19 01月
2014年への預言のことば -天に新しい門が開かれる-
ダグ・アディソン
2014年、神は天の領域へと導く新しい門を開かれます。それはより深い啓示とより大きな力に入ることの出来る門です。今年は新しいシーズンに入る最初の年で、今までの数年間神の御国が経験してきた霊的に渇ききった季節が終わります。あなたの霊的賜物、夢、ビジョン、スーパーナチュナルな遭遇が増すことが期待されます。今年はあなたが新しいレベルに引き上げられる機会が開かれ、あなたが今までにやって来たことの成果が見え始めるでしょう。
以上の幻の後に私がよく見ると、目の前に一つのドアーが開かれていました。そして、最初に聞いた声がラッパのような声で「ここに上がって来なさい。この後必ず起る事をあなたに示そう。」と言うのが聞こえました。(黙示4:1参照)
神の三つの動き
これからの数年にわたって神は段階的に事を起こされますが、最初の段階である新しい神の動きを私たちは見始めるでしょう。今年、神は2008年から始まった霊的旱魃を終らせます。私は夢を見ました。その中で、御使いが私に現われ「(霊的)湿度計は今8を指しており、8と言う数字は新しい始まりを意味する。」と言いました。
「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。」イザヤ44:3
新しい神の動きの第一段階は、疲れた者の元気を回復させる時を用意することです。この時期にあなたは幾つかの小さな霊的刷新mini-renewals を経験するでしょう。それは主の臨在とあなたが与えられている賜物においてです。期待が長びき心が病んだ状態にある多くの人々は回復のエネルギーを充電される必要があるからです。
神の動きの第二段階は、神を求めている人々に神が用意されたすべてのものを、その人々の上に聖霊の新しい雨として降らすことです。この動きによって起ることは非常に奇異に見えます。それはあらゆるタイプの人たちが神に引き寄せられ始めるからです。その動きの最中に一つの新しい世代が生まれ、その人たちは神の愛と力、包容力に目覚めていきます。
更に次の段階では、私たちが今までに経験したことのないような神の力がもたらされます。新しいレベルの神の炎のような臨在と癒しがあらわれます。これは新たな癒しのムーブメントの出発で、奇跡、しるしと不思議、深い啓示が伴います。
2009年に対する預言のことば
神が2009年に私に与えられた預言の多くは、翌年2010年に成就されるはずのものでしたが、実際には今まで延期されていたことを神は示されました。そこで私は自分の日記を調べてみると、確かにその通りであり、それらの多くの預言が今実現されていることを知りました。ですからあなたも、私が2009年当時に受けた預言を調べて見て、今これからそれらの預言が、あなたの上により大きなレベルで成就することを期待し受け取って下さい。
人を非難する代わりに和解しなさい
過去数年間、人を責める悪霊が教会を支配して来たために、教会は霊的に不健康な状態になっています。ある問題が起きた時、私たちがそれを解決することを求めるよりも相手を非難してしまうとすれば、神がその人に持っておられる計画と目的を理解せずにその人が悪い人であることを(悪霊に同意するかのように)決め付け、認めてしまうことになるのです。サタンに付けられた名前の一つは黙示録12:10にある「信者の告発者」です。私たちは他人を非難するのではなくてその人を建て上げるように充分注意する必要があります。神は否定的な鋭い非難とか告発を相殺して余りある豊かな和解の霊を解き放っておられるのです。聖書は多くの箇所で、人々を呪うよりも祝福するように語っています。(ロマ書12:14)
「これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちを御自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。」(2コリント5:18)
ハッピー・バースディー
今年は誰もが自分の誕生日に神から新しい贈り物を受けます。これは既に受けている賜物が更に大きく増し加えられるか、又は新しい賜物、例えば、癒し、預言、仕える等を受けるかです。ですから、神からのあなたへの誕生日の贈り物を、より大きな神の臨在と共に受け取る用意をして下さい。あなたは神の臨在が新たに増し加えられるというプレゼントを期待できるのです。
賜物と召しが配分し直される Rearranged
贈り物を与えることの一環として、神は今年、今まで他の人々に与えられていた賜物と召しで用いられてなかったもの、或いは天に召された人たちの賜物と召しの多くを解き放ち、他の人たち-それは自分を高く上げることをせず、プライドのない、へりくだって神を求めている人たち-に与えられるでしょう。神は(神の前で)へりくだって来た人たちを引き上げられるでしょう。その中には自分が引き上げられるなどとは全く予期していなかった人たちがいます。そのような賜物と召しを与えられる人たちは、人生とミニストリーとビジネスにおいて突然、急速に進展します。その反対に、自分の生活やミニストリーにおいて他人を利用して自分が得をして来たような人たちは衰退を経験するでしょう。神の愛はそのような人たちの上にも注がれ続けられるでしょうが、以前に持っていたような優位さは失うでしょう。
