16 1月
知るべきはただ二つの事 フランシス フランジペン 1月16日
知るべきはただ二つの事
フランシス フランジペン
多くの事柄で私たちの心はいつもいっぱいになっています。多くの本、多くの例話、多くのよい教え―確かにそれらは心に止めて悪いことではなく、「これが真理だ。」と私たちに語りかけてきます。しかし、私は長年主に仕えて来たなかで、次の二つの事だけを求めるようにと主によって導かれました。それは「キリストにある神の御こころを知る」ことと、「キリストの光に照らされた自分自身のこころを知る」ことです。
神の御こころを知ること
長年の間、私は神のこころを知り、人々に対する神の愛の深さを知ることを求めて来ました。私は主の御こころを知り、主が御わざをされるときの動機となる憐れみのこころを知りたいのです。聖書には簡単明瞭に、イエスは人々を愛されたと書かれています。マルコ福音書には、「イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。」とあります。(マルコ6:34)
主にとっては、人々を教えて癒すだけでは十分ではなかったのです。主は彼ら一人一人を個人的に気に懸けてくださいました。彼らが健やかで食物を十分に得ているかどうかすらも、主にとって大切なことだったのです。
一人の少年が持っていた5つのパンと2匹の魚は、イエスが奇跡を行うために十分でした。しかしそれは、キリストご自身は疲れ果てていたにも関わらず、群衆のために働くことをいとわなかった故にこそ起きたのです。
考えてみてください。そもそもキリストは弟子たちを休ませるために連れ出したのです。「人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。」(マルコ6:31)個人的にイエスご自身も祈ることによって力を得ようとしてそこに来ていたのです。
というのは、イエスの先駆けであったバプテスマのヨハネがその週のはじめに、ヘロデの手によって首を切られました。ですからイエスが群衆に食事を与えたのは、主が感情的にも肉体的にも消耗しきっていた時だったのです。イエスはただ一度とか二度とかではなく、弟子たちを通して繰り返し 「人々にパンと魚を配り続けられた。」のです。(マルコ6:41)
その結果、何千人もの男性、女性、子どもたちが全員「食べて満腹した」のでした!(42節)
なんというイエスの御こころでしょうか!奇跡は群衆のために起こりましたが、パンと魚を次々に与え続けるイエスの疲れた御手を支えた(力が与えられたという)奇跡に関しては何も書かれてはいません。主を支え続けたのは、ただ主の聖なる愛だけでした。肉体の力がどんどん弱まる中で、主は人々を助けるために与え続けられたのです。
ですから、もし私がイエスを知ることを求めるならば、この事をまず認識する必要があります:イエスはすべての人を愛されている。特に社会が無視する人たちを。だからイエスが人を助けるためにどれだけの距離を行かれるかを(私は)知らねばなりません。というのは主は私を通してその同じ距離を行かれるからです。確かに私は病気や貧困、人間の苦しみに対する主のお考えを知る必要があります。主の僕として私はこれらのことを知らなければ主のお役に立つ事はできないのです。もし私が実際に主の御こころを行いたいならば、主の御こころを真に知る必要があります。だから学びや祈りの時にはただ知識だけを求めるのではなく、私は神の御こころを訊ね求めるのです。
自分のこころを知る
神の御こころに私がだんだん近づくにつれ、主の臨在の火が私の中で深い清めの業を始められます。主の限りない豊かさの中で、私の貧しさが現れてきます。詩編の著者は書いています。「だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ち得ようか。手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。」詩編24:3−4 もし私たちの心に欺きがあるならば、主の山を見つけることさえできませんし、登ることなどとてもできません。こころが清くないのに、神の聖なる所で仕えることができるでしょうか。心が清い者だけが神を見ることができるのです。
神に向かって登って行くのは、真理の溶鉱炉の中に入って行くことであり、そこでは私たちは魂の中の欺瞞が取り去られます。聖なる場所に住まうためには、たとえ嘘によって自分が救われるときであっても、正直に誠実に生きねばなりません。主の山に登る階段を一段上がるたびに、私たちの魂はもっと高い透明度にさらされ、心の動機が完全に見えるところに押し出されて行きます。私たちは神に向かって登るという神の召しを追い求めるのです。
しかし、私たちの魂は、恐れと暗闇の中にうずくまり隠されていて、偽りと迷妄の世界で息づいています。これが私たちの内なる人であって、神が救おうとしておられる魂です。あなたは、真理だけが解 放することのできる本当の自分自身をすでに発見しましたか? 確かに私たちは清さを求めはしますが、まことの清さに到達するにはここを出発点とせねばなりません。真理の御霊が心の隠された場所を露にすることが必要です 。事実、私たちを清さに導くのは正直さ、誠実さなのです。神よ、真理への情熱を与えて、あなたの聖なる場所に立つことができるようにしてください。
世界中で多くの人たちが、自分は「真理」を知っていると思い込んでいますが、彼らの人生の中に聖さも力も併せ持ってはおりません。真理とは、歴史的に築き上げられた教義以上のものにならねばなりません。神が過去に動かれたときの記念品とかお土産というような宗教的遺物の博物館以上のものでなければならないのです。真理とは、キリストの内に顕された神の御こころを知ることであり、また、神の恵みの光に照らされた自分のこころを知ることです。私たちは人類の一員であり、故に無知で覆われてしまっています。私たちは自分の周りの世界をほとんど知りませんし、いわんや自分の魂の性質など知ってはいません。私たちは神の御こころを探し求めるときに、知らず知らずに自分のこころをも捜しているのです。なぜならば、神を見つけるときにだけ私たちは自分自身をも発見します。というのは、私たちは「主のうちに」あるからです。
しかし、主の御前に自分のこころを注ぎだして主を求めるとき、私はおののきつつダビデ王の祈りを祈るのです。「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷つい