WWGM

Walk With God Ministries

25 03月

神と人とに愛される  ポール・キース、ボブ・ジョーンズ 3月25日


神と人とに愛される               

    ポール・キース & ワンダ デイビス, ボブ・ジョーンズ                       

私たちは今、非常に重要な時代に生かされています。聖書の中に書かれている「終末に起こる重大な出来事」が、今まさに、私たちの周りで毎日のように起こっています。私たちは人間の歴史の中で「時が満ちた」といわれる分岐点にさしかかっているのです。

確かに、私たちが、祈りによって神の憐れみを乞わねばならない悲惨な事件も多く起こっていますが、それと同時に、神の偉大な訪れを予期させるような、励まされる「しるし」も起こっています。多くのクリスチャンや教会は、今や、神の王国を大きく押し広げ、前進させていく事ができる場所に、霊的に配置されています。私たちの一番の目標は、暗やみに住む失われた現代の人々にイエス・キリストを示し、主の王国の勝利の力を表わして行くことです。

初代教会の弟子たちに与えられたのと同じ任務の遂行が、私たちにも課せられています。即ち、私たち神の民は「天の御国は近づいた。」とこの世に布告しなければいけないのです。このメッセージを伝えて行く時に、私たちは、病人を癒し、死人を蘇らせ、らい病人を癒し、悪霊を追い出す(マタイ10:7,8)ことをもして行くのです。私たちの基本的な目標がそれ以下であってはならないのです。

1940年から1950年代にかけて「後の雨、ラター・レイン」という癒しのムーブメントが起りましたが、その時に与えられた霊的な油そそぎを主がもう一度解き放ってくださるタイミングは、ヨハネ・パウロ二世の死がその一つのサインになるであろうと、主は数年前に私に語られました。私たちはこのメッセージを様々な機会に語り、また書きあらわして来ました。

私たちが今果たすべき責任は、破れ口に立って主が恵みをもって回復のミニストリーを解き放ってくださるようにと嘆願し、叫ぶことです。私たちは、前の時代の人々に主が与えられた約束と任務をもう一度取り戻し、それに新しいフレッシュな主の息吹を吹き込むのです。

預言者イザヤは、イスラエルの歴史の中で、現代とちょうど同じような時について語っています。それは、契約の民イスラエルが長子の権利を略奪され、敵に相続財産を奪われてしまった時のことでした。

「これは、かすめ奪われ、
略奪された民のことであって、
若い男たちはみな、わなにかかり、
獄屋に閉じ込められた。
彼らはかすめ奪われたが、助け出す者もなく、
奪い取られても、それを返せと言う者もいない。
あなたがたのうち、だれが、これに耳を傾け、
だれが、後々のために注意して聞くだろうか。」 (イザヤ42:22,23)


天に向かって嘆願し、敵の陣地を襲撃して相続財産を奪い返すことのできる権威の油注ぎを受けた人々を、主は今、求めておられると信じます。敵に渡してしまった賜物、油注ぎ、任務、約束をすべて取り戻さねばならないのです。この任務を遂行するために主は恵みを与えてくださいました。主よ、どうかこの事が出来るように私たちを助けてください!


神と人から愛される                
      ポール・キース・デイビス

私たちや又、他の人々が主にお訊ねしてきた質問がいくつかあります。それらはとてもシンプルですが、非常に深い意味を持つ重要な質問です。

1. 神は私たちに何を望んでおられるのか。
2. 私たちは今の時代に何を望んでいるのか。
3. 天国の通貨は何か。
4. 神に目を留めていただくにはどうすればいいのか。

これらは聖書的で正当な質問であり、それに対する聖書的な油注がれた答えがキチンとあるのです。

ソロモン王はこの地上で生きた人の中で、(イエス様は別にして)最も知恵ある最も油注がれたリーダーでした。彼は、リーダーとして成功するために鍵となるものを、聖霊によって次のように書いています。

「恵みとまこととは王を守る。
 彼は、恵みによって王位をささえる。」 (箴言20:28)