イゼベルの霊が明るみに出される
2014年には教会、政府機関、ビジネス全般を通じてイゼベルの霊が明るみに出されます。人々の間に不和分裂を起こし分派させることを常套手段としている人たちがあらわにされます。今まで神の動きに何度も抵抗し阻んで来た人たち、即ち、イゼベルの霊特有の粘着的蝕手を使って組織を操って来た人たちが神によってあらわにされます。
神の新しい今年の課題
神は今年、クリスチャンによって傷付けられ、拒否されて来た人たちに癒しと和解をもたらすと言うことを課題としておられます。残念なことですが、キリスト教によって傷付けられた人たちはかなり多くの数にのぼります。神の愛はすべての人に対して注がれており、私たちはそれを最も必要とする人たちに示さねばなりません。神は霊的に見捨てられた人たちを今御自分に引き寄せようと、あらゆる階層・分野の人たちを地引網で底から救い上げようとしておられるのです。
この神の課題に参加するためには、今まで他人から否定され傷ついた人たちを私たちが無条件で愛し、その人たちと一緒に喜んで歩まねばなりません。霊的に見捨てられた人たちに救いの手を差し出すという神のこの新しい提案に本気で参加する気持ちがあるならば、私たちにはそのための多大な愛とあわれみが要求されます。そうです、刺青のある人、鼻や唇にピヤースしている人、ゾンビや吸血鬼 にはまっている人、ゲイ、レスビアン、ニューエイジに走る人、又クリスチャンの多くが受け入れていない様々な政治政党活動にかかわる人、このような人々の中に入って行くクリスチャンを今神は用意しておられるのです。神は又、女性が社会に出て行ってパワフルに用いられるよう、彼女らに新しい権威のあるポジションを与えつつあります。
金融・財政破たん Financial Ruin から解かれる
5年前にアメリカや世界中の多くの国々が大きな経済的落ち込みを経験しました。2008年の9月はアメリカ史上、破産する会社の数が最も多かった月の一つに達しました。そのどん低から私たちは今、5年間の回復を見ようとしています。この間に損害を蒙った人々に対して神は回復の機会を与え、失ったすべての損失を取り戻すようにされます。又、御国の経済作戦が天から解き放たれ、その戦術に聞き従う人たちは劇的な回復を経験するでしょう。
非常に重要なことは、アメリカの経済破綻は避けられないとか、アメリカはもう駄目になるというような否定的な意見を私たちが信じ込まないことです。今こそアクションを起こす時です。それはイサクが創世記26章で経験したことに似ております。地が大飢饉に襲われた時、イサクは神の言われることに耳を傾け、その当時ほとんどの人が取った行動とは違う道を選んだのです。その結果彼は飢饉であるにもかかわらず100倍の収穫を得たことが12節に書かれています。「イサクはその地に種を蒔き、その年に100倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである。」
2014年は神が私たちをあわれまれる年です。他人をないがしろにし彼らを更なる暗闇へと追いやることをせず、他人を愛しその人にあわれみを示す人を神は引き上げあわれんで下さるのです。今は生きているのがうれしくてわくわくするようなすばらしい時です。なぜなら、もしあなたが今までに苦しんで損害を蒙ったのならば、それらの損害や敵の度重なる攻撃に対して今、神がそれを充分に償って下さる時であるからです。あなたがしなくてはならないことは、すべて神に聞き、それに応え従うことです。あなたの前に開かれる新しい黄金の門(複数)を通って歩いて下さい。
今年はブレーク・スルーの年であり、回復に向かって方向転換する年です。どうぞ神の豊かな祝福を受け、あらゆる必要な賜物をいただいて、今年を主にある成功の年として下さい。(終り)
13 01月
「2014年は詩篇67の年」と主は言われる
ボブ・ハートレー (記述者: マイケル・サリバン)
この数週間にわたって私は一連の「主の訪れ」を経験しました。それを通して神が示して下さったことは、第一にまず神は私たちに対して熱烈な愛と期待(希望)を持っておられることでした。そして、その神の情熱を具体的に実現する御計画を実行する時がいよいよ来たことを示されました。その御計画は、イザヤ42:13に次のように書かれています。
「 主は、勇士のように出で立ち/戦士のように熱情を奮い起こし/叫びをあげ、鬨の声をあげ、敵を圧倒される。」【新共同訳】
それは過去において私たち神の子どもたちが経験して来た「みじめなクリスチャニテイー」を「希望に満ちたクリスチャニティー」に置き換えることを実践することです。そのために神はこれから5千万人の「希望の変革者”Hope Reformers”」を立て上げて、世界中の国と都市のあらゆる生活環境に送り込み、大いなる神の御国の祝福を実際に具現化して行くとおっしゃるのです。
