破れない網 デイビッド・コレンダ 2018年12月17日
破れない網
デイビッド・コレンダ(Christ for All Nations)
次の二つの話は多くの点で非常に似ていますが、同じ出来事を記したものではなく、一つはイエスの地上でのミニストリーの始めに弟子を召されたときのことであり、もう一つはイエスが復活された後に起こったことです。
ルカ5:4−7
話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとりませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやってきて、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、ニそうとも沈みそうになった。
ヨハネ21:3
シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。しかし、他の弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。
両方の話には漁師が出てきます。彼らはプロの漁師でしたが、一晩中一匹も魚がとれませんでした。その時一人の人があらわれて、魚の取り方を教えたのです。彼らはそれに従いおびただしい魚が取れました。しかし、違いがあるのに目をとめてください。一つ目の話では「網が破れた」(訳者注:新改訳では「網が破れそうになった」とありますが、原語では「網が破れた」です)とありますが、2つ目の話では魚が大きな魚でいっぱいであったにもかかわらず「網は破れなかった」とあります。
今私たちは最大の収穫の時を迎えていると信じますが、私が一つ懸念していることがあります。大漁で網が一杯になることと、その魚をちゃんと捕まえることとは違うのです。多くの魂が救われても、実を成らせるものはどれほど残るでしょうか。私が神学校にいた時、教師から「あなたのミニストリーが失敗したときには、どうしますか?」と問われました。その教師は「すべての者は必ず失敗する」と想定していたようです。でも私は教師とは違う想定をしたいと思います。あなたは漁に行き、多くの魂を救い、あなたの網は一杯になるのです。しかし、その時、ある危機があなたを襲います。失敗した時ではなく、成功した時にこそ危機が来るのです。皆さんは今ミニストリーで苦労しているかもしれませんが、成功したならば、もっと大変なのです。あなたのミニストリーが人々に知られメディアから注目されるようになった時、又経済面でも多くの収入が得られるようになった時、危険がやってくるのです。私のミニストリーもその成功の重みに耐えられなくなってつぶれるのを私は経験しました。けれどもその経験によって多くのことを学ぶことができました。今の世代を神が回復し、収穫をもたらされるとき、私たちがつぶされない為にはどうすればよいかを私は学んだのです。
この二つの話には、3つの非常に重要な違いがあります。その違いこそ、一つ目の話では網が破れ、二つ目では破れなかった理由です。
1.舟の数
ルカ5:7には 「別の舟にいた仲間」とありますが、ヨハネ21:3ではペテロの「私は漁に行く。」という言葉を聞いて他の弟子たちは「私たちもいっしょに行きましょう。」と言い、一つの小舟に乗り込みました。一つ目の話では弟子たちは違う舟に別れて乗っていましたが、2つ目の話では、彼らは一つの舟に一緒に乗っていました。彼らにはユニティーがありました。ルカの「(網が)破れた」という言葉はギリシャ語ではスキゾーと言いますが、英語のスキズム(分裂)と同じ語源です。教会の分裂、家族の分裂、社会の分裂などはサタンの常とう手段です。分裂によってどんなよいものも壊されていくのです。神があなたを祝福し始めると、サタンはあなたの結婚、家族、親しい関係、教会やミニストリーの仲間に分裂をもたらすのです。嫉妬や内争、苦々しさほどミニストリーを壊すものはありません。そしてそれはまさに神がミニストリーを祝福し始めるときに起こるのです。
イエスはご自分の業を受け継ぐ人を求めておられました。それは一人で受け継ぐことは不可能です。主はそれを5つに分けられました。エペソ4:11には「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。」とあります。ですから一人でキリストの業を受け継ぐことは不可能であり、それぞれ五分の一、即ち20%を受けた者たちが集まって一致して働くことが絶対に必要なのです。これは主が立てられた素晴らしいプランです。それは「あなたは他の人々と一緒に働くべきだ。」というのではなく、あなたの賜物の召しを十分に達成するためには、あなたはどうしても他の人々を必要とするのです。
ご存知でしょうか。「牧師」と「伝道者」の間には、往々にして諍いが起こります。牧師は「伝道者は人が大勢集まればいいと言う。そしてベイビークリスチャンを沢山作って満足し、あとの面倒は全部牧師にさせる。」と言います。伝道者は「牧師は自分の小さな群れのことばかりに気を配り、教会の壁の中に閉じ籠っている。外の世界では多くの者が失われ地獄へと向かっているのに。」と言います。サタンは両者をこのようにして分裂させます。それは両者が一致して働くならば、サタンは自分がやられてしまうことを知っているからです。私たちが共に働き、各々の欠けているところを補い合うならば、素晴らしい神の業が表れるのです。
