18 11月
2018年秋の日本訪問を終えて(2)
坂 達 也
私たちの真の身分証明書
初めて会う人同士は先ず「あなたはどこの生まれで、今は何をしていて、どこに住んでいるのか」をお互いに紹介し合います。その場合、クリスチャンの私たちはこう答えるべきではないでしょうか。
「私はこの宇宙が造られるずっと以前に、天の父の中から生まれました。そして今はこの地球に送られて来て、キリストの弟子になる猛訓練を受けている最中で、いずれ天に帰ります。私の国籍と現住所は天の父の右座のキリストと同じところに神の家族として住んでいます。」(参考:エペソ1:3−5、ピリピ3:20、エペソ2:19)
つまり私たちは元々「永遠の命を持つ霊と魂を持つ霊の人間」であり、真の「キリストに似た者」になるための「霊的訓練」を受けるために、父がその目的で造った地球という仮の世界に、肉を着せられた人間として送られ、目下猛訓練を受けている最中なのです。肉の世界は、そのための仮の道場に過ぎず、いずれ元の住処の霊の世界に帰って行きます。罪にまみれた肉という稽古着はイエスと共に完全に死んで脱ぎ捨て、イエスと共に天によみがえり、永遠にイエスと共に生きるためにあるもの。天に戻ればそのしるしとして霊の身体が与えられます。ーこれが私たちの真の身分証明ではないでしょうか。
ですから、クリスチャンがいつまでたっても頭(肉)のクリスチャンのままで霊の目覚め、飢え渇きを覚えないなら、主は「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。・・・このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」(黙示録3:15、16)と言われます。このようなクリスチャンにだけはなりたくないと思いませんか。神はこのようなクリスチャンで終わる人を最も嫌われます。皆さんはこの意識をしっかりとお持ちでしょうか。もし、お持ちでないなら、今こそ抜本的な意識改革が必要です。
エノクは最初に神と共に歩んだ人
エノクについては創世記5:21ー24に「エノクは65年生きて、メトシェラを生んだ。エノクはメトシェラを生んで後、300年神と共に歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は365年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が取られたので、彼はいなくなった。」と書かれています。そしてヘブル書11:5に「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。」と書かれ、彼の信仰が神に喜ばれていたことがわかります。 エノクはノアと共に「キリストと共に歩んだ人間」であることが聖書に書かれておりますが、この「神と共に歩むようになる」ことが私たちクリスチャンの最終目標であり、地上における霊的訓練終了の卒業証書であることをエノクが実証しています。そのような人間エノクは今天でどのような人になっているでしょうか。
私はエノクと聞けば、しばしば天に行かれるリック・ジョイナー師がそのエノクに天で会った時のお話を思い出します。生きたまま天に挙げられた人は他に預言者のエリヤがいますが、ジョイナー師は天で先ずそのエリヤに会いました。以下は私たちがWWGMで2014年5月1日のブログでご紹介した時の記事です。
エリヤとエノク
私(ジョイナー師)はこのところエリヤによく会います。預言的経験の中ですから、実際のエリヤに会ったのか、霊的な経験だったのかはわかりません。エリヤはもうすぐこの世に来ます。それはエリヤの霊がキリストのからだに来るということです。
しかし、エリヤが私に「あなたはエノクに会うべきだ」と何回も言うのです。エリヤは又、「私とエノクは死を経験しませんでした。それは、終末の時の最後の神のムーブメントのときにキリストのからだに大きな霊的分与をするためです。あなたはエノクに会わねばなりません。」と言いました。私も会いたいと思っていました。・・・なぜならエノクはこの終末の時代に現れる力ある者たちについて預言しているからです。そして私はついにエノクに会うことができました。彼は私が想像していた人物とは全く違いました! エノクは私が今まで会った人の中で比べ物にならないくらい最もハッピーな人だったのです。いつも一緒にいたいと思うような人でした。彼が持っている喜びは信じられないほどでした。彼は地上に暗やみが広がっていた時代に生きていました。ネフィルムもいたし、人の悪が増大した時代であったにも拘わらず、エノクは最高にハッピーで喜びに満ちていたのです。
エノクと会ったすぐ後で私はまたエリヤに出くわしました。彼は私に「エノクと会ってどう思いましたか?」と聞きました。「彼は、私が会った中で一番ハッピーな人でした。驚きました。」と私が答えると、エリヤは「何か質問がありますか?」というので、「ええ。あります。どうしてあなたはエリヤのようにハッピーじゃないのですか?あなたはずっと天国にいたのに、どうしてもっとハッピーじゃないのですか?」とぶしつけな質問をしてしまいました。どうしても聞きたかったのです。
エリヤは答えてくれました。その答えは私に非常な衝撃を与えました。「どうしてか話しましょう。あなたが地上で生活する間に、天国に行ってからあなたが永遠にどのような人になるかが決められるのです。天国に行けば、あなたの苦しみ、悲しみ、嘆きはすべて取り去られます。私もエノクのようにハッピーになることは可能でした。でも私は地上にいる時、暗やみの方にばかり焦点を当てていました。『私だけが残って他は誰も主を信じる者はいない』というように悲観的になった事が多かったのです。私はもっとエノクのようになることもできたのです。そしてあなたもそうなれるのですよ。