すなわち具体的に、主はこう言われました。「あなたたちは今までのクリスチャンとしての歩みと考え方を捨てなさい。そしてもう一度よくわたしを見上げなさい。」
「今まであなたたちが経験して来た『敗北する、みじめなクリスチャン信仰 a retreating, misery Christianity 』から『主の熱烈な愛と希望に満たされ、あなたが主によって根本的に造りかえられるクリスチャン信仰 reforming Christianity』に変わる時が来たのです。」
そう言われた後で、主は「今年2014年は詩篇67の年である。」と言われました。
そこで先ず詩篇67を見てみます。
「1 どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。 セラ 2 それは、あなたの道が地の上に、あなたの御救いがすべての国々の間に知られるためです。3 神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。4 国民が喜び、また、喜び歌いますように。それはあなたが公正をもって国々の民をさばかれ、地の国民を導かれるからです。 セラ 5 神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。6 地はその産物を出しました。神、私たちの神が、私たちを祝福してくださいますように。7 神が私たちを祝福してくださって、地の果て果てが、ことごとく神を恐れますように。」
それに続いて主は「詩篇67とは五番目の状景である」と言われました。その意味を私が思い巡らしていると、すかさず聖霊が私を昔体験した時の状況の場面につれて行かれました。それは1982年の一月に、救われたばかりの私が初めて天に挙げられると言うドラマティックな体験をした時のことです。その時私が見せられたのは地上で起っている四つの違った状景のビジョンでした。それは嘆き、悲劇、絶望、死と言う四つが、それぞれに満ちている状景でした。私は神によって見せられたこの四つのシーンによって心が引き裂かれ、それが大きな悩みとなって来ました。しかし、今回私は、それに加えるべき五つ目の状景を見たのです。
最初の四つの状景もリアルでしたが、五つ目の状景はより一層の現実感がありました。私はイザヤが見たように―と言ってもその時の私はイザヤ書を読んでいなかったのですが―高く上げられた主を見たのです。万能の主は天より高く、その栄光の輝きは見ている私を形容できないような圧倒的臨在感で満たしました。主は本当に喜びに満たされ、心から祝い、そうです、腹の底から笑っておられました。
私はこの五つ目の状景と最初に見た四つの状景があまりにも対照的なのでひどく困惑し、主に「あなたが見せて下さったあのひどい悪に満ちた人間の苦しみの状景は一体何なのですか。」と訊ねました。すると、小さな黒い点が私の見ていたビジョンの左下のコーナーから現れました。その点は右上に浮き上がるかのように移動してやがて急に消えてしまいました。すると主は権威をもって「あの黒点は今までに存在して来たすべての悪の存在evil being とその活動の歴史のすべてを代表するものである。しかし『わたし Who I Am 』の圧倒的な存在に比べれば、それは全く一時的に浮遊して通り過ぎるに過ぎないちっぽけな黒点でしかないのです。」と言われました。
主は今年から、私たちそれぞれ個人の霊的成熟の目標に合わせた主の御計画に沿って、段階的に主の御性質の色々な面を見せて下さり、私たちをそれぞれ個人的に教え導き、助けて下さるとおっしゃいます。そして詩篇121:1-8を示されました。
「1 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。2 私の助けは、天地を造られた主から来る。
3 主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。4 見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。5 主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。6 昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。
7 主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。
8 主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。」
主は言われました。「あなたがたが希望と愛をもってどのように戦えばよいかを教えましょう。」「わたしに聞きなさい。『もしわたしに仕える者が、唯シンプルに最後まで希望と愛にだけ焦点を合わせて生きるとすればこの世の中がどのようになるでしょうか。』と。」「喜びと愛と、希望とわたしと共に冒険する心を持ってわたしに着いて来なさい。」(終り)