ここには(モーニングスター・ミニストリー)には預言的な人が多くおられますが、はっきり言って、彼らはちょっと変な人達です。(笑)彼らの口から出てくる言葉の半分も私には理解できません。私は全く違います。私は実践的で、現実的な人間です。ですからややもすると預言の賜物を軽蔑してしまいそうになります。でも私は預言者の預言が必要ですし、預言者も私のような者が必要なのです。又、預言者だけで教師がいないならば、大きな問題が起こります。エペソ4:7に「しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。」とありますが、これは非常に大切な言葉です。ここにある「恵み」という言葉は「超自然的な力」という意味です。各自に与えられている賜物を機能させる電池が恵みです。恵みがなければ賜物があっても 、それを働かせることはできません。
あなたが持っているのが20%だとすれば、どうすればよいのでしょうか。ピリピ1:7でパウロは「あなたがたはみな、私が投獄されているときも、福音を弁明して立証しているときも、私とともに恵みにあずかった人々であり、私は、そのようなあなたがたを、心に覚えているからです。」と言っています。ピリピの人々はパウロの恵みを共に受け取っていたのです。即ち、私たちはお互いの人生の恵みをお互いに分かち合い、お互いにあずかることが出来るというのです。20%受けた者たちが集り一致して働くとき、100%の業が出来るのです!そして「キリストの満ち満ちた身たけにまで達する(エペソ4:13)」のです。お互いに「私はあなたが必要です!」と言いましょう。
ある時私はペットショップに水槽を見に行きました。タツノオトシゴやクラゲ等がおりましたが、一つの水槽には蟹が沢山入っていました。それには蓋がついていなかったので、私は店の人に「蓋がないと蟹が逃げるのではありませんか?」と訊くと、彼は「大丈夫ですよ。一匹の蟹が上に上ろうとすると、他の蟹が必ずそれを引きずり下ろしますから。」と言いました。私は「蟹はなんと私の知っているクリスチャンに似ているのだろう。」と思いました。(笑)
私たちは自分よりもっと祝福されている人がいるのが好きではありません。自分より繁栄している人がいるのが嫌です。自分の教会より大きくなっている教会があるのを好みません。ですから神が水槽の底から誰かを引き上げると、「キリストのからだ」はその人を引きずり下ろすのが使命だと感じるのです。
エペソ5:14−17に書かれている神の武具はすべて前方の敵に対するものです。ですから敵が後ろから攻撃したら、防げないのです。私は主にそのことを訊ねると、主は次の18節を示してくださいました。「すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」とあります。つまり私たちはお互いの後ろを守る武具となるのです。あなたは兄弟姉妹の後ろの武具なのです。神はキリストのからだがそのように機能するようにデザインされたのであり、各自が一人で戦うようには意図されてはないのです。一人で戦うならばやられてしまいます。けれども残念なことに兄弟姉妹同士が背中を突き刺すことが何と多いことでしょう。
ヨハネの福音者を書いた使徒ヨハネは21章でペテロの名は20回ほど書いていますが、自分のことは「主に愛された弟子」と言っています。ヨハネにとって「主に愛されている」ことを知っていれば、自分が何者であるかを人に宣伝する必要もなく、他に何もいらなかったのです。教会が必要としているのはイエスの愛の啓示です。イエスがあなたをどれほど愛しておられるかを知るならば、私たちはパーフォーマンスをする必要もなく、他と較べたり競い合うこともないのです。
2.絶対服従かどうか
ルカ5:4「深みに漕ぎ出して、網(原語は複数 nets)をおろして魚をとりなさい。」
ヨハネ21:6「舟の右側に網(原語は単数 net)をおろしなさい。そうすれば、とれます。」
一方はnetsと複数であり、もう一方はnetと単数になっています。ルカ伝でイエスは複数の網をおろせと言われましたが、彼らは一つの網しかおろしませんでした。彼らはイエスのお言葉に半分しか従わなかったのです。
私はある時 ロンドンで「伝道者としてあなたがボンケ師から習った一番大切なことは何ですか。」と訊かれました。
私の答えは「ボンケ師は神の言葉に100%服従した。」ということです。徹底的服従です。ボンケ師はこう言いました。「神が私に何かを命じられならば、私は跳び上がって即座に従います。私が従うかどうかを神はじっと見ておられるのを私は感じるからです。」
イエスが何かを命令されるときは、細部に至るまで理由があるのです。人々は不信仰の故に従いません。弟子たちはプロの漁師でしたが、イエスの言葉に従いました。一方は「深みに漕ぎ出して複数の網をおろせ」であり、もう一方は「舟の右側に一つの網をおろせ」というものでした。ルカ伝では、多分弟子たちは「一晩中一匹もとれなかったのだから、複数の網を下ろす必要はないだろう。一つで十分のはずだ。」と思ったのです。そして彼らにとって理に適ったやり方で(即ち一つだけ網をおろして)イエスに従ったのです。これから起きることが彼らの今までの経験、理解を越えたものになることを知らなかったからです。神のなさる事は超自然的です!奇蹟が起ころうとしていたのです!
