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31 1月

「主を見つめて待つ」祈り(2)  坂 達也 2009年1月31日


主を見つめて待つ」祈り(2)

坂  達 也

この年の初めに当たり、多くの方がなさったように私も断食をしました。その時に感じたことがあります。
それは、断食をしていると段々体力が弱り、特に今回は「考える」頭のエネルギーが不足してくるのを感じました。 

聖書を読んで、参考書を見たりしながら(知らないうちに)深く考えこんでいると、エネルギー不足で段々考えられなくなってしまったのです。そこでやむなく、考えるのを止めて休みました。そして主をぼーっと見上げ何となく主に浸っていると、一つの、それもかなり深い「思いと考え」がすーっと心に入って来ました。その時気がついたことは、自分は全く安らかな気持ちであって、少しも自分自身のエネルギーが使われていない、むしろリフレッシュするような新鮮な力すら感じたのです。

 私はその時、成る程断食のよさの一つはこれだと思いました。今回断食をして主から改めて示されたことは、日頃「自分の考えに死ぬ」「頭で考えるのを止めて、それよりも主に聞け」と自分に言い聞かせていながら、実際にはなかなか自分で考えることを止めていないと言う事実でした。そして、それがいかにエネルギーばかり使う「徒労」であるかと言うことを、今回はっきり肉の形で主から教えられました。


さて、心を静め、総てのことを忘れて主の御前に立つ時に、クリスチャンとして最もすばらしいことの一つが起きます。それは、心の中に愛と喜びが溢れ出てくることです。

1ペテロ1:8、9に「 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」とあります。

「魂が救われている」と言うことは、心の内が、言葉では言い表せないほどすばらしい喜びに満ちあふれている状態です。ですから、これを経験されてないクリスチャンはいないと思いますが、残念なことに、それがいつもそうであるとは限りません。毎日の生活の中で色々なことが起き、しばしば失望したり、怒りがこみ上げてきたり、いらだったりします。

そこで、いつも喜びの中に生きるための秘訣があります。それは、自分の廻りに起こる一切のことが、神が許されて私たちに下さっていると信じて疑わないことです。特にいやなこと、悪いことが起こった時にそう信じて感謝することです。このことを頭の中で理解しておられる方は多いと思いますが、本当に信仰で実行している方は案外少ないのではないでしょうか。第一、この信仰に堅く立っていなければ、どうして総てを安心して主に委ねることなど出来るでしょうか。

朝一番に主の御前に立って、主を喜び、主の愛と喜びのうちに主と共に過ごす時間がいかに大切で、必要なことであるか、この祈りをする方はよくご存知です。この祈りをすることによって、その日一日の総てを主に委ねて、安心して迎える用意が出来ます。
特に、自分には不可能でどうすることも出来ないような厳しい状態にある方にとっては尚更です。そのような試練の一日を「まるで人事のように、鼻歌まじりで」過ごせるようになります。いや、そうなることが目標です。何故なら、私たちが主に一切を委ねたのなら、何が起ころうと総てが「他人事―イエスが私の代わりに生きて、解決して下さる」からです。

「主を見つめて待つ祈り」は、朝とか夜に主と静かな時を持つだけではなく、それを延長して一日中出来るようになることが理想ではないでしょうか。そのやり方は、出来るだけ多くの時間を、たとえそれが瞬間であっても、とにかく主を思い浮かべて、主と交わることです。電車に乗っている時間、車を運転している時間、あるいは人と話している時とか、仕事中でもそうするのです。

特に何か一大事が起こっている最中には(かえってそのような時の方が主を思い浮かべ易いでしょうが)慌てずに本当に「まるで他人事のように、鼻歌まじりで」対応して下さい。相手の言うことに余裕を持って「自分の言いたいことを主張せずに」、人事のように「そうですね。ごもっともですね。」と言いつつ、心の中で「主にお任せしてありますからハレルヤ!」という気持ちを持っていればよいのです。

これが出来るようになれば本当に人生を「主と共に歩く」ようになれますね。人生が楽しくなります。自分で悩むことから開放されるからです。私が持つ人生の最終目標はこれです。私は今は未だ全く至らない者ですが、いつかエノクにならって「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」(創世記5:24)と書かれているように、私も生きたままで主と共に歩いて天に取られたいのです。

天の父は私たちに必要な総てのものを与えて下さいます。それは良いことだけでなく、一見悪いこと、多々の試練も含めてです。私たちが本当に「総て主が下さったもの、甘んじて喜んで受けます。」と思えるようになれば、御言葉にあるように、総てに感謝し、絶えず祈り、総てに喜べるようになります。(1テサロニケ5:16-18)これが「主を見つめて待つ」祈りをお勧めする所以です。

ダビデは詩篇16:11でうたいます。

「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」 (終わり)

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