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Walk With God Ministries

04 04月

ハワイの問題     坂 柚実子   4月4日


ハワイの問題

ハワイはよく「パラダイス」といわれていますが、勿論頭の痛い問題が沢山あります。私たちはまだこちらに来て日も浅く、よくはわかりませんが、今ニュースになっていることの一つは、ホームレスの問題です。

うちの子供がまだ小さいころ私たちは寒いオレゴンの冬をさけてハワイでクリスマス休暇を過ごしたことが何回かありました。子供たちはハワイが大好きになって、息子は「僕は大きくなったらハワイでビーチ・バムになりたい!」とまで言ったのです。ビーチ・バムとは、つまり川原乞食ということで、椰子の木陰に住んでも寒くはないし、働かないでも何となく暮らせていけるのではないかという妄想をもったようです。(彼は夢かなわず、現在はニューヨークで働いております。)

さて、冗談はさておき、ホームレスの問題は深刻です。ハワイの住宅事情は非常に厳しく、家やマンションの値段は東京やニューヨーク並みですし、アパート代も年々上がっています。勿論、アルコールや麻薬の中毒になって身をやつしてしまう人や精神病の人が多いのですが、仕事や家庭の事情でちょっと不運がかさなると家賃が払えなくなって、働いていてもホームレスになってしまう人たちが増えてきてしまったのです。

ホームレスに対する援助をしているキリスト教関係のグループが多くありますが、彼らはホームレスの人たちに食事を出す、洋服を与える、シャワー室を使用させる、法律的な相談をしてあげるというようなことだけではなく、霊的な支えもしています。私たちの教会の副牧師でもあるボブ・マーチャント夫妻はリバー・オブ・ライフ(命の川)という非営利団体をホームレスが非常に多いチャイナタウンの真ん中で運営しており、多くのスタッフやボランティアと共に毎日多くのホームレスに対しての働きをしていますが、上記の働き以外に昼と夕方に彼らのために礼拝をしていて、ホームレスの人が集っています。

ボブはこの仕事に任命されたとき、ホームレスに対する気持ちは特に温かいものではなかったそうですが、あるとき主に触れられて一瞬のうちに心が変えられたそうです。そして、彼らも自分も同じ主に赦され愛されている者だとわかり、彼らに対する愛で満たされたそうです。この夫妻はチャイナタウンのホームレスの人たちを名前で呼び、彼らからも信頼されています。その中から立ち直って人生を新たに歩みだした人たちも沢山います。

マーチャント夫妻がいつも言うのですが、麻薬中毒の人が立ち直るには、統計的に見て平均7回リハビリを受けなければならないそうです。つまり、リハビリを受けて、また失敗し、また受けて、失敗し…ということを7回くらい繰り返すわけです。ですから、彼らには、失敗したからといってすぐに裁かないで、何度でも彼らを赦し信じつづけて励ましてくれるマーチャント夫妻のような人たちが必要なのです。

ホームレスの数は去年から急増し、その対策が今急がれています。低所得者用の住宅の建設や、シェルターの建設が必要です。ハワイが神の国へトランスフォームされることへの大事な一歩がここにあります。私たちの教会のメンバーによる5つのチームのチャイナタウンでの祈りの歩行も始まりました。どうかハワイのホームレス対策のためにお祈りください。(終わり)


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04 04月

神との関係を深めるには  ジョン・ポール ジャクソン  4月4日


神との関係を深めるには          
                    ジョン・ポール・ジャクソン

 聖霊様と深い交わりを持ちつつ生きるようになるのは一朝一夕にできるものではありません。それは恋におちいるのに似ています。…
 ある人と恋におちいるときもそうですが、神の霊と真の恋におちいるのには、時間と、集中する努力と、コミットメントが必要です。神の臨在を経験し、神とのより深い愛の関係を持てるようになるにはいくつかの方法があります。可能性は無限ですが、一つのシンプルな方法は、神がどれ程あなたを愛しておられるかを、真に理解してそれを信じることです。 「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。(1ヨハネ4:19) そのために下記のことをお勧めします。