今の時代の人々を神の方法で霊的に目覚めさせるには、恵みとまことが必要不可欠なのです。
聖霊様は最近、何度もこの事実を強調されています。もし、私たちが主の柔和さを自らの生き方であらわし人に示して行くならば、私たちはその時に主の力をも受けることが出来るのです。もし、私たちが主の従順さを持つならば、主の復活の力をも受け取ることが出来るのです。

モーセの模範

 聖書に、地上のすべての人にまさって柔和であった(民数記12:3 口語訳)、と書かれているモーセは、イスラエルのリーダーとして、長く待ち望んだ約束の地をあと一歩で相続するというところまで来ていました。しかしながら、これが彼のすばらしいところですが、彼は神の約束を手に入れる事だけでは満足せず、神の臨在をも切に求めたのです。この事は私たちが、神の臨在を求めることなしに、預言で約束されたものを手に入れようとする、という愚かな行動をとることも可能である、という事実を示しています。

モーセの心は主の約束と主の臨在を求めただけでは満たされず、そればかりか、彼は主の栄光を見ることを望みました。ですから、私たちも同じようにこれらのことを期待し、求めるべきなのです。

主がモーセの前を通り過ぎるときにこう宣言されました。

「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者、父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」(出エジプト34:6,7)

恵みとまことに満ちている、とは、神のご性格そのものなのです。


神に目を留めていただく

 1995年4月28日に、私はあることを示唆する夢を見ました。夢の中で私は、ラター・レイン(後の雨)リバイバルの著名なリーダーの一人をよく観察することが出来ました。実際、彼はラター・レインのムーブメントを起こしたと言われている人でした。

聖霊様はこのへりくだった一人の人を使って大きな業をされました。多くの著しい奇跡が起こったので、多くの歴史家たちは、彼を通してこのような神の霊の降り注ぎは、初代教会以来のものあった、と評価しています。このムーブメントの中で、彼や、彼を通して主に触れられた人たちのミニストリーによって、実に何百万という人たちが、救われ、癒され,開放された のです。

この人の何が主の目にとまったのでしょうか。このように重要な任務を与えられ、天の恵みを買うことのできる天国の貨幣を手に入れることが出来たのは、彼のどのような資質によるのでしょうか。私はこの問いを、夢を見る前からずっと心に持っていたのでした。

夢の中で彼が語るのを聞いていた時、私は彼の首に何かがぶら下がっているのに気がつきました。それは革の紐にさげられた馬蹄形の飾りで、胸のあたりにぶら下がっていました。時々彼はその馬蹄形の飾りを自分の口の中に入れるのです。するとそれは彼の身体の一部のようにぴったりと彼の口にはまり、それと同時に、彼の口からはすばらし霊的真理が語られるのでした。

つまり、この飾りが何を意味するにせよ、それを口に入れると彼は地上での神の代弁者、スポークスマンになることが出来るのでした。確かにいつの時代でも、神の御心をはっきり語ることが出来る人たちがたくさんおります。教会は天国を顕すものになるという召しを受けていて、私たちは神の王国を代表する油注ぎと権威を授けられた大使なのです。

私たちが神の力をこの世にあらわしていくときに、その力を大きくするために私たちに求められる非常に大切な資質があります。夢の中の馬蹄形の飾りを見た時、私は直観的に、それは彼が神とよい関係をもっている秘訣の一つであることがわかりました。

それから、私はこの夢の霊的意味に確証を与える聖書の箇所として箴言3:3,4を示されました。

「恵みとまことを捨ててはならない。
 それをあなたの首に結び、
 あなたの心の板に書きしるせ。
 神と人との前に
 好意と聡明を得よ。」


恵みとまこと(Kindness and Truth)

知恵の霊は、決して恵みとまことを忘れることのないように、と私たちを訓戒されています。それを首飾りのように首につけ、心の板に書き記されねばなりません。そうする時に私たちは、神と人との前で好意を得ながら歩むことが出来るのです。