訳者注:上記の文章はボブ・ハートレイ師が主から与えられた預言の一部を要約したものです。ハートレイ師はアメリカのミズーリ州カンサスシティーにある Hartley Institute/Deeper Waters Ministry の代表者で、過去にマイク・ビクル師の Metro Christian Fellowship で牧師の一人として働き、後に独自のマーケットプレイス・ミニストリーを設立して、その分野で現在広く活躍しておられます。
08 01月
2014年 明けましておめでとうございます
いつも御愛読いただいている皆様へ、先ずは遅ればせながら、私たちWalk With God Ministries 一同より、謹んで新年の御挨拶を申し上げます。
私たちは今年と来年の二年間を教会が霊的に成熟・完成する途上で、未だかって無かったほど重要な年になると言う認識を持っております。その二年間の年頭に当たって、今まで以上に私たちのインターネット・ミニストリーをより充実した内容にするべく努力させていただくつもりでおりますので、どうぞよろしく御指導・御支援賜りますようお願い致します。
さて、昨年秋からこの年始にかけて、アメリカにおいては、例年に比べてより多くの霊的指導者が続々と新しい年に対する預言と抱負を語っておられるように見受けますが、本年度最初の預言としてモーニングスター・ミニストリー主幹であるリック・ジョイナー師のメッセージを下記のようにお伝え致します。どうぞ本年も宜しくお願い申し上げます。
坂 達 也・柚実子
2014年はローラーコースターのような年
リック・ジョイナー
今年はどんな年になるかを祈り求めた時に示されたのはローラーコースター(ジェット・コースター)のビジョンでした。その意味は、今年は上昇する時と下降する時があると言うことです。それなら預言者でなくても誰にでも予想のつくことであることは明らかです。しかし、励まされたことは、そのローラーコースターに乗った私たちが年の終りに最も高い地点に到達して終わったことでした。すなわち、今年は高い地点に上げられる年であると言うことです。ですから急降下の時が何回か来ても、決してそれに失望しないで下さい。たとえ急速な下降線をたどる時でも、しっかりとつかまっていて下さい。必ず上昇しますから。
数ヶ月前にボブ・ジョーンズ師が、この冬は非常に厳しいハードな冬になるだろうと言っていましたが、現に今そうなっています。この文章を書いている私の住む南カロライナ州の自宅の屋外の気温が今摂氏零下13度です。未だかってこんなに寒くなった時は私の記憶にはありません。しかし、すばらしいことはどんなに厳寒な冬であっても必ず春が来ることです。
私が見たローラーコースターは、次の山と谷を越えるのはとても無理だと思われるほど激しく脱線寸前のような揺れ方で激動していました。しかし、乗客を乗せた乗り物はばらばらに分解することなく終着駅に無事到着しました。私はローラーコースターに乗るのは好きですが、こんな激しく揺れるコースターには乗りたいとは思いませんでした。
しかし乗っている私たちには乗らないで済むと言う選択の余地はないのです。この世で今最も強固なシステムを持っていると誇る組織でも、後一日持ち堪えられるかどうかが分からないほど揺れ動いている状態です。それが持ち堪えているのは、ひとえに、神が今の世界を私たちのために支えていて下さっているからです。その意味で本当に私たちは今祈りを止める訳にはいかない状態にあるのです。
私の見たビジョンでは、ローラーコースターの終点に一つのプラットホームがありました。それは一見揺れ動くコースターと変わりないほど不安定に思えましたが、私たちがコースターからそのプラットホームに降りて歩いて行けば行くほど強く安定したものになって行きました。ホームの反対側には一連の美しく輝いた列車が停まっていて、私たちはそれに乗り込みました。それは私が今まで見た中で最も美しく、又最もよく整備された列車でした。
しかしながら、私たちを乗せて動き出したその列車がプラットホームを離れると間も無く、長くて暗いトンネルに入りました。そのトンネルは長くて出口が見えませんでしたが、登り坂になっており、この列車は非常に力のある山岳を登る列車であることが分かりました。私たちは暗いトンネルをどんどん登っており、最初しばらく慣れるまでは少しびくびくするような気持ちでした。これが私が見たビジョンの終りでした。
夢とかビジョンでは、列車(トレーン)はしばしばトレーニング(訓練)を意味します。私たちは、今は未だ古くて激しく揺れるローラーコースターに乗っている状態であるかもしれませんが、私たちを乗せて走っている乗り物は、私たちが到達すべきところに連れて行くためのトレーニングをする列車であるのです。それはエペソ4章-「聖徒たちを整えて奉仕のための働きをさせる」(4:12)と言うみ言葉を物語っています。私たちが長くて暗いトンネルを通って行く間どこに連れて行かれているのか見えませんが、とにかく登っているのです。この列車が私たちが到達しなければならないところに運んで行ってくれるのです。
それは、あなたはどこをどう歩くかは分からなくても、あなたの求めているものは知っていると言う「信仰の歩み」に似ています。それは、信仰の歩みを歩き始めたアブラハムと同じです。彼はどこに行くのかは分からなくても、人間ではなく「神が建設している都市」を目指していました。