一時間、静かに神の前で祈る

 あなた自身について、今主が何をあなたに知ってもらいたいかを主に聞いてください。そして主があなたの心に静かに語ってくださることを書きとめるのです。どんなに奇異に思われることでも構いません。そうすることが自己中心的だと思う必要もありません。あなたは、あなたに関する主のご計画、主の思いをお聞きしているのですから。
 この簡単なエキサーサイズがあなたの人生を変えてくれます。主のお心の深いところへあなたの目が開かれると、主がどれほどあなたのことを思っておられるかが分かります。 あなたは神にとってとても大切で大きな関心事なのです。ほとんどの人はそのことを理解しておりません。又、実際にそれを信じて生きている人は少ないのです。

私は神が私のことをどう思っているか訊ねました

 数年前のことですが、私はラスベガスからダラス・フォートワースに向かって飛んでいる、ある会社の専用機の後ろの方の座席に座っておりました。そこで私は神にうかがったのですが、そのとき神が答えてくださったことを書きとめた8ページのノートを今でも持っております。
その飛行の途中、神の私に対するあまりにも大きな愛に圧倒されて、私はむせび泣いておりました。私は他の人と離れて飛行機の一番後ろに座っていましたが、誰も振り返って私の方を見ないように願いつつ、神の語られることを精一杯早くノートに書きとめました。

 今はそのときから25年たちましたが、8ページのノートに書き記したすべてのことが実現しております。そのとき神が語ってくださったことが実現するとはどうしても思えませんでしたので、そのノートを誰にも見せる気になりませんでした。しかし、考えられないようなことであったすべてのことが私の25年の人生の中で実現したのです。

あなたは神に恋をし、神もあなたと恋におちいるように

 主とあなたの関係を深めるための、最初で、又非常に重要な方法の一つは、神のみことばをそのまま信じて神に恋をし、神もあなたに恋をして、あなたに言い寄るような関係になることです。 「それゆえ、見よ、わたしは彼女をくどいて荒野に連れて行き、優しく彼女に語ろう。」(ホセア2:14)神があなたについて、驚くような、あまりにも大きくて偉大すぎると思われるようなことを語ってくださるようにしてください。そして神が語られたすべてのことを信じてください。なぜなら、神の語られるすべてのことは事実だからです。その通り実現します。

 神があなたのことをどう思っているかを語ってくださるように神にお願いしてください。エレミヤ29:11「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」 (終わり)


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01 04月

ヨシュア記に示された「祈りの歩行」と言う霊の戦い   坂 達也     4月1日


ヨシュア記に示された「祈りの歩行」と言う霊の戦い

ヨシュアに引き入れられたイスラエル人はヨルダン川を渡り、約束の地に入りましたが、この「乳と蜜の流れる約束の地」とは「神の御国」を指していると思います。
しかし、その地を本当の「御国」にするためには、先ず、今までそこの先住民を虜にして君臨して来た「この世の王」と戦い、その地を勝ち取る必要がありました。

そこで主が、勝ち取るために最初にイスラエルに与えたのが要塞堅固の町エリコでした。イスラエル軍は主の戦略とその命令に忠実に従った結果、堅固な城壁が奇跡的に崩れ落ちました。そこでイスラエル軍は町になだれ込み完全に攻略しました。その時に受けた命令は、町にあるもの総ての住民と家畜をことごとく剣の刃で「聖絶」することでした。しかも、聖絶のものを一切個人的に自分のものにすることは禁じられました。この「聖絶」の意味は最初の町を「初物のそなえもの」「いけにえ」として主にささげる意義があります、又、勝ち取った総てのものは「主のもの」「御国のもの」であることを示しています。


その地の「住民を聖絶する」ことを今の時代に霊的に当てはめれば、サタンやその手下が人々に及ぼしている力を取り除くことによって、今まで敵に縛られてきた民を解放して全員「生きたいけにえ」(ロマ12:1)としてクリスチャンにすることであると思います。