エノクはどんなに地上が暗くても神と共に歩き、神に焦点を当てていました。彼の中で神はどんどん大きくなって、まわりの様々な問題や状況はどんどん小さくなりました。主の臨在の中では喜びが満ちるのです。」エノクは主の臨在の喜びの頂点に達したのだと思います。だから天に上げられたのではないでしょうか。そして今も喜びに満ちているのです。
勿論、私たちは天国に行けば皆ハッピーです。天国で一番ハッピーでない人でも、地上で一番ハッピーな人よりもっとハッピーです。それは確かです。でも私たちは今、自分の永遠の性格を決めているのです。エリヤは言いました。「あなたの信仰を増し加えるために一日も無駄にしてはいけません。神の喜び、神の平安へと成長できる時を無駄にしないでください。聖霊の実は育てられてだんだんに大きくなるものです。私は多くの日を無駄にしました。私も今のチャンスを逃したくありません.主の喜びが、これまでよりはるかに大きくやって来ようとしています。私たちには考えられないような喜びに満たされハッピーになるのです。主を間もなくお迎えしようとしているのですから当然ではありませんか。主の臨在の中で私たちはハッピーになるのです。いいえ、ハッピー以上のものー喜びです。ですからあなたの試煉を無駄にしないで下さい。 一日も無駄にしないでください。私たちは今、永遠に自分がどのような者になるかを決めているからです。ーー以上でジョイナー師の話は終わります。
ところで預言者といえばエノクこそが聖書に現れた最初の預言者でした。(参照:ユダの手紙14−15)
エノク書から学ぶもの
私は最近になって初めて聖書の外典と言われるエノク書なるものを読みましたが、私が読んだ解説付きエノク書とは、リック・ジョイナー師のミニストリーに携わるマイケル・フィッケス Michael Fickess 師の著作「Enoch’s Blessing- A Modern English Paraphrase of Enoch’s Ancient Writings 」です。彼はエノク書の研究の権威者の1人であり、エチオピア・オーソドックス教会系の原本写本を100年ほど前に英訳したR.H.Charlesの本の中で、エノク以外の人が書いた部分の混入、あるいは内容的に嫌疑のある部分を除去し厳選したものを、現代の人が理解できるように、より分かりやすく書き直して、2014年にモーニングスター・パブリケーションから出版されたものです。前書きでジョイナー師も彼の考え方に同意しています。
それには終末に起こる黙示録とか大患難時代への預言だけでなく、驚くべきことに、創世記とか申命記というモーセの時代から旧約のイザヤ、エゼキエル、ダニエルと言った預言者たちの預言書に書かれていることと一致すると言われ、加えて1世紀の使徒たちと、その当時のクリスチャンも、このエノク書を他の旧約聖書と共に読んでいたことがはっきり伺われる程彼らに影響を与えていて、新訳聖書のユダ書、ヘブル書、ルカ伝等にその名が書かれています。
また特に名前は出ていませんが使徒の1人であるヤコブの手紙1:2−4に「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」と書かれているのは、私は暗にエノクを見本として話しているように思えてなりません。
また私の見たエノクの書5:6に「その(終わりの)日にはキリストを拒否し神を無視した人たちは罪とその呪いにとどまるが、全ての義 righteousness を持つ人は喜びに満ちるであろう。」とあり、又それに続くエノク書5:9には「このような義の人たちは二度と主に不従順の罪を犯すことがない。もはや彼らの一生は神の怒りから来る死の体験をすることなく、彼らは神から与えられた日々を全うし、平安が日毎に増す。彼らの喜びに満ちた日々は幾倍にも増され、遂には永遠に続く感謝と平安に到達する」という意味の言葉が注釈付きで書かれています。
これは使徒パウロがロマ書14:17に書いた「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」 に通じますし、同じパウロが書いたピリピ書の「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」、そして1テサロニケ5;16の「いつも喜んでいなさい。」には、エノクの書からの影響が強く伺われます。またヨハネ16:24では「・・・求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」と書かれています。
これは何を示しているのでしょうか?それは、エノクの書が使徒たちに大きな影響を与えていて、エノクこそが「主と共に歩む人生を極めた人」であり、そのような人は「いつも最高の喜びに満ちているキリスト者」であること、またそうなったエノクに対する主の喜びは極まり、主が彼を天に取られたのであると私は思いますがいかがでしょうか。
エノクが神と共に歩むことができたのは、彼が天の霊の領域におられる主イエスに出会い、イエスに対して毎日全き従順な生活を送り始めたことを意味していると私は信じます。これは大変な信仰を持たねばできないことであり、またそれだけの信仰を持つようになったエノクは神に大変喜ばれたことでしょう。そのようなエノクであったからこそ神は彼を天に繁くビジョンとか夢で呼んでは、広く天の領域での活動を見分させ(御使いの働き、地獄の状態に至るまで)、そして世の終わりに起こる神のご計画を知らされたとしても全く不思議はありません。
