06 12月
奇跡の乗法的増加のシーズン ギャリス・エルキンス 12月6日
奇跡の乗法的増加のシーズン
ギャリス・エルキンス
最近のウォール街での株価の値下がりは、多くのアメリカ人に家計や将来に対する不安を抱かせました。経済安定の基礎が今、揺るがされています。
この世の王国は、普通の足し算や掛け算の数学を基盤に動いている組織です。それは、人間の目で実際に見ることができ、人間の頭で理解できるものからのみデータを集めるシステムです。しかし神の御国は、今まで知られてきたものを侵略し、普通の足し算掛け算の法則を「奇跡の掛け算」によって覆すものなのです。
奇跡の掛け算によって変えられる地
聖書の中でもっとも興味のある物語の一つに「5千人の給食」があります。マルコ6章によると、イエスは一人の子供のランチを取り、多くの群衆(女性や子供もいたことを考えると、2万人以上だと思われる)への奇跡のご馳走に変えられたのです。
6:34 イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。35 そのうち、もう時刻もおそくなったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここはへんぴな所で、もう時刻もおそくなりました。36 みんなを解散させてください。そして、近くの部落や村に行って何か食べる物をめいめいで買うようにさせてください。」
この群衆は何時間もイエスの後に付いて来ていたのですが、そのための食料を何も用意していませんでした。私たちが何かがなくて大変困惑するのも、しばしば人里離れた何もないところにいるときだということに気づかれましたか?マルコ6章ではまさにそれが起こったのでした。キャンプ用具が入ったリュックサックもありませんし、食料を買う店もありませんでした。群集はイエスについて田舎を歩いていたのです。町からは遠く離れていたのに必要はとてつもなく大きかったのです。
弟子たちは大群衆の大きな必要を見て、自分たちなりの解決法を考えました。彼らはイエスに「人々を解散させてください。」と言いました。つまり、「私たちは疲れてお腹もすいたし、もう忍耐力も尽きてきました。この群衆に関する問題を無くしてください。」と言ったのです。しかし、イエスは今から起こそうとしておられた奇跡に、弟子たちも参加するように招かれたのでした。
奇跡的掛け算は今持っているものから始まる
6:37 すると、彼らに答えて言われた。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」そこで弟子たちは言った。「私たちが出かけて行って、二百デナリものパンを買ってあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか。」
これは自然界の普通の足し算と掛け算から発せられる言葉です。「何を食べさせるのか?」という言葉は、見渡すかぎり何もないへんぴな場所で、奇跡は見えるものを通してだけ起こると私たちが考えてしまっているときに、口から出てくるのです。
イエスは38節で一つの質問をされました。
6:38 するとイエスは彼らに言われた。「パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい。」彼らは確かめて言った。「五つです。それと魚が二匹です。」」
あなたの今の人生の中で、へんぴで何もない場所はありますか? 老後のための資金が急速に減ってしまいましたか? 結婚生活が危機に面していますか? ミニストリーの支援者が減っていますか? 次にどの方向に進めばよいかわからなくなっていますか? 今の必要を満たすには程遠いほんのわずかの物しかない、しかもへんぴな場所に立っている自分を、あなたは発見するかもしれません。
奇跡の掛け算は、今すでに持っているものから始まります。人里離れたところに何千人もの空腹な人がいたのです。弟子たちはどのくらい食料があるか調べてみました。その結果、いわしのような小魚が2匹と、マフィンのようなパンが5つ見つかりました。これだけの大勢の群衆の中で、見つかったのはこれだけでした。
6:39 イエスは、みなを、それぞれ組にして青草の上にすわらせるよう、弟子たちにお命じになった。40 そこで人々は、百人、五十人と固まって席に着いた。41 するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた。また、二匹の魚もみなに分けられた。42 人々はみな、食べて満腹した。43 そして、パン切れを十二のかごにいっぱい取り集め、魚の残りも取り集めた。44 パンを食べたのは、男が五千人であった。
奇跡の掛け算的増加は驚きと喜びの叫びを起こす
50人とか100人のグループが全部でいくつあったかを考えてみれば、この奇跡のごちそうを全員に配るには数時間はかかったとみるのが妥当でしょう。奇跡が起こっているのだ、ということが人々に分かり始めたときの喜びと興奮の渦を想像してみてください。この奇跡の掛け算的増加は一瞬にして終わったのではなく、次ぎから次ぎへと続いたのです。
私たちが奇跡的掛け算の環境の中で生きることを始めると、あの日丘の上で響いていたに違いない声が聞こえるようになるでしょう。それは、神の奇跡の御業を見て驚き喜ぶ人々の叫びです。
神の愛をまだ知らない人たちの間で喜びの叫びが起こるシーズンがやってこようとしています。神はまず教会に奇跡的掛け算をもって与えてくださり、次にそれが街へと広がり、スーパーナチュラルな福音伝道が起こるのです。
街の広場で奇跡的掛け算の御業が起こったならば、街全体がどう変えられるか想像できますか? 御国について人に知らせるには「神の慈しみ」を用いるのが最善の宣伝方法です。聖書には「神の慈しみが人々を悔い改めに導く」と書かれています。
奇跡の掛け算的資源は天に用意されている、見上げなさい!