この「ヨシュアの戦い」とは、まさに今私たちがしようとしている「私たちに与えられた町、エリコ」を攻略することではないでしょうか。この世を御国にするためには、先ず自分たちの町(市)を勝ち取ることから始めなければなりません。それが王国の戦士である教会の使命です。そのための戦いとは祈りの歩行をすることであると私は信じます。

エリコを攻めるに当たって、ヨシュアは「抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っている…主の軍の将」(ヨシュア記5:13、14)である主イエスご自身と出会いました。御国建設のための祈りの歩行には、まさに主ご自身が全軍の総司令官として私たちの先に立って歩いて下さることを常に念頭に置きましょう。

そして、ヨシュアは戦いに入る前に、全員に「割礼」を施しました。これは、私たちも「霊の割礼」を受けてから祈りの歩行と言う霊的戦いに臨まねばならないことを意味していると思います。ここで「霊の割礼」とは、自分の肉の声に従わないで、「主の御声に聞き従う」ことと深い関係があることが次の御言葉からよく分かります。

「イスラエル人は、四十年間、荒野を旅していて、エジプトから出て来た民、すなわち戦士たちは、ことごとく死に絶えてしまったからである。彼らは主の御声に聞き従わなかったので、主が私たちに与えると彼らの先祖たちに誓われた地、乳と蜜の流れる地を、主は彼らには見せないと誓われたのであった。主は彼らに代わって、その息子たちを起こされた。ヨシュアは、彼らが無割礼の者で、途中で割礼を受けていなかったので、彼らに割礼を施した。」(ヨシュア記5:6,7)

祈りの歩行と言う戦いに出て、一緒に歩かれている主の御声(指令)を常に聞きながら戦うことの重要性がここに強調されています。
しかし、主の御声を聞くことは、日頃からその訓練がされていなければ、祈りの歩行中にだけ聞こうとしてもそれは難しいと思います。

私たちが主から与えられた約束の地に入る大前提として、ヨシュアとイスラエル人がしたように、洪水のように溢れるヨルダン川を、私たちは主の箱を先頭にして歩いて渡らねばなりません。この霊的な意味は、私たちが完全に全員水の洗礼を受け、「自分に死んで、よみがえった」クリスチャンになることが要求されていると言うことです。

この点を強調する意味で、主は一つの大きな教訓を私たちに示しておられます。それはヨシュア記7章に出てきますが、取るに足らないような小さな町アイを攻めた時に、敵の要塞エリコを勝ち取って意気揚々としていたイスラエル人は「まさか…」と思われる予期しなかった敗北を経験したのです。それはユダ族のアカンが、こっそり聖絶のものの一部を自分に取り込むと言う罪を犯したからでした。主は一人の罪も見逃されませんでした。ここに主の厳しさがあります。
ここで私たちが厳粛な気持ちで学ばねばならないことは、「キリストのからだ」である教会からは、主は一人でも密かな罪を犯す者が出ることを許さないおつもりであると言うことです。そして、一旦この世から主の御名で奪回したものは、総て御国に属するものであり、「王である主のもの」であることです。

これからの時代のこの世をサタンの手から取り返す最後の戦いにおいては、私たち教会は徹底して「肉に従って歩まず、御霊に従って歩む」(ロマ書8:4)者でなければなりません。このみ言葉が、戦いの前に霊的な割礼を受けることの重要さを示しております。
「割礼」とは、主イエスと主の御霊に「全き信仰と信頼を持つことによって義と認められる」こと、言ってみれば、御国の王に忠誠を誓って王との契約関係に入ることです。