3.魚の入った網を舟の中に入れるかどうか
ルカ伝では弟子たちが魚が一杯になった網を舟の中に入れようと持ち上げた時に、網が破れました。一方ヨハネ伝では弟子たちは魚で一杯になった網を引いて小舟で海辺までやってきました。ペテロはその網を陸地に引き上げたのです。(訳者注:新改訳には「シモン・ペテロは舟に上がって」とありますが、原語にはありません。口語訳は先に陸に着いていた「シモン・ペテロが行って、網を陸へひきあげると」となっています)ペテロは魚の入った網を舟に入れるのではなくイエスのもとに持って行ったのです。
魚をあなたの舟に入れようとするとき、網は必ず破れます。 収穫が「自分の成果、自分の栄誉、自分のミニストリー、自分のエゴ、自分の願望、自分の夢」になるならば、それは破滅への下地を作っているのです。多くの人は魚を自分の舟に取り込もうとしますが、それは自滅へと導きます。私たちはあくまでもキリスト中心であるべきです。私たちがイエスの十字架と血潮、御臨在の確かさに焦点を当てるなら、そして私たちのすべての業が自分にではなくイエス・キリストに焦点を当てるものであるならば、収穫があるばかりか、それは残り実を実らせるのです。
ヨハネ伝にはこの後に、イエスとペテロの会話が描かれています。イエスは「ペテロよ、あなたは羊を愛しますか?
それなら羊を養いなさい。」とは言われませんでした。主は「ペテロ、あなたは私を愛しますか?」と問われました。羊を飼うペテロの動機は、羊への愛ではなく、イエスへの愛であるべきだからです。人々はよく、「どれほどある国を、又ある人々を私は愛しているか」と言いますが、そのような愛があなたの動機ならば、もし彼らがあなたの背中を突き刺したとき、あなたは彼らを養う気持をたちまち失ってしまうことでしょう。
私は羊を愛していますが、それが理由で羊のところに行くのではありません。私の第一の動機は私が主を愛しているからです。私は主を愛し、主は羊を愛されるのです。私はそのために命を捧げています。あなたのキリストへの愛が再びすべてを越えるものでありますように。私たちの人生に主が再び第一のものとなり輝きでますように。
15節で主が「あなたはこの人たち以上に、わたしを愛しますか。 Do you love me more than these?(訳者注:原語の意も『these これら』であって、『この人たち』とは言っていない)」と訊かれたのは、「あなたはこの沢山の魚以上にわたしを愛しますか?」という意味だと私は思います。魚を獲ることはペテロの職業であり、大漁は彼の成功を意味します。ペテロにとっての成功、人生の目的がそこにありました。イエスは「それより以上にわたしを愛しますか?」と訊かれたのです。
主は私たちにも訊いておられます。「あなたは自分のミニストリー以上にわたしを愛しますか? 収穫よりもわたしを愛しますか?
成果よりもわたしを愛しますか? 成功よりもわたしを愛しますか? 癒しや奇蹟よりもわたしを愛しますか?」と。
魂の収穫はすばらしいものです。私たちはそれを求めます。しかしそれよりも私たちの主への愛がはるかにまさっていなければならないのです。なぜならば主への愛が一番になっているならば、他のすべてのものは正しい位置に置かれるからです。しかし、私たちがそのフォーカスを失うならば、網はやがて必ず破れるのです。
ある有名なミニストリーが崩壊したとき、友人がそのリーダーに崩壊の理由を訊ねました。彼の答えは次のようなものでした。「私たちは神が養うのではないモンスターを造ってしまいました。ですから自分たちでそのモンスターを養う方法を考えねばなりませんでした。」
また、私の友人の若い伝道者がある聖書大学でメッセージをしたとき、キリストの愛に迫られて泣いてしまいました。彼が話し終えたとき、 学長が「私もかつてはこの人のようにキリストへ愛に燃えていた。しかし今や私は学校運営のビジネスマンになってしまった。」と皆の前で泣きながら告白したそうです。
私はこれらの話を聞いて、「主よ、どうかこのような事が私に、そして今の世代に起こりませんように。どうか私たちが初心に留まれますように。自分のエゴを満足させるためにモンスターを造ることがありませんように。どうかお金を儲けるビジネスマンになりませんように。私は有名になったり、お金を得るためにミニストリーを始めたのではありません!あなたを愛する故に伝道者になったのです。あなたが召してくださったので、命をささげたのです。」
私はイエスが今、私たちを初めの愛に呼びもどしておられるのを感じます。それが出発点でしたし、私たちはそこに常に留まらねばならないからです。もし焦点が出発した時よりもずれてしまっていると感じる方、又動機がいろいろなもので汚されていると感じる方は、どうか心の中で主に祈ってください。「どうかもう一度正しい位置にもどしてください。あなたとアラインしますように。
他のことに心が動かされて間違った動機になってしまったことをお赦しください。 主が再び中心となりますように。成功とか、人々とか、お金とかではなく、屠られた小羊を高く上げることだけが動機となりますように。それだけが私たちの焦点となりますように。」と。 (終り)
信仰がそれを可能にするーー神を完全に信頼することによって クリスタル G.H.ロウリー
信仰がそれを可能にするーー神を完全に信頼することによって
クリスタル G.H.ロウリー
ヘブル11:19「アブラハムは、神が人を死者からよみがえらせることもおできになる、と信じたのです。それで彼は、その信仰によってイサクを死者の中から取り戻したのです。これは象徴的な型です。」(意訳)
神の声を知る
私たちは、物事に対する考え方・見方を、常識とは違ったやり方に変えて行かねばなりません。自分の生き方・考え方を、この世的、常識的な基準で行うならば、物事をはっきりと「信仰の目で見る」という見方が汚され曇らされます。ですから何であっても私たちが、物事への見方を信仰の目で見るようになれば、その信仰的な考え方が私たちの心と魂の中に取り込まれ、育まれ大きくなって行くのです。
この世が指し示す方法や方策が必ずしもすべて間違っているというわけではありません。しかし、 この世的な観点から物事を見始めるようにしないことが肝要です。すなわち私たちは、「神の声を知る」という土台からスタートせねばなりません。これが人生のすべてにおいて鍵となります。
大抵の場合私たちが「信仰」ついて考えるとき、それは「普通世の中の人々が考えるようなロジック(論理的で、理屈にあったこと)とは異なるだろう」と考えます。 「信仰で一歩踏み出すこととは、クレイジーと思えるような事を神は私たちにさせるのだ」と私たちは思いがちです。
しかし私が強調したいのは、もし自分の思考パターンが変革されれば、神が「せよ」と言われることがすべて通常のことのように思えるようになるのです。それが出発点です。歪められた考え方から出発するのではありません。真理であり純粋であられる神ご自身から出発するのです。ですからそれがロジカルでないことはあり得ないのです。
神をどのように喜ばせるか
ヘブル11:6「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」
神に喜ばれるには、神を信じなければなりません。つまり神を信じ信頼することが不可欠です。 信頼することなしにその人と関係を持つ事ができるでしょうか?健全な関係を築くためにはその人を信頼する信仰が必要です。そうでないとよい関係にはなりません。例えば、相手を信頼することなしに健全な結婚生活ができるでしょうか?結婚がうまく行くためには絶対に信頼が必要です。
神と私たちの関係においてもそれは真理です。私たちは神にのみ信頼せねばなりません。もし神への信頼という信仰が100%でなければ、私たちは完全に神を信頼してはいないのです。神が言われることは真理です。神は人のように偽りを言うことは決してありませんから、神のことばは絶対的な真理です。神は私たちの造り主です。私たちがどのように機能するかをご存知です。
神は私たちに何が必要かをご存知です。神は私たちが必要なものはすべてご存知です。神は私たちのすべてをご存知です。製品を作る人がそれを使用するためのマニュアルを作るように、神は私たちを完全に働かせる方法をご存知です。
信仰の父
アブラハムや彼が辿った信仰の旅路を思うとき、本当に多くのことを教えられます。アブラハムは信仰の父と呼ばれます。信仰についてより理解し自分のものとしたいならば、私たちは彼の人生から学び彼の信仰を調べてみるべきでしょう。
あなたがアブラハムだったらどうでしょうか。彼は故郷を出て約束の地へ行きました。どこに行くのか知りませんでしたが、出かけたのです。神は彼が多くの国の父となると告げました。
神は彼の子孫は天の星や海辺の砂のようにおびただしくなると言いました。アブラハムに約束された子孫の数は驚くべきものです。しかし、彼は年老い、サラも年を取っていました。彼らには子どもがなく、サラは子を産むには年を取り過ぎていました。アブラハムは一人の子を何十年も待ちました。待っている間にアブラハムは「年寄り」から「すごい年寄り」になってしまいました。お分かりでしょうか?アブラハムはただのお話の中の人物ではなく、実在していた人なのです。そしてついに、アブラハムとサラは約束の子イサクを授かりました。イサクから子孫が生まれました。イサクは賞品であり贈り物でした。彼は神の約束の最初のものでした。多くの子孫を得るために彼は不可欠でした。
信頼する決意
しかし、神はアブラハムにイサクを生け贄にするように命じられました。何ですって? そんなことがあり得るでしょうか?イサクは約束の子です。イサクが生け贄になったら、空の星や海辺の砂のようにおびただしい数の子孫がどうやって生まれるのでしょうか?イサクにはまだ子がいませんでした。アブラハムとサラにもっと子が生まれるのでしょうか?人間の思いの中にはこのような思いが起り始めることでしょう。
しかし驚くべきことにアブラハムは神に従ったのです。彼は従うことを嫌がりませんでした。私たちはこの話にあまりにも精通しているので、アブラハムがひとりの人間であったことを忘れてしまいそうになります。しかしアブラハムが私たちと同じ人間であったことを知るならば、私たちはここからすばらしいことを学べるのです!
アブラハムはひとりの人間にすぎませんでした。しかし、約束のものを取り去られるという事態に直面したときでも、彼はなお従ったのです。これがほとんどの人が信仰の崖からころげ落ちてしますポイントです。しかしアブラハムは堅く心に決めていました。彼は神に信頼することを、すでに堅く決意していたのです。彼は神が自分にとってすべての源であることを知っていました。これは本当にパワフルなお話です!
神のタイミングは完全
アブラハムがイサクに刀を振り下ろそうとしたとき、雄羊が丁度その時にあらわれました!神のタイミングは常に完全です。神を信じる信仰によって、神の完全なタイミングに働いていただくならば、私たちは完全な状況を生み出す結果が得られるのです。雄羊が生け贄としてささげられ、イサクは祭壇で殺されることはありませんでした。
もしアブラハムが友人たちからアドバイスを受けていたならば、どうだったであろうかと想像します。もしアブラハムが当時の専門家からアドバイスを受けたならば、多分確実に神に従うことと反対のことを言われたと思います。
アブラハムの友人たちやアドバイザーたちからのすべてのアドバイスは、この世が「良いアドバイス」と呼ぶものであったことでしょう。それは心配してくれる友人たちや専門家が良かれと思って与えてくれたアドバイスでしたが、「違う出発点」からのものだったのです。それは神の声を知ることに基づいていないのです。
この世の常識で生きるというベースラインを神のライフラインに変える
詩編101:6に「私の目は、国の中の真実な人たちに注がれます。彼らが私とともに住むために。全き道を歩む者は、私に仕えます。」とあります。もし私たちが誰かからアドバイスを受けたいならば、その人が真実で全き人であることを100%確信せねばなりません。その場合でさえ、神の声を知ることを土台にせねばなりません。それが私たちのベースラインです。それが私たちのライフラインです。
確かにアブラハムは神の声を聞いて知っていたのです。彼は神を絶対的に信頼していました。アブラハムは一生神と共に歩み、神を信頼し、信仰によって生きたことにより、自分の考えを変革できたのです。彼はロジカルと言われるこの世のベースラインを退けて、神の声に従うことがロジカルな最高の基準と受け入れたのです。信仰する対象は何でもいい、誰でもいいと言う訳ではありません。私の言う信仰とは神への絶対的信仰です。
絶対に神への信仰によってのみ生きると決意したとき、私たちは自分の考えを変革するのです。御ことばと神の声を自分の人生に注ぎ込むとき、それは生き生きと盛んになり成長します。信仰が人生の中に常に蒔かれ成長するならば、それはロジカルなものとなるのです。信仰は約束のものへのライフラインとなり、私たちは「信仰がそれをロジカルなもの、最も理にかなっている考えとしてくれた。」ということができるようになるのです。(終り)
「ただ一度のまなざしで」 フランシス・フランジペイン 2018年12月3日
「ただ一度のまなざしで」
フランシス・フランジペイン
雅歌6:10「このしののめのように見え、月のように美しく、太陽のように輝き、恐るべき事、旗を立てた軍勢のような者はだれか。」
人間は単に「宗教」を信じれば満足するようには創造されておりません。
自分の魂の奥底にある強い渇望を満たすためには「宗教」は不十分であることが、はっきりわかる時がくるのです。「宗教」は私たちを満足させないばかりか、イエスをも満足させません。キリストは私たちを実際に個人的に知りたいと思っておられることが聖書に書かれています。
マタイ7:22−23
「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」
あなたは「でも、主はちゃんと私たちを知っておられます!」というでしょう。勿論、主は全知であられますから、すべてをご存知です。しかし主は愛ゆえに、
主と常に一つに結び合わされた花嫁として私たちを知ることを願い求めておられるのです。主は私たちをご自分の血潮の代価で買い取られたのですから、私たちの魂、私たちの秘密、私たちの夢を所有する権利を持っておられます。主は誰も見ていないときのありのままの私を求めておられます。しかし、力づくでそれをしようとはされません。それは愛の方法ではないからです。
主がまず私たちを愛してくださった故に私たちは愛するのです。主がまず永遠の愛を誓ってくださった故に、私たちも誓うのです。キリストと共に生きる私たちの人生(愛によってキリストと私たちが一つとなる人生)だけが唯一キリストを満足させる教会のデスティニーです。終末の時代に私たちを支えるのは、キリストと一つになること以外何もないのです。
神は愛です
私は主を恐れることを知っていますし、それが真の知識の初めであることも知っています。そして主を恐れることを喜びとしています。しかしヨハネが言っているように、私たちは皆、神が私たちに持っておられる愛を知り、また信じる必要があります。
第一ヨハネ4:16「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は、神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」
