15 5月
主の臨在を迎える ビル・ジョンソン 2009年5月15日
主の臨在を迎える
ビル・ジョンソン
私たちの人生に与えられた最大の特権の一つは、神が留まられる者になることを習得することです。勿論、主は既にすべてのボーンアゲインしたクリスチャンの内に住んでおられます。しかし、主はその人たち全員の上に留まってはおられません。そのことは次のような言葉で表現できるかもしれません。
「主が私の内におられるのは私の益のためである。主がわたしの上に留まられるのは、みんなの益のためである。」と。主が私たちの上に留まっておられるとき、特にその影響を大きく受けるのは私たちの回りにいる人たちです。
イエスが水のバプテスマを受けられたときの出来事は、このライフスタイルのお手本となります。
イエスがバプテスマを受けて水からあがられると、天が開け、父なる神が語られました。そして聖霊が鳩のように主の上に下り、留まられました。「またヨハネは証言して言った。『御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。』」(ヨハネ1:32)
もし、実際に本当の鳩が私の肩に留まっていて、その鳩が飛んで行ってしまわないようにするためには、私は一体どのように生活するでしょうか? 一歩一歩いつも鳩のことを念頭において歩くことでしょう。
主の臨在をどのように迎えればよいのかを誠実に学ぼうとするときに、私たちの前には 二つの現実があり、両者は緊張関係にあることを十分理解することが重要です。即ち、主は私たちに御霊を無限に与えてくださったのですが、毎日の生活の中で私たちが享受するものは、私たちの信仰に応じて「はかられて」いるということです。言葉を変えれば、私たちは神の 臨在を無限に受ける可能性が与えられているけれども、主は信頼に値しない人にご自分を委ねることはされないということです。どれだけ御霊を与えられるかは、すべて私たちの出方によって決められるのです。即ち、主は私たちが熱心に守りきる決意があるだけの臨在を私たちに委ねてくださるのです 。
私たちは主が留まられる場所(そこから天の御業が成し遂げられる場所)になるべきです。なぜならば、主がある人に留まられると、その人が行くところはどこででもアトモスフィア(空気、環境、状態)のシフトが実際に起こるからです。
ペテロの影が人びとを癒したことをあなたはどう思われますか?私たちの影というものは、 私たちを上から覆っているものの力を放つのです。主の臨在を迎え(共に過ごす)ことを会得すると、あなたが意図する時に起こるブレイクスルーよりも「たまたま偶然に」(意図しないで)起こるブレイクスルーの方が、もっと頻繁に経験するようになるでしょう。それは毎日すべてのクリスチャンに起こり得ることなのです。
主の臨在を迎えることを学ぶ中で 私たちは多くの葛藤に遭遇しますが、その一つは過去のシーズンで学んだこと自体にあります。驚くべきことに過去に(聖書から)学んだ霊的原則自体が、私たちの上に実際に留まっておられる主の臨在に向かって戦いを挑んでくることがあるのです。私たちは通常意識的に(聖書で学んだ)原則に従って生きていますが、実際には一刻一刻を臨在によって生きることを学ばねばなりません。もしその二つが衝突するならば、臨在は原則に常に勝利します。
一つの例をあげます。人生に対する神の御心を積極的に探し求めることが私の習慣になっていたとします。そして私にとって一番重要な聖書箇所は、マタイ11:12の「…天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」だとしましょう。原則によって生きようとすれば、私は今までに学んできた「激しく攻める信仰」を適応しようとします。しかし、神の臨在は今、ルカ18:17の「子どものように神の国を受け入れる」ことを促しているかもしれません。
もしあなたが原則だけで生きているならば、あなたはその時点やそのシーズンにおいて、 激しく攻める信仰こそが完全に聖書に基礎を置いた正しいものだと推論するでしょう。しかしその推論は聖霊が言われることと一致しないのです。この例では「激しく攻める信仰」と「子どものような信仰」どちらも聖書的です。私たちがあるシーズンやある状況の中でどのような対応すればよいのかを知っておられるのは聖霊だけなのです。
私たちは神がすでに語られたことにしっかりと土台を置かねばなりません。それによって今主が語られていることを見分けていくことができます。存続しつづける信仰を私に与えて下さるのは神の臨在です。それは、「信仰は聞くことにより、聞くことは神の言葉によるからです。」(ローマ10:17)
神の臨在と共に過ごすことを学び、会得することによって、信仰で生きることが自然で普通になる、そのような心の状況がつくり出されてゆくのです。
私たちが、神の留まられる場所になるように決意しようではありませんか。(終わり)
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