確かにサタンと戦って、王国を取り返すことがどれ程厳しいことであるかは、先述のアイの町の教訓からしてもよくお分かりになると思います。しかし私たちはそれで決してビビッてはならないのです。私たちには内に聖霊様がついていて下さるのですから、私たちが「御霊に従って歩む」限り、たとえ万が一肉の誘惑に負けることがあっても、主の聖霊様に心から悔い改めることによって赦していただけるのです。ダビデが「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは幸いである。主が罪を認めない人たちは幸いである。」(ロマ書4:7,8)と言っていることが心に割礼を受けた者の特権であるのです。
ですから、へりくだってはいても恐れることなく、安心して私たちに与えられた町エリコを、「祈りの歩行」と言う戦略によって今こそ勝ち取ろうではありませんか。主は言われます。

「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄雄しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア記1:9)ハレルヤ! (終わり)


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31 03月

ことば      坂 柚実子   3月31日


言葉

3月11日から12日間、関西に住む小西家のお母さんと下の息子さん(ピアノの上手な12歳)が我が家に遊びに来ていました。ポートランドに駐在されていたときに教会に集っておられた御家族で、お父さんと上の息子さん(このサイトの立ち上げを手伝ってくれたコンピューターに強い17歳)は、今回は家で留守番でした。

彼らの会話は勿論関西弁です。それで彼らと一緒にいると、主人も私もいつの間にか少し関西弁になってしまうのです。「それ、違うんとちゃう?」とか「そうやなぁ」とか、初めはおもしろがって使っていると、だんだん身についてきて、そっちのほうが言いやすくなって自然に口から出てくるようになります。そして感じることは、関西弁はとっても会話をなめらかにするということです。そして心までもなんか「関西弁風」にソフトになっていくような気がします。

言葉といえば結婚してアメリカに36年前に来たときは、英語と日本語で苦労しました。英語は勿論「話せない」苦労であり、日本語は「主人のビジネス関係(主に商社)の方々の中でちゃんと話せない」苦労でした。

それから英語が少し話せるようになっても、アメリカ人のグループの中では緊張してしまって英語がうまく出てきません。私たちがその一部として日本語教会をやらせていただいていたオレゴンの教会は、まさしくアメリカ人ばかりの教会で(当たり前ですよね)、私はそこに35年も属していたにもかかわらず、親しい方と話す時は別として、うんと勇気を出さなければ英語が上手く出てきませんでした。

ところが、ハワイはご存知のように多くの人種がいて、それぞれがそれぞれのなまりのある英語を使っています。ハワイのいわゆる「ピジョン・イングリッシュ」にいたっては、しばらく聞いていても英語なのかどうか分からないくらいです。そういう中では「私の英語でも大丈夫」というおおらかな気持ちになることができます。

ニュー・ライフ・チャーチは、まさに人種のるつぼです。アメリカ生まれの人でも人種的には様々なので、日本人の私たちにとってもまったく違和感がありません。また、多くの人が移民でなまりのある英語を使うので、聞き取るのが大変です。

マーシャル・アイランドから最近引っ越してきた夫妻がいて、ご主人のチャーリーはもともとアメリカ生まれの人ですが、奥さんのレネーはマーシャル・アイランド出身で、彼女は英語をすらすら話すのですがすごいなまりがあり、私には半分くらいしか理解できません。また、スコットランドから引っ越してきたジョンの「本格的英語」は彼といつも親しく話している主人も、聞き流してすむ話は実は「半分くらいしか分かっていない」らしいのです。私のジャパニーズ・イングリッシュもみんなは、もしかして「半分しかわかっていない」のかもしれません。

それでもみんな和気あいあいとやっているのは、言葉の足らなさを補って余りあるものがこの教会にはあるからではないか、と私は思うのです。それはリーダーたちを通して流れてくるキリストの姿、即ち、相手を受け入れる姿勢、謙虚さ、仕える心です。

オダ牧師はハワイ生まれの日系3世ですが、神からそれぞれの文化を大切にするようにというヴィジョンをいただいています。 ちなみに、この教会のロゴはハワイアン・キルトの真ん中に十字架を入れたものです。賛美も時々ハワイ語のものを入れたりしていますし、これからは、日本語や韓国語などの賛美をも入れていきたいといっています。お互いの国の文化を受け入れ合うということは非常に大切であり、神が喜ばれることであると思います。

