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Walk With God Ministries

27 6月

すばらしい驚き  グラハム  クック    6月27日


すばらしい驚き

グラハム クック


イエスが感嘆の叫びをあげられたのは、無心で純粋な心で生きている人に主が出会ったときでした。イエスは「見なさい!」(私たちなら「ワー、すごい!」と言うところです)と数回言われましたが、その一つは主がナタナエルに初めて会ったときでした。彼は後に主の弟子の一人となりました。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」とイエスはヨハネ1:47で叫ばれました。
イエスはナタナエルの内に何を見られたのでしょうか?主は偽りのない人を見られたのです。主はナタナエルの純心さを見てそれを愛されました。


純粋さは私たちが生まれたときに持っていたものですが、人生の経験を重ねるにしたがって少しずつ失っていきます。「苦い経験」と私たちが呼ぶものを一回するたびに、私たちは純粋さを少しずつ無くしていきます。霊的考え方や物の見方は、私たちが 用心深くなり、うんざりして、不信になり、疑い深くなるにつれてしぼんで来てしまいます。そして更に苦い経験をすると、私たちの「感嘆」という感覚の上にはもう一重ほこりがかぶさってしまうのです。やがて時が過ぎて行き、私たちは自分が純粋かどうかもわからなくなってしまうのです。そして私たちは回りの人たちの悪いところだけをみるようになります。

ナタナエルの内にある純粋さを見てそれを愛されたイエスは、また、イスカリオテのユダが近くにくるのを許されました。イエスご自身の神というお方への新鮮な感嘆の感覚が、イエスがご自分に正直であることや愛しにくい人をも愛すことを可能にしたのです。主は罪人の友となられましたが、罪人によって汚されることは決してありませんでした。

純粋さは常に攻撃にさらされています。しかし、「純粋さ」は私たちが他人に何かされはしないかと心配するのではなく、自分がどう言う人になりたいかを考えるのです。私たちは自分の心を清く保つことに努めると同時に 、不道徳で不謹慎な人びとに注意するのです。

私たちの感嘆の感覚をコントロールするのは自分です。イエスはこのことをマルコ7:6で語っておられます。
主は偽善を次のように定義しておられます。「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。」
 私たちの心が苦々しく、かたくなで、無感覚になり、皮肉で、疑い深く、嘲笑的で、軽蔑的で、悲観的で、不信で、あざけるようであるときには、私たちは自分自身を傷つけます。これらは純粋さを腐食させていきます。自分自身の純粋さを傷つける度合いは、他人を傷つけるようにもずっと大きいのです。純粋さを失うことは、神の御霊を悲しませます。他人や状況から自分を守ろうとするときに、私たちはもっとかたくなになります。私たちは傷つけられると、次のように聖くない誓いをしてしまうのです。「もう絶対こんな目にあうようなことはしない。」と。そして他人や何かから傷を受けることのないように、直ちに自分の心をまわりから断絶して守ろうとするのです。

ルカ9:46−48にあるように、イエスは常に人びとが何を感じているかを知っておられました。

「さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。しかし、イエスは、彼らの心の中の考えを知っておられて、ひとりの子どもの手を取り、自分のそばに立たせて、彼らに言われた。『だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。』

私たちは子どものように無邪気で純粋にならなければ、神が見せようとしておられるすばらしい不思議を見る事はできません。イエスは私たちがプライドと自己防御をすてて、真の霊的生活をすることを望んでおられます。(終わり)

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