多くの者たちは人との関係においては信頼を得ていますが、神との間では得ていません。又、ある人たちは神との縦の関係は築いていますが、人とはあまり深くかかわっていません。変わることのない「恵みとまこと」という資質は、神との関係と人との関係のどちらをも私たちに与えてくれます。この二つの徳を養い育てることによって、私たちは神と人との両方の確かな信頼関係を結んで生きることが出来ます。

私たちが首にかけるものは、とても重大な価値のあるものを表わしています。例えば、偉大な富のしるしを人にあらわすために私たちは高価な宝石を首飾りにします。恵みとまことの資質は霊的富の大きさを表わすために私たちの首にかけられるべきものなのです。

古代に人々は、自分にとって最も神聖な言葉を羊皮紙に書いて、それにひもをつけて首にかけ、自分にとって何が一番大切かと言うことをいつも忘れないようにしました。

それに加えて、「恵みとまこと」は私たちの心の板に書き記されねばなりません。人の心とはその人の存在の核心です。心に何かを刻むならば、私たちのすべての行動の上にそれが書き写されます。

それは単に言葉を知的に理解するとか、意味もなく言葉を機械的に反復することではありません。それらは私たちの存在そのものに影響を与えることの出来る心の内から湧き出る資質です。それによって私たちの口から出るすべての言葉、すべての行いは「恵みとまこと」を着せられて出てくるのです。

恵みとまことを理解する

この箴言の中の「恵みkindness」という言葉は、ヘブル語で「checed」です。旧約では240回使われていて、神のご性格を理解するうえで最も大切な言葉の一つでり、「あわれみ mercy」と訳されていることも多い言葉です。 それは又、恵みとあわれみという概念だけではなく、同情 (compassion)、誠実 (royalty) という意味も含んでいます。

「恵み(kindness 親切)はただである。」といった人がありました。又、ウイリアム・ペンは「私は人生は一度きりだと思う。だから、もし何か恵みを施す機会があるならば、また、何か善を施すことが出来るならば、後に延ばしたり、怠ってしないことがないように、今それをさせてもらいたい。ここを通ることはもうないだろうから。」と言ったといわれています。

人に恵み、親切を示すのにはお金はかかりません。神の性格を持ちたいと願う人の個人的な選択で出来るのです。それに加えて、神の御性質にあずかることが終末の神の軍隊には必要不可欠であると御言葉にもあります。(第二ペテロ1:4参照)

次に、「まことtruth」という言葉は「emeth」という語根からきていて、「真実な証言」という意味を持っています。また、忠実、不変、信頼出来る言葉、などの意味も含みます。

「まこと・真理」は神の証印です。真理の御霊は私たちをすべての真理に導かれ、よって
すべての偽りや偽善の企てを取り除いて下さいます。

聖なる飾り物をつける

「恵みとまこと」は、神と人から好意をもたれるための不可欠な徳であると言われています。この二つの性質を私たちがしっかりと心に抱きしめ育てていく時に、この世に神の救いと力の衣を運んで行くために必要な完全は霊的な力を、私たちは持つことが出来るのです。

使徒パウロを通して、聖霊は「神が喜ばれる心」を次のように表わしています。

「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なもので 
 なく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人
 がらを飾りなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。」(第一ペテロ3:3,4)


  この箇所は、直接的にはパウロの時代の婦人たちに対して語られたものですが、神が外面的な美しさに重点をおくのではなく、内面の美しさをもっとも喜ばれるということを私たちに教えています。私たちは外面だけではなく、「朽ちることのない柔和で穏やかな霊と言う心の中の隠れた人がら」を飾らねばならないのです。これが神にとって価値のあるもの、即ち、天の貨幣である、とパウロは言っているのです。 (終り)

トップページに戻る

22 03月

天国の門       坂 柚実子  3月22日



天国の門

ティンデイル現象というのをご存知でしょうか。「多数の粒子が散在する媒質中に光を通すと、通路が散乱光のために光って見える現象」と辞書にありました。雲の間から光がさしてそれが放射状に地上にむかってさしている現象です。よく絵画にも描かれていて、いかにも「天国への入り口」という感じに表現されています。