レネーはこの日曜日にマーシャル・アイランドの慣わしだといって、牧師たち全員に沢山の貝をマクラメ編みの中に入れ込んだ素敵な首飾りを配りました。主人も首にかけていただいてとても嬉しかったようです。そして教会全体がなぜかとても喜ばしい雰囲気になりました。(終わり)


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25 03月

神は今新しいことをなさろうとしている  坂 達也  3月25日


神は今新しいことをなさろうとしている

 イザヤ43:18,19 「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」

 神様は今新しいことをなさろうとしています。そして主は「あなたがたは、それを知らないのか。」と詰問されています。
 この聖句の意味は「過去のこと、昔起こったこと(出エジプト)をもはや思う必要はない。なぜなら、それ以上にすばらしいこと(抜本的出エジプト)をわたしは、これからしようとしているからだ。荒廃した地球(荒野)をわたしが復興させるのだ。」ではないでしょうか。

皆様は聖書をどのように読まれているでしょうか。直接的にはここでイザヤが預言していることは過去に既に起こったことですが、同じことがこれからも起こると言う意味で、この預言が将来の私たちに当てはまると信じて、私はこの聖句を引用しております。そのような聖書の読み方、見方を皆様はしておられるでしょうか。
 
伝道者の書1:9に 「昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。」とあります。これは、「わたしは過去に起こったことを又起こらせるから、その意味では新しいことは一つもないが、これから起こすことは今まで起こったこととはスケールが全く違う」と神様が言われているように思われます。

ロマ書15:4には「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。」又、1コリント10:11には「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」とありますから、私たち終末に生きるクリスチャンは、今こそ昔書かれた旧約聖書で起こったことを自分たちのこととして注意して読み、私たちの将来への教訓としなければならないと思います。

私たちの神様がどう言う神であるかをこの際改めて再認識してください。イザヤ46:9に 「いにしえよりこのかたの事をおぼえよ。わたしは神である、わたしのほかに神はない。わたしは神である、わたしと等しい者はない。わたしは終りの事を初めから告げ、まだなされない事を昔から告げて言う、『わたしの計りごとは必ず成り、わが目的をことごとくなし遂げる』と。」

その上、神様はアモス3:7 で「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」と言われるのですから、すべて神様のなさることは前広に預言者を通して発表されているのです。言い換えれば、聖書に書かれてない新しいことが起こることは何一つないのです。ですからクリスチャンである「あなたがたは、それを知らないのか。」と主はおっしゃったのです。

もっともここで聖書が教えていることは、パウロが「最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。」(1コリント15:46)と言っているように、昔(旧約の時代)肉の形で起こった事が、後の時代(終末)には霊の形で同じことが起こると言う警告でもあると思います。このような聖書の読み方をわきまえ知ることが、今の(新約の)私たちにとって特に必要である訳です。

今年ほど世の預言的なリーダーたちがその年に対する預言を数多く公表している年を私は経験したことがありません。しかもほとんどの預言が「今年は特別の年」、「新しいシーズン、カイロスの時に入った」と言うことにおいて共通しております。
皆さん、クリスチャンとしての人生はすばらしい、エキサイテイングな人生ですか。それとも何も起こらないから少々退屈しておられますか。
もしそうであるなら、いよいよすごいことが始まる時が来ましたから、「眼を覚ましなさい、私たちクリスチャンの人生はこれから面白くなって来る」と多くの預言者が語ってくれているのです。私は今年という年に大いに期待しております。

