07 3月
主はいかに私たちを愛しておられることか フランシス・フランジペン 3月7日
主はいかに私たちを愛しておられることか
フランシス・フランジペン
私たちが本当にキリストの臨在の中にとどまり憩うためには、神のまことのご性質をはっきりと知ることが大切です。神を愛情深い父であると見るならば、私たちは神に近づいていきます。しかし神を厳しい裁判官として見るならば、私たちは神から身を引きます。実際のところ、私たちの存在のすべては、私たちが神をどのように認識するかによって大きく影響され変えられるのです。
もし、神が私たちをいつも愛し心にかけて下さっていることを信じないならば、私たちは自分のことを自分で面倒を見ることに一生懸命になってしまいます。もし自分は大切な存在でなくて神から無視されていると感じるならば、自分の重要性を世間から認めてもらおうと努力して、くたくたになってしまうでしょう。
しかしながら、神が私たちを心から愛していてくださっていることに気がつくならば、そして神が私たちを常にみそばへ引き寄せたいと願っておられることが分かるならば、神の臨在の中に入っていける扉が私たちの前に開くのです。そして、いと高き方の住まいで私たちは安息し、魂を生き返らすことができます。
神の愛とは、私たちが何かで困っているときに無関心ではおられない、いてもたってもおられないと言う愛しいお気持ちで示されるのです。聖書には、主は「私たちの弱さに同情できない方ではありません。」(ヘブル4:15)とあります。
主は私たちが地上で経験する痛みを、共に感じてくださる方なのです。主は私たちが生きている人生に、参加してくださるのです。なぜならば、「私たちは神の中に生き、動き、また存在している」からです。(使徒行伝17:28)主は私たちの必要から遠く離れてはおられません。私たちは主のからだであり、主は私たちと一つです。
私たちは一人で戦っているのではない、という事こそ真理なのです。しかしながら、もし自分は一人ぽっちだと思うならば(即ち、神は自分のことなど気にかけてはおられない、という偽りを受け入れてしまうならば)、私たちの思いは暗くなり、神の愛のコミットメントから私たちを引き離し孤立させます。
愛する皆さん、たとえ私たちが神に逆らっているときにさえ、神の心は私たちから遠く離れてはいないのです。主とイスラエルとの関係を考えてみてください。イスラエルが罪を犯し、その結果、悲惨な状況の中にいるときも、主は遠く離れてはおられませんでした。聖書には、主は「イスラエルの苦しみを見るに忍びなくなった」ので、解放者たちを立てられたと書かれています。(士師記10:16)神は遠くではなくイスラエルと共におられ、彼らの苦しみをご自身が実際に負っていてくださったのです!
ラザロの墓でイエスは涙を流されました。イエスはご自分がもうすぐラザロを生き返らせることを知っておられました。ラザロを死から呼び戻す6日前に、主はすでにそのことを御存知でした。しかし、それでもイエスが涙を流されたのは、人々が泣いて悲しんでいたからです。
神の御霊は私たちの心の痛みを実際に感じられることを、あなたは御存知ですか? 主は私たちが戦っているときには共におられ、私たちが恐れているときにはそば近くにいてくださるのです。ある人たちは、ラザロの墓でキリストが泣かれたのは、御自分に弟子たちの不信仰を嘆かれたからだと解釈します。私はそうは思いません。ラザロの墓で涙を流されているキリストを見た者たちは、人々の悲しみを共に感じられた人を見たのです。そして彼らは「御覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」(ヨハネ11:36)と言ったのです。
私たちの癒しは、主がどんなに私たちを愛しておられるかを目の当たりにするときに起こります。主が私たちの墓にこられ、名を呼んで死から呼び出されるときに私たちは死からよみがえらされるのです。
私たちは、神の愛を自分個人のものとして受け取らねばなりません。神は、私個人の罪のために御子を与え、私個人を導くために御言葉を与え、私個人に力を与えるために御霊を送ってくださったのです。全能の神が私の味方ならば、誰が私に敵対できるでしょうか?
愛する皆さん、驚きの目を大きく開いて、主がどれほど私たちを愛しておられるかを見ようではありませんか。そして孤立してしまうことから癒されましょう。(終わり)
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