきなさい!」と呼ぶ声をミスして聞こえなくなってしまいます。私は荒野から脱出したいと思いますが、皆さんはいかがですか?
今まで沢山の霊的土台がつぶれていくのを私は見てきました。あるミニストリーは急速に大きくなりましたがしっかりした土台がありませんでした。イエス・キリストではなく霊的賜物の 上にだけ建てられたミニストリーは、しっかりした土台がないのです。啓示がどれだけすばらしいものであっても、確かな土台は一つだけであり、それはイエス・キリストです。霊的賜物はすばらしいものですが、その上に物を建てるべき土台とはなりません。第一コリント3:11に「というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。」とあるのを見てください。
イエスは単に土台だけではなく、建物全体である
新約の使徒やミニストリーのメッセージは唯一つであり、それはイエス・キリストでした! 彼らのメッセージはすべてイエスに関してであり、そして「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されている」(コロサイ2:3)のです。イエスはただ土台なだけではなく、建築作業すべてなのです。主は私たちを完成にまで導いてくださるお方であるという信仰を揺るがせてはなりません。主を知ったならば主を信頼することができます。主は偉大なる羊飼いとして私たちをすべての真理に導いてくださいます。主は道であり真理であり光なのです。
私たちもアブラハムと同じ信仰が持てる可能性を持っています。私はそれを神の信仰と呼びます。イエスは弟子たちに、神のような信仰を持つようにと言われました。私たちは神が持っているのと同じレベルの信仰を持つことができるのです。なぜならば私たちは神のイメージに創られたからです。私たちはアブラハムのように確かな土台を求めます。もし私たちが信仰の門をくぐるならば、2008年に主は私たちを導いてくださるのです。
二つ目は境界を知ること
二つ目に、2008年は忍耐と堅忍、そして自分の境界と役目(役割)を理解することが必要です。アブラハムは神によって建てられた町を探しました。彼はバベルの塔を建てて自分の力で何かをしようとした人たちとは違いました。私たちの中で自分の王国を今まで築いてきた者は、これからは混乱させられ散らされるかもしれません。それを壊してもう一度主が建て直すためです。これはつらいことですが、私たちが自分の王国ではなく神の御国を心から望むならば、どうしても必要なことなのです。
神の御国を建てるためには、私たちはすべてのものを本当に主に明け渡さねばなりません。あなたが建てるものは他の人のミニストリーとは違うかもしれません。しかし、主の導くパターンに従って建てている限り、あなたの土台はしっかりしているのです。あなたがしていることをつまらないことと考えてはいけません。イエスの弟子はたったの12人であったにもかかわらず、全世界を変えることができたことを忘れないでください。
本当の信仰は知的なものではありません。それは人の心(ハート)で分かるものなのです。信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストのことばによるのです。しかしまた、主はみ言葉でもありますから、信仰は主とともに時を過ごし主を知ることから来ます。主が心におられるとき、主を信じることができるのです! 使徒パウロは心の目が開かれねばならない(エペソ1:18)といい、また、人は心で信じる(ローマ10:10)といいました。ですから、私たちが信仰の目で見るためには霊的洞察力と霊的な目が必要です。そしてこれもまた、キリストを知り、隠れた場所でもっと主と時を過ごすことから得ることができます。主にとどまり、主のうちに住むことにより私たちの次のシーズンのための土台は強められ、自分が行くべき道から逸れずに踏みとどまる力を得るのです。
まがいものの信仰
まがいものの信仰と私が呼ぶものがありますが、それはプライドです。もし私たちが聖書のみ言葉を暗記できることを誇示し、どなたがみ言葉であるかを知らないならば、それは自分の知識、知性を誇り、それによって神の祝福を得られると考えることであり、神を悲しませることだと思います。というのは、私たちが自分の王国を建てることや大きなプロジェクトを計画したりすることに忙しく、主を知るための時間をとらないからです。アブラハムは信仰で一歩踏み出して神を信じ、祝福を受けました。祝福は私たちにもいただけるのです。アブラハムは自分中心ではありませんでした。彼は従順でした。もし私たちが従順であり続ければ、祝福を受けるのです。
アブラハムは神の約束の時を待てずにイシュマエルをもうけましたが、それは神のタイミングではありませんでした。愛する皆さん、私たちは自分の時とシーズンを知らねばなりません。また、与えられた仕事をしなければなりません。神が建てておられないプロジェクトや、あなたのためではないものに手をださないように注意してください。すべての仕事は境界があります。主からの指図がないのにこの境界線を引き伸ばしてはいけません。そうでないと主が指示された以上のことをあなたは背負うことになります。もし主が拡張を望まれるならば、そのプロジェクトのための資金も主が調達されます。モーセが神殿のために献げるようにと民に言ったとき、奉納物があまり多くて止めねばならないほどでした。それこそ神のプロジェクトです。
私は決して建設が簡単であると言っているのではありません。いいえ、そんなことはないのです。あなたが建設を始めようとすると敵が経済的にあなたから盗もうとすることも良くわかっています。私が思うことは、建設するときには正確でなければならないということです。神のパターンと計画に忠実に従うとき、神は力をくださいます。
2008年は、軌道から外れないようにしてください。即ち、神とともに歩めばいいのです。神が導いてはおらない場所に踏み込んでそこに建てないでください。まっすぐ、気をつけて歩いてください。そして信仰にとどまってください。(終わり)
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