人間が建たてた都市でも感銘させるようなよい印象を与えるものもあるかもしれません。しかし、一度神が建てている都市のすばらしさを見たなら、人間が建てている都市は全く比較にもならないのです。神が建てているものを見るには神の啓示、黙示が必要です。ヨハネは高い山の頂に連れて行かれるまではバビロンを見ていました。しかし山の頂で新しいエルサレムNew Jerusalemを見たのです。それはアブラハムが見た都市でした。その都市は未だに建設中です。その建設途上にあるものに属することが私たちにとって最も高い召し(calling)なのです。 あなたはそれが見えているでしょうか。
聖書の黙示録で分かるように。新しいエルサレム New Jerusalem とはキリストの花嫁です。ダン・ポッター師が最近話していましたが、婚礼の式が始まる数分前までは、キリストの花嫁ともあろう人たちが信じられないほど取り乱していることがあり得るのです。しかし、その最後の数分の間に、花嫁としてのすべてが整い、瞬く間に全く美しくて完全な姿に変えられる、それはまるで大変な奇跡を見ることであるかもしれないのです。私たちは今は最後の最後まで、無様な姿でしかないかもしれませんが、最後の瞬間には奇跡的に「しみもしわもない」姿に整うように神がして下さるかもしれないのです。ですから決して諦めないで下さい。(終り)
30 12月
主にクリスチャンとしてのあなたの意志をいつも伝えなさい
グラハム・クック
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ピリピ2:12-16
「・・・恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。13 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。
14 すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。15 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、2:16 いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」
あなたが持っているものの中で最も力のあるものの一つはあなたの意志です。あなたが霊的に生きるために、事を進めて行くのはあなたの意志であって、感情とか、マインド(魂の部分)とか信仰ではありません。神は私たちの内にいて志を立てさせ、事を行なわせます。(上記2:13)
あなたの意志は完全に感情とは切り離して存在すべきものです。聖書の中に出て来る偉大な神の人たちは皆、自分の「意志」をどのように使うかをよく知っている人たちです。その例を挙げれば、ナタナエルがそうです。(ヨハネ1:45-50参照)彼にあっては意志が感情より大きいことが分かります。神は私たちの内にいて志を立てさせ、事を行なわせて下さいますが、私たちは自分の感情を全く切り離して、完全に自由な意志を持つ必要があるのです。そしてあなたの意志が強くなれば、あなたの意志が感情を用います。例えば主を礼拝する感情を起こさせるのはあなたの意志です。重要なことは、その逆ではないと言うことです。
ところが、私たちは感情に支配されやすく、その気にならないとか、あるいはそのような気分(感情)でない時には、意志があっても、それを実行に移さないことがよくあります。気分がとても悪い時などは、その感情に全く支配されてしまいます。しかし、神が来られてあなたの意志を完全に自由にして下さると、自分の感情とかムードに左右されずに、私たちが信仰で神の御心を知り、それを行うことを選べるようにして下さいます。ですから、私たちは自分の意志を聖霊にどのように言い表すかを学ぶ必要があるのです。
そこで毎日の生活の中で、あなたは神の御心にそって自分がしたいと思うこと(クリスチャンとして常に持つべき意志)を自分の意志として聖霊にお伺いする(提案する)と、聖霊がそのあなたの意志を御心に添って、実際に事が運べるようにして下さいます。
聖霊に申し上げると、時には一瞬のうちに自分が捕らわれている感情を払拭して下さいます。「私は主をいつもほめたたえ祝福したい、いつも喜んでいたい、いつも感謝したい(そんな気持ちが全くしない時でも)」というあなたの「意志」が実行できるようにあなたをネガティブな感情から開放して下さるのです。
ですから、私たちは毎日を過ごす時に次のような選択をしなければなりません。すなわち、あなたの意志が毎日、いつでも感情に捕らわれていないフリーな状態であることを選ぶのです。それはちょうどイエスが、その選択をして毎日を生きられた通りです。その秘訣は、神の御心であると信じるあなたのしたいことを、神にいつもお話しすることです。そうすればあなたの意志であるあなたの霊的活動―主を礼拝し、人に証をし、又すべてを祈り、霊の戦いに臨ませること―を聖霊がさせて下さるのです。それは自分がそうしたくないような気分の日にでも「父よ、どうか気のすすまない自分を喜んでしたい気持ちにならせて下さい。」と祈るのです。そうお願いすれば、直ぐにでもそのようにして下さいます。
