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Walk With God Ministries

18 7月

悲しみ、けれど勝利 グラハム・クック  7月18日


悲しみ、けれど勝利

グラハム/クック 


それはいつもと変らない土曜日のことでした。ランチを食べながらラグビーの試合でニュージーランドがフランスをやっつけるのを見ていたとき、私の携帯電話が鳴り悲劇の知らせが入ってきたのです。ミニストリーのチームリーダーであり親しい友人であるデイヴィッド・クローンのお嬢さんであるエイミーが、心臓発作で死んだというのです。

妻のテレサと私が病院に駆けつけ、救急室にいるエイミーの家族と友人たちに会いました。 ブリリアントブックハウスという私の出版社で働いている娘のソフィーと友人のケリーもやってきて、泣きながらハグしていました。みんな打ちのめされました。非常に愉快で、創造的で、パーティーを盛り上げ、二人の子どもの母親でもあるあのエイミーが死んでしまったって?

私はエイミーが横たわっている部屋にそっと入りました。母親のデボラはベッドに伏して泣いていました。父親のデイヴィッドはエイミーの足もとに座ってうな垂れていました。親しい友人であるマークとタミーが二人を慰め支えていました。検死官が来て死体を運びだすまで、私たちはハグし、祈ったり慰めたりしていました。

それから、デイヴィッドとデボラは病室から弱々しく出て来て、みんなにお礼を言いハグしました。私はデイヴィッドが「何か必要なものはないですか?何かお手伝いしましょうか?」というのではないかと一瞬思ってしまいました。というのは、彼は会うと最後にそう訊くのが常だったからです。二人が手をつないで駐車場を横切って行く姿を見るのは胸のつぶれる思いでした。

それから少しして、私の携帯が鳴りました。「一緒にエイミーの復活のために祈って欲しい」というデイヴィッドからの電話でした。勿論ですよ、祈りましょう、、、実際になんと言ったかは覚えていませんが、この時ほど死に対して戦いたいと感じたことは今までありませんでした。その晩、ボブ/ブック夫妻と私たち夫婦は、翌朝のミッションでの集会を計画しました。

クローン家の人たちは彼らの家で集まり、そこで戦いをすることになっていました。遺族が戦いの場の出てくると人びとが集中できなかったり、悲しみやショックを与えるかもしれないという配慮からでした。この戦いの知らせは世界中に発信されました。親しい友であるレディングにあるベテル教会のビル/ジョンソン夫妻もデイヴィッドとデボラへの愛のためにすべてを置いてこれを優先してくれました。アメリカや多くの国々の人たちが一つになって祈ったのです。

翌朝、ミッションでもたれたその集会はずっと長く私の記憶に残ることでしょう。一致の霊がこのような熱心さと喜びをもって顕わされたのを私は見たことがありません。ワーシップは本当にすごいものでした。それはイエスの素晴らしさをたたえる真実なすばらしいセレブレーションでした。私たちはみな我らの神、主をほめたたえ喜びました。ワーシップの中で人びとは、自分の体験から真理だと知る神の麗しいご性質を喜びたたえました。神の慈しみを完全に信頼していることを表現するものとして、賛美と感謝を捧げたのです。

嘆きの祈り(ラメンテイション)は地上に存在する賛美の中で最高のものです。それは地上特有のものです。天国でそれをまねることはできません。なぜならば天国には涙も悲しみもないからです。嘆きの祈りは天ができない何かを私たちにさせるのです。それは即ち、私たちが苦しみの極みにいるときにさえ主をワーシップすることなのです。

嘆きの祈りは「そうではあっても though」と「しかしやはり yet」を常に伴います。(ハバクク3:17−19、ヨブ13:15参照) 担いきれない悲しみを負い 苦しみの極限の中にいる私たちが、「そうではあっても」「しかしやはり」主をほめたたえるのです。 

主をほめたたえるとは、高揚し、興奮し、大喜びで楽しいという状態でセレブレーションをすることです。しかし、神は私たちに嘆きや重荷を忘れなさいという要求はされません。主はそれを捧げものとしなさいと言っておられるのです。主の偉大さと麗しさの中に嘆きを携えて入っていくのです。それを使うのです。主を喜ぶことが出来ないという正当な理由は、絶対どこにも見つからないのです。嘆きの祈りは、父なる神の慈しみ(愛)の中に私たちを招き入れ、そこで私たちの涙は熱い崇拝の祈りと一つに溶け合い、私たちに先立って苦しみ・悲しまれた主が既に占めておられるその場所にゆくのです。このときまさにワーシップが栄光の領域に入っていきます。

霊的なコミュニティーとして私たちは今、開かれた天の下で生きること、主と同じ姿に造り変えられること、イエスがされたと同じことを行うこと、天から地にむかって生きることを学んでいます。私たちは「天になるごとく地でもなるように」という事を、学び、 訓練を受け、成長しようとしています。まだまだ道は遠いですが、みんな情熱的にリアルなクリスチャニティーを追い求めているのです。

雲のような多くの証人に取り巻かれているというように私は感じました。ある時点で、私たちの賛美は天を突き通しました。何百人もが喜びながら、一つの心、一つの思い、一つの声と霊をもっていました。ワーシップが一段と高まり、私たちは天の賛美と合流したのです。その歌声は本当にものすごいものでした。その日はバンドのメンバーの半分は旅行中だったので、バンドの演奏はしないことになっていました。ですからその時いたのは、ギターのボブとピアノのバイロン、ジェンベのネドだけでした。しかし、突然私たちは全員、聞いたことのない音楽を聞いたのです。それはほんのつかの間の間で消えていきましたが、私たちはあっけに取られ、びっくり仰天し、そしてもっと広い心を与えられてそこに立っていました。