神と共に歩く人は当然ながら「預言的なライフスタイル」で生きる人です。それも時々の経験で満足するのではなく、継続的に毎日、主と真に親しいコイノニアの関係に入る人であるのです。
私は今回の旅行で、いわゆる聖霊派の教会からカトリックの修道院まで様々なクリスチャンのグループをお訪ねしました。そしてどのようなグループであれ、最も重要なのは霊的な飢え渇きをもって主イエスを愛し求め、真に主とのリレーションシップを熱烈に追求することであるとわかりました。預言とか癒し、奇跡等はその結果として起こるのであり、本末転倒にならないように気をつけねばなりません。皆が聖霊派である必要は全くなく、それは教派の問題ではないという思いを強く持ちました。(続く)
12 11月
2018年秋の日本訪問を終えて(1)
坂 達也
マタイ24:37ー44「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らは分からなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。・・・だから目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。・・・なぜなら人の子は、思いがけない時にくるのですから。」
今世界はまさに、「見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおう」時となりました。そしてそれ程遠くない将来に「あなたの光が来て、あなたの上に輝く」のです。それゆえに、主が教会に「起きよ。光を放て。」といわれる世の終わりが確実に近づいて来ています。
それは最後の大リバイバルが目前に迫って来ていることを意味し、しかも東西の預言者たちが、いよいよこの二、三年のうちにそれが始まると言うのです。私たちは、その期待と緊迫感を、アメリカだけでなく、日本でも今回強く感じました。そうであれば、今最も必要なことは、自分の教会とか地域にどのようにしてリバイバルを起こそうかと思い計ることではありません。(但しリバイバルへの祈りは大事ですが)なぜなら、主が私たち教会に言い残された言葉は「リバイバルを起こしなさい」ではなく「大宣教命令」であったからです。
リバイバルを起こすのは主であり、私たちはその火を消すことなく、持続させねばなりません。しかし最も急務なことは、その大リバイバルから生まれてくるベイビー・クリスチャンを、私たち教会ができるだけ短期間に霊的に養育することであると信じるからです。「その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。」と主はマタイ24:19で警告されています。
そのためには、私たちの周りのクリスチャンを今こそ最大限に弟子訓練し、乳飲み子を霊教育する多くのリーダーを立て上げるのが私たち急務ではないでしょうか。しばらく前に天に召されたボブ・ジョーンズ師は、天への入り口で主から「これから10億のベービーを生まれさせるから、あなたはもう一度この世に帰り準備しなさい。」と言われて、地上に戻って来ました。
最近私たちのWWGMのブログ・メッセージではリック・ジョイナー師とか、ラリー・クライダー師のものを集中して掲載し、「霊的コイノニアの交わり」とかスモール・グループでのミニストリーの重要性を強調して参りました。なぜなら、週一度の礼拝の集まりだけでは「キリストの花嫁訓練とか弟子訓練」は十分にはできないからです。現にイエスご自身は12人の弟子を3年半の間に地上で育て上げましたから、10億の幼児が生まれるなら、そのために少なくとも一億の育ての親が必要です。しかも最後の大リバイバルは10億に止まりません。
そこで重要なことは、そのスモール・グループでの集まりで養育係の中心となるのは、あくまで主ご自身であることです。このことをグループメンバーは先ず抜本的に認識する必要があります。そして、それぞれ個人が毎日主と直接交わって得たことを、週に一度のグループ会合で分かち合い、それが牧師に伝えられ、全てが一致して聖霊に導かれて主のご計画が実行に移されねばならないのです。
そのためには基本的に、すべてのメンバーが主の預言的ビジョンと主の御声を聞く訓練をすることが先決であることは言うまでもありません。そして、そのように訓練されてゆくためにはグループごとに少なくとも1人の霊的に成長したリーダーが必要であると思います。
就きましては、今回私たちが日本各地を回って語らせていただいたことを下記に要約してご報告させていただきます。
終末の教会に必要なノアの信仰
神を信じるアベルをいきなり殺してしまったカインの子孫はその後どんどん「生めよ増えよ」で人口が増大しました。そして、悪魔の影響が強く作用した結果、その当時の人間の罪があまりにもひどくなり、彼らの心はいつも悪いことだけに傾くようになったと創世記6章に書いてあります。
そこで神はついに「わたしが創造したひとを地の面から消し去ろう。」と決意しました。そして、当時一人だけ神に従う人間として残しておいたノアに箱舟を造らせた後、ノアとその家族を含めた八人と地上の動物・地をはうもの・鳥類のすべての種類からそれぞれ雄雌一対を箱舟に乗せた神は、地球上に前代未聞の大洪水を起こし、悪を極めた人類を一掃したのです。
そこで主が8−9節で言われました。「ノアは主の心にかなっていた。・・・ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」と。これだけでも充分に彼がどんな人間であったかが窺い知れます。上記で「その時代にあっても」と書かれている意味は、当時、「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた...実に、それは、堕落していた。すべての肉なるもの、地上でその道を乱していたからである。」と言う状態であったのです。そこで神はノアに「人も家畜も空の鳥に至るまでわたしが創造したものを地上から消し去ろう」と言い、ノアに一艘のゴフェルの木から箱舟を造るように指示しました。
この船の大きさは長さ300キュピト、幅50キュピト、高さ30キュピトと言う三階建ての巨大な木造船でした。(注:但し原語で使われている cubit と言う単位は元々「人の腕の肘から、手の指のくるぶし間の距離、あるいは中指の先までの距離」と言う曖昧な寸法であって、その実寸の解釈が聖書学者によってまちまちです。ほとんどの聖書で1cubit =18インチ=46センチで計算していて、それによると箱舟の長さは140M、横幅23M、高さ14Mですが、ある注釈書によれば1cubit =22インチで計算し、これらの寸法で箱舟の排水容量トンを計算すると最大3万4千トンになると書かれていました。私は少なく見積もっても2ー3万トンにはなると思いました。と言うのは昔、私のアメリカでのビジネスは、アメリカの国有林を入札して買い付け、それを切り出して自らの工場で製材したもの、あるいは丸太のままで、商社が用意する木材専用船に積み込んで日本に運んでいたので分かるのですが、箱舟はおよそ当時の専用船の大きさに匹敵します。)
従って私はこのノアの箱舟の話を読む度に興奮し胸が躍ります。何故なら、ノアはこの巨大な木造船を造るのに、恐らく巨木の切り倒しから、運搬、それに製材経験も、造船技術に関する何の知識も無く、また必要な工具とか運搬車も無い時代に、神から言われて「やりましょう」と引き受けたのです。これは当時の人間にとっては先ず絶対に不可能な仕事でした。しかし、22節に「ノアは、すべて神が命じられた通りにし、そのように行った。」と書かれています。
いや、ノアは考えたに違いありません。「人間には不可能でも、相手は全知全能の神がやれと言うのだから、すべて神に聞き、神に一切を教えてもらい、それを忠実に実行すればできる。」そう腹をくくったのです。ーこれこそ、マルコ11:23で、主が言われた「だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ。』と言って、心の中で疑わず、ただ自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」の信仰そのものではないでしょうか。
ノアは、ひたすら神からの指示だけを頼りに毎日こつこつと造り上げたのです。山から何らかの方法で巨大なゴフェルの木を切り倒して運んで来る。それを製材・造作して建て上げる。寸法に切った木材を組み立て、その隙間にピッチを塗り込んで防水加工をする。一切を神に頼った。彼の仕事を助ける人は自分の家族以外には誰もいませんでした。何故なら彼の周りは、彼と家族を除いて皆、神が滅ぼそうとしているほど罪で堕落した人たちであったからです。
そこで、箱舟を造り上げるのにどの位の時間が掛かったのでしょうか。一般に100年とかそれより短いと言う人もいますが、私が読んだ二、三の注釈書(Bob Utley’s How it all begun Genesis 1-11, The Teacher’s commentary, Alfred Edersheim ’s Bible History: Old Testament) 等によれば、1ペテロ3:20、2ペテロ2:5等を引用して、神は120年間、辛抱強く箱船が出来上がるのを待ったと言う解釈をしています。後日ノアの三人の子どもたちが育って父親を助けたとしても、僅か数人でこれだけの仕事量に100年ー120年掛かることはうなずける話です。
その上ノアは船を造る傍ら、船を造る目的は神の裁きが来るからだ、悔い改めなさいと説教しても(参考2ペテロ2:5)、恐らく誰も聞く耳を持たず、かえってノアを嘲笑するだけであったのです。クリスチャンとしてこれほどの忍耐を要する経験があるでしょうか。 私が驚嘆するのは、ノアは本当に神と毎日親しく会話できたことです。これこそ「WALK WITH GOD」で生きるライフ・スタイルの最高の見本と言えないでしょうか。
当時の人々は、陸の上で巨大な船を造りながら、人々に世の終わりが来ると警告し続けたノアをからかい嘲笑するばかりで、洪水が押し寄せるその日まで分からずに死んで行ったのです。
このノアの洪水と箱舟の話は決して単なるおとぎ話ではありません。事実その箱舟の遺跡を発見した人がいます。その人とは考古学者のロン・ワイエット氏で、私はヘンリー・グルーバー師に紹介されて、その人がポートランド大学で公演した際に会い、その発掘の話を詳しく聞きました。発見した場所は今のトルコに当るアララト山の高い山の斜面に遺跡が残っていると言います。
実は、このノアの方舟の話が非常に重要な意味を持っていることは、本書の冒頭で引用したマタイ24:37−44をお読みいただければよくお分かりになるはずです。神はこの世の終わりに、頑なに真の神を拒否し続ける、ノアの時代と同じような不信仰な人間に対して「最後の裁き」の審判を下すことが聖書では明確に預言されています。しかも、最後の裁きは洪水によるのではなく火によるものであると預言され、2ペテロ3:3−13にこう書かれています。
