14 10月
打ちひしがれた魂はどこに神を見出すか フランシス・フランジペン 10月14日
:打ちひしがれた魂はどこに神を見出すか
フランシス・フランジペン
イエスは今の終わりのことを表すのに、非常に厳しいタイトルをつけておられます。主はこの期間を「大艱難時代」と呼ばれたのです。艱難という言葉は「過酷な苦痛、災難。霊的な圧迫、重圧」を表します。今私たちはこの時代の終わりに近づいているのですから、人間への破滅的な災難や圧迫が増加することを予期せねばなりません。
現代はますますストレスが大きくなるのに加えて、政府や一般社会はモラルの低下に歯止めをかける意欲をだんだん無くしています。世間のかなりの割合の人々が、神に真っ向から逆らっている時代に私たちは生きているのです。詩篇2編にある預言は、私たちの眼前で現実となっています。「地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と主に油そそがれた者とに逆らう。」(2節) この世はモラルの価値を捨て去り、活動家たちは「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう。」と叫ぶのです。(3節)
イエスは今の時代に関して「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」(マタイ24:12)と警告されました。もしあなたが暗さを増すこの世の中で、その流れに抵抗してきた者たちの一人であるならば、この戦いがどれほど激しく、又多くの戦いの最前線で戦わねばならないかをご存知でしょう。コミュニティーの中の不正を正そうとする戦いであれ、家族が一致するための努力をしているにせよ、一歩事が前進したかと思うと、今度は五つくらい問題がすぐに出てきます。
いくつかの都市でブレークスルーが起きているにもかかわらず、善良な人たちの多くは気力を失っています。彼らはただ毎日同じルーティーンを繰り返しているだけです。預言者ダニエルは、敵が「いと高き方の聖徒たちを悩ます(疲れさす)ダニエル7:25」時代のことを警告しています。今の時代に勝利者として生き残るには、詩篇91で神が与えてくださっているリアリティーまで登っていかねばなりません。いのちが再び満たされる場所がそこにあるのです、そこは私たちが宿ることができる永遠の命の泉です。聖書はこの場所を「いと高き方の隠れ場」と呼んでいます。
エリヤ:私たちと同じ人間
エリヤは私たちと同じように情熱をもった人でした。そして私たちと同じように霊的戦いをしました。彼はイスラエルの魂のために戦い、イザベルとその夫アハブ王とのたくらみに対抗しました。しかし、彼の一番激しい戦いの相手は目に見える敵ではなく、自分自身の落胆に対する戦いでした。
エリヤは勇敢な人でしたが、逃亡者として洞穴や隠れ場所を転々としなければなりませんでした。イザベルは主の預言者たちの大多数を殺害し、彼らからの神の影響の代わりにバールやアシュラの祭司からの暗闇の悪魔的な力を受けていました。 しかし、新しい指令が主から発せられました。エリヤとバールの預言者たちは、それぞれが仕える神の祭壇を築き、祭壇に火をもって答えられる神こそが彼らの主であると認められるということになったのです。
アハブ王とイスラエルはこの戦いを見に集まってきました。そして、いかにバールの祭司たちががんばっても、悪の偶像バールからの応答はありませんでした。それとは対照的に、エリヤが祈ると火がたちまち天から下り、いけにえをなめ尽くしました。これはエリヤが勝ち取った最大の勝利でした。イスラエル人は神の力を見て地にひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です。」(第一列王記18:39)と叫びました。
しかし、主がされることはまだあったのです。バールの祭司たちを死刑にしたあと、エリヤはカルメル山頂に行き、顔を伏せて雨が降るように7回祈りました。 そして、とうとう3年間の旱魃を終息させる大雨を主がもたらされました。この日一日で火と雨が奇跡的に天から下ったのです!
このすばらしい出来事がイスラエルの歴史上の他の時代に起こったのならば、イスラエルは悔い改めたでしょう。しかし、それは起こりませんでした。バール礼拝はここで終わるべきでした。しかし、続いたのです。実際、何も変化が無かったのです。エリヤが心に描いていたリバイバルとは全く反対のことが起こりました。怒り狂ったイザベルは主の預言者を皆殺しにすることを誓い、エリヤはあわてて荒野に逃げ出しました。えにしだの木の下で、エリヤは疲れ果て意気消沈して倒れてしまいました。 疲れ果ててエリヤは「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」と祈りました。(第一列王記19:4)
エリヤは出来る限りの努力を主に捧げました。この日は彼の人生が絶頂に達した日でした。エリヤはイスラエルが主こそ彼らの神であることを知るようにと祈り、それに答えて主はイスラエルの「心を翻して」(第一列王記18:37)くださったのです。しかし、先の預言者たちと同じように、エリヤはイスラエルのリバイバルを引き起こすことは出来ませんでした。落胆が彼を圧倒しました。彼はもう十分だったのです。
あなたも霊的にも感情的にも疲れ果てて、「もう十分です。」と言ったときがありましたか? それは自分の家庭を良い方向に変えられなかった自分の力不足に落胆したときだったかもしれませんし、あるいは、あなたの教会や社会のために断食して祈ったにもかかわらず、何もこれといった変化が見られなかった時かもしれません。あなたは全力を出し切ったのに、なんの成果も見られなかったのです。エリヤのように落胆して疲れ果て、あなたのすべてを使い果たしてしまったのです。
エリヤは横になって眠りました。すると御使いが彼にさわって、「起きて、食べなさい。」といいました。(第一列王記19:5) 彼の頭のところにパンと水がありました。人生に疲れ果てていたエリヤは、それを食べてまた眠りました。
もう一度御使いが彼にさわり、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから(too great for you)。」と言いました。(7節) 私たちのヴィジョン、計画、プログラムに到達するための旅もまた、「too great, 大きすぎる、まだ遠い」のです。実に私たちの旅は、自分一人でするには大きすぎるように神は作られたのです。神なしで成功できるような計画を、主は私たちのために立てられることはないのです。私たち神のほうに助けを求めて駆り立てるように、人生は組み立てられているのです。
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「そこで、彼(エリヤ)は、起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、四十日四十夜、歩いて神の山