ですから私たちは常に、自分が御心を行いたいと言う気持ちと意志を(それは神がどう言う方であるかと言う信仰に基づいて)コンスタントに主に訴え、打ち分け、親しく話すことが非常に重要であるのです。そうすることによって、主があなたに働いて御心を行なう気持ちにならせ、あなたの感情を変え、信仰を強めて下さり、すべてが御心のままに実行出来るようにして下さいます。最も重要なポイントは、「神がすべて私たちが実行できるように事を運んで下さる」ことです。(終り)
-Approaching the Heart of Prophecyより-
17 12月
愛について
坂 達 也
聖書全体を通じて一番大切な「神からの命令」あるいは「戒め」は何かと言えば、それは「神を愛する」ことではないでしょうか。申命記6:5に「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」と書かれています。しかし、イエスご自身が来られて、その戒めにさらにもう一つの戒めを加えて、最も大切な「二つの戒め」とされました。マタイ22:37-40にそれが次のように書かれています。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。 律法全体と預言者とが(これをもって聖書全体を指す)、この二つの戒めにかかっているのです。」これは神と愛に関する、驚くべきほど究極的なステートメントであると信じます。それでは一体、愛とは具体的に何なのでしょうか。
愛とは何か
愛の定義は色々言われておりますが、私たちにとって最も関心があるのは聖書が何と言っているかであると思います。そこで真っ先に思い浮かぶのは1ヨハネ4:7−8です。
「 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」
このみ言葉によって「愛は神から出ている」ことと「神は愛である」ことが分ります。すなわち愛とは神ご自身であり、神のみが愛の源です。私たちがイエス・キリストを信じて以来、私たちの内におられる聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれています。(ロマ書5:5)上記のみ言葉でもう一つ重要なポイントは「神を知っています。」ではないかと思います。私たちは神に対し心からの愛があるなら、必然的に神を親密に知る関係に入らずにはおられないはずです。
しかし神を愛するとは、単に心からの愛情とか情愛のリレーションシップを持つことだけではなく「神の律法全体を守ること」が切っても切れない愛の一部であることをクリスチャンははっきり認識する必要があります。そこがこの世一般の愛のコンセプトと異なると私は思います。そのことが下記のみ言葉にあらわれています。
「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」(ヨハネ 14:15)「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ 15:10)
私たちは、イエスご自身がなさったこと、即ち、律法全体を成就されたこと、そしてそのためにこの世に来られたこと(マタイ5:17-19)を、同じように成し遂げることが私たちの最終目標であり、それが父なる神に対する私たちの愛であるのです。それを可能にする唯一の方法は、イエスが「父の愛の中にとどまっている」ように、私たちも「主イエスの中にとどまり、イエスが私たちの中にとどまる」ことであると思います。
以上のことを次のみ言葉がまとめてくれます。「愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。」(2ヨハネ 1:6)
第二の戒め
又、愛の使徒と呼ばれるヨハネは何よりも「私たちが互いに愛し合うこと」を繰り返し強調しました。
私たちは、神を愛すること(第一の戒め)に関しては、イエスを信じてクリスチャンになり、曲がりなりにも教会に集っている限り、その信仰の程度は別にして、基本的に神を愛していることを周りが認めてくれますから特に問題にはなりません。なぜなら神が霊的存在で、その人と神との直接の係わり合いが肉的によく「見えない」「聞こえない」からです。ところが「第二の戒め」となるとそうは行きません。周りの人にはその人が隣人とか兄弟をどのように愛しているかが一目瞭然ですから、直ぐ批判の対象になります。正直に言って、「自己中心」から抜け切れない私たちにとって、この「他人を愛する」こと程難しいことはこの世の中で他にはないと思います。その他人への愛の実践 love in action がいかに難しいかを自らの経験を通して克服した人の一人は使徒パウロであると思います。そのパウロが書いた「愛」の章と言われる1コリント13章をこれから御一緒に読んでみたいと思います。分り易くするために、この章全体を三つに分けてみます。
1コリ13:1-13