ティンデイル現象にしても、虹にしても、科学的にそれなりに説明はできるのでしょうが、やはり、それを見たときに人は「科学」以上のものを感じます。詩人のワーズワースは「My heart leaps up when I behold a rainbow in the sky」と詠っていますが、虹を見て嬉しくない人は多分いないでしょう。また、天から射している光の入り口を見るときに、人は誰でも「天国」を思うのではないでしょうか。

「天国の門」というジョン・ポール・ジャクソンの文を3月6日にこのサイトに掲載しました。お読みくださったでしょうか。とても興味がある記事だと思います。この地上に特別に天国まで続いている門があるというのです。ヤコブが石を枕に寝たときに天使がはしごを上り下りしているのを見ましたが、その場所も特別の天国の門だったということです。

エルサレムも神様から祝された主要な天国への門だということで、エルサレムで祈ると祈りが答えられるといわれでいます。ある方はわざわざエルサレムまで行って、嘆きの壁で「お嫁さんをください。」と祈った結果、祈りが聞かれてめでたく結婚されたそうです。また、ハワイの石渡牧師のブログに「来年の春、ガリラヤ湖畔でアシュラムを開くという予定があります。今日はその打ち合わせのためにマキキ聖城教会に行って来ました。ガリラヤ湖畔で聖書の御言葉に静かに耳を傾ける時、他の場所では与えられない特別な語りかけがあると私は信じています。」とありましたから、ガリラヤ湖畔もやはり天国の門になっているのでしょう。

ジョン・ポール・ジャクソンの記事に、リック・ジョイナーのミニストリーの土地は以前モラヴィアン兄弟団によって使用されていて、そこで祈りと賛美がつまれていたゆえに、天国の門がいくつかあることが紹介されています。また、カンサスのIHOP(国際祈りの家)では、1999年9月から今日まで一日も欠かすことなく24時間の賛美と祈りが続けられていますが、その場所はまさに「天国の門」になっているようで、神の臨在が常に豊かにあります。

ヘンリー・グルーバー師と昨年秋に日本に行ったときのことですが、
福島の蓬莱教会(佐藤経夫牧師)でメッセージの前に会衆賛美をしているとき、グルーバー師と主人が同じ瞬間にぱっと天が開くのを感じていたことが後で分かりました。蓬莱教会では、IHOPから学びを受けられて、一日に一時間の賛美と祈りがつまれていて、主が喜ばれておられるのではないでしょうか。

「賛美の中に住まわれる主(詩篇22:3)」をお迎えすることは、誰にでもできます。この日曜日に私たちが賛美をしているときに、ある方に主がこう語られました。「あなた方が賛美をするとき、わたしは招待されていることが分かりますから、あなた方のところに行きましょう。そしてあなた方と親しく交わりましょう。」と。この地上に天国に直通している門が無数に開かれ、「御国を来たらせたまえ」という祈りが実現する日が近づいていますね。
(終わり)


トップページへ戻る

09 03月

ファースト・フライディー    坂 柚実子      3月9日


ファースト・フライディ

3月3日の金曜日は、チャイナ・タウンの「ファースト・フライディ」で、我がニューライフ・チャーチも初めて参加しました。「ファースト・フライディ」というのは、毎月第一金曜日にチャイナ・タウンの全ギャラリーが夜オープンして、沢山の人で賑あいます。教会はチャイナ・タウンの一角にある元映画館だった建物なので、入り口も映画館の入り口のようであり、中に入るとロビーがあり、そこが格好の画廊になるのです。今回は教会内外のクリスチャンの絵画、写真を集め、計60点を飾ることができました。

日本でも有名な浅井力也さんの絵も3点飾らせていただきました。彼はハワイ在住の青年で、障害を持っていますが、神様を信じて力強く美しい花の絵などを沢山描いています。去年のトヨタ自動車のカレンダーは彼の絵だと聞きました。宇和島でもうすぐ個展を開くそうです。

