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14 8月

終末の収穫のための花嫁の油注ぎ パート2 ポール・キース・デイビス 8月14日


終末の収穫のための花嫁の油注ぎ パート2

ポール・キース・デイビス

聖書には、主イエスが洗礼を受けたときに天が開け、聖霊が鳩のように下ったと書かれています。これは主が力をうけた瞬間であり、神の命令と使命を果たすために神の七つの霊を実際に受けた出来事でした。主の内と主の上に聖霊が来られ、知恵と悟り、思慮と力、主を知る知識と主を恐れる御霊を現したのは、まさにこのときでした。この事実は使徒行伝10:38に次のように書かれています。「それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。」

地上でのミニストリーのために、イエスには特有の油注ぎと力が与えられたのです。そして今、主に与えられたのと同じ御霊の分与(インパーテーション)が、同じ使命を持つ花嫁の群れにも分与されようとしています。私たちは「主の骨の骨、肉の肉」になる主の軍隊なのですから、同じ御霊により病人を癒し、悪霊を追い出し、死人さえも甦えらせねばならないのです。

型と影

幕屋の建設の計画がモーセに伝えられたとき、彼はすべてのものを「天にあるものの写し、影」として作るようにと言われました。聖所の主要な器具の一つは七つのともしび皿を持つ燭台でした。それは神の幕屋となる人々に内住される聖霊とその働きとを予表するものでした。パウロは第一コリント3:16で、次のように強調しています。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」
更に、預言者ザカリヤは地上における神の御霊の働きを、驚くべき言葉を駆使して表しています。

ゼカリヤ4:2-6「彼は私に言った。『あなたは何を見ているのか。』そこで私は答えた。『私が見ますと、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には、鉢があり、その鉢の上には七つのともしび皿があり、この上部にあるともしび皿には、それぞれ七つの管がついています。 また、そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はこの鉢の右に、他の一本はその左にあります。』さらに私は、私と話していた御使いにこう言った。『主よ。これらは何ですか。』 私と話していた御使いが答えて言った。『あなたは、これらが何か知らないのか。』私は言った。『主よ。知りません。』 すると彼は、私に答えてこう言った。『これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。』」
一つの燭台の上で燃えている「七つのともしび皿」とは、神の七つの御霊です。また、全世界に遣わされた神の七つの御霊であり、全地を見渡す主の七つの目でもあります。これは旧約にある神の七つの目と、黙示録にある七つの角の描写です。この神の七つの御霊については、ヨハネが受けた啓示によって私たちは更に知ることができます。

黙示録5:6「さらに私は、御座・・そこには、四つの生き物がいる。・・と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。」

ヨハネは、主が七つの目と七つの角を持っている小羊として表わされているのを見ましたが、これも又、父なる神が御子を通してどのように働かれたかという寓意的な描写です。角というのは力と権威の象徴です。七は完全を表す数です。このことから、主は地上でのミニストリーのために、聖霊を通して完全で絶対的な啓示と力を与えられていたことがわかります。

神を表す

神の七つの霊とは、聖霊が天の目的を地上で成就するための七つの完全な働きを表しています。そして七つの目とは、すべてを刺し通す啓示的洞察力(父の心だけではなくすべての人の心がわかる力)を表しています。生ける御ことばなる主は、ヘブル4:12にあるように、すべての人の心の考えやはかりごとを判別することができるのです。

キリストの花嫁が、主と同じわざや、又それ以上のわざをするためには、私たちの内や私たちを通して主と同じ霊が働くことが不可欠であり、それが神の約束です! 主が私たちの内に、又私たちを通して生きてくださり、人間の形をとって地上におられたときと同じわざを花嫁を通してしてくださるのです。それほどに私たちと神とは完全に一つになることが可能なのです!

イザヤ11:12は明らかにメシアの描写であり、イエスの生涯とミニストリーを特徴づける霊的な力を預言的に描いています。イエスは、ご自分は父から遣わされたと言われましたが、私たちは主から遣わされるのです。もし主イエスが神の七つの霊によって働いておられたのならば、キリストの花嫁も、完全に成長をとげるならば、これと同じ神の力によって働くべきなのです。

七つの霊とは:
主の霊
知恵と悟りの霊
思慮(助言)と力の霊
主を知る知識と主を恐れる霊

御霊は二つずつ組み合わされていますが、それはそれらの機能が相互に関連しているからです。今回は思慮と力の霊について考えたいと思います。

思慮と能力の定義

思慮(counsel)とは、神の計画と目的達成のためのリーダーシップをとり、適切な決断を下すための助言や計画や訓戒を与えることです。思慮という言葉は社会的、人間的思慮をさすこともありますが、主に聖霊から受ける思慮のことをさします。

イザヤ9:6によれば、主ご自身が「驚くべき助言者(Wonderful Counselor)」と呼ばれています。助言者(カウンセラー)とは、アドバイスを与える者、又は一つの目標を達成するために計画を立てる者です。思慮の霊は神の御座からアドバイスを受け、ある命令を達成するための正確な計画や策を与えます。主は単に思慮があるだけでなく、思慮の霊そのものであられるのです。

