24 2月
世の終わりに良い麦と毒麦が分けられる 坂 達也 2月24日
世の終わりに良い麦と毒麦が分けられる
1コリント4:5「だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう。」
最近、私の最初の本である「主を見つめて待つ」の在庫がいよいよ底をついたので、この本の増版を準備することを思わされております。その際に本文で何か変更する部分があるかどうかを調べる意味もあって、もう一度久し振りに読み返してみました。
そして、一つだけ気になったことがありました。それは三章の「天の御国」で、マタイ13:3-9に出てくる「種蒔きの話」を引用し、「神を信じると告白した人には四つのタイプがあること」を紹介しました。それに続いて、次の「良い麦と毒麦」という副題の中で、別のたとえ話である毒麦(マタイ13:25-30)のたとえにおいて、上記の四つのタイプのうちどれが当てはまるのかを考えてみました。そして最初の三つ、すなわち、「道端に蒔かれる=一旦は信じるが、直ぐ悪魔が来てその種が取り去られる人」「岩地に落ちた=聞いてすぐ信じ喜ぶが、困難や迫害が起るとつまずく人」「いばらの中に落ちた=確かに信じるがこの世のことや富に気を取られ、真の霊の実が結ばない人」がそれに相当する毒麦ではないかという疑問を投げ掛け、とどのつまり、良い麦とは四番目のタイプの人「良い地に落ちた=信じて霊的に悟り、三十、六十、百倍に霊的成長の実を得る人」だけであるという提案をしました。
今回読み返してみて、私は、これは少々言い過ぎであったかもしれないという疑念に駆られたのです。そして、言い方をやわらかくする、つまりもっと“あいまい”にした方が良い、そのためにはどのように変えるか、その下書きまで書いてみたのですが、同時にこの本は私が書いた本であっても私が書いた本ではない、聖霊様が私を通して書かれたのである以上、聖霊様に聞く必要があることに気がつかされました。そして祈りました。
その結果、約二週間後に主は次のような答えをクリスティーン・ビーズウォースという方のメッセージを通して下さったので、それをお分かちさせていただきたいと思います。
ビーズウォースさんは、これから終末に向かって毒麦が良麦から分けられると同じように、闇が光から、偽物が本物から分けられる時代に入っていると言います。これは聖書を通しての神のご計画であり、その型は旧約聖書に見ることができると指摘します。
その一つはルツ記に出てくるモアブの女ルツとオルパという二人の嫁の対比です。夫と共にききんのためベツレヘムからモアブに移って来たナオミは、夫に死に別れた後に二人の息子がそれぞれモアブ人の娘を嫁に迎え10年を過ごしましたが、やがてその二人の息子も死んで、未亡人が三人残されました。そこでナオミはユダの地に帰る決心をし、二人の嫁にモアブの母親のところに戻るように強く勧めたところ、オルパはやっと泣き泣きナオミの言うことに同意して去って行きました。しかし、ルツはどうしても姑の後をついて行くといって聞きません。その時ナオミはルツに「ご覧なさい。あなたの弟嫁は、自分の民とその神のところへ帰って行きました。あなたも弟嫁にならって帰りなさい。」(ルツ記1:15)
これに対してルツは「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」(16,17節)と答えました。
なるほど、この異邦人の女である二人はユダヤ人と結婚して10年間本当の神を知り、言ってみればクリスチャンになったと言う事が出来ます。(私たちの立場と似ています。)しかし、事変が起きた時に、真の神を信じる者としてその神のいる国(御国)に留まるか、元の異邦人(この世)の神に戻るか、この二人はそれぞれ10年間の信仰の試練を受けた後に、その真の本心があらわにされたのでした。神は秘めた心の奥を見ておられ、神に懸命にしがみつく人のみが最後に御国に入ることが暗示されています。
主は十二人の弟子たちにも聞かれました。「あなたがたも離れて行きたいか」 シモン・ペトロがそれに答えて「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」と言ったことが思い起こされます。(ヨハネ6:67-69)
しかし、毒麦と良麦を分けることに関して、旧約聖書にはもっと厳粛な教訓を見ることが出来ます。その代表的なものはヨシュア記です。
ヨシュアに率いられたイスラエルの民は、ヨルダン川を渡って約束の地に入ることをゆるされた精鋭のクリスチャンばかりであったはずです。その約束の地にはカナン人、ヘテ人、ヒビ人等七つの屈強な異邦人が生存していました。彼らはその強敵を駆逐して自分の相続地を確立せねばなりませんでした。
彼らが最初に勝ち取ったのはエリコでしたが、その時神は、この(異邦人の)町とその町の中のすべてのものを主のために聖絶するように命じ、イスラエルの民は聖絶のものに手を出すなと念を押しました。しかし、アカンが聖絶のものに手を出すという罪(この世に対する執着)を犯した結果、次の町アイで早くもイスラエル軍は敵に背を向けて逃亡するという屈辱を味わいました。
そのアカンに制裁を加え、彼が盗んだものすべてを火で焼くことによって神の怒りは収まり、その後はイスラエルの民の前に主ご自身が闘われることによって異邦人を聖絶する作業は進められました。そしてイスラエルの部族にはそれぞれに安住の相続地が与えられました。
しかし、ヨシュアはイスラエルの民の中に密かに先祖が川向こう、およびエジプトで仕えた神々を捨て切らないでいる者がいることを知っていたので、「もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」(ヨシュア24