28 3月
恐れの根を取り除く キャシー・ペルトン 2009年3月28日
恐れの根を取り除く
キャシー・ペルトン
「たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。」詩編27:3
主は私を様々な方法で取り扱ってくださるので 、 その主のなさり方に私はいつも驚嘆させられます。主の愛と導きがなければ 決して行くことはないところに、主は私を連れていかれるので、私はいつも驚くのです。神は最近、また私を取り扱ってくださったのですが、それは私の個人的な危機がきっかけでした。皆さんの中にもおられると思いますが、私の家族も現在の経済危機の中で打撃を受けました。主人のセールスの仕事はなくなり、長男は先月建築関係の仕事を無くしました。そして私の給料も一月の初めからもらえなくなりました。しかし、「成熟したクリスチャン」として私たちは恐れではなく信仰に堅く立っていた、、、と私は思っていました。
初めの2、3ヶ月は、 予期しなかった特別な方法で神が必要を満たしてくださるのを見ながら、私たちはこの「危機」を過ごすことができました。しかし、月日が経つにつれ、貯金も底をつくと(仕事が見つかるあては全くありませんでした)口から出る言葉こそ信仰的であれ、私は恐れによって突き動かされる言動をとるようになりました。勿論、私はそれをあからさまに表さないで、恐れてはいても「落ち着いた」姿勢をとろうとしました。このような状況の中でも忍耐強い主人に対して、 履歴書をもっと多くの会社に出すようにと、「ほんの少しだけ」私は圧力をかけたのです。そして次には、この危機から家族を助けるために彼が出来ること(私の意見では、彼がするべきこと)を何気なくほのめかし始めました。
あなたの恐れは神にとって些細なことではない
この前の土曜日の朝、私が起きると、主人がすばらしい朝食をすでに用意していてくれました。しかし、私はその祝福を感謝して喜ぶどころか、席に着くやいなや、 どのくらい私が提案したことをやったかと彼の問いただしたのです。それに対して主人は何も説明せずに、私を見つめて「私たちは今いい関係にはないようだから、話さないほうがいいだろう。」と言ったのです。
私はショックでした!よくそんな事が言えたものです!私は大切なことを聞いただけじゃないのですか?この危機に家族が責任のある決断ができるように助けようとしただけじゃないでしょうか?
主がその時 直ちに、彼に提案した(実際、私は提案ではなく要求したかったのですが)ときの私の真の 心の動機について語りかけられました。私が彼に提案したのは主の導きに従ったのか、それとも自分の恐れからであったのか、と主が聞かれたのです。勿論、それは恐れからでした。そうでなければ、ほのめかすなどという小細工は必要なかったはずです。主は次に、「あなたがほのめかした提案は、あなたの夫にも私にも些細なことではなかったのです。彼もわたしもあなたが恐れていることを知っています。」
主人と私の結婚生活でずっと大切にして来た二つのことを、私はないがしろにしてしまっていたのです。その一つは、何か行動を起こす前には必ず主からの導きを待つこと、自分たちから決してことを始めないことです。主の知恵を待つだけではなく、主のタイミングも待つのです。二つ目は、お互いを肉だけではなく霊で知ることです。人間関係 は霊と霊とをもって結びたいのです。私の中に起こった恐れのために、私は神の知恵とタイミングを待つのではなく、自分の知恵と自分の時間表によって事を始めようとしてしまったのです。
また、主人は私を「霊によって」知っているので、私の言葉は表面的には正当に聞こえても、私の心の中には恐れとコントロールしようとする思いがあることを主人は感じ取れるということを私は忘れていました。私がほのめかしていた提案は、主人と神にとっては高く鳴り響く警報のようであり、「イエス様が万が一何もしてくれないときのために、とにかく何かしてよ!」と叫んでいたのです。
自分の書いたものから学ぶ
皮肉なことには、先月の私の記事の題が「静まる平安」だったことです。私は人生の嵐の中での平安と信頼について書きました。私が何かを書いたりそれについて教えたりするときは、必ず私自身もそのことを学ばなければならないはめになるのです。真理を話すときは、それを自分が生きねばならないのです。そして私が何かについて書くときは、私がそのテストを受け、その結果それが私の人生の中でも真理になることがよく起こるのです。
私の心の奥深くにはまだ恐れの根があり、それが困難に出遭うと「自分は見捨てられてしまった」という思いを私に与えていることが明瞭になり、神にそれを取り扱っていただく必要があることがわかりました。主にどうすればよいのかを尋ねたところ、主が最初に示してくださったのは、恐れからくる行動をすべて断つということでした。私のすべての人間関係にそれは必要でした。夫、子ども、友人、そして特に主との関係においてそうでした。私にはあと一歩で大人になろうとしている5人のティーンエイジャーがいるので、これはチャレンジでした。
私が子どもたちに した「カウンセリング」も、信仰を土台としていたというよりは、本当はむしろ恐れから出ていたのであり、私はこれからは神からのカウンセリングだけを子どもたちに語らねばならないことを悟りました。私よりももっと彼らを愛しておられるお方に子どもたちを明け渡さねばなりませんでした。
私は、自分が他人をコントロールしようとする者だと思ったことがありません。しかし、私の言動の根が明らかになるにつれてはっきりわかったことは、わたしの心にある恐れというものが、いつも必ずと言ってよいほど人をコントロールし、操ろうとする言動を取らせていると言うことでした。その言い方は他人には「微妙にほのめかす」程度に聞こえるかもしれませんが、神にとっては、また、敵にとってもそれは微妙ではないのです。私たちが宗教的マスクでそれを隠そうとしても、敵は決してごまかされません。
自分のあかりに火をともすな
「見よ。あなたがたはみな、火をともし、燃えさしを身に帯びている。あなたがたは自分たちの火のあかりを持ち、火をつけた燃えさしを持って歩くがよい。このことはわたしの手によってあなたがたに起こり、あなたがたは、苦しみのうちに伏し倒れる。」イザヤ50:11
10年前、私はとても困難な時期を過ごしていました。その時に神は、子ども時代の