さて、ここで気が付かれると思いますが、聖書をどう読んだらいいのか、聖書とは何か。―聖書とは神様の教科書であると思います。しかし、その教科書はかなり膨大な内容なので、どんなに一生懸命読んでも、それが肉の形で、つまり頭でただ読むだけでは、あまり実用性がなく、有り難味もない、興奮もしません。
私は聖書とは宝物がぎっしり詰っている宝物蔵に夜薄暗い時に明かり無しで入るようなものであると思います。そこにはすばらしい宝物が並んでいることは分かっていても、暗闇の状態では、そのすばらしいはずの宝物がよく見えません。しかし、そこに主が現れて、主が特定の宝物に光を当て、私たちに示して説明して下さる時にはそれがよく分かります。このような聖書の読み方が「霊的な読み方」であり、「主から御言葉を聞く、あるいは示される」とも言います。
教科書と言えば、学校の教科書はそれをただ読めばそれで全部分かると言うものではない事を私たちはよく知っております。教科書は先生が教室で私たちに教えるための道具です。同じことが聖書にも言えないでしょうか。

聖書は教科書ですが、それを書いた先生であるイエス様が直接私たちに教えて下さる為に書かれてあることをこの際改めて認識する必要があると思います。
長い間主は沈黙を守っておられましたが、今、その教科書を書かれた主が大いに語られ始めました。そして、これからはますます誰にでも「聞く耳のある」人には語られる時代に入ったのです。皆様は主と親しくお話されておりますか。

ところで、皆さんはボーン・アゲインしたクリスチャンですか。Born again とはどう言う意味であるか、ご存知ですね。
ボーンアゲイン・クリスチャンとは肉の人間から霊の人間に生まれ変った人のことです。クリスチャンとは肉体を一時的に上に着ていますが、実質は「永遠のいのち」をいただいた霊の存在で、神様に通じた神様の思いで生きることが出来るのです。
 間違いないで下さい。ボーンアゲイン・クリスチャンは神と同じクラス、部類に属する者であるのです。神に似て造られているから 神に似た者であるのです。そしてイエス様の後をついて行き、イエス様の力でイエス様がこの世でなさったことがすべて出来る、そうしなければならない人間なのです。あなたは本当にそうですか?癒しの力、奇跡を起こされていますか。
 そのためにクリスチャンの中には聖霊様が宿っておら れます。つまり私たちは神が住まう「神の家」であり、もはやこの世の時間と空間で制限された、力のないただの悩みの多い、弱い人間ではないのです。
私たちが自分の頭を使って自分で何とかしようと悪戦苦闘することをやめ、自分の思いの中に永遠の命を持つことを、主は期待しておられます。

もう一つ質問します。私たちは聖書を読むために神学を学びます。「神学は真理でしょうか。」神学とは、あくまで人間が考えた学問ですから、その人の考えと都合で、どうにでもなり、極端に言えば間違いだらけであることに気が付いておられますか。
一つの例を言えば、「クリスチャンは大艱難を通るか、通らないでその前に「けいきょ」によって天に上げられる」と言う質問です。これへの答えは、後者が20世紀では大変人気があり、圧倒的に風靡しました。皆さんはどう思いますか。私は、クリスチャンは大艱難を通るとはっきり申し上げられます。

 ここで本論に入りたいと思います。私たちクリスチャンはほとんど忘れかけておりますが、創造主の神は決して忘れていない大事なことが一つあります。何でしょうか。それは神が人間を造った最初の目的を私たちが未だに果たしてないということです。

 創世記1:27,28に「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』」その意味は、神に似た人間(イエスのようなクリスチャン)で地を満たし、その人間によって地を従えよ」と神は言われているのです。
 つまり、神が最初に造られたアダムには、神が造られたこの地球上の全被造物を神の代理人として支配する権威と責任が与えられました。しかしそのアダムと妻のエバが罪を犯して以来、この最初の人間に与えられた神からの使命へのミッションは挫折してしまいました。そこで神はご自身の御子イエスを罪のない人間(第二のアダム)として地上に送り、この人間が果たすべき使命の遂行に改めて着手しました。それは言ってみれば人間を「第二のエバ」として新生・回復させ、この第二のエバ=「教会」がイエス(第二のアダム)の下で元々の任務を成就させるご計画を進めておられる訳です。これこそが、私たち人間が造られたそもそもの目的であり、元々の神からの大命令は今でも厳然と生きているのです。その教会とは「イエスのからだ」「キリストの花嫁」とも言われ、真のクリスチャンの集合体です。