又、クリスタというハワイで活躍している青年に、教会の前に大きな三枚続きのパネルを置いてスプレイ・ペイントの実演をしてもらいましたが、沢山の通行人が立ち止まって見てくれました。彼は、自分の持っている全部のお金「レプタ2つ」をささげたやもめと、それを見ているパリサイ人を4時間かけて描き出しました。チャイナ・タウンへのクリスタからのメッセージだったのでしょう。

会堂の中では、3組の若者のクリスチャン・ロック・バンドが演奏をしました。牧師をはじめとして教会のメンバーのほとんどは3分と聞いていられないほどの音量でしたが、集まってきた若者には受けていたようです。私には演奏が上手なのか下手なのかさえあまりにやかましくて分かりませんでしたし、神様のことを歌っていたらしい言葉も聞き取れませんでしたが、分かる人によればよい演奏だったそうで、みんなも平安がありました。

2階の一室では、とりなし手が開催中4時間ずっと祈っていました。教会からはミースー(以前ご紹介した日本生まれの韓国人女性で数学博士です。)と主人がずっと祈っていましたが、(私は出たり入ったりしました)今回協力してくれた「サーフィング・ザ・ネーション」という団体の若者が30分に二人ずつ割り当てられていて、交代で来ては一緒に祈ってくれました。みんなキチンと時間になるとやってきて、礼儀正しく熱心に祈ってくれましたので、私たちは大変感心しました。主人は食事をするひまもなかったのですが、とても恵まれたといっていました。「霊の食べ物」を一杯食べたのでしょう。

このような機会を通して「教会」をオープンし、普段は教会に入ってこない人にも入りやすくし、神の臨在に触れてもらうこと、そして、教会から神の御国をチャイナ・タウンへと拡大していくというのが私たちの目的ですが、これは霊的な戦いですから、とりなしの祈りが根底になければなりません。オダ牧師もそれを強調されて「チャイナ・タウンのための祈り」が教会で今つまれています。

4月のファースト・フライディも同じ出し物で行います。そして5月、6月はハワイ民族をテーマにし、フラ・ショップからの展示とフラダンスなどをし、7月、8月は「日本」をテーマにするという予定です。勿論すべて神様中心の出し物です。乞うご期待!(終わり)


トップページへもどる

06 03月

天国への門   ジョン・ポール・ジャクソン  3月6日


天国の門

ジョン・ポール・ジャクソン

神の現われを愛し心からそれを待ち望んでいる者たちに、主はご自分を喜んであらわしてくださいます。

神のすばらしい奥義の一つは天の門の存在です。 そのドアや通路を通って私たちは天に出入りすることが出来ます。天の門の入り口に立つと、天が開いているような感じがします。
天の門というのは、天からの光の通路で、天使や天にいるものたちが、悪霊に邪魔されずに自由に出入りできようにと神に守られている場所です。神はその門を、第三の天からはじまり、第二の天を通って地上で開いているようにつくられました。

聖書の中には何箇所もこの天の門、通路のことが書かれています。

詩篇24:7 「門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。」
詩篇78:23 「しかし神は、上の雲に命じて天の戸を開き、」

箴言8:34 「幸いなことよ。日々わたしの戸口のかたわらで見張り、わたしの戸口の柱のわきで見守って、わたしの言うことを聞く人は。」

ヨハネ1:51「そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」

黙示録4:1-2 「その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」 たちまち私は御霊に感じた。…」

黙示録に書かれている「門」は、神が私たちを天の領域へと招きいれてくださっていることを示しています。主は私たちを友と呼んでくださり、天の門を開いて多くの天の軍勢がかつてなかったほど頻繁に地上に訪れることを望んでおられるのです。