1-3節「1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」
そこで先ず、最初の1-4節で気が付くことは、パウロ自身が「異言の賜物」を誰よりも用いたオーソリティーであることです。又、「預言の賜物」についても権威者の一人ですし、彼こそ聖書の「奥義と知識」に最も長けた使徒であると私は信じます。「完全な信仰」についてもそれが言えます。加えてパウロは「自分の持ち物すべてを与えた」人であり、「自らをいけにえとして差し出す=自らの十字架を担いで主の後を追った」人であることでも誰にもひけを取りません。その彼が「そのようなこと(6つの例を挙げ)をいくらしても、もし『愛がないなら』それらの行為は『何の値打ちもない』」と断言しているのですから、これを読んで驚嘆しない人はいないと思います。
特にクリスチャンとして最もうらやましい「山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。」とまで明言するのですから、どれだけ愛が大切であるかがお分かりになると思います。
でも、正直なところ私の場合は、このショッキングな記述を読んだ時に一応の驚きは感じましたが、それ以上の感動とか心が揺さぶられるようなショックを感じないで今まで過ぎて来ました。そして、そんな霊的感覚が麻痺したような自分が、同じ自分の中にいることに気が付いて愕然としたのです。むしろ、その事実の方がより大きなショックでした。「なぜなのか」私は自問しました。又、「あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じる」ことはクリスチャンとしてこの上なくうらやましいことです。私もそれを強く願って来ました。しかし、「愛がなければ」と共に、それが単なる「頭の知識でしかなければ」何の役にも立たないと言うことにも気が付かされました。「なぜ自分はそうなってしまったのか」―その答えは「宗教の霊」にやられて来たからです。私の中には、何と大きなプライドが詰まっているかに気が付いたのです。
自ら「パリサイ人中のパリサイ人であった」と告白するパウロが「あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じている」ことを掲げて、それが本当に主への愛ではなくて、単に自分のための「知識として知っているのであれば全く何の力もない」ことを喝破しているように思えます。それを経験したパウロであるからこそ、2テモテ3:5で「見えるところは敬虔(信心深そう)であっても、その実(力)を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」と言えるのでありましょう。その点私などは、奥義も知識も信仰もあまりなく、ないゆえに「力のない」のは当然でありながら、それを嘆いて来たのは私のプライドからであることに気が付かされました。
又、そのようなパウロであるからこそ、ガラテヤ 5:6で「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰(愛によって働く信仰)こそ大切です。」と言えますし、そんな中を通って苦しんだ結果として、彼は愛の大切さを本当に理解した人になったと信じます。
他人を愛することの難しさ
4-7節「 4愛は寛容(我慢すること)であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、6 不正を喜ばずに真理を喜びます。7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」
さて、この4-7節ですが、ここでもパウロは、驚く程厳しくてリアルな「愛の実像」を描いてくれております。
ここに列記された14の「愛は・・」は、すべて「他人に対する自分の取る態度」が取り扱われていますが、それらは「自己中心」を微塵なりとも許していないことに気が付かされます。他人に対してあくまでも「親切」にし、他人を「ねたまず」人に自分を「自慢せず」「高慢にならない」又、他人に対して「礼儀を欠かず」「自分の利益を求めない」「他人の不正を喜ばずに真理を喜び」「他人を出来る限り信じ」「他人のすべてをよく期待する」―という9つの品性です。そして残りの5つである「忍耐強く寛容で」「すべてを我慢し」「いらだたず」「うらまず」「すべてを(特にどんな迫害とか虐待に会っても)耐え忍ぶ」―ということが真の愛だと言うのです。
ハッキリ言えば、パウロの言っていることは最後の5つだけでなく、14のすべてが「他人を愛するためにはすべての面で忍耐が伴う」の一言に尽きると思います。それは別の言葉で言えば他人の至らなさをすべて赦すこと―それが愛であることを示していないでしょうか。これこそキリストがこの世に生まれてから最後にゴルゴダの丘に到達する間に出会った人たちのあらゆる罪の苦しみを自ら味わった上で、最後に十字架刑と言う極刑の苦しみの中で全人類の罪のために死んで下さった愛ではないでしょうか。