私が手短かにヨハネ11章とマルコ5章から話しました。ラザロとヤイロの娘の話です。イエスは人の死を、そこから覚めることのできる眠りとして話されました。私たちのミッションでは神が私たちのためにどのようなお方であられるか、また何がお出来になるかを全面的にすべて信じています。主の慈しみを喜び、主の力と御心を信じる信仰に堅く立っています。荒廃と退廃と絶望の中で苦しむ世界に、神の慈しみと憐れみを持ち運ぶことを学んでいます。私たちの願いは奇跡、しるし、不思議をもってこの地に天をもたらすことです。命の主の権威を持ちたいのです。ですから私たちはどんな状況の中にあっても喜びをもって戦うことを選びとっているのです。

私たちは一つ心で 祈りました。声を一つにして命に戻るようにと命じました。丁度父の日だったのですが、それは何とふさわしい日だったことでしょう。それからの数日、私たちは小さなグループごとに復活の力を信じる喜びの宣言を続けたのでした。

エイミーは私たちのもとへは戻ってきませんでした。かわいくて、楽しいことが好きで、みんなを笑わすのが好きで、宗教的でない(教会中心の宗教的なキリスト教を嫌っていました)エイミーは、喜びに満ちあふれた素晴らしい天から戻ってはこなかったのです。

葬儀は型破りでした。全くクローン家らしいもので、預言的先駆者的スピリットの傑作とも言うべきものでした。教会での記念礼拝はありませんでした。(エイミーはそんなものはきっと嫌だったでしょう。)そのかわりに家族友人が少数墓地に集まりました。普段の服装で、という指示をみんな受けていたので、ジーンズや明るい色の服装が多く、フォーマルな装いの人はいませんでした。大きなリモジンが二台が到着し、そこからクローン家の人たちが出てきました。 バグパイパーがアメイジンググレイスを吹く中、彼らは車のトランクからクーラーを二つ取り出しました。

私たちはエイミーの棺の回りに集まり、デイヴィッドとデボラがエイミーの人生を感動をもって語りました。人びとが次々にエイミーの思い出を語り、みんなは笑ったり泣いたりしました。エイミーの神への情熱は、人生にどんなに辛いことが起こっても失われることはなかったのです。みんなは大声で笑ったり、同時に涙を拭いたりしていました。一人ひとりにピンクの花が渡され、棺の上にそれを置いて最後のお別れをしました。

クーラーからシャンペンとサイダーが取り出され、誠実で、独立心があり、自由な精神をもったエイミーのために、みんなで乾杯をしました。(彼女が今ダビデ王に、主の前で踊る本当のやり方を教えていることは間違いないところです。)ビル/ジョンソンが、人の死を正しく悼むことの重要さについて短い、しかし感動的な話をしました。それは心に中に喜びと悲しみの両方を自由に働かせることが大切であり、どちらかを抑えるのは害になること、けれども一日の終わりには常に喜びが勝つようにするということでした。彼はまた、神に対して私たちが真実であり続けるように、そしていのちのために常に戦うようにという励ましを与えてくれました。 アーメンです。

翌日私は中心的なリーダーであるボブ/ブックスとダン/マコラムと共に、デイヴィドとデボラに会い、次の日曜の集会について話し合いました。私たちは又笑ったり泣いたり、おいしいクッキーを食べたりしました。

日曜日の礼拝は満員でした。エイミーの人生を祝うために世界中から人びとが集まりました。それは感動的であり、また、楽しさ、悲しさ、素晴らしさを混ぜ合わせたものでした。大いなる喜び、大いなる家族、大いなるコミュティー、大いなる一致。

私たちは復活を勝ち取ることはできませんでした。それは私たちが信じるものから一歩敗退したことでしょうか? もうリスクはとらずに最大限の安全圏に留まるほうが賢明ということでしょうか? それとも一段進んで「御国が来ること、御こころがなること」を見る決意を新たにする時なのでしょうか?

私たちこそがその信念を決して失わせないのです。 私たちは、イエスと常に共にいることによって敵を倦み疲れさせる計画を持っているのです。 決して絶えることのないリアルな神の御国に対する私たちの喜びと情熱は、ついには敵を疲労困憊させるのです。神がエイミーを取り去られたのではありません。 彼女は敵に盗み取られたのであり、私たちはその代価を敵に支払わせるのです。

私たちの信仰宣言はダニエル3:13−18に書かれています。バビロンに連れていかれた3人が、王の金の像を拝まなければ酷い死を遂げると言われた話です。彼らの返答は正面からの宣言でした。
「私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」

これは自分たちの決意を予め表した言葉です。彼らは王の前に出る前に自分たちの決意がどのような結果をもたらすかを知っていました。どのような代価を払うことになっても、彼らは自分たちの信念を崩すことはありませんでした。彼らがヘブル人であるという心からの全面的な表明でした。

私たちのコミュニティーは、この悲劇を通して一つとされ、どのように進んでいくべきかを定められました。私たちは新しい地へと呼びい出され、霊的に引き上げられたのです。これから私たちは次のことを求めていきます。

地上の天国
主と同じ姿に造り変えられること、
イエスがされたと同じことを行うこと
さらに大きなわざを行う

私たちは神の栄光を求め続けます。神の御性質、愛、憐れみ、恵み、親切、喜びを抱きしめ受け取ります。人生を神の慈しみの目で見ることを選びとります。復活、癒し、奇跡、力、豊かさを私たちが見るところとなり、しっかりと捕まえ、それが日常茶飯事となるまで追い求めます。

今私たちは一つのコミュニティーとして定義されるための新しい決意を形作るプロセスを通っているのです。もう引き返すことはありません。(終わり)


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