 ですから、私たちはもはや個人として行動するのではなく、「キリストのからだ」として集団で行動する時代に入ったのです。
 イエス様は宣教を開始して以来、徹底して「御国」(キングダム、神の王国)のミニストリーを説かれ、実行されました。この御国のミニストリーとは、神(王)が人間を用いて直接すべてを支配される「アダムへの命令」の回復・実行・成就以外の何物でもありません。

巨人が目をさました

ダニー・ステイン師は1982年に、小さな田舎の白く塗られた教会の建物の中で眠っている巨人の夢を見ました。主の手がおりてきて、巨人の肩をつかみ、彼を眠りからさましました。巨人は立ち上がり、その小さな教会の建物は粉々に砕けてしまいました。そのとき主が私に言われました。「教会が立ち上がる時には、もはやいかなる建物の構造(宗教的なもの、教派、その他の構造)でもそれを中に収めることはできないのです。」

 今まで私たちはすべてのことを個人的、自己中心的に考えて来ました。個人が救われ、聖書を勉強し、祈りながら霊的に成長することがクリスチャン生活であると考えて来ました。そして、教会と言う建物に引きこもり、未信者を教会に連れ込んでは改心させようとして来たのです。この世はサタンの支配する王国、クリスチャンは小さくなって、サタンとかかわることを避けながら自分たちだけで暮らそうとして来ました。しかし、その時代は今、終わろうとしています。なぜなら、この元々の大命令があり、それを人間が何とかしないといけないからです。しかも終末の時代もかなり進んで、もう余り時間が残されていません。

この世が悪魔の王国なら、それを神の王国にしなければなりません。そのためには、この世の中に出て行って、イエス様がされたように、貧しい者に福音を伝え、癒しの必要な者をいやし、神の国の福音を見せて、囚われている人たちを解放する、そして悪魔の王国を打ち破り、この世をイエス様の王国にする命令です。(ルカ4:18,19)

それを私たち教会が集団行為として一致して行う時に、主が私たちを大いに祝福し、主が必要ないやしと奇跡と私たちを通してなさると約束されているのです。
そのために聖書はエリヤとエリシャのことが書かれ、私たちはエリシャとして二倍の油注ぎを受ける時代が来ました。それは使徒の時代を上回るものすごい奇跡が起こる時代です。

同時に大艱難がやってきます。その目的は明らかです。私たちが困難迫害を通ることによって、キリストのからだが頭であるキリストと一致し、王である主の御心だけを行う訓練を受ける必要があるからです。又、クリスチャンが集合体として一致団結して生きる時に、真の力が現される、そのためです。

この世を神の王国にするためには、教会が一致団結して、その地域の政治、経済、文化活動の一切をキリストの御心で行うように積極的にこの世の組織に介入し、王国のすばらしい福音を説き、神の力を発揮していかねばなりません。主である王がそのためのすべての業をしてくださるのです。これがトランスフォーメーションです。

私は今までの地方教会がなくなって一つの大きな教会になれと言っているのではありません。それぞれの教会が教派の考え方を超えて、主の御心を行うと言う目的とやり方において一致し、皆で力を合わせて、この世を神の御国にして行くのです。
この二千年と言う長い間、私たち教会はあまりにも力のない、人間的、ぬるま湯につかって来ました。それが当たり前と思っておられたら、聖書では全くそう教えてはいないことをこの際抜本的に認識すべきです。
 クリスチャンと未信者と見分けがつかな過ぎる、そんな時代を終わらせ、私たちがいよいよ真の王であるイエス様を代表する力を示す本来のクリスチャンになる時が来ました。
世の中で困っている人に本当に神の力で助けてあげることが出来なくて何が福音でしょうか。イエス様がしたように私たちも病人をいやし
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