パトモス島でイエスの足元に倒れて死者のようになった使徒が、後に「愛には恐れがありません。(第一ヨハネ4:18)」と言っていることを考えてみましょう。「聖なる恐れ」は私たちを罪から遠ざけ、義しく歩むための強い力になることを主は知っておられます。
しかし主に近づくためには、私たちは神への恐れ以上のものを知る必要があるのです。私たちは「私たちに対する神の愛」を知らねばなりません。第一ヨハネ4:18に「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。」とあります。私たちはこの「恐れを締め出す神の全き愛」を知らねばならないのです。この愛だけがキリストの花嫁をデスティニーへと導くことができるのです。
神の御こころ
今この文を読んで、「神を求めキリストに近づきたい」という思いがあなたの心に沸いてきたかもしれません。そのような思いが起こり、「主の臨在を求めよう」とあなたが感じたその時、キリストのこころの中にも何かが起こるのです。
主は「私の妹、花嫁よ。あなたの一度のまなざしであなたは私の心を奪った。(雅歌4:9)」と言われます。
あなたが 主を見るとき(それがほんの一瞬、「主と共にいたい」と願っただけであっても)、主の胸はときめき高鳴るのです。これが、「主と共にいたい」という私たちの願いに対するキリストの応答なのです。
イエスはただ悪を滅ぼすために地上に帰って来られるのではありません。主は花嫁のために来られるのです。終末における私たちの務めは、単に携挙や艱難ために備えをするだけではなく、キリストご自身をお迎えする備えをすることです!
黙示録19:7「私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。」
お分かりでしょうか、私たちの準備はキリストのためなのです。花嫁は、どんなことが世界を襲うのかという恐れでおののいてはなりません。花嫁はこの世に来られる方への愛で満ち溢れているのです!私たちは単なるデイトではなく結婚のために整えられているのです!イエス・キリストにとって花嫁(教会)ほど重要なものは他には何一つありません。主が死なれたのは花嫁のためであり、生きてとりなしをされているのも花嫁のためなのです。
主の愛は私たちを完全に贖う力を持っています。私たちが果たすべき最も尊い務めは、私たちの一瞬のまなざしにさえ胸をときめかせてくださる主に、全てを臆することなく投げ出しお委ねすることです。
(祈り)主よ、告白いたします。私は忙しさのために集中できず、私がしなければならないことにだけ心を騒がせていました。実際あなたのために働くことをさえ、あなたの御臨在に留まることの代わりにしていました。私の魂を愛する主よ、悔い改めます。あなたが私を知っておられるように、私もあなたを知ることを願います。主よ、御そばにまいります。(終り)
2018年秋の日本訪問を終えて(3) 坂 達 也 2018年11月25日
2018年秋の日本訪問を終えて(3)
坂 達 也
霊の目が見え、霊の耳が聞こえるようになる訓練
エペソ人への手紙1:18に「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって・・・」と書かれていますが、それがどういう意味かお分かりでしょうか。喩えるならば、あなたが誰か高貴な人を後ろの座席にお乗せして車を運転しているとします。その時あなたは後ろは見えなくても、そこにその方がいることを実にリアルに感じるはずです。その方がイエス様であれば尚更です。これは「あなたが主の臨在を心の目で見ているから」と言えないでしょうか。そうであれば「心の目で見る」こととは、そんなに難しいことではないはずです。
しかし主は「・・・彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。」(マタイ13:13)と嘆かれました。その後に続いて「あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見ているが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。」と主は叱責され、イザヤ6:9の預言が成就したと言われました。この叱責は私たち多くのクリスチャンに対して当てはまります。
これからしても先週の報告(2)の冒頭で私が述べたように、人間がこの世に生まれた目的を果たすためには私たちの霊の目と霊の耳を訓練することがまず最低限必要であることが分かります。そして、多くのクリスチャンは分かってはいても、いつまでたってもそれができないのです。「でも私は聖書を既に何度も読んだのになぜできないのか」と言われるかも知れません。その理由は、聖書を只読むだけでは単に頭の知識として知っているだけで「絵に描いた餅」に過ぎず、実際に訓練しなければ「霊の目、霊の耳」は出来てこないのです。
それではどうすればよいのでしょうか。それは全ての技術習得に通じますが、訓練です。そこで私は今回の旅行でその訓練の方法の一例として私自身の経験をお分かちしました。
霊的な意識と感覚を磨ぐ訓練
1)先ず第一に「私はどうしても主の御声を聞きたい、御姿を見たい」と日夜願い、主にしつこく嘆願することから始めなければなりません。断食祈祷もよいでしょう。問題は「やる気」と「決意」です。それには持続する情熱が必要です。
