WWGM

Walk With God Ministries

29 5月

回復の主 ニック・ビルマン 2009年5月29日


回復の主

ニック・ビルマン


イザヤ55:8−11「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。・・主の御告げ。・・天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」

私たちはしばしば「主のみ言葉はむなしく帰らない」と宣言し、それが成すべき事を必ず成し遂げると想定してしまいます。しかし、 それはその言葉がただ主のところに帰らないだけだ、ということはあり得るでしょうか? ないと思います。何か言葉を発せられてからそれを無効にすることは、神のご性格にはないことだからです。それでは、ある事のために発せられたのにそれを成し遂げなかった神の言葉は、一体どこに行ってしまったのでしょうか?それらを再び手に入れることはできるのでしょうか? 

いこいの水のほとりでのイエスとの出会い

最近のことですが、我が家でのワーシップの時、私は主イエスと出会いました。その時私たちは2時間ほどワーシップをしていましたが、 「いこいの水」という言葉がずっと聞こえ、私は霊の中でおだやかな広い川を見ていました。聖霊に促されて、主が私に見せようとしておられるものを尋ねました。イエスは私をいこいの水のほとりに連れていかれ、「ここで横になりなさい」と言われました。それで私は水際の草の茂みに身を横たえました。そこは秘密の場所のようでした。大変平安で、啓示を受けるにふさわしい親密感のある場所でした。

私はしばらく平安のうちにそこに横たわっていると、主が「あなたは回復されることを望みますか?」と訊かれました。「はい。」と答えると、主は手のひらで水を掬い、私の上にぽとぽとと落とされました。水が私の上に静かに落ちるときに、私はその一滴一滴に言葉が満ちているのが見え、その言葉が何であるかもわかりました。私に水滴が落ちると、私の霊はよみがえり生き生きとしました。

私は主にこの水はどんな風に特別なのか、言葉は何であったのかを尋ねました。主は「穏やかないこいの水はわたしが今までに語ったけれども、まだ仕事を成し遂げていない言葉の貯水池なのだ。」と言われました。

私は、聖書の中で「いこいの水 still waters」という言葉のあるところを調べてみました。
「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」詩編23:1−3

主が私たちの人生のために与えられた言葉や計画の中で、私たちが手に入れなかったものが、どのようにもう一度新しくなり「私たちのたましいを生き返らせる」のかを、主は私に教え始められました。言葉を変えれば、神は私たち一人ひとりのために夢や願いを持っておられますが、私たちがそれを受け取らない時期があるのです。しかし、主の言葉は常に送られた事を成し遂げるのであり、故にそれらの言葉はあなたや私のためにまだ存在しているのです。

回復の証し

主の宣言や約束はただ消えてしまうということはありません。主はそれらを私たちが受け取る用意ができるまで、私たちのためにしまっておいてくださるのです。それは 地面にしみ込んでいた雨がやがて空気中に戻っていくのは、地を潤すという目的を果たしてからであるのと同じです。

このよい例として、私の人生で、 私と兄との間で最近起こったことがあります。1998年に、私たちはトロントでのFresh Wind Youth Conferenceに参加しました。 それは主の臨在にあふれたパワフルな週末となり、私たち兄弟にとってもすばらしいリニューアルの時となりました。その時までの数年、兄は麻薬中毒と戦っており、私との関係もうまく行っていませんでした。しかしながら、そのカンファレンスで、主は私たちの関係を回復し、また、それぞれの内に働いてくださったのがはっきりわかりました。神は兄に力強く触れてくださいました。


私たちは復活節の日曜日に帰宅し、教会に行き、家族を訪れ、そして家に戻って休みました。その日の真夜中に、母が私を呼ぶ叫び声が聞こえました。廊下に走り出ると、母が兄の部屋のベッドに座って兄を抱き、彼の頬をたたいているのが見えました。ベッドの下に注射針が落ちていました。真夜中に主が父を起こされ、兄の様子を見てくるようにと強く促されたのでした。それによって兄を発見でき、救急車が来て病院に兄を運ぶまで、私たちは兄の命をつなぐことができたのです。

それは私にとって大きな打撃でした。しかし、これは神の臨在の中でのパワフルな週末の後で、サタンが全力で兄を攻撃をしたのだということを私は理解しました。その日から、私はトロントでの兄のヴィジョンと記憶を私の胸にしっかりと抱きました。そしてそれから始まった兄の麻薬との戦いの凄まじい日々の間、主はしばしばあの週末のことを思い起こさせてくださったのです。


兄はその後、刑務所に入ったり、麻薬中毒の年月を過ごしましたが、数年前にそういう人生から抜け出しすばらしい女性と結婚しました。しかし、まだ本当に主と共に歩くということではありませんでした。ほんの数週間前、私がつくった最新の「Anthem」というCDを彼にあげました。翌日彼から電話があり、「私もこんな情熱を持ちたい」と言うのです。主が私の心を促されたので、「自分は麻薬中毒者であったから、主がトロントで私にして下さったことはもう全部帳消しになってしまったのだ」という敵の偽りを兄が信じることを止めねばならないと話しました。兄は泣き始め、それから私たちは主のことをもっと話し始めたのです。

その幾晩か後に、私はイエスとの「いこいの水」の出会いをし、主は兄のための言葉とヴィジョンをすべてしまってあることと、そしてこれからの兄の人生でそれをスピードアップされることを示してくださいました。私はこのことを兄に話し、神が彼の人生のために計画されたことはもはや手に入れることはできないという嘘を破り捨てました。それからの数週間の間に、彼はイエスとの深い親密さの中に引き入れられ、現在は主に燃え、ますます主に餓え渇いています。私との関

Post a Comment