ヤコブは天の門を発見した

ヤコブは父祖アブラハムが「主の御名によって祈った(創世記12:8)」場所で一夜を過ごしました。彼が契約の石を枕にしたとき、天の門が開いたのです。ヤコブは天の使いがはしごを上り下りする幻を見ました。彼は目を覚ましたときに次のようにいいました。

創世記28:16-17 「ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言った。 彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」

ヤコブは天のはしごの正確な位置を印すために、枕にした石を記念の柱として立て、この場所を「べテル、神の家」と呼びました。この後数度、主はヤコブに「べテルに戻れ」と指示され、そこでヤコブに語られたのでした。

主はどこででも語ることができるお方なのに、どうして「これこれの場所で私はおまえに語るから、そこに行け」といわれるのかと、不思議に思ったことはありませんか。

神がエリヤに語られたとき、主はホレブ山(シナイ山とも呼ばれる)に行くようにと彼に告げました。そこで主はエリヤにもっと詳細に語られたのです。(I列王記19:11-18)

天へと続いている門は、現在も地球上に存在しています。エルサレムの町は天の門です。 実にエルサレムは地上で一番主要な天の門なのです。ダビデやイザヤが、エルサレムは地の中心であると言った理由はそこにあります。 何故敵が躍起になってエルサレムを占領しようとしていると思いますか? それはこの天の門を塞いでしまおうとサタンがしているからなのです。


リック・ジョイナー師が証していることですが、ノース・キャロライナ州のモラビアン・フォールにある彼らの地所で、彼や彼のスタッフは天使の訪問を幾度となく受けているそうです。そこはかつてジンゼンドルフ伯爵とモラヴィア兄弟団によって所有されていた地所で、モラヴィアン兄弟団が100年以上祈り続けてきたゆえに、そこには数個の天の門が存在しているのです。


ニューハンプシャーのサトンという所に私たちのストリーム・ミニストリーズに与えられた90エイカーの土地があり、そこには一つの天の門があります。明らかに敵もそのことを知っていて、この門を私たちに使わせないように妨害し、その門が第二の天までしかとどかないようにしているのです。私が地所の中で一番高台になっている所に行くたびに、必ず魔女たちによって作られた悪魔の祭壇を発見するので、いつもそれを打ち壊してきました。魔女たちはこの地所に無断で入ってきては、神がかつてご自分をあらわされたことのある場所を汚していくのです。神はこの悪魔の「高きところ」を私たちが取りもどし、神の天使が邪魔されずに行き来することができるようにせよ、と今私たちに命じておられます。

ニュー・エイジに入っている人たちの多くが、この門の存在を知っているのですが、悲しいことに彼らは第二の天までの門しか知りません。彼らの多くは、自分は神から聞いていると思っていますが、実はにせものにだまされているのです。


バビロンで預言者ダニエルは主権と戦った天使に出会いました。しかしながら、ペルシャの君が国を支配していたので、第三の天の門は閉ざされていて(キッチンの流しがごみでつまってしまったように)天からの力の流れが止められていたのです。しかし、主はそれらの天の門をこれから大いに用いようとしておられ、私たちの間に天使が自由に出入りできるようになるように、その場所を敵の手から奪いかえすようにと私たちを召しておられるのです。

天の門を開く鍵は私たちの心の働きの中にある

ペンテコステの日に天の門を開いた鍵は、信徒たちの一致でした。彼らは共に集まって「一つになって(in one accord)」いたと聖書は言っています。 その時、突然、天の門が開いたのです。激しい風のような天からの音が家全体に響きわたりました。超自然的な炎が彼らの上にあらわれ、彼らは聖霊で満たされました。(使徒行伝2:1-4)
聖霊の力ある油注ぎと、かつてなかったような天の軍勢の訪れを、神が与えようとしておられる時代に私たちは今、突入しているのです。(ヨエル2:28-29) この神の霊の新しい波は、大いなる力をもってやってきて、いやしと命を与えるでしょう。それはエゼキエルが幻で見た命の川のようです。(エゼキエル47)