一方、力(might)は、能力、強さ、勇気、勝利や剛勇を生み出す武力と定義されます。力の霊は聖霊の驚くべきわざと奇跡的な威力を現し実証するものです。

この二つの霊は聖霊を通して一致して働き、アドバイスや助言を与えて、神の力あるわざや奇跡の威力を示す計画を作りあげます。

霊の模範

私は20世紀のキリスト教のリーダー達の研究をしましたが、そのうちの幾人かが他の人よりも霊的にはるかに優れた力と権威をもって活動していたことがわかりました。マリア・ウッドワース・エッター、ジョン・G・レイク、ウイリアム・ブラ ンハム等です。彼らはそれぞれの人生のある時点で、自分の人生を完全に主に明け渡しました。その時以来それまでとは違う霊的領域に彼らは突入し、人生で最もすばらしいミニストリーをするようになったのです。彼らはヘブル6:5に書かれていることが現実でることを発見し、「神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わった」のだと私は信じます。

彼らのミニストリーを霊の模範として学ぶことによって、私たちは霊の働きの基本を知り、花嫁の群れとして同じよう働けるようになるのです。ウイリアム・ブランハムのミニストリーに起こった一つの出来事は、御霊の驚くべき顕れであり、これから起こることの前ぶれとして私の心を打ったことを覚えています。

それは1930年、彼がバプテスト教会の牧師になる按手を受けて間もなくの頃でした。彼が祈っているとき、突然自分がある病院の一室におり、自動車に轢かれてタイヤの下敷きになった黒人を見下ろしているのが見えた、という啓示的な幻から始まりました。その事故でその人は重傷を負い、何本も骨折し内臓も損傷を受けているようでした。折れた骨の何本かは、心臓や肺の近くで、それをさわることは死を意味するので、手の施しようがないようでした。

診断は非常に悲観的なものでした。牧師は幻の中で、ベッドの片側に立ち、その男性を見下ろしていましたが、その人の症状は全部わかっていました。次に、二人の白人が病室に入ってきて、彼の反対側のベッドのそばに立つのを見ました。その瞬間にブランハム師は幻の中の自分がその男性は癒された、と宣言し、男性がすぐにベッドから飛び出して服を着て病院から出て行くのを見ました。幻はそこで終わりました。
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数日後に、ブランハム師はその男性が実際に幻とおなじ事故にあって同じ症状で入院していることを知りました。彼は友人を一人連れて病院に行き、もうすぐ黒人の男性がこういうスーツを着て、帽子を手に持って病院から出てくるから、病院の前で待っていてくれるようにと頼みました。

ブランハム師は病院に入り、幻で見たとおりの部屋を見つけました。そこに幻で見たとおりの男性を見つけたので、幻で見たのと同じ位置のベッドの傍らに立ちました。しかし、幻で見たとおりに二人の人がベッドの向こう側に立つまでは祈ることができませんでした。彼が立っていると男性の奥さんが症状は非常に重いということと、彼は動かすと内臓の損傷によってすぐにでも死んでしまうと医者たちが告げたことを話してくれました。

ついに二人の人が部屋に入ってきてベッドの反対側に立ちました。その二人は男性を轢いてしまった車に乗っていた人たちだということがわかりました。彼らが入ってきた時、神の人は癒しを祈るだけでなく、癒しを宣言しました。すでに幻で見せられていたのです。祈るとすぐに男性は掛け布団をはずして「私は直った。」といいながらベッドからとび出しました。

言うまでもなく医者たちや看護婦は男性が直ちに死ぬのを恐れて、彼を押さえつけようと必死になりました。でもすばらしいことに、彼は完全に癒されたのです。彼はクローゼットに行き、幻の中と同じ服を着て、ブランハム師が説明したのと全く同じように友人の前を通って病院から出て行きました。この出来事は思慮と力の霊の働きを明瞭に表すものです。

私はこの証が特別に好きなのですが、それはつい一世代前に起こったことだからです。イエスのミニストリーや、旧約時代の預言者や初代使徒たちによる奇跡の話を読むのもすばらしいことです。しかし、私たちと同じような普通の人たちを通して現代教会の時代に行われた奇跡は、私たちにも手が届くというような気持ちがして特別に好きなのです。

主の思慮に従うことが力を解放する

神からの言葉は、病室に行ってある状況が整うまで待つことでした。その言葉に忠実に従うことが、奇跡を生み出す力の霊を開放しました。これは主イエスやこの霊によって働いた旧約の預言者たちにおいて見られるのと同じく聖書的モデルです。

ナアマンは預言者エリシャによってヨルダン川に七度浸るように指示されました。そして思慮の言葉への従順が、彼のらい病を癒す力の霊を開放しました。イエスは男の目に泥を塗りある池に行って泥を洗うようにと告げました。この言葉に忠実に従うことによって男が見えるようになるという力の霊が開放されました。このほかにも思慮と力の霊の働きを示した聖書の話は沢山あります。

勿論、すべての状況がブランハム師の幻のようにはっきりとは示されないでしょう。しかし、それが祈りを通してであれ、書かれたみ言葉を通してであれ、預言の言葉を通してであれ、私たちが神の助言のみ言葉にしっかりと従うならば力の霊が解き放たれ、すばらしいことが起こるのです。私たちが神の導きにいつも従うならば、この時代の霊やすべての霊的攻撃に打ち勝つ勝利の人生を生きる力が与えられ、主が打ち勝たれて父と共に御座に座られたように、私たちも主の御座にともに座ることができるのです。(終わり)

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