自分がへんぴで何もないところにいると分かったときに私たちがとる姿勢には、2つの選択枝があります。
1. 下を向く。イエスは人々に食物を与えるようにと弟子たちに言われました。私たちも弟子がしたように下を向いて、手に持っているランチを見、「一体何を食べさせるのか?」とつぶやくこともできます。膨大な必要性を目の前にして、自分の欠乏だけを見てしまうのです。
2.上を見上げる。イエスは別の姿勢を示されました。主は上を見上げました。マルコ6章で、イエスは少年のランチを手に取り、天に上げ、祝福してから人々に与え始められました。主はそのへんぴで何もない場所から上に手を伸ばされて天に触れたのです。
私たちの資源 は、自分の手に持っているものではありません。また、ウォール街が告げるものでもありません。私たちの資源は天にあり、私たちがそれを掴み取り自分の人生の中に取り込むために用意されているのです。私たちの存在すべて、また、必要すべては、神の御座の周りにあるのです。
もしも自分の資源は現在の不景気な世の中にだけあると思うならば、私たちはその限られた資源に手を伸ばすでしょう。しかし、神は私たちが、経済問題、病気、崩れた人間関係をすべて天に向かって上げて祝福することを選びとるようにと願っておられるのです。自分の必要を天に上げて祝福すると、その必要は神の栄光と結びつけられるのです。
主の栄光こそが私たちの持っているわずかなものを溢れるばかりの豊かさへと変えるものです。私たちの必要が天の衣のすそにひとたび触れるならば、それは天の栄光を帯びて地上に戻されるのです。少年のランチが神に捧げられないならば、それは手の中でランチのまま残り、奇跡の大宴会とはなりません。
へんぴな場所でもうなすべき術がないと思えるようなとき、私たちは神からの奇跡が必要です。教会はこの世と同じように恐れの中で生きることも出来ます。しかし、愛なる天の父が私たちが持っているわずかなものを、神の栄光によってスーパーナチュラルなトランスフォーメーションのために変えてくださることを期待して、それを天に差し出して祝福することも可能なのです。
今日、あなたの必要を満たすものがどんなにわずかであっても、それを天に上げて祝福することを選びとってください。そして御座に上げられたあなたの必要に神が触れてくださるように頼んでください。そして、その必要をへんぴな何もない場所に戻して、それを人々に分け与え始めてください。あなたが持っているものに天が触れてくださるのは、あなたが所有するためではなく、周りの人へ解き放っていくためです。あなたが与えるものは増え続け、それはやむことのない供給源となっていくでしょう。
あなたの中で恐れが頭をもたげようとするときには、いつも恐れに向かってこう宣言してください。
「私は今の状況を天にすでに差出し、神が私の必要に触れてくださいました。私は天から私が持っているものの奇跡の掛け算的増加を引きおろしています。この世が不可能だというところで奇跡が起こることを私は知っています。神にとって不可能なことはないことを信じています。少年のランチを奇跡的掛け算の宴会に変えることさえも可能です。」 (終わり)
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