15 11月
何にも思い煩うな ビル・ヨント 2008年11月15日
何にも思い煩うな
ビル・ヨント
「何にも思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」ピリピ4:6
「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」三ヨハネ1:2
今天から放たれているものを受け取るためには、まず自分の魂そのものが繁栄し幸いを得ていることが必要であると思います。自分の人生について神が何を語っておられるかを聞き、神の口から出る一つ一つの「今の」言葉によって生きることが大切です。神が語られるとき私たちは生きるのです! 主の言葉は私たちの身体を健やかにし、骨の髄となります! 主の言葉は純金より尊いのです。もし神が税金を払うには「魚釣りに行け」と言われるならば、魚の口に金貨が見つかるでしょう!
この文で私は、健やかに生きるのに必要である「魂に繁栄を得させる」人間関係の大切さについても話したいと思います。それは癒されようと必死でがんばることに勝るものです。私はこれまで人々の愛と祈りによって癒しを受けてきたことを知っています。また、神が私のために選んでくださった、思いもよらない人々を通して、物質的な祝福を受けてきました。私たちが築いた人間関係は大きな利息をもたらすのです!
主がかつて語られた言葉、今語っておられる言葉を固守せよ
私はハートアタック(心臓病発作)を患いましたが、主が5年前に語られた言葉を私は決して忘れることはないでしょう。主は「息子よ、おまえはこれから癒しのアタックを受け始めるだろう。癒しはおまえの家系に流れるものだからだ!」とその時言われたのです。そのような言葉を聞いたのは初めてでした。主はまた、その癒しは徐々に起こることも教えてくださいました。そしてその理由は、瞬間的に癒されるよりもその方がいつも主から目をそらさないで生きていけるからではないかと、私は思っています。「信仰のテスト」の谷間を長く歩けば歩くほど、私は癒しに関してもっと深く学んだように思います。
過去5年間に遣わされたすべての教会で私が最初に証することの一つは、「私は癒しにアタックされています!」と言うことでした。そうすると人々の中に「自分も癒しにアタックされている!」という信仰が直ちに湧き上がるのを感じることができるのです。敵は何度も私の肉に働きかけ、実際には癒しなんか起こっていないと思わせようとしました。
しかし、敵はうそつきだと知っていましたから、私はもっと大胆に神が語られたことを人に話しました。あるとき私は大胆さと決意に満たされ、「証をする」という域を超えて自分の癒しを「預言する」霊の領域にシフトされたことがわかりました。
教派の壁を越えることによって天からの健康を保つプランを得なさい
政府が党派を超えて働かなければヘルシー(健全)でないように、クリスチャンが天からの「ヘルスケア」(健康管理)や主の「救済プラン」を国として受けるためには教派を越えねばなりません。いままでの人生を振り返ってみると、神ご自身のご配慮で以って、今ある私にするために私を多くの異なった教会や教派に送られました。私が子供のときに発病した時ですら、主は道を備えられ、私は少し変わったところに行くことになりましたが、そこで癒しがおこったのでした。
それは7歳のときのことですが、私は脳腫瘍になり、神の導きによりペンシルバニヤ州のピッツバーグにあるマーシー病院に送られました。そこはカトリックの病院でした。母はすべての修道女や神父たちに私のための祈りをお願いしました。母は物事を神の目を通して見ているようで、神を信じる人が天使のようにどこにでもいて、必要なときに助けてくれると思っていたようです。神は主権をもって奇跡のようにそのカトリック病院を選び、そこの修道女や神父を用いて私のために天を開いてくださいました。そして医者が手術をする前に私の腫瘍は消えてなくなったのです!
神が働いてくださる(癒しが起こる)場所とか教会を自分で勝手に判断して制限するときに、私たちは神を制限してしまうのだと思います。
多くの教派によって養われた幸い
私は、ファースト・チャーチ・オブ・ゴッド、チャーチ・オブ・ゴッド、メソジスト、フリー・メソジストなど、聖霊派やそうでないところの両方で育ちました。振り返ってみて、それはとてもよかったと思います! 私が今日神の望まれるところまで来れたのは、これらすべての教派が必要だったのだと思うのです。神はどこでもお好きなところ(即ちすべての教会!)にご自分の力を顕わすことができることを、私は学び感謝しています。
地球から上に高く昇れば、州や国家の境界線は地図に書かれたようには見えないといわれます。神は私たちを霊で高く昇らせてくださり、神のようにものごとを見せてくださっているのです。キリストの身体の中には教派の線や壁はありません。主にむかって鼓動する心を持った人々を、主はすべての教会や交わりの中に持っておられるのです!
私の母は、ある教会を訪ねて礼拝が始まる前に椅子に腰掛けて待っていたときに癌がいやされた、という証を持っています。後になってから、そこは癒しを信じない教会だったことがわかりました。それはどうであれ、神がその教会におられたことに間違いはありません!
数年前母が足の切断手術を免れて癒されたのは、ペンシルバニヤのピッツバーグの長老派の病院においてであり、それは神の奇しいご計画によってでした。それはアメリカで最も優れた病院の一つでした。長老派の人たちを神に感謝します! つまり、神はあるときは病院や医者を用いられて癒しや奇跡を起こされることもあるということです。イエスは「医者ルカ」を弟子の一人とされました。
最近、私は長年連絡していなかったある友人に電話をしました。ずっと以前、癒しに関する聖書の言葉の見解がくいちがい、彼は他の教派の教会に移っていったのでした。私は心臓のカテーテル検査のためにある病院に行くことになったのですが、彼も同じ病院にテストに行ったことがあるのを知っていたので、話を聞いてみようと思ったのです。会話が終わりかけたとき、彼は私の回復のために祈ってもいいか、と尋ねました。私は勿論「お願いします」といいました。
彼が祈り始めたとき、私は彼の人生と祈りの上の注がれている主の油注ぎに驚きました! そして私の癒しのために彼が信仰の祈りをし始めた