「終りの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。・・・何事も創造の初めからのままではないか。』こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。・・・・しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。・・・しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」
神の人間創造のプロセスは、六千年経つ今の時点においても決して完成してはいません。神はLET US MAKE MAN と言いましたが、その質的な創造行為はこの地球のすべての営みが終わる日まで続きます。何故なら、神がこの地球を造った理由は、ひとえに人間の創造を神の家族の一員として完成させるためであるからです。
度々天を訪れるリック・ジョイナー師は、「地上で苦しみと試練を通して霊的訓練を受けた人と、受けないでベービークリスチャンのままで天に挙げられた人との間にできる霊的成長の差は未来永遠に残る。」と警告します。それは、主イエスが私たちに命じた「大宣教命令」による霊的訓練こそが、神がこの宇宙と地球を造り、そこに人間を生まれさせた究極の目的であることを示しているのです。次回はノアの時代の直ぐ前の時代に生きたエノクの信仰に触れたいと思います。(続く)
05 11月
コイノニアの重要さ(2)
リック・ジョイナー
スモールグループで一番大切なのは、皆がこの集りの頭は主イエスであると認識し、主の導きを信じ委ね、主が自由に働ける環境をつくることです。勿論一応リーダーは立てますし、初めはリーダーの役目も大きいですが、次第に目立たなくてよいようになります。
ぎこちない沈黙が続くときもあるかもしれませんが、それもすべて主に委ねるのです。往々にして、ぎこちない沈黙の後に主が大きく働いてくださるのを皆さんも経験なさったことがあるでしょう。ですから沈黙が来たならば、皆が自分に静まり、主に期待するすばらしい時だと思ってください。主に委ねることを皆が会得すれば、「今日の集会は主がすべて導いてくださった。」と感じるような集会へと成長していきます。
私は若い時、いろいろな家庭集会を経験してきました。毎日のようにどこかのグループに出席していましたが、とてもわくわくと楽しく、行くのが待ち遠しくてなりませんでした。集会にいつも主が来てくださったからです。そしてものすごい主の業が起り始めました。確かにきれいごとではない、厄介なことも起りました。議論、口論も起りましたが、愛し合う気持には変わりがありませんでした。問題を通して皆が成長していったのです。ですから問題が起こっても、落胆しないでください。高校時代によく喧嘩をしましたが、喧嘩の後は、驚くべきことですが、喧嘩の相手ととても仲良しになりました。霊的にも同じです。かつてうまが合わなかった人が、あなたにとって影響力のある大切な人になっていくのです。
リバイバルの目的
私たちはエリエゼルの油注ぎが必要であり、その油注ぎが今与えられようとしています。エリエゼルのミニストリーとは、人々(イエスの花嫁になる人たち)にイエス(花婿)の素晴らしさを伝え、主を更に深く愛するように導くことです。(WWGM
2018年9月5日「エリエゼルの役目」を御覧ください)
使徒たちは、「死から復活したイエス・キリスト」を伝えたのであって、「教会について」とか、「ミニストリーについて」とかを話したのではありません。まことのリバイバルは私たちがリバイブされて主を愛することです。
私たちが主を深く愛することに焦点を当てるならば、 他のことはすべてその「実」として必ず自然に生まれて来るのです。決してその逆ではありません。
もし人為的に「コイノニアを作ること」が私たちの焦点になるならば、それは決して成功しません。私たちは交わりや教会を崇め始めてしまうのです。私たちは神ご自身ではなく、神に関する何かを簡単に崇めるようになってしまうのです。そうであってはなりません。私たちはただ神を愛し、讃え、礼拝するのです。その時他のものは自然に生まれてきます。
私がクリスチャンになって間もなく、若い牧師のヴィジョンを見ました。彼は主を心から愛し主だけを見つめていました。群衆が彼の周りに集まってきました。彼は振り向いて群衆に目を向けました。すると群衆は散っていきました。彼がまた主の方を向くと群衆が集まってきました。群衆の方を向くと群衆は散っていきました。彼が群衆に焦点を当てると彼らは散っていったのです。彼はやっと気がつきました。
このヴィジョンが教えているように、私たちは主の住まいを用意して、主を愛し主に仕えることを第一とせねばなりません。主はご自分の住まいを求めておられるのです。もしあなたが5、6人のスモールグループを持っておられるならば、そこを主の住まいとすることができるのです。主のための最もすばらしい住まいを作ることができるのです!
十字架につかれるまであと一週間しかない時、主は何をされたでしょうか。弟子たちに集中講義をするのではなく、ラザロの家に行き、マリアやマルタと時をすごされたのです。彼らは偉大な使徒になったわけではありません。主は彼らの家に行くことを愛されたのです。あなたも主が行きたいと思われる家をつくりたいとは思いませんか?
