24 4月
栄光の宮 フランシス フランジペン 4月24日
栄光の宮
フランシス フランジペン
神殿に主の栄光が満ちるときソロモンが神殿を主に献げたときのことを調べると、神が教会に何を求めておられるかを知ることができます。神殿が完成したとき、それは壮大な祝典のうちに主に奉献されました。ソロモンは、牛2万2千頭、羊12万頭をいけにえとして捧げました。 そして、王が祈った直後に、神の栄光が人々の目前に顕れたのでした。それまで400年以上もその様な事はありませんでした。
「ソロモンが祈り終えると、火が天から下って来て、全焼のいけにえと数々のいけにえとを焼き尽くした。主の栄光がこの宮に満ちた。」と書かれているとおりです。(第二歴代誌7:1)
建物に過ぎない神殿を捧げたときに、主が目に見える形で御自分の栄光を顕してくださるならば、主の生ける神殿である教会の上に、栄光ある御臨在を顕したいと、主はどれほど願っておられることでしょうか?しかしながら、主の栄光が顕れるには、いくつかの条件が整っていなければなりませんでした。まず第一に、ソロモンの神殿が多くの部分を完全に繋ぎ合わされ金で覆われて100%完成したときに、はじめて主の栄光が顕れたことです。それと同じように、私たちの中に主が完全に顕され、それを見て世の人々がキリストを信じるようになるためには、私たちが「完全に一つになって」共にキリストの神殿として建て上げられることが必要です。
次に必要とされる条件は、ワーシップに関することです。主が顕れてくださったのは、歌い手、ラッパ奏者、祭司たちが声を上げて賛美し礼拝したときでした。 私たちが神をワーシップする者でなければならないことは、強調し過ぎるということは決してありません。 現在でもすでにいくつかの教会の礼拝では、主の御前に立ちのぼるまことの(純粋な)ワーシップの故に、微かではありますが、生きている雲のような輝く主の栄光が顕れ始めています。
しかし、神の栄光が顕されるためには、もう一つ別の領域での準備も整っている必要がありました。この必要条件はリーダーたちに関するものです。 「祭司たちが聖所から出て来たとき、・・列席したすべての祭司が各組の務めの順序にかかわらず身を聖別した。…そのとき、その宮、すなわち主の宮は雲で満ちた。 祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が神の宮に満ちたからである。」(2歴代誌5:11-14)
祭司たちの組分け(Divisions)は、家系やそれぞれ与えられた任務に従って神によって定められたものでした。それは妬みや争いから生まれた肉的な分裂分派(Division)ではなく、役割り、機能、順序に従った組分けでした。しかし、祭司たちが聖所に入るときは、彼らが「各組の務めの順序にかかわらず身を聖別する」ことを神は命じられました。(11節) 言い換えるならば、神殿を建てて聖所に入るときは、祭司たちはそれぞれの務め(それはある意味で彼らを分けていたものですが)よりも、神の栄光を求めることを優先しなければならなかったということです。そしてそれが彼らを一つにしたのです。 まさにこの時、即ち、彼らが「組に分かれていない」時に、神の栄光は顕れたのです。
今日においても、神は一つの都市に存在する複数の教会に対して、それぞれ異なった働き、恵み、能力を与えておられます。それらは、その都市にある多様な文化的背景の必要を満たすためにすべて必要なのです。そして、教会がそれぞれに異なりユニークであるということは、教会同士が分裂しているのではなく、キリストのからだがそれぞれの働きをもって(一つに)完成されるということなのです。 しかし、もしも神の栄光が教会にもどることを私たちが望むのであれば、各教会に与えられてそれぞれ違う任務よりも、御霊による一致を優先させねばならないのです。
今日、集会、カンファレンス、祈祷会、あるいはコーヒーを飲みながらの一対一の交わり、また、教会の祭壇の前、町全体の伝道集会などという様々な場所で、「組分け(教団教派等の)に関係なく」キリストのもとに帰ってくるクリスチャンが、ますます多くなっています。 実際、ここ数年で何万人もの牧師たちが神に飢え乾き、自らを神のために聖別し服従することを新たに誓っています。彼らは神の栄光を求めているのです。その結果、何が起こったでしょうか? キリストのからだなる教会は「組み合わされて成長し・・・主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたもともに建てられ、霊の働きによって、神の住まいとなるのです。」(エペソ2:21-22)と聖書に書かれている姿へと組み合わされつつあるのです。
「組み合わされて fitted together 」「ともに建てられ built together」ということばに目を留めてください。まことの主の家は、「所属する組に関係なく、ともに組み合わされる」ときに、現われてくるのです。そうなったときに初めて教会は主の神殿、即ち「神の御霊の住まい」として真に姿を現わします。栄光の源「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。 わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。」(ヨハネ17:22-23)
イエスは、教会組織の新しい形とか、新しい教義やプログラムを与えるために来られるのではありません。主は、「ご自分の聖徒たちによって栄光をうけ、信じたすべての者の驚嘆の的となられる」ために来られるのです!(第二テサロニケ1:10) 「主イエス・キリストの栄光を得させる」ためにこそ、主は私たちを召されたのです!(第二テサロニケ2:14)
私たちが持っている現在の教会の定義をはるかに超えたものを、神が今すでに建てておられるのですから、それをしっかり見ようではありませんか。神は私たちを共に組み合わせて、まさに主の栄光が顕れる「主の聖なる神殿」を建てておられるのです!次の祈りの言葉をよく考えて見てください。 神殿を建てようと主が私たちを召しておられますが、この祈りはその召しに対する私たちの応答です。各々の特徴、召命はそのまま失うことなく、しかし、教団教派にとらわれずに私たちが共に組み合わされて一つのものを建て上げることができるようにと、神は今私たちを召しておられます。あなたも主の神殿を建て上げた