17 4月
あなたの嵐はどこからきたのか? ビル・ジョンソン 4月17日
あなたの嵐はどこからきたのか?
ビル ジョンソン
人生に起こる嵐は、奇跡と同じく、私たちが成長するために計り知れないチャレンジとチャンスを与えてくれます。しかし、あなたが面している嵐の種類によって、それには大きな違いがあるのです。ある種の嵐は、それがサタンから送られてくるにもかかわらず、私たちを鼓舞し、すでに自分が握っている神の真理を使うようにと促します。そういう嵐は必ず奇跡を生み出します。マルコ4:35-41に書かれている嵐はそのようなものです。
『さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう。」と言われた。そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」 彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」』(マルコ4:35-41)
しかし、これとは違う種類の嵐もあります。次の有名な聖書の箇所に書かれているように、神は私たちが間違った方向に進んでいることを教えるために、嵐を送られるのです。
ヨナ1:4-6 「そのとき、主が大風を海に吹きつけたので、海に激しい暴風が起こり、船は難破しそうになった。水夫たちは恐れ、彼らはそれぞれ、自分の神に向かって叫び、船を軽くしようと船の積荷を海に投げ捨てた。しかし、ヨナは船底に降りて行って横になり、ぐっすり寝込んでいた。船長が近づいて来て彼に言った。「いったいどうしたことか。寝込んだりして。起きて、あなたの神にお願いしなさい。あるいは、神が私たちに心を留めてくださって、私たちは滅びないですむかもしれない。」
ここで私たちは、二種類の嵐とその異なる二つの目的を見ることが出来ます。一つは神によって、もう一方はサタンによって送られました。そして両方とも舟の中で眠っている人が登場します。一人はいやな現実から逃げ出す途中で意気消沈して寝ていました。もう一人は御国に住む人でしたが、御国には嵐はないのでぐっすり眠っていたのです。
一体、あなたが面している嵐はどちらの種類なのでしょうか? あなたはその嵐を神が望まれる方法で取り扱っているでしょうか? 過去にあなたに起った様々な奇跡で信仰が強く育まれ、それによってこの嵐のチャレンジを信仰で受けることができましたか?
弟子たちが遭遇した嵐は、彼らを神の御心から離れさせようという目的でサタンが送りました。ヨナの嵐は、御心に彼をもどすために神によって送られました。ある人たちは、神が右に行けというのに左に行ったため嵐に会いました。神は憐れみをもって彼らを引き戻すために嵐を送られるのです。
また、ある人たちは、神の御心の只中にいるが故に嵐に出会います。主は嵐を好まれるわけではありませんが、あなたがすでに与えられている嵐を静めるための道具を使うように訓練したいと思い、嵐を送られるのです。
私たちは嵐の中に立たされると、すぐさま神に介入していただいて、私たちの苦境を変えてくださいと叫び求めるのが、私たちのなすべきことだと思ってしまいます。しかし、それが嵐の目的ではないのです。もし私たちが神に叫び求めるだけだったならば、奇跡の業に参与する特権を私たちは放棄してしまうことになります。神は嵐を静める道具を私たちに与えないで嵐を起されることは、決してありません。神は私たちがそれらの道具を使って奇跡的な結果をもたらすことを望んでおられるのです。
あなたを去年襲った最大の闘いや危機的状況を考えてみてください。少し考えれば、その問題に対処するために神が与えていてくださった道具が何であったかが分かるはずです。神が私たちの人生に問題が起こるのを許されるのは、私たちがいつも神に泣きついてばかりいないで、問題に打ち勝てるようにしてくださるためです。勝つための道具は舟にちゃんと積まれているのですが、敵が恐れの風を巻き起こし、私たちが道具のある場所を忘れるように仕向けるのです。
私たちの多くは、嵐が来ると眠っているイエスに弟子たちが言ったのと同じ祈りをしてしまいます。「私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか!」と祈るのです。すると、イエスは起き上がって彼らの祈りに答えられました。神が祈りに答えてくださると、私たちはそれで喜び満足します。弟子たちは置かれた状況の中で当然するべき正しいことをしたのだ、と私たちは誉めさえするかもしれません。しかし、イエスは彼らを見て「信仰がないのは、どうしたことです。」と言われたのです。
「何ですって!」と弟子たちは思ったかもしれません。「私はあなたのところにきてお願いするほどの信仰を持っていましたよ。そしてあなたは私が願ったことを聞いてくださったではありませんか。私の役目は祈ることで、あなたの役目はそれをしてくださることじゃないんですか!」と。
違うのです。じゃま物に向かって「出て行け!」と命令するのは、私たちの責任なのです。ほとんどのミニストリーがしていることは、神にお願いしてどうにかして地上の問題を解決していただくことです。しかし、本当は私たち自身が嵐に「静まれ!」と命令すべきなのです。私たちは周りの状況を天の御国の視点で見て、主の御ことばを宣言するのです。後はそこに天の支配が来るのを見ていればよいのです。
私はとりなしの働きに対して、絶大な愛と尊敬を抱いておりますし、私の妻は素晴らしいとりなし手です。しかし、多くのとりなし手たちは、うめいたり嘆いたり泣いたりして、絶えず重苦しい気持ちでいることを「とりなし」と呼んでいます。彼らは祈るときに、決して信仰に立つことをしません。私はそれがどういうものか知っています。というのは、私の人生の中でも、とても長い時間、すごく真面目に、すごく勤勉に祈っていたときがあり、もし祈った時間を記録していたならば多分みんな感心するくらい熱心だったことがあるのです。神は私が真心からそうしていたことを御存知だったので、私