これから来ようとしている神の霊の流れは非常に力強く、大規模な世界的リバイバルを解き放つでしょう。クリスチャ ンは油注ぎを受け、イエスがしたよりも大いなる業をするための力を受けるでしょう。病人をいやし、悪霊を追い出し、死人をよみがえらせ、神の御国が地上に来たことを宣言するのです。(ヨハネ14:12) これから神は、多くのクリスチャンに彼らが住む地域のどこに天の門があるかを示し始められ、それによって彼らは今までより深い霊的洞察力と神からの啓示を受けることができるようになるでしょう。〔終わり〕



トップページへ戻る

28 02月

懐かしい      坂 柚実子       2月28日


懐かしい

うちの子供たちはアメリカ生まれの二世で、会話は英語を使います。息子はごく簡単な日本語しか話せませんし、娘は、職場では日本語も必要で使っているようですが、通常は英語を使います。その二人が「懐かしい」ということを言うときは、日本語を使うのです。英語の辞書で「懐かしい」を引くと「fondly remembered」とか出てきて、確かにそうだとは思いますが、子供たちにとっては「懐かしい」という言葉のほうが自分の気持ちにぴったりくるらしいです。

息子はニューヨークに住んでいますが、あるアンティーク・ショップで我が家でずっと使っている琺瑯びきのボールと同じのを見つけて、“It was so natsukashii!”と思ったそうです。でもかなりいい値段がついていたので買わなかったと言っていました。娘は、Tシャツを買っていたら、アップリケのしてあるものがあり、それが娘が小さいときに私が作ったスカートのアップリケととても似ていて”It was so natsukashii!”と思ったそうで、買ってきたのを見せてくれました。

子供たちがそういうことを懐かしく思うということに私は興味があり、感慨がありました。自分たちが育ったときに経験した小さな一こま一こまが記憶の中に織り込まれていて、「懐かしい」という思いが理屈を超えて湧きあがってくるのでしょう。彼らも30代になり、「昔」ができてきたのだとも感じます。

ハワイの気候はバラには適していないにもかかわらず、バラの苗が売られています。それはバラがどうしても懐かしくて、少しでも咲くならば植えたい人がいるからなのではないかと、私はひそかに思っています。花の思い出はその人の生い立ちと深く結びついているのかもしれません。私の花の嗜好も「きれいな花」から「懐かしい花」へと年をとるにつれて変わっていく気がしています。

私たちはあまり昔のことを懐かしがってばかりでは、後ろ向きの人生になってしまうかもしれません。けれども、「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主のよくしてくださったことを何一つ忘れるな。」と詩篇103篇にあります。それは主が「咎を赦し、病をいやし」て下さったことや、また、その他の沢山の主からの小さなプレゼントがあるのではないでしょうか。うれしかったこと、楽しかったこと、美しかったことなどの思い出が沢山あることは幸いなことでしょう。それはすべて「あなたの一生を良いもので満たされる」主が下さったものです。

聖歌687番はこんな歌詞です。
「間もなくかなたの流れのそばで
楽しく会いましょう また友達と
神様のそばの きれいな きれいな川で
みんなであつまる日の ああ懐かしや」

この曲はバプテストの牧師であるロバート・ローリーによって作詞作曲されました。彼は1864年7月のとても暑い日に、疲れて横になっていたとき天国の幻を見たのです。輝く御座やそこから流れる命の川のほとりで楽しく集う聖徒たちを幻で見ているうちに、自然に詩もメロディーも出来てしまったそうです。

懐かしいというのは、普通は過去のことに対する気持ちをいいますけれど、ここでは、天国を待ち望む気持ちを歌っています。まだ行ったことはないけれど私たちの国籍のある天国を慕う気持ち、そこで主とお会いし、又、私たちより前に天に召された人たちと再会できる日を待ち望む気持ちを「ああ懐かしや」と日本語で巧みに表現された訳者はどなたでしょうか。(終わり)



トップページへ戻る
 Page 186 of 194  « First  ... « 184  185  186  187  188 » ...  Last »