競争をしようではありませんか。主が一番愛される家をつくるのは誰でしょうか?
30年前に私はボブ・ワイナー氏やジョン・エリオット氏とラジオ番組をしていたのですが、その時聖霊が注がれ、次のように言われました。「来るべき魂の収穫のための網は、アメリカに50万のホームグループのリーダーが生まれることです。彼らは効果的に人々を主に導き、バプテスマを授け、解放し、癒し、健全な教義を教え、キリストのからだの中での自分の役目を知らせ、それに向かって成長させるリーダーです。アメリカのリバイバルはこのようなホームグループから起こります。」
使徒パウロの目指すことを見てください。「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」パウロはいつもこのように考えていたのです。誰に会ってもその人が神とどのくらいの関係を持っているかを察知して、その人が次のステップに進むのを助けたのです。まだ主を知らない人には主を紹介し、聖霊のバプテスマを知らない人にはそれを教えたのです。すべての人がキリストにある成熟へと進むようにとパウロは常に考え行動していました。スモールグループのリーダーもそのような心構えを持たねばなりません。王なる主の子どもたちの成長を委ねられているのです。
イエスが「わたしの弟子とはこういう者である」と言われている言葉を読んでみてください。「弟子」の次に「しもべ」となり、(しもべとならなければ、私たちは獣のしるしを受けてしまうことでしょう。黙示録は「しもべたち」にむけて書かれています。)次に「神の友」となり、そして「息子、娘」になるのです。弟子から息子へと一足飛びになることはできません。クリスチャンになったものは、自分が成熟の行程のどこにいるかを知る必要があり、それによって次のステップを目指すことができ、リーダーはそのプロセスを助けるのです。これはクリスチャンとして基礎的知識であるはずですが、ほとんどの人は教えられておりません。「ボーンアゲイン」さえすれば、それで到達したのだと考えているのです。でもそれは出発点なのです。そこから成熟のプロセスが始まります。
一人の罪人が悔い改めるとき、天に大いなる喜びが起こります。私たちはそれは人が救われたときだけだと考えがちです。しかし、クリスチャンになってからもずっと持っていた罪を悔い改めるならば、同じように天に大いなる喜びがあるのです。そしてキリストの身たけへと成熟していくクリスチャンを見るとき、御父は大いに喜ばれるのです。あなたの次のステップは何でしょうか。(終り)
28 10月
コイノニアの重要さ(1)
リック・ジョイナー
第一ヨハネ1:3「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わり(コイノニア)を持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わり(コイノニア)です。」
神とのコイノニア
私たちが互いに真のクリスチャンの交わりを持つには、まず各々が主との親密な交わりを持つことが必要です。ある人が主と親密になることほど、人に伝染しやしいものはありません。すべての人の心の奥底には神のための用意されているスペースがあり、人は霊なる神を礼拝するように造られているのです。すべての人の中に神だけが満たすことのできる渇望があるのです。私たちが主に近づくならば、まわりの人々を引き寄せます。そしてそれが人びとを主に引き寄せる唯一の方法であるべきなのです。
「火事が起こったときにそれを宣伝する必要はない」のです。もしあなたが主に燃えているならば、人々はあなたが燃えるのを見にくるのです。
祭壇の火は主が下してくださいますが(レビ記9:24、第二歴代誌7:1参照)、その火を燃え続けさせるのは私たちの責任です。(レビ記6:13
火は絶えず祭壇の上で燃え続けさせなければならない。消してはならない。)本物のリバイバルを人が起こすことは絶対できません。しかし人がそれを燃やし続けることを怠って消してしまうことは起ります。私たちはレビ人として祭壇の火を燃やしつづけるという任務を与えられているのです。
人々とのコイノニアの交わり
私たちはまず2、3人のグループから始めるべきです。2、3人であるならば、真に親密になり堅い絆で結ばれることができます。それを土台にして成長していけます。主イエスは多くの弟子の中から12人を選び、彼らと親しく交わり深い教えを与えました。12人というのは、家庭集会にとってよい人数です。「もっと大きくしなければならない」というプレッシャーを感じる必要はありません。私の経験では25人以上になると、何かが失われてきて本当の親密さを保つのは難しくなります。ですからその時はグループを二つに分けたりして、新しいグループを作らねばなりません。
大切なのは、すべてが組織的、形式的、律法的になされるのではなくて、自然発生的に(オーガニックに)なされるべきことです。勿論、計画や方法はよいことですし、教会の組織も必要になってきます。しかし、まず人と人との親しい交わりであるコイノニアが生まれていなければ、それは空虚なものです。私たちは「組織」としてではなく、「家族」として召されているのです。もし「家族」となるのを無視して「組織」を作ろうとするならば、私たちは基本的な召しを忘れているのであって、それを回復するのは非常に難しくなります。
使徒たちが各地で福音を伝え始めて人々が救われたとき、彼らは新しいクリスチャンをそのままにしてその地を去りました。長老や執事を選んで教会組織をつくることなどしませんでした。それから数ヶ月、或いは数年経ってからその地を訪れたときに、リーダーが必要ならば選んで任命しました。「幾つかの職に人が付かねば教会ではない」というような考えは全くありませんでした。一番重要なのは、そこに集まる人々が、皆主と親しくなり、家族の交わりで親しく愛しあっている、即ちコイノニアの交わりをしていることでした。
そして人数が増えていくならば、コイノニアを土台としたエクレシアの組織として成長していけばよいのです。
もう一つ現在の教会には大きな問題があります。それはメンバーをいつ働き人にするかということです。タイミングが「早すぎる」のと「遅すぎる」という両方の問題です。ルカ10章で、イエスは弟子たちを2人ずつ遣わされました。2人ずつで十分だったのです。指示をして彼らを送りだし、彼らはその任務を十二分に果たすことができ、喜んで帰ってきました。しかし次の11章に行くと、弟子たちがイエスに「祈り方を教えてください」と頼んでいます。彼らは祈り方も知らない前に、病人を直し悪霊を追い出したのです。勿論、いろんな失敗もしでかしたでしょう。でも失敗せずに成長する人はいないのです。まことに教会というのは、きれいごとではないのです。
私はモーターバイクに乗るのが大好きで、その時に一番主を近く感じます。バイクに乗りながら祈りや執りなしをしますが、ある時、主が「最も完全に一致している教会を見せてあげましょう。」と言われ、バイクに乗った私を山道に導かれました。そこに小さなバステスト教会がありました。私が「主よ、バプテスト教会ですか?」と訊くと、主は「そこではない、その隣です。」と言われました。なんとそこは墓地だったのです。死んだクリスチャンたちは完全に一致していました!主は「あなたが完全に一致している教会を望むならば、それは墓地と同じように死んだ教会です。」と言われました。
使徒たちのことを考えてみてください。主がドナルド・トランプ大統領のような人を12人選んだみたいです。彼らは主と3年半一緒に暮らしましたが、最後の夜に誰が一番偉いかと争いました。でも主は彼らを叱るのではなく、一番偉くなるための道はしもべになることであると教えられたのです。主は彼らの中の「一番偉くなりたい」という情熱を好まれたのだと思います。
「大志 大望 ambition」は決して悪いものではありません。「自己的な大志、野望 selfish ambition」が悪なのです。神は私たちの内に大望を入れられました。神はアダムに「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。」と言われました。人は増し加わることを願うように造られているのです。
大志を持つときに、人々はそれを嘲笑するかもしれません。「自分を何様だと思っているのだ。エリヤとでも思っているのか?」と言うかもしれません。その時、あなたは「違いますよ。私が目指すのはもっと高いところです。」と言うべきなのです。私たちは旧約よりも優れた契約をもっているのですから、旧約の彼らが到達した地点は、私たちの出発点なのです。しかし、大切なのは私たちが高い志を持つ理由です。私たちの大志は、人々の中にキリストが成長することです。
しかし私たちの動機が100%純粋ということは不可能です。もしそうならばエノクのようにすでに天に挙げられていることでしょう。でももし自分の動機が100%純粋になるまで待っていたら、あなたはいつまでも何もできないでしょう。
スモールグループの中では、すべての人が何かを与えることができます。歌、教え、預言等です。でも教えというのは「説教」である必要はありません。5分か10分くらいでいいのです。スモールグループは、喩えれば持ち寄りの食事のようなものです。新約聖書には沢山人々が共に食事をすることがでてきます。それと同じように、霊的食事をみんなが持ち寄るのです。多くの場合持ち寄りの食事はとてもすばらしいです。皆が一番得意な料理を心をこめて作ってくるからです。自分が持ってきた料理を人々が食べるのを見て喜び「いかがですか?」と訊ねるのです。それと同じように霊の食事を持ち寄って神の子どもたち(神のプリンスやプリンセス)をお互いに養うのですから、勿論一番良いものを持ってくるのです。
もしあなたが教師として召されているのならば、「最高にすばらしい5分の教え」をしてください。そしてみんなに「もっとほしい!!」と言わせるのです。「短い説教に悪いものはない」とマーク・トウェインは言いました。神の教えはとても短いですね。勿論大きな集会ではもっと詳しく長く話していいのですが、家庭集会やスモールグループでは、全員に自分の持ってきた霊的食物を皆に食べさせるチャンスを与えるべきです。皆さんも自分が分かち合うときに恵まれることをご存知ですね。ですからそのような機会を皆に与えてください。持ち寄りの食事は何を持ってくるように打ち合わせをしなくても不思議にバランスがいいですね。霊的食物の持ち寄りも、聖霊にお委ねするのです。(続く)
21 10月
生きた細胞からなる教会(2)
ラリー・クライダー(DOVE Christian Fellowship International)
12.霊的父親、母親が育つ場
第一コリント4:15−17「たといあなたがたに、キリストにある養育係が一万人あろうとも、父は多くあるはずがありません。この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。
ですから、私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。そのために、私はあなたのところへテモテを送りました。テモテは主にあって私の愛する、忠実な子です。彼は、私が至る所のすべての教会で教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。」
この箇所で用いられている言葉「父、愛する忠実な子」は家族関係の言葉です。現在の教会は父や母ではなく、CEO(最高経営責任者)で運営されています。CEOは勿論ある所では必要とされますが、神の子を養うのはCEOではなく父や母です。確かに家族関係はややこしくなることがあります。しかしそれが本当に生きるということです。よく見てみると聖書全体に霊的な家族を表す言葉がちりばめられています。小グループで私たちは霊的父や母になり子を育てることができます。
第一ヨハネ2:12−14「子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。父たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。小さい者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが御父を知ったからです。父たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。」
この箇所によると、クリスチャンには3つのレベルがあることがわかります。これは年齢とは全く関係がなく、霊的な成熟度を言っていて、即ち、子ども、若者、父(母)です。
子どもとは「罪が赦されたことを知り、御父を知っている者」ですから、救われたクリスチャンです。彼らは無邪気でかわいいですが、いつまでもそのままでいるならば問題です。子どもは自己中心で「これは好き、あれは嫌い」と言い、「この教会は自分を食べさせてくれない」と言うのです。
若者とは「悪い者に打ち勝ち、神のみことばがうちに留まっている者」です。若者は自分で御ことばを食べて勝利することができる者であり、もはや子どもではありませんが、まだ父や母ではありません。
ではどうすれば父や母になれるのでしょうか。それは子どもを持つことによってなのです。あなたが誰かを導くようになることによってです。それは神が非常に喜ばれることであり、決して難しいことではありません。霊の子ども(1人でも2、3人でも)と毎週、或いは2週間か月に1度会って、彼らが神にあって成長するように助けるだけです。
質問に答え、励ますのです。
「私には出来ない。」という人が多いのですが、そんなことはありません。私が23歳のときに最初の子どもが生まれ父親となりましたが、赤ちゃんをどう扱えばよいのか全くわかりませんでした。でもやればやれたのです。霊的父や母も同じです。やればやれるのです。
パウロはテモテを霊の養子とし、「私の愛する忠実な子」と呼びました。又ピレモン11節でオネシモのことを「獄中で生んだわが子オネシモ」と言っています。エリシャはエリヤに父親になってくれるように頼みました。
そのような関係を結ぶように依頼するのは、子の側からでも親の側からでもよく、又、一年とかの期限を限ってもかまいません。
神はすべてのクリスチャンが霊的親になることを望んでおられます。それはあなたの年齢に関係ありません。人は誰かが成長するのを助けるときに、自分も一番成長するからです。考えたこともないような質問をされ、それについて調べるとき、あなたも成長するでしょう。「弟子を育てる」のと「霊的父親、母親」になるのとは基本的に同じです。聖書は両方の言葉を使っています。
私は現在23カ国にある700の教会を導く使徒のリーダーとして働いていますが、その一番土台になっているのは、「神の恵みと恩寵は霊の父親、母親の上にある」という真理です。この私たちのグループは組織ではなく家族です。そしてすべての人を神の召しへと解き放っています。教会が分かれるとき、それは分裂ではなく、教会が増えることなのです。教会の中の誰かが新しい教会を作りたいというならば、あなたは「素晴らしい、教会に子どもが出来た、教会が増える!」と喜ぶのです。その人を縛り付けるのではなく、解放して祝福するのです。
「私はあなたと生涯一緒に働きます。」などという契約をたててはいけません。私たちが一生持つべき契約の第一はイエスとの契約、次にキリストのからだとの契約、そして妻や夫との契約です。もしあなたが誰かを自分に縛り付けようとするならば、神ご自身がその人をあなたから引き離すでしょう。ですからあなたは自分とは別の働きを始めたい人がいるならば、その人を応援し、祝福し、神から大いに用いられるのを親として喜ぶのです。
アブラハムの祝福を見てみましょう。
創世記15:5、6「そして、彼を外に連れ出して仰せられた。『さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。』さらに仰せられた。『あなたの子孫はこのようになる。』彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」
アブラハムは人間的には信じ難いことを信じ、義と認められました! そして息子を与えられました!
神はあなたにも子どもを与えたいのです。
あなたは牧師ではないかもしれません。しかしあなたは小グループのリーダーとして父親、母親になることができるのです!あなたもアブラハムのように神を信じてください。子どもは2人でも3人でもいいのです。
ガラテヤ3:19でパウロは「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」と言っています。あなたの育てた子がまた次に子を生み育てていき、あなたの霊的子孫は増え広がっていきます。これは本当に素晴らしく、また神にとって重要なことであり、永遠の価値を持つ働きです。このために神からの恵み、油注ぎが注がれるように祈りましょう。
第一テサロ二ケ2:7&11&19、20「それどころか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。...また、ご承知のとおり、私たちは父がその子どもに対してするように、あなたがたひとりひとりに、ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。...私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。あなたがたこそが私たちの誉れであり、また喜びなのです。」(終り)