Walk With God Ministries
23 09月
主の剣の音が鳴り響く年
チャック・ピアス
ヘブル暦の5766年が終わろうとしています。そしてラッパの響きとともに5767年、「主の剣の音が鳴り響く年」を迎えようとしています。主はこれからの時代のためにあなたを鋭利にし、あなたの能力を伸ばすための準備を、今、整えられました。今年に対する大いなる指針はイザヤ41:15-20です。
「見よ。わたしはあなたを鋭い、新しいもろ刃の打穀機とする。あなたは、山々を踏みつけて粉々に砕く。丘をもみがらのようにする。あなたがそれをあおぐと、風が運び去り、暴風がそれをまき散らす。あなたは主によって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る。 悩んでいる者や貧しい者が水を求めても水はなく、その舌は渇きで干からびるが、わたし、主は、彼らに答え、イスラエルの神は、彼らを見捨てない。 わたしは、裸の丘に川を開き、平地に泉をわかせる。荒野を水のある沢とし、砂漠の地を水の源とする。 わたしは荒野の中に杉や、アカシヤ、ミルトス、オリーブの木を植え、荒地にもみの木、すずかけ、桧も共に植える。 主の手がこのことをし、イスラエルの聖なる者がこれを創造したことを、彼らが見て知り、心に留めて、共に悟るためである。」
変化のとき
これから成功し栄えるために必要な変化を主があなたにもたらし、大いに繁栄されるようにと祈ります。あなたの人生、家庭、仕事やミニストリーのための啓示を主が与えてくださり、あなたの「後の栄光が先のものよりまさったもの」となりますように。歴史上の今というときにおいては、地上で効果的な働きを続けるためには、「変化」は私たちの人生にどうしても必要なことであり、それを避けて通ることはできません。
変化とは、角を曲がる(向きを変える)ことであり、又、何かを、あるいは誰かをある位置につけることであり、又はある資源を使って別の資源を作ることであり、ある形態から別の形態へと移ることです。又、変化はトランスフォーメーション(変革)の同義語でもあります。教会の敵であるサタンは変革の重要さを知っているので、私たちが変革するタイミングを狂わせたり、今のときのための真理のぶどう酒を入れるためにはあまりにも堅く優柔性のない、規則に縛られている皮袋の中で私たちが習慣的に動くだけにしてしまおうとします。
ぶどう酒は皮袋が形作られる間に絞られねばなりません! 知恵が発達する間に啓示が与えられねばなりません!使徒には預言者が必要です! 預言者はとりなしをせねばならず、とりなし手と連携を取らねばなりません! とりなし手は地上の破れ口を知らねばなりません! 今日この天地で唯一確かなことは「わたしはヤーウェであり、変わることはない。」ということです。ですから、私たちが変わらねばならないのです! 多くの人たちが今自分はふるいにかけられていると感じていることを私は知っています。しかしながら、それはあなたが注ぎのささげ物a drink offeringへと形作られているのだということを忘れないでください。
主の御ことばの解き明かし
最近私たちのグローリー・オブ・ザイオンの礼拝の中で、私のアシスタントであるブライアン・クーイマンが異言で主からのメッセージを語り、その主の御ことばの解き明かしが私に与えられました。「今まであなたたちはシンブル(洋式指ぬき、はめ環:非常に小さなキャップのような入れ物、たらい)の中で泳いでいたが、わたしはあなたがとびこめる大海を用意している。あなたは『主よ、もっと与えてください。』と願ってきたが、あなたの未来のために今まで繋がれていたものを解き放つ必要があるものに対してあなたは語っていない。あなたの子ロバに語りなさい!わたしが子ロバを必要としたとき、『主がお入用なのです、と言いなさい。』と弟子にいった。あなたの人生のために結び目を解き放つ必要のあるものにむかって語りなさい。必要なものをあなたが受けるようにわたしがする。 大海にむかって泳ぎなさい。 頭よりも深いところに出てきなさい。 大海があなたを待っているのにちっぽけな指ぬきの中で泳いでいてはならない。 あなたの泳ぐ場所は拡大されたのだ。 あなたのためにわたしが用意した新しい(大きな)場所で泳ぐためのレッスンを与えよう。」
リンダ・ハイドラーが解き明かしを続けました。「今は拡大のときだ!あなたはこの地で巨人を見たかもしれない。だが巨人と対決せずにはわたしが約束したものをあなたは得ることはできない。今はあなたの信仰を奮い立たせるときだ。よく聞け。あなたの見た巨人たちを打ち倒す戦略をわたしは持っている。彼らがどこに隠れているかわたしは知っている。どの塹壕に隠れているか知っている。あなたに対する彼らのあざけりも知っている。
今のこのシーズンのために世の初めからわたしが持っていた計画を知っている。それはあなたの受けるべき分を引きとめている巨人を打ち倒すものだ。 勝利の鍵は、よく聞いて従うことだ。 わたしは勝利するためにあなたの力を当てにしているのではない。耳を傾け従え! よく聞いて従えば、あなたの進む道をふさいでいるものを打ち倒す戦略をあなたに与えよう。 そうすれば、あなたのためにわたしが約束してきた取り分(遺産)を完全にあなたは手に入れることができるのだ。」
その後をキース・ピアースが続けました。「あなたの種をとり今日蒔け。あなたが種を蒔くとき、わたしはあなたをわたしの宝が注がれる場所に配置しなおす。今はマントル(外套)を交換するときだ。今はあなたがシフト(変換)するための資金を解き放つときだ! あなたの種を蒔いて神の臨在が解き放たれるのを見よ! あなたの種を蒔いて神の臨在が現れるのを見よ!あなたの種を蒔いてあなたが確立されるのを見よ!あなたの種を蒔け!種に実を実らせよと告げよ! 今はあなたの種を祝福する時なのだ!
古い外套を脱ぎされ! そこから解放されて今わたしが告げている動き(ムーブメント)の中に入って来なさい! あなたの種を蒔け!なぜならば敵の偽りが、今わたしが地上に解き放とうとしているものをあなたから奪い去ろうとしているからだ。あなたのひざは震えあなたはどうやって立つかを知らなかった。あなたが立った場所でもあなたは震えていた。しかし今わたしは新しい方法と新しい音をもってあなたに語り始めている。 わたしはあなたの上に油注ぎの新しい息を吹きかけている。わたしは未来のための勝利の計画をあなたに差し伸べて
22 09月
霊的成熟について
霊的成熟とは英語でspiritual maturity と言いますが、この成熟という言葉からは成熟したワインを思い起こさせます。ワインといえばその成熟の度合いによって限りなく絶妙な味がするものと言われます。そして、それを味わうためには人間は喜んで高い値段を払うようです。
私の高校の同期の親友から聞いた話ですが、彼がアラブ圏にある有名なゴルフリゾートを訪れたとき、夕食にワインを勧められました。その泊まったホテルの高級レストランでのことでしたが、ワインについて色々説明を受けた後で、うっかり注文したのが桁を間違えて1ボトル百万円以上するものであったことに気が付き、すぐキャンセルしたそうですが、何も注文しない訳にいかず、結局20数万円するものを一本注文して賞味したそうです。味はと聞くと、「なるほど美味しかった」という満足げな答えでした。世の中には数百万円もするワインが存在し、産油国アラビアの富豪たちの中にはそれを毎日のように賞味する人たちもいるようです。
私たちはキリストを信じ受け入れた後洗礼を受けてクリスチャンになります。それによって「救われた」ことに間違いはありませんが、クリスチャンの中には自分が霊的に生まれ変わったことを真に理解せず、いつまでも肉的なクリスチャンのままでいて何の不満も感じていない人が意外に多くいることに気が付きます。この人たちを称してベービー・クリスチャンと言いますが、この霊的なベービーは、自分が天国行きの切符を手に入れたことで安心し、事足れりと思っているとすれば、それは大変お気の毒な話であるとしか言いようがありません。
なぜなら、ベービーとは最初は母親の乳か牛乳しか飲めず、食物としてそれしか知らないからです。しかし、成長するにつれ段々世の中にはもっともっと美味しいものがあることが分かってきます。それと同じで霊的に生まれ変わった私たちが霊的な成熟をするにつれて、霊の世界においても、それこそ底なしの深淵に例えられほど無限に美味しい味わいとそれを喜ぶ至高の世界があることを知らないのです。
クリスチャンが霊的に成熟することとは、私たちがキリストによって満ち満ちた状態となり、完全なる大人になることであると思います。(エペソ4:13)それをコロサイ2:9-10では、「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。…」私たちの愛するこのキリストとは、最高にかぐわしい薫りを放ち、最高の甘美な味を与えてくれる値段のつけられないようなワインよりももっとすばらしいのです。
雅歌1:2-4に歌われています。「 あの方が私に口づけしてくださったらよいのに。あなたの愛はぶどう酒よりも快く、 あなたの香油のかおりはかぐわしく、あなたの名は注がれる香油のよう。それで、おとめらはあなたを愛しています。私を引き寄せてください。私たちはあなたのあとから急いでまいります。王は私を奥の間に連れて行かれました。私たちはあなたによって楽しみ喜び、あなたの愛をぶどう酒にまさってほめたたえ、真心からあなたを愛しています。」私たちは主の花嫁、主が引き寄せてくださることを熱望し、主の後を追います。主が言われます。「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。」(ヨハネ15:4)これは主との深い交わりの関係に入ることを意味します。
真の救いとはこの状態に入ることではないでしょうか。そのためにパウロは私たちに「…いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。」(ピリピ2:12口語訳)と言われます。
創造主は人間が血のにじむような努力を重ねた結果、やっとプロの芸術家とかスポーツ選手になれるように造られました。この世でクリスチャンでない人たちが努力に努力を重ねた結果で名を成し、名人芸に達するように造られているとすれば、クリスチャンだけが努力もしないでイージー・ゴーイングに霊的成熟に到達できると考えているとすればそれは大変な間違いです。
それでは私たちは何を努力すればよいのでしょうか。それは上記の雅歌が教えてくれています。私にとって恐れおののいて努力することとは、主に飢え渇き、徹底的に主を追い求めることです。そして、その方法は「何もしない」と言うことなのですから至極簡単です。誰でも出来ます。ただ主のために時間の無駄をすることです。主の前に無心になって座り、じっと主が現れ、主が語って下さるまで何時間でも待つことです。毎朝少なくとも一時間から二時間それをすることがそんなに難しいことなのでしょうか。石の上にも三年と言いますが、これを三年と言わず、半年も続ければ、あなたに霊的成熟の成果が現れ始め、あなたは一度その「主との親密な交わり」と言う甘美な味を味わったら、止められなくなります。もっともっと欲しくなるからです。終末の今はそのシーズンであると信じます。(終わり)トップページへ戻る
21 09月
通訳
人間的に言えば、本当にひょんなことから私たち夫婦はヘンリー・グルーバー師の通訳をすることになったのです。1995年の6月に初めてポートランドの近くの教会での師の集会に行ったのですが、その4ヶ月後にはグルーバー師御夫妻を日本にお連れすることになりました。このスピードは全く不思議な神様の御計画としか言いようがありませんでした。
当時の泉の森祈祷院での一回目の集会では、主人がグルーバー師の横に立って通訳をすることとなりました。 ところが、主人は頭の通訳のスイッチを入れ忘れ、全く日本語がでてきません。「おまえ、代わってくれ」といわれた私も本当に困ってしまいました。グルーバー師も日本のクリスチャンの前に立つのは始めてで、何を話せばよいのか分からない状態。とにかく、私には難しいお話をされました。見かねた英語のわかる方々が聴衆の中から助け舟を出してくださいましたが、それはもう、通訳者としては惨めなものでした。
グルーバー師のメッセージのあとのミニストリーの時間も、幸い通訳の経験豊かな方がおられ、その方にお願いすることができました。見ていた私は、「へーえ、こんな風にするんだ、、、」と学んだのでした。それから毎年日本にグルーバー師をお連れするようになりました。グルーバー師もできるだけやさしい言葉で話すようにずいぶん努力をしてくださいました。
グルーバー師は聖書は欽定訳を使われますが、私たちが使っている新改訳では同じようには訳されていなかったりすることも多く、師も頭を抱えられることがしばしばでした。また、主人も私も通訳をするときは、自分がはっきり理解してから訳したい、と思う性質なので、かえってもたもたと時間をとってしまったりして、聞いている方にご迷惑をかけたことも多いと思います。
そもそも私の最初の通訳の「仕事」はとてもユニークでした。それは、エドモンド・ブショアというポートランドにある英語学校の先生に頼まれたものです。あるチャーチ・スクールで、先生が沖縄にミショナリーとしていったときは、こんな風に通訳者を使って話をしたということを子供たちに見せたいというのです。私は着物を着てくるように言われました。そして、彼が英語で話すのを日本語に訳すのですが、子供たちは全部アメリカ人ですから、私が何を言ったって分からないのです。つまり間違えてもいっこうに差し支えない「仕事」だったのです。なんか、恥ずかしいような、情けないような気持ちがしたように覚えております。でも、とにかくそれが私の通訳デビューだったのです。
私たち夫婦はアメリカに長年住んだというだけで、通訳者としての訓練も受けたことがないにもかかわらず、神様が用いてくださっていることを感謝しています。しかし、二人とも歳のせでしょうか、一ヶ月間の通訳はだんだん疲れを覚えるようになり、他に助けてくださる方を祈り求めてきました。そして、今回、いわき市の森 章牧師がお忙しい中を後半の2週間グルーバー師に随行して通訳をしてくださることになり、主のすばらしいお計らいに感謝しております。
今回グルーバー師は10月1日から11月6日までの予定で日本各地で伝道されます。私たち夫婦は10月16日まではグルーバー師と同行し、その後沖縄に参ります。どうかお祈りください。(終わり)トップページへ戻る
10 09月
戦士の民—–新しい教会のリーダーシップ
リック・ジョイナー
渡橋 喜代佳 訳
戦士がこれからの教会リーダーである
「兵士は多いが、戦士の数は多くはない。」かつて特殊部隊の将校が私にこう言ったことがある。自分の職務をとても真剣にとらえ、非常にうまくやりこなせるプロの兵士は多いが、戦士に会ってみると、その両者の違いははっきりしている。
まもなく、十字架の兵士全員が真の戦士になっていくだろう。今まさに、教会のリーダーシップが、プロの手からその真の戦士たちの手に移されようとしている。
戦士とは、戦いの音のする方に駆け寄って行く者であり、そこから逃げることはない。戦士は、争いや危険な状況の厳しさの中でうまく事をやりとげる。また、反対や困難に直面したからといって失望することなく、かえってそこで本領を発揮する。そして、これこそが、これからの新しいクリスチャンの気質となるのだ。これから登場するクリスチャン世代が穏やかで優しい世代だと予想するなら、まもなく明らかにされようとする戦士の民を見て、衝撃を受けるだろう。
神は戦士である
神は戦士である。神は「万軍の主」、「軍の将」という呼び名を、他のすべての呼び名の10倍も多く用いておられる。神は戦いの神なのだ。今のこの時代に神を啓示しようとする人々は、戦士としての態度や訓練を身につけていくようになる。今起こされつつあるクリスチャンが、この世の知るかぎり最悪の困難な時代に仕えるために整えられているからだ。たとえ時代が最悪でも、彼らは信仰と確信をもってその困難に立ち向かっていき、「勝利者」の呼び名を獲得するだろう。なぜなら、けっして反対や困難、戦いに屈することなく、完全な勝利を得るまで戦ったあのヨシュアのように、彼らも勝利を得るまで戦うからである。
これから出てくる戦士クリスチャンには、ヨシュアと同じこの固い決意が見られる。自分たちが何者で、どなたから遣わされたのかを知っており、自分たちが代表する御国の力を知っているからだ。ダビデ王の屈強な家臣たちのように、彼らの功績も国外にまで響き渡り、王の敵の心に恐怖心を叩き込んでいく。
この戦士世代が表舞台に出て来るにつれて、彼らはキリストのからだにインパクトを与え、変革をもたらせるようになる。そして、その変革は深みにまで及び、教会は、人の集まり(コングリゲーション)というよりも、軍事基地と考えられるようになる。真剣な軍事訓練や、かつて例をみない、戦略として先手を打っての霊的軍隊の派遣というのが、上官命令になっていくのだ。
戦いの時がきた
伝道者の書3:8に、「戦うのに時があり、和睦するのに時がある。」と記されているように、今は戦いの時である。聖書に出てくる最高の礼拝者の一人、ダビデ王が最高の戦士の一人でもあったというのは、けっして偶然ではない。真の礼拝と戦いは、完全に両立するのである。いったいどうやって、神を真に礼拝する者でありながら、この時代の悪に憤ることなく、真理の側に立って捕われ人を解放するために悪に立ち向かうこともしない、ということがあり得るだろうか。
今まさに起こされようとしている戦士たちは、人々をとりこにしているあらゆる悪の要塞に憤り、神の強力な武器を用いてその要塞を打ち破っていくようになる。
この徹底的な変化が教会にもたらされて、真のクリスチャンはことごとく、福音の真理のためには何をも恐れぬ戦士になっていく。その際起きてくる性格上の大きな変化は、彼らがこの世の知りうる最高の戦士の最高の規律に従って生きることにより、その基礎が築かれ始める。その最高の規律とは、日毎に死ぬ、自分のために生きるのではなく王のために生きる、福音のために一切のことをする、というものだ。
ルカ9:23~24で、主はこう言われている。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。」
これが真の弟子、すなわち、真の戦士の規律である。今にこの世は、真の弟子がどのようなものであるかを目の当たりにするだろう。すなわち、真の地の塩、世界の光としての姿である。
私たちがすでにこの世に対して死んでいるなら、この世が私たちに対してできることは何もないし、私たちがこの地上で恐れるものも何もない。何も恐れず生きる人々こそ、この地上でもっとも強力で自由な民である。この地上に再び姿を現す、そうした民以上に敵の陣営を震撼させるものは、他にはない。その民はすでに私たちの中に存在しており、今姿を現そうとしている。かつてこの地上で生きたどの世代とも違う、新しい世代なのだ。主は、本当に、最後に最高のものを取っておかれたのだ。
戦わなければ勝利はない。戦いが大きければ大きいほど、勝利もまた大きい。「クリスチャンに苦難などはない。もし苦難があるとしたら、それは信仰によって歩んでいないからだ」という、非常に巧妙な考えが教会の多くに蔓延している。けれども、これは、聖書が語っていることとは正反対である。主イエスも、使徒たちも、クリスチャンが召されている試練や苦難について説明しておられるのだ。試練には目的があるし、ゆるがない信仰で試練に立ち向かうなら、勝利がある。大使徒パウロの働きについても、こう記されている。「弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、『私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。』と言った。」(使徒14:22)
クリスチャン生活には問題や困難が伴うということを認めようともしない、そんな偽りの教えに従った世代は、あるいは、歴史上もっとも弱々しいクリスチャン世代になったと言える かもしれない。最近の世代には、倫理道徳や誠実な生き方、基本にあるはずの勇気といったものが見られなくなった。それは、聖書的な信仰というよりは、ドラッグによる意識朦朧の状態に似ていると言わなければならない。けれども、こうした状況にも変化が出てきた。変革が完了するまでずっと、その変化は継続していくだろう。
衝撃隊
この世が1世紀からこのかた見たこともないほど闘争的な、新しい種類のクリスチャンが世に出ようとしている。彼らは、1エーカーの土地さえも十字架の敵に明け渡すことはしないとの固い決意をもっ
て生きている戦士であり、闘士である。今起こされつつある世代は、この世の勢力が脅しをかけてくると、クリスチャンというのは臆病で、こわがっておどおどするものだという印象を、この先永久に変えていくだろう。現在はこうしたクリスチャンの弱々しい印象があるため、その第一波は、現勢力の中に恐れと驚異の念という衝撃波をつくり出す。ちょうど、ギデオンの敵陣突破が残りのイスラエルの民を立ち上がら
せ、分捕り物を取らせたように、このことが他の全クリスチャンを、その本来の性質やあるべき姿に目覚めさせていくこととなる。
自分の武器を手入れせよ
兵士たちは、肝心な時に武器が機能しなければ、自分や多くの者たちが命を落としかねないということを知っている。それで、彼らは自分の武器の手入れや管理に多くの時間をかけている。使徒パウロは私たちに与えられている神の強力な武器について語っているが、その武器のことを理解しているクリスチャンはわずかであり、それをうまく使えるクