Walk With God Ministries
22 06月
熟年離婚
日本でよく聞く話の一つに熟年離婚があります。夫が定年になって退職金をもらうのを待って、妻が「永らくお世話になりました。これにて失礼させていただきます。」と離婚を申し入れるのだそうです。そして悲しいことに、ほとんどの夫には寝耳に水で、そういわれても何故そんなことになったのか、全く分からないそうです。
長年、仕事ばかりしてほとんど家族との時間を持たなかった夫に妻は愛情を感じないようになっていて、自分の趣味とかを見つけてそれなりに充実して生活する術を身につけています。定年になってずっと家にいる夫との生活など考えられない、ということが多いらしいです。夫としては、やっと仕事から解放されて、家でゆっくり好きなことをして暮らそうと思っているわけですから、本当にショックは大きいでしょう。妻子のために犠牲的に働いてきた、必要なものは与えてきた、確かに一緒に過ごした時間は少なかったかも知れないけれど、それもすべて家族のためにしてきたことだ、、、と本心思っていますから、無理もありません。
このことを考えていたら、マタイ7章21-23節の話を思いだしました。「あなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇跡をたくさん行ったではありませんか。」という大ぜいの者にむかって、イエスは、その日には、「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども、わたしから離れて行け。」といわれるという箇所です。
夫が「私はあなたのために長年一生懸命働いてきたではありませんか。給料を運んできたではありませんか。すべてあなたのためだったのですよ。」というと、妻が「私はあなたを他人のように感じます。(あなたを全然知らない)あなたは私の気持ちを少しも理解しようとはしてくれませんでした。もう離婚してください。」と応えるのと、似てませんか?
イエスの言葉は非常に厳しくて、主人がこのところから説教するたびに、私はとても複雑な気持ちになりました。「彼らなりに一生懸命イエス様のために働いたんでしょう?イエス様もそこまで言わなくてもいいんじゃない?」という風に。
でもやっぱり、イエス様は「御心を知り、御心を行う者」だけを求めておられるのですね。それが「イエスの身体」としてのつとめであり、主を愛することであり、それ以外の「活動」は何の益にもならないどころか、神の怒りを買うことであることを、私たちは肝に銘じるべきでしょう。妻が夫に望むように、イエス様も私たちが一緒に時をすごしてお互いに心を通わせることを、何よりも一番望んでおられるのですね。
私は離婚を求める妻が正しいとは勿論思いませんが、ともあれ、夫の皆様、イエス様の御心とともに、妻の気持ちもしっかり理解するようにしようではありませんか。(終わり)トップページへ戻る
22 06月
神が語られるとき
チャック・ピアス著
「When God Speaks」の第一章 からの抜粋
神は声を持っておられ、実際に人に語りかけられる、ということを初めて知ったのは、私が8才のときでした。私のおばあさんは大変信仰深い人でしたが、テキサス州にあった私たちの家からすぐ近くの小さなバプテスト教会へ私をいつも連れていってくれました。教会にはグリムス夫人という人がいて、彼女は非常に変わったことをいつもするのでした。説教の最中に立ち上がって手を振り出すのです。バプテスト教会ですから、これは本当に変わった行動だったにもかかわらず、牧師は話すのをやめて、「グリムス夫人、何でしょうか?」と聞くのでした。するとグリムス夫人は「主が私に語られました!」といい、牧師は「主が語られていることを教えてください。」と頼むのでした。彼女は主の御霊が語られていることを会衆に告げ、それが教会にとってどのような意味があるのかを話すのでした。
神が実際に人々に語りかけることができることを知った私は、本当にそのことに魅了されました。牧師が神について話すと、退屈で無味乾燥な感じがしましたが、グリムス夫人が語ると、いのちと躍動に満ち溢れているようでした。
私はおばあさんを見上げて、「神様があの婦人に語ってくださるなら、僕にも話してほしいなぁ。」というと、おばあさんは、「神様に何か言って欲しかったら、先ず、静かにじっと座っていなくちゃだめよ。」 というのでした。私は普通の8才の男の子でしたから、教会でじっと座っているのは苦手だったのです。
私が救われた日
その時から、神は声を持っておられる方だということを疑う気持ちは私の心から消え去りました。グリムス夫人を通して聞きましたし、日曜学校で聞く聖書の話の中でも神が語られることを知りました。でも神が直接私に語られることはそれからもずっと無かったのですが、ついに、私が11才のときにそれが起こったのです。
ある日曜日に礼拝の中で、主の御霊が私に臨まれて、はっきりと「今日はあなたの日です。」と語られたのです。そして、あたかも主の御霊に導かれるようにして私は祭壇の前まで行き、11才の子供として出来る限りのやり方で、主に私の人生を明け渡しました。
後になって聖書を調べて明確にわかったのですが、神は私たち一人一人に救いの日を定めておられます。(IIコリント6:2参照)
私たちはみな、自分の救いの日に神の声が私たちの霊に語られるのを聞いて救われるのです。それまで私たちの霊は罪の中で死んでいましたが、私たちが神の語りかけに応答し、自分の暗い霊の中に真理を照らしだしてくださるようにお願いするときに、それが私たちの救いの日になるのです。
事実、神の声が私たちに働きかけることなしに救われる人は一人もいません。耳に聞こえるような声を聞かなかったかもしれませんが、救いの真理を明らかに示すことができるのは神だけです。 ですから、イエスを主とし、救い主として受け入れた経験のある人は、そのときにはそれとわからなくても必ず神の声を聞いたのです! 又、神の言葉を、読む人に生きたものとするのも神の声です。ですから、聖書の言葉から私たちが真理を汲み取るときはいつも神の声を聞いているのです。
「わたしは回復させる」
私は11才で救われましたが、私の子供時代は問題だらけで暴力やトラウマの多い環境で過ごしました。私の家庭は多くのものを失い、苦悩に満ちていました。父がサタンからの攻撃に負けてしまったのが原因で、私がティーン・エイジャーになる頃には、家族のほとんどはばらばらになっていました。父が悲劇的な最期を遂げたのは、私が16才の時でした。18才になったころには、働きながら大学に行っていたことや夜遊びなどで、私は身体をすっかり悪くしてしまいました。
ついに私は疲労と肺炎で入院しなければならなくなりました。その入院中に主が耳に聞こえる声ではっきりと、「わたしはあなたがこれまでに失ったものをすべて回復する。」と言われたのです。その言葉と共に、主は私の身体のすべての部分に浸透してこられました。そうではないかと思っていたのですが、そのとき私ははっきりと、主が私の過去の傷をいやされるばかりではなく、私の将来をも回復してくださることを知ったのです。
それまで私は「回復」という概念を聖書の中に見つけることはできなかったのですが、もっと深く読むうちに、神の声には回復させる力があることを学びました。(ヨエル2:25参照)
神の声を聞いた瞬間から、私の人生は変わりました。神は奇跡的な方法で私を癒され、解放し、回復させてくださいました。
神の声は私たちを過去の廃墟から助け出し、私たちのために主が定められた人生のコースに立たせてくださるのです。そのことを私はずっと昔、あの入院中に知ったのです。
あなたの証には力がある
みなさん今、この本を読むのを中断して、あなたの人生の中でどのように神の声を聞いてきたかを考えてみてはいかがでしょうか。どのようにしてあなたは救われたか、どのように神はあなたの人生や状況に超自然的に介入してくださったか等を考えてみてください。その証を書いてみるといいかもしれません。あなたの証の言葉には偉大な力があるからです。他の何よりも信仰を立てあげてくれます。
私たちの証は人間の霊の重要なはたらきの一つです。契約の箱のことを考えてみてください。いくつかの物がそこに入れられていましたが、その一つは神がモーセに与えたテスタメント(二枚の証しの石の板)でした。御言葉を通して神と交わるとき、私たちは心の奥深くに神の命令や規則を蓄え、そこで神との契約を結びます。これらの命令や規則に私たちが従い、神の真実・誠実を経験すると、私たちは敵と戦うときに偉大な力を発揮する証という武器を沢山持つようになります。
私たちがしっかりした証を持つと、敵がうそで惑わそうとするときにも、「神が私にこう語られた。今までにも神の御手が働くのを見てきた。今も神は同じようにしてくださること私は知っている。神には不可能なことはないからだ!」といって敵を論破することができるのです。
黙示録12:10には次のように書かれています。
そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。
「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威があらわれた
。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。」
神の声と私たちの証とが共にはたらくとき、敵はそれに耐えることができないのです。……
人生の中で神の声を聞く
父、子、御霊なる三位一体の神はそれぞれが私たちに「語ってくださり」、力強く働かれます。神の声は大いなる権威をもって命令を下し、それは無から有を創造する力を今も持っています。神の声は私たちの人生に起こってくるすべてのことに対してもそれと同じ力を発揮します。私たちの人生が混沌としているとき、それは天地が創造されたときの状態と同じなのですが、神の声がその混沌に向かって発せられると、それは闇と光をわけ、そこに秩序をもたらします。
さらに、神は私たちが気がつかないときでも、私たちの想像以上に、しばしば語られているのです。旧約と新約の聖書全体を通じて、神は人々に頻繁に語られています。王や裁き司、預言者や羊飼い、そしてイエスの弟子たちにも神は語られました。年寄りにも若者にも同じように語られました。権力のある者にも社会的には全く認められていないような者にも語られました。正しい者にも罪人にも語られました。創世記から黙示録にいたるまで、神はあらゆる種類の人たちに語られたのです。
聖書が完成したときに神が語るのをやめられたとは、聖書のどこを探しても書いてありません。人類の歴史を通して、神は人々に語り続けられているのです。もしあなたが、キリストをあなたの救い主であり主であると受けいれているならば、あなたもそのうちの一人なのです。神は人々に、指示、なぐさめ、深い洞察、矯正、励まし、約束等を今日も語ってくださいます。
黙示録2:7には「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」とある通りです。
今は主イエスの血潮が私たちを贖ってくださった故に、聖霊が私たちと父の心とをしっかりと結びつけて下さっています。しかし、聖霊は私たちに語られるだけではなく、私たちを通しても語られるのです。
神が私たちを無から有を創造する御声をもって形造られたとき、私たちを神の形に似せて造られました。そして地を支配せよといわれました。(創世記1:26参照)
私たちは神の似姿に造られ、キリストによって贖われましたから、私たちは聖霊の力によりこの地上で神の声になる力を持っているのです。私たちを通して聖霊はキリストの教会に、また、罪の中で瀕死の状態にあるこの世に対しても語られます。これこそがまさにキリストの使節になる事であり、預言するということなのです。(終わり)トップページへ戻る
22 06月
傷ついた心
特にここ数年のことかもしれませんが、日本に行きますと、少し気になることに出くわします。それは日本のクリスチャンの間で「自分は誰々に傷つけられた」とか「深い昔の傷を何とかしなければ」と言うことを、まるでクリスチャンが皆、そのような傷を持っていることが当たり前であるかのように言い、それへのカンセリングが少し大げさに言えば「もてはやされている」ことです。
そもそも「傷つく」とか「傷ついた」とはどう言うことでしょうか。それは人間の罪の性質から生じる「肉の行い」であることはガラテヤ5:20,21等を見れば明らかです。それを具体的に羅列してみると、敵意 争い、そねみ、憤り、党派心、分裂・分派、ねたみ、紛争・不和、殺意 憎悪、悪く言うこと、批判、虐待、いびる、非情、謀反心、反抗、虚栄に走る、等々…があります。そしてその結果として:感情を害する、不快になる、侮辱されたと思う、赦せない、反感・反目、立腹、怒りを感じ、憤る、憎しみを持つ、うらむ、人間関係が冷たくなり、愛が冷え、疎遠になる、…のではないでしょうか。
この現象をひっくるめて「傷つく」「傷ついた」あるいは「人間関係が傷ついた」と言い、その多くは「プライドが傷つく」ことでもあると思います。
そこで私が気がつくのは、もしこれをクリスチャンが大問題にしているのなら、一体私たちが受け入れて信じたはずの「十字架」はどこへ行ってしまったのかと言うことです。
イエス・キリストが私たちのためになぜ十字架についてくださったのか――それはまさにこの「傷つく」ことを私たちに替わってイエス様ご自身が「傷つかれ」その報いと根を処理してくださったのではなかったのでしょうか。
1ペテロ2:24,25に「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ(罪に死に)、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」ここにこそ私たちがクリスチャンになった最大の理由があり、私たちの信仰の根本ではなかったのでしょうか。「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」と言うみ言葉を日常よく使っているマチュアなクリスチャンなら、少なくとも自分の「心の傷」は「いやされた」と言う「信仰」に立つことがそんなに難しいことなのでしょうか。
ガラテヤ5:24には、 「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や、欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」とあります。
ロマ書6:6-7でも、「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」と過去完了形で書かれています。
罪とその性質から来る上記のような諸々の問題から完全に開放されるには「自分に死んでしまう」つまり、「自分の肉を十字架につけてしまう」以外に解決方法はないのです。もしそれ以外に解決方法があるのなら、イエス様は敢えて私たちのために十字架につくことはされなかったと思います。
そのことを端的に言い表わしているのが1コリント1:18です。「十字架のことば(ロゴス)は、滅びに至る人々にはおろかであっても、救いを受ける私たちには、神の力(ドウーナミス)です。」つまり、十字架のメッセージを本当に自分のものとするときに、それは奇跡を起こすような「力」が及んで、肉と罪の性質から来る一切の「傷つき」を払拭できるのです。これこそクリスチャンとしての最大の特権であると思います。どのようなカンセリングにせよ、それを受ける前にもう一度あなたの内におられる聖霊様から「十字架のメッセージ」をお聞きし、真に理解することによって、あなたの心の傷がいやされる力を受けることが大切であることを私は強調したいのです。
私たち霊に生まれ変わったはずの、十年選手のベテラン・クリスチャンが、いつまでも肉の性質を十字架にかけようと努力しないで、それを「わがままに」放置したまま、「いつまでも傷ついている」ことを何か新しい大問題かのように取り沙汰していてよいものでしょうか。
しかし、「自分に死ぬこと」によって「心の傷」を取り去ることが難しいからこそ、聖書ではそのことが繰り返し言われているのも確かです。心の傷がいやされることは「傷つけた人を赦す」ことに深く関係していますから、本当に難しく並大抵なことではありません。ですから私は「聖霊様からカンセリングを受ける」ことを基本とするクリスチャン・カンセリングのやり方が悪いと申し上げているのでは決してありません。イエス様は忍耐強く、やさしい方ですから、私たちが「心の傷」の問題を正直に提起すれば、聖霊様を通して主は解決のためのカンセリングをていねいにしてくださいます。(もっともそれが、人間的なカンセリングを人間的に受けて解決しようとするカンセリングであるなら、多くの場合、未信者のように古い自分を生かしたままで何とかしようとしますから、本当の解決にはなりません。)そこで、私はもっと良い方法を提案したいと思います。
それは「父の愛」に私たちがもっともっと触れることです。溢れるような父の愛、私たちのために十字架にかかってくださったイエス様の愛を毎朝、主の前に出てふんだんに受け取ってください。私がいつも提案している「毎日、主と個人的に親しい交わりを持つこと」とはこのことです。そして、一日中父の愛を思い起こしてはその大きな愛に包まれて生きる時に、新しい傷を受けにくくなり、又過去のどのような傷も、たとえ傷跡は残っているかもしれませんが、その傷はもはやうずかないでしょう。
よみがえったイエス様の手と横腹には傷跡がありました。私たちがイエス様にお会いする時に、その傷跡をイエス様は私たちに見せてくださるでしょう。イエス様の十字架の傷跡は永遠に残ります。しかし、それは完全にいやされた栄光の痕跡として残るのです。私たちはそのいやされた傷跡の永遠の証し人になるように選ばれた人たちではありませんか。
本日は私たちに与えられたすばらしい溢れるばかりの父の愛に感謝したいと思います。天の父は、私たちにご自分のひとり子のいのちさえも惜しまずに与えてくださった愛を今日も又、ふんだんに与えてくださろうとして待っておられます。その父の愛を今受け取ろうではありませんか。
今回お訪ねしたある教会で、教
会の建物の至る所にセント・フランシス・アシシの祈りのことばが標語として張ってあり、その祈りの一部にこう書いてありました。
憎しみあるところには、愛を
傷あるところには、赦しを
疑いあるところには、信頼を
絶望あるところには、希望を、
闇あるところには、光を
そして、悲しみあるところには、喜びを
もたらすものとさせてください。
聖なる主よ。
慰められるよりは、慰めることを
理解されるよりは、理解することを
そして、愛されるよりは、愛することを
求められますように
与えることによってこそ、真に受け取ることができ
赦すことによってこそ、真に赦され
死ぬことによってこそ、永遠の生命に生まれることが
できるのですから
このことばをモットーとする教会とは父の愛を豊かに受けている教会の一つであるに違いありません。
私は以上のメッセージをこの父の日に与えられました。(終わり)トップページへ戻る
16 06月
カナの婚礼における主の最初の奇跡
今回の日本旅行の終わりに近い頃、ある教会でメッセージをしておりました。すると突然、今までにあまり経験しないことが起こりました。それは、全く準備もしていなかった、思いがけないことを自分が話しているのです。急に私の口からヨハネ2章にあるイエス様による最初の奇跡のお話が、これから起こる私たちクリスチャンの個人的・あるいはキリストの身体(教会)としてのトランスフォーメーションを預言するものであると私が言っているのです。そう言っている自分に驚きながら、水がワインに変わるお話をしていました。しかも内心私は、もしかして私の「口から出任せの、とっさの思いつき」の話を見破ったその教会の牧師にひんしゅくを買っているのではないかとひやひやしているのでした。
しかし、その話をして間もなくホノルルに帰って来たのですが、その「とっさに出て来た言葉」にその後少しずつ肉ずけがなされていきました。そして、私が口にしたヨハネ2章に対する「新しい解釈」が単なる「思いつき」ではないことへの確信が強まって行ったのです。
私は今回の旅行の主なメッセージである、「キリストの身体である私たち教会が先ずトランスフォーメーションされなければならない」と言うテーマの例として、三人の弟子たちの見ている前で、イエス様が輝く栄光の姿に変貌したマタイ17章のお話は、まさに私たちが真に栄光の「キリストの身体」に変貌(ここで使われている原語はトランスフォーメーションと言う英語に当たる)しなければならないことを、私たちを代表する三人の弟子にあらわして見せたのだ、と言う形でお話しました。ですからこのカナでの奇跡は、それと同じように弟子たちにして見せた「キリストの身体のトランスフォーメーション」を意味するものであると言う思いが日毎に深まり、そのことを今朝主から最終的に確認されたと言う思いに至りましたので筆にする次第です。
ヨハネ2:1では、先ず「それから三日目に」と言う言葉が出てきます。これは一日を千年と考えれば、3千年目に入った今の時代を指していないでしょうか。つまり、カナでの婚礼とは主ご自身が私たち、キリストの花嫁との間で行われる「婚礼」を意味する預言であったと解釈できます。ですから「弟子たちも、その婚礼に招かれ」ていたことが書かれていることに意味があると思います。
そして、宴会の「ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって『ぶどう酒がありません。』」とイエス様にうったえました。それに対してイエス様は「わたしの時はまだ来ていません。」と言われましたが、確かにそうでした。しかし窮状をうったえられたイエス様は、手伝いの人たちに外に置いてあった六つの水がめに「水を満たしなさい。」と命令されました。この石の水がめには80-120リットルの水が入ると書かれておりますが、この水の量はちょうど人間の身体一人分に当たります。そして六つのかめの六と言う数字は人間をあらわすと言われます。しかもこの水がめは「ユダヤ人のきよめのしきたり」のために用いるものでした。つまり、キリストの花嫁である私たち弟子は信者同士が清め合い、又、未信者をも清めるための水であるはずなのです。しかもそこの置いてあった水がめには、水が使われたからなのか、それとも全く始めから入っていなかったのか、水があまり入っていなくて、イエス様は縁まで一杯に水を満たしなさいと命令されました。これはキリストの身体になる人たちが満杯になるまで集められたことを意味すると考えられないこともありません。
そして、イエス様はその水であるキリストの弟子をワインに変質(トランスフォーメーション)されました。ワイン、特に良質のものであれば、人が飲めば誰でも非常に喜び、それを提供した主人・花婿を賞賛し、栄光を返さない人はおりません。(11節)
私たちキリストの身体にふさわしい弟子とは、元々人を清めるための水なのですが、それが人が喜ぶ最良のワインに変えられるのですから、これこそ主がこれからなさろうとする、キリストの身体を完成すると言う主にとって最も大事で、最もすばらしい奇跡の御業と言えないでしょうか。
しかも主は良いぶどう酒を終末の最後の時まで取って置かれます。(10節)私たちは今そのような時代に生かされているのです。主にふさわしい花嫁に早くトランスフォーメーションされようではありませんか。
ところで余談ですが、数日前に手にしたダッチ・シーツ師の「祈りの権威」と言う本を読んでいましたら、シーツ師がチャック・ピヤース師とアメリカの50州を回っている時の話が載っていました。テキサス州での集会で、シーツ師が話をしている時にピヤース師が突然壇上に現れ、主からのことばとして、唐突に「もし我々が祈れば、サダム・フセインが7日以内に捉えられる」と預言した後「こんなことが口から出てくるなんて信じられない。とにかく後を頼むよ。」と言う驚きの顔をしたピヤース師がマイクをシーツ師に渡して引き下がったと言うのです。後を引き受けた師は、一瞬ためらいましたが後は力強い祈りと宣言をしたそうです。そして3日後にフセインは逮捕されました。その時のことを回想して師は、ピヤース師が主からの預言の啓示を受けた時、もしそのことを言う前に自分で「考えてしまっていたら」恐らくそのフセインの預言を口にはしなかったかもしれないと言っていたと語っています。
勿論ピヤース師の場合は、私の場合と比べ物にならないほどレベルが上であることは言うまでもありません。しかし、主から啓示を受ける時とは、突然のこともあり得ると言うことにおいて、私はなるほどと思い、一つ勉強しました。確かにとっさに受けた啓示を口にしてしまうのは勇気が要り、危険が伴います。しかし、一方で預言的であるためには、そのようなリスクも主は敢えて私たちに踏ませて訓練をされるのかもしれないと思った次第です。(終わり) トップページへ戻る
15 06月
不都合なときの主の招き
フランシス・フランジペィン
神を信じる人は数多くおりますが、真に神を礼拝するものはわずかです。真の礼拝者たちは、神をあがめることを一番の喜びとします。彼らの礼拝はかぐわしい香りとして立ち上り、それは日曜の教会での礼拝の時間だけではなく、彼らにとって不都合なときにさえ、彼らは主を礼拝するのです。
真の礼拝者は、朝、仕事や学校に行く前に早く起きます。主と静かな時間を過ごすために、家族よりも早く起きるのです。 何かで待たされるときにも、イライラしないで、かえってその困難な事態や待たねばならない時こそ神を讃える機会として用います。
例えば道路が渋滞しているとき、あなたの隣の車の中に真の礼拝者が座っていて、プレイズ・ソングに合わせて賛美しているかもしれません。
真の礼拝者は不都合なときにも神を礼拝する奥義を習得した
私も、自分にとって不都合なときに神を礼拝するようにと、主に導かれることがあります。一人で書き物をしていたり、重要な仕事をしているときに、急に私の霊の中で何かを感じ、主が近くにおられることに気がつきます。けれども、主は私に礼拝することを命令されるのではなく、静かに招いてくださるのです。礼拝する時間は10分か15分くらいのときもありますし、もっと長いこともありますが、とにかく私は自分がそれまでしていたことをやめて、ギターを手にとって主を礼拝し始めます。
正直なところ、私はギターが上手なわけではなく、コードをいくつか知っているだけなのです。でも私が賛美するとき、天におられる王がそれを喜んでくださることが私にはわかります。主は私が御前に出ることを許され、不思議なことですが、私が歌うとき主は私の歌だけを聞いていてくださるという思いを、私に与えてくださるのです。
主からの招き
礼拝するときは自分のすべてをささげ切りたい、と私も思います。しかしながら、私が克服しなければならない最大の障害は、主が礼拝するようにと招いてくださるときは、私にとって都合が悪いことが多いことです。まるで主は私が大切な仕事に集中するのを待っておられるかのようです。しかもその仕事は主が完成せよ、と言われたことなのです。又あるときは、夜遅く、私がまさに眠りに落ちようとするときに主を賛美する機会が訪れることがあります。
しかし、私が不都合な時間にもかかわらず主の招きに応じることそれ自体が、事実、私の賛美をもっと純粋で甘美なものにするのです。
日曜礼拝の賛美は楽器の音や周りの人に助けられることがあることは確かでしょう。そこには礼拝できる雰囲気がありますから、私の賛美は純粋に私のものではなく、他の人たちから受けたものという可能性があります。それと違って、主が不都合なときに来られ、私がそれに応じるならば、私の礼拝が真実であり、私の人生で神が一番大切なお方であることを証することになります。
主が前触れもなく訪れてくださるときのもう一つの大きな喜びは、主は大掛かりな礼拝を期待されてはいないということです。日曜の礼拝は確かに素晴らしいものです。しかし、主はプロの歌ではなく、私の心からの賛美だけを求めておられるのです。
もう一つの祝福は、私が主を礼拝し始めると、多くの場合、妻もそれに気づいて一緒に賛美してくれることです。私が礼拝していると、後から妻の声が聞こえてくるのです。彼女も私とおなじように主の臨在の中に浸っています。彼女はその時何をしていようともそれを止めて、主の前にひざまずくことを愛しています。そして、二人での礼拝は真に甘美なものとなります。
祈りと賛美
祈りと賛美には違いがあります。祈りは、私たちや私たちの回りの世界の必要を神に嘆願するものです。この世は切実で急を要する必要を持つ人々で満ちていて、彼らの願いは天の父が喜んで受け取ってくださり、光に満ちた王座の前で一つ一つ聞いてくださいます。しかし、賛美は私たちの必要を話すことではありません。それは私たちの愛の表現の極致なのです。自分の必要いかんにかかわらず、私たちが神にささげるのが賛美です。
福音書にはイエスに癒しを求めた10人のらい病を患っている人たちのことが書かれています。主が彼らの願いを聞きいれ、癒されたとき、彼らは御前を去っていきました。 しかし、一人だけは引き返してきました。「そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。(ルカ17:16)」と書かれています。感謝にあふれて彼は神を礼拝しひれ伏したのです。 皆さん、多くの人は祈り、そして答えを得ます。しかし、引き返してきて主を礼拝するものは少ないのです。
愛する皆さん、私たちの心から純粋な賛美が流れ出すならば、主は私たちを主の臨在の中に度々招いてくださるでしょう。私たちの心の戸口に主の招きは静かに近づいてくるのです。主からの招待は、あなたが「主を愛したい」というシンプルな願いを心に抱く、という形をとって来るでしょう。あなたがその心の思いに素直に従うならば、あなたは主の臨在へと導かれていくことでしょう。
私たちが主を礼拝すると、主は私たちに内なる力と平安を与えてくださいます。感謝をもって主に近づけば、主は私たちを愛と喜びとで満たしてくださいます。 主を真に礼拝する者となる特権をいただいていることを喜びましょう。たとえそのチャンスがあなたに不都合なときにやってきたとしても。(終わり)トップページへ戻る
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