15 12月
「主の家」 フランシス・フランジペイン 12月14日
主が家を建てられる時
フランシス・フランジペイン
キリストの教会が天と完全に一致調和する時、主の霊が私たちの町を覆っている暗闇の力を除き去ってくださることが、実際起こりうるのです。主の臨在がどれだけその町を守るかは、教会が神とどれほど密接に結び合わされているかの度合いによって決まります。犯罪も不道徳なことも、神との結びつきが強いほど減少し、リバイバルが自然に起こり始めます。しかし、あらかじめ警告しておきますが、主の家を建てるのが主である時にのみ、主が私たちの町を守ってくださるのです。(詩篇127:1)
集合的な町の教会
「神殿は、建てるとき、石切り場で完全に仕上げられた石で建てられたので、工事中、槌や、斧、その他、鉄の道具の音は、いっさい神殿の中では聞かれなかった。」 I 列王記6:7
過去数年の間、神様は教会を「石切り場」におかれました。そこで、リーダーたちの形を削り、彼らが主の家の一員となるにふさわしい心を持つようにと砕き整えられました。キリストという御言葉の金槌で、多くの牧師や信徒たちは、今まで持ってきた岩のようにコチコチの宗教的、教義的な見解を打ち壊されました。神様は彼らの持つキリスト教の定義を、シンプルで、純粋に、キリスト個人への熱愛だけを問題にすると言う、本来の聖書的教義へと変えてこられました。(IIコリント11:3参照)
それと同時に、主は、人間の本質であるねたみと利己的野心という根源に斧を置かれました。(ヤコブ3:16参照)世界中で、男性でも女性でも神の聖徒である者たちは、生ける主の神殿となるようにぴったりと組み合わされつつあります。 彼らの心に燃えているのは、一つの町の総ての教会が一致して一つの教会になるという新しいヴィジョンです。
それぞれの教会の信徒たちが集まることによって、神のしもべたちは一つの町の教会を建て上げようとしていますが、それは、アメリカ流の自分を売り込んだり人間的に事業を拡大したいという思いからではなく、町全体の教会の合同の祈り会と、(純粋に)クリスチャンの愛を土台として、その「町の教会」を築き上げているのです。大きな熱情と深いへりくだりをもって、彼らはただ一つのことを目標としています。それは、キリスト御自身が教会(キリストのからだ)の中に形造られることです。(ガラテヤ4:19参照)
そうすることによって、彼らは主の家の基礎を築いているのです。これらの「生ける石」 が、いかに互いに愛をもって受け入れ合い、いかにぴったりと組み合わされているかという事実は、キリストの知恵と力がどれほどすばらしいかを証明しています。それはちょうど、ソロモンが主の家を建てた時「工事中、槌や、斧、その他、鉄の道具の音は、いっさい神殿の中では、聞かれなかった。」とあるように静かに進められているのです。
これら男女の聖徒たちは、しばしば非常に異なった教会のバックグランドを持っているのですが、お互いの教会へと出かけて行って、ともに肩を並べて祈り合うようになっています。彼らの共通の祈りは、全能の神が自分たちをキリストにあって一致させ、主の家を完成させてくださること、そしてそれによってキリストご自身が彼らの町を癒してくださることです。
神様は彼らの祈りに答えてくださるでしょう。 町のすべての教会が一致して祈るところに今、主の家は姿を現しはじめているのです。金槌でたたかれ、寸法通りになるように削られた困難な時代は終わろうとしています。霊的な力の時代が近づいています。
キリストの従順
この働きは妥協で生まれるものではありません。 このムーブメントの目標が一致であると考えるのは間違いです。そうではなく、私たちの目標は従順なのです。
すべての者が神に従順になり、キリストに似たものになりたいという願いを持ち、祈るとき、「一致」という言葉に新しい意味が与えられました。私たちの焦点はキリストにあるのです。パウロは、「すべてのはかりごとをとりこにして、キリストに服従させ」るようにと、教会に教えています。(IIコリント10:5)
私たちの思いの中で、まだキリストのとりこになっていない領域というのは、地獄との戦いに負けつつある領域です。しかし、私たちのヴィジョンが主にだけ焦点が向けられ、従順によって主に似るものとなってくると、パウロが語っている結末が達成されます。 「また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。」(IIコリント10:6)
この箇所が意味することを全部説明しようすれば、それは単なる憶測の域を脱しないものになると思います。パウロが血肉のことをここで言っているのではないことは確かです。彼は血肉によって戦っているのではないからです。(エペソ6:12参照) ここで言われているのは、教会の従順が完全にされた暁には、この世がまだ見たことがないほどのものすごい(超)霊的な力が現われるであろう、と言うことです。
この超レベルの霊的な力はパウロの時代には実現しませんでした。確かに十字架によりこの世の君が裁かれ、無力にされ、武器を取り上げられたことは起こりましたが、すべての不従順は一世紀には明らかに罰せられるには到りませんでした。主ご自身にお聞きしてみましょう。「従順が完成された教会が霊的邪悪さや不従順を裁くことが出来ることは分かりますが、それ以外にも、多くの都市が開放されると言うようなすばらしいことがそのような教会から生まれて来るのでしょうか。」と。
主が都市を守られる時
「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」 詩篇127:1
この箇所を調べる前に、ヘブル語の聖書の特徴を説明することが大切だと思います。旧約聖書の著者は多くの場合、真理を伝えるために同じ意味のことを2回繰り返しました。特に詩篇と箴言によく使われる手法です。 例として、「人はその口の結ぶ実によって腹を満たし、そのくちびるによる収穫に満たされる。」 箴言18:20 ここでは、同じ内容が二つの言い方で2回表現されています。 もうひとつの例です。「私は、口を開いて、たとえ話を語り、昔からのなぞを物語ろう。」 詩篇78:2 ここでは美しくかつ機能的な詩的リズムで真理が伝えられていますが、 2つの関連した考えを一つの慣用句にまとめてあります。
それと同じように、詩篇の作者が「主が家を建てるのでなければ 、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」 と言うときは、同じ真理を2つの言い方で言っているわけなのです。
この2つを繋げているのが、主の働きです。即ち、「主が建てる家は立ち、主が守る町は守られる」のです。主はどのようにして町を守られるのでしょうか。主の家は「祈りの家」です。とりなしの祈りが神の臨在を町の中に招きます。言い方をかえれば、「主が家を建てられるときに、主が町を守られる」のです。 主の建築計画には、主の民が主の油注ぎによって力を得て、祈り、町を愛し、町のためには労を惜しまない、ということが必要とされています。 主の家が建つことによって私たちのコミュニティーは変えられて行きます。
イエスご自身も「・・・わたしの教会を建てます。 ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(マタイ16:18)と約束されてこれを裏づけされています。つまり、主の家が主の御言葉にしたがって建てられるとき、個人や町に対する敵の要塞は打ち砕かれると主は言われているのです。
ひとつの町にリバイバルが起こると、天にあるもろもろの悪霊どもの力はどうなるのでしょうか。答えは、その地域の教会に満ちる神の霊がそれに置き換えられるのです! パウロはエペソ3:10で、天にある支配と権威に対して神の豊かな知恵が示されるのは、「教会を通して」であると言っています。 それでは、霊的領域では何が起こるのでしょうか。教会はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって祝福されています!(エペソ1:3) この場合、地域社会に及ばされるすばらしい影響力は天から来ます。主が町を守られるのです!
教会がキリストの指示通りに建てられず、利己的で分裂した状態にとどまるとき、暗闇の主権や力は町の人々の魂により大きく影響を及ぼす権利を手にいれます。このような町では、悪の霊が町を見張ります。これが本当かどうかは霊的識別力があまりなくてもすぐに分かります。郊外から車を走らせて、ある都市に行く機会があれば、その都市に入るときにそこに重苦しい雲がかかっているのにはっきり気がつくでしょう。この目に見えない壁が、この地域を圧迫して支配している悪霊の影響力の縄張りの境界なのです。その都市のサタンの力は「十分に武装している強い人」であり、「自分の家を守っていて、その持ち物は安全なのです。」(ルカ11:21)しかし、町のすべての教会がキリストに従順になるとき、すべてのクリスチャンがひとつにされ、地獄の力によってもその一致は阻止されることはありません。 教会の祈り、愛、行動を通して、主が町を守られるのです。
何でもあなたがつなぐものはつながれる
霊的世界と人間の思いや行動との相互作用について御説明しましょう。 霊的領域は天使、あるいは、悪霊によって占領され、それがどちらになるかは地上にいる人間がとる態度によって決定されるのだと、私は考えます。地は主のものではありますが、主はすべてのものを人間の足もとに、つまり、人間の責任下に置かれました。
サタンがイエスにすべての世界と栄光は「私にまかされている」 と言ったのは、半分だけ真実でした。世界は確かにサタンに渡されましたが、それは神によってではなく、人間が渡してしまったのです。
「サタンは私たちの家の近所や町を攻撃する許可を神から受けている。」という間違った考えを私たちは持ってしまっています。確かに、サタンは暗闇の領域へ侵入することはできますが、そこを占領できるのは、人間が罪を犯すことによってサタンにそうすることを許してしまう時だけなのです。
イエスはそれ故に次にように言っています。「何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」(マタイ16:19、マタイ18:18) この2つの箇所は、一見異なった状況の中で同じことを教えていることに注意してください。マタイ16:18-19では、サタンを取り扱っており、マタイ18:15では罪を取り扱っています。 この二つの領域は相互に関係しています。人間の罪―悪い考え、言葉、行動―そのものがまさに私たちの町を支配するサタンの要塞になっているのです。ですから、教会の義が増し加われば加わるほど、サタンの隠れ家を奪うことができ、霊的領域からサタンを追い出すことができるのです。サタンは忍び込もうとするかもしれませんが、居座ることはできません。 教会が真に神に近づくとき、サタンは逃げ去るのです。
新しいヴィジョン
私たちが主の家を建てるために共に働くならば、私たちの力は減少するのではなく増大します。私の町のある牧師が、中絶クリニックとアダルト・ショップの前でデモをして神様のために働いていました。町にある多くの教会が共に祈る前は、このデモに参加する人は一番多い時でも120人でした。しかし、多数の教会が彼と祈りを合わせるようになった時、4000人以上が中絶反対のデモに参加したのです。その後は、テレビや新聞の胎児(の命)に対しての見方は、もっと理解の深いものとなりました。
町の教会が一致すると、ティーンエイジャーが受ける恩恵はすばらしく大きくなります。町全体のユースグループに大勢のクリスチャンのティーンエイジャーが集まって一致している様子を想像してみてください。 年長のティーンエイジャーは若い者に対してリーダーシップをとったり、牧会的な世話をする訓練をそこで受けることができます。
海外へのミッションが大切なことに変わりはありませんが、牧師たちはまず自分たちの町が第一のミッションの地であり、それをサポートすべきだと言うことが分かり始めて来ました。地域の牧師たちが協力して信徒たちを訓練し、同じ町の他の教会を建て上げるためにそこに派遣するようになって来ています。はっきり言って、一体現在の教会と「主の家」との違いは何なのでしょうか。過去において確かに主は教会をリバイバルで訪れて(visit)くださいましたが、主の家では主は力をもって住んで(dwell)くださるのです。癒しと開放は当たり前のことになるでしょう。聖さと恵みが満ちます。 主の家が建てられると主の守りがそこにあるのを人々は感じるのです。
生きた証
私たちの教会はアイオワ州のシーダー・ラピッズという町にあります。私たちがこの町の他の牧師やとりなし手と共に祈り始めたとき、アイオワ州全体では、凶悪犯罪が11%も増加していました。 しかし同じ時期にシーダー・ラピッズでは、