イエスが自らの一生を通して私たちに示されたのが「御霊の実」のすべてであったと思います。それは「愛、喜び、平安、寛容(忍耐)、親切、善意、誠実、柔和、自制」です。この中のどれ一つを取っても厳しく練られた人間としての最高の品性でないものはありません。中でも一番難しいのは他人に対して常に寛容であるための忍耐と自制ではないでしょうか。
長い間主によって「もうしばらく待ちなさい」と言われ続ける中を、希望を失わず、すべてに自制して、じっと耐え忍んで来られたクリスチャンはたくさんおられると思います。しかしそのように何の報いもないと思われるような「高い代価」を払って品性を磨き上げられ、最終的に「キリストの香り」を放つ者となるのがレムナントと呼ばれる人たちではないでしょうか。
これはパウロ自身が通った道であるに違いありません。「・・・すべての人に対して寛容でありなさい。だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい。」と言った後で、パウロは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。御霊を消してはなりません。」と1テサロニケ5:14-19に書いています。そこには本当に自分に死んだ姿しかありません。
そして、これこそがあくまで私たちが霊的にキリストの身丈にまで成熟するための訓練です。そのすべてを私たちに内住される聖霊が愛をもって私たちのために日夜して下さっているのです。特に16節の「いつも喜んでいなさい。」17節の「絶えず祈りなさい。」そして18節にある「すべての事について、感謝しなさい。」こそに、他人を愛するために何事にも「耐え忍ぶ」ことを可能にするパワーが秘められており、それがその「秘訣」であり、聖霊による愛の励ましがあると、私は思います。ボブ・ジョーンズ師が言う珠玉のようなレムナントとはこうして生まれて来るのでしょう。
愛は決して絶えることがない
8-13節「8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。10 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」【新共同訳】
13:8に「愛は決して絶えることがありません。」と書かれています。多くの英語の聖書は love never fails と訳しております。日本語の訳「愛は決して絶えることがない」は確かに正しい訳には違いありませんが、パウロの言わんとする全貌を伝えてはいないと思います。私はそれ以上のもっと強い意味、すなわち、「偉大な神の愛に宿る限り、私たちがするすべての愛による行いは、神の御心通りに運ばれ、常に完全に成功する、必ず成就する」と言う意味であるからです。あるいは「『預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。』しかし『愛があれば』どんなことでも失敗することはない」と言う意味であるとも言えます。
私は「神の愛」を本当に理解するには、神の愛とはこの宇宙に存在する「最高次元」―そこに神が住まれる「神の領域」=それが「愛」の次元=として考えるのが一番ふさわしい説明であるように思います。先回、私は物理学量子論の「超弦理論」が宇宙の仕組み、特に霊の領域の存在(それがあることだけは私たちには分ります)を近い将来科学的に説明出来る可能性があると申し上げましたが、その最高次元がこの神の住まいの次元であると思います。そして、すばらしいことに私たちキリストを愛する者は、将来その次元で主イエス・キリストと共に永遠のいのちで最高の人生を過ごすことが約束されているのです。ですから、私たちがどんな艱難を通されても、それは神がなさっておられるのですから私たちのために必ずよい結果を生み、実ることを知っており、すべての神がなさることに喜び、感謝出来るのです。
13:9-10では、私たちが今経験していることの大部分が不完全で、一時的、あるいは一部分でしかないと言うことが書かれています。それは三次元の世界の話であり、その「この世」の世界は、神が私たちのために具えられた高次元に住むための準備と訓練の場所であるに過ぎないのです。
「9私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分でしかないのです。10 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」と言うみ言葉を通して、今の私たちクリスチャンがどれほど苦労させられ、厳しい忍耐の中を通されていても、それが目的を持った一過性で仮の領域でしかないことを知る時に、私たちは大いに励まされないでしょうか。
そして、この章の最後の言葉が13:13節「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」【新共同訳】で終わっております。
さて次回は、私たちが真に神と愛の関係に入ることを阻止しようとして攻撃してくる悪魔の策略の一つである「宗教の霊」とかその他の悪霊の働きに就いて触れる予定です。(続く)
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