2)次にどこに行くにも必ずノートと筆記用具を携帯する。特に、寝る前にベッドの横にノートを用意しておくことから始めてください。その理由は、人間は自分の意思とは無関係に夢を見ますが、時に神は夢とか幻で私たちに伝えたい「メッセージ」を見せてくれます。しかし問題は、多くの場合朝起きた時、肝心の夢の内容を忘れてしまうーそんな経験をしたことがありませんか。従って、ノートを用意し「主よ、その時は必ず起こしてください。」と日頃お願いしていれば、主は起こしてくださり、書き留めることができるようになります。これは「意識の訓練」と言えますが、大切なことは、書き取った主からのメッセージを何度も見直すこと、そして、必ず実行に移すことです。
3)主は多くの場合、不意に全く予期していないときに語られます。しかし、それが本当に「主からだ!」と気づくためには、いつも主への意識と期待を持っていなければなりません。私にとっては、これこそが「常に主と共に歩む」ための最も重要な訓練であると思っています。そして主が語られたことを、出来るだけ早くノートに書き付けます。私はこのために今回日本でポケットに入る小さなノートブックを追加で入手しそれ一杯に走り書きしました。ある時は紙が無くて咄嗟に近くにあった買い物の包み紙の上に書きました。大事なことは、それらのノートを時間ができた時に、毎日付ける日記に書き写し、時折、見返すことです。
特に、礼拝で説教を聞いているとき、あるいは人の話を聞いている最中に、主がその話している人を通して「あなたへのメッセージ」を語って下さいます。これはその場に聖霊が溢れているような時によく起こります。
くどいようですが、なぜノートを取る必要があるのでしょうか。それは、そうすることによって私たちが誠心誠意主のお話を一つでも聞き漏らさないという「決意・決行の態度」を主が大変喜ばれるからです。そうすると主は常に私たちと歩きながら、どんどん語ってくれるようになります。
私はこの方法をリック・ジョイナー師から学びました。彼はそうすることによって段々に主から預言をいただけるようになった言われます。
勿論、私が今ご紹介した方法は、むしろ補助的な意味で申し上げたのであって、要は、いつも栄光の主を心で見上げ、意識して「絶えず賛美し、祈る」ことにあることは言うまでもありません。そしてその目的が、主との絶え間ない個人的なコミュニケーションを持つことを助長する「主と共に歩む」訓練であるからです。
マタイ6章にある「主の祈り」を祈る大切さ
今回、私が日本で語らせていただいたメッセージの一つに「主の祈り」の大切さがあります。そこで重要なことは、当時の使徒たちが、他のことはともかく、敢えて主に「祈り方」を教えて欲しいと願い出たことです。皆さんなら何を主に教授して欲しいとお願いするでしょうか。「あらゆる病気の癒し方」「悪霊追い出し」や「死人を蘇らす方法」あるいは「風とか湖水を静めること(自然に向かって命令すること)」でしょうか。主イエスはこれらを全て弟子の見ている前でなさいました。弟子はそれ等が全て信仰さえあれば可能であることを実習訓練を通して学び納得していたのです。その上で何をどうしても主から学びたかったのでしょうかーーそれは「主の祈り方とその態度」であったと思います。主は人里離れた場所で一人になり、天の父と向き合うその真剣で熱烈・真摯な主の姿を見ていたからです。
主の祈りとは元々マタイ6:6にあるように「祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。・・そうすれば報いてくださいます。」と主が言われる祈りです。ところが多くの教会では、毎週日曜日の礼拝時に全員で声を出して祈リます。残念なことに、それは形式的、宗教的な虚ろの祈りになってしまっていないでしょうか。
むしろ主の祈りとは本来、私たち神の子と御父との深い絆の関係、すなわち真のコイノニアの祈りであり、完全な霊の祈りであると思います。
そこで主が教えてくださった祈りを見てみましょう。ここで一つ重要なことは、これは主が祈れと言われた祈りですから、この祈りを正しく信仰で祈れば間違いなく聞かれるはずであることです。ですから主は今回最初に私が訪ねた教会に行く前に「主の祈り」を「こんなうまい話はない。」と前置きして語りなさいと、おっしゃいました。しかしその意味するところが、実はとても深いことが段々と示され、旅の終わりには予想もしなかった究極の真理を教えられました。
6:9「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますようよ。」ーーこれは親密な父と子の間にだけある深い愛の告白、それは私たちが持つ御父への心からの敬慕と栄光を讃える祈りであると思います。ビル・ジョンソン師は、父とそのような関係に入るには、父との間に「継ぎ目のないつながり seamless connection」を築くことであると言い、その例としてヨハネ15章で主が例えられた「ぶどうの木と枝の関係」を挙げています。私たちと主がいつもつながっていれば、何もしないでもそれだけで多くの実を結ぶ、同時に主は「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」と言われたことは本当に心すべきです。
6:10「御国がきますように。御心が天で行われるように地でも行われますように。」ーー私たちがこの祈りを祈れば、天に行かなくとも、その前にこの世が天のようになり、すべて御心が行われるようになるのですから、こんな素晴らしい話はありません。しかし、私は思わされました。ーこの祈りを私たちに教えられた主イエスは、ゲッセマネで弟子たちが見ている前で「わが父よ。できますならば、この盃をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と祈られたことを。(マタイ26:39)そうであるなら、私たちもこの祈りを祈る時、この地で私たちの願いが実現するために祈るのではなく、すべてのことが主の御心でなされることを願う祈りとして祈るべきではないでしょうか。キリスト者である私たちは、主と共に十字架について死に、主と共によみがえって、今は一心同体で生きているのですから。
6:11「私たちの日毎の糧をきょうもお与えください。」ーー6:8で「父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」と書かれていますから、私たちに日毎必要な肉の糧はすべて必ず与えられます。しかし10節の祈りと同じく、私たちが望むものではなく、すべて神が与えて下さるもので満足すると決意して祈ることが重要なポイントですし、その祈りが神に栄光を与えるだけでなく、私たちにとっても究極的に最高の結果を得ることになることであることを思わされました。
6:12「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」ーー主イエスはすべての人間の罪(負いめ)を赦すために死なれました。そうであれば私たちが、主に忠実に従う弟子であり、また永遠に主の花嫁として一心同体となるのであれば尚更のこと、単に私たちに負いめのある人だけを赦すのではなく、一見負めのないすべての他人の罪をも、主が赦されたと同じように赦すべきではないのでしょうか。そのことがマタイ6:14、15に書いてあります。
そうであるなら一番赦せないのが夫婦となった相手であり、加えて一番親しいはずの肉の兄弟姉妹とか、家族の間での不和話が絶えないのがこの世の現実であるというのはどうしてでしようか。神がこの世を造り、最初の人間に罪を犯させた上で、そんな罪だらけのこの世に人を生まれさせて苦労させることに目的があるのではないでしょうか。
人間を男と、そして男の一部から女を造り、その一対の男女から子供が生まれ、それが家族となって子孫を残すようにされたことには、本当に深い意味があると思いませんか。この「夫婦関係」はこの世だけのもので天に戻れば解消されます。これからしても私が先週書いた報告(2)の冒頭で述べたように、「天で霊と魂で生まれた人間に、創造主の神は霊的成熟を目的として一時的にこの世に生まれさせ、苦労をさせて霊的訓練するのがこの世で生きる目的である」と申し上げたことが事実であると思いませんか。
6:13「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」ーー
「私たちを試みに会わせないで」という意味は、私たちが耐えられないような試練には会わせないように」という意味です。そのことは1コリント10:13に書かれていますが、私たちに霊的訓練をさせることの目的がヤコブ書1:2−4、12に次のように書かれています。
「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つかけたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。・・・試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」
上記のみ言葉は前にも書きましたが、エノクを思い起こさせます。エノクは主にあっていつも喜んでいました。それで彼は死を経験することなく、天に挙げられたのです。それによってエノクは「主とともに歩んだ」人と書かれています。
ご参考までに、「私たちが主に喜ばれるクリスチャンになるとは、どのような人間になるのか」について使徒パウロが次のように言っています。「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」(ロマ書14:7、8)
そのようなクリスチャンになれば、勿論主は必ずいかなる悪魔の攻撃からも守って下さることは言うまでもありません。しかし主は私たち自身が主の御名で悪魔勢に勝利することを望んでおられます。なぜなら主イエスが既に勝っておられるからです。
これで今回の日本旅行の報告を一応終らせていただきます。今回は各地で心から主に飢え渇いておられる方々がお集まりいただき、どの集会にも真ん中に立って喜んでおられる主のご臨在を強く感じましたことは、私たち夫婦にとってこの上ない励ましとなりました。その集会でいただいた油注ぎと、多くのWWGMの皆様のお祈りが相まって、来日前に患った私の軽い脳梗塞の症候が旅の終わりには全くと言ってよいほど無くなり、元気回復しました。最後にそのことをお伝えすると共に、主にあって心から厚く御礼申し上げます。
リバイバルの兆しは日に日に増して来ています。主がそのための備えとして発せられた「大宣教命令」に今、呼応する選ばれた精鋭が続々と起こされつつあることを今回日本でも目の当たりに見させていただき、心からお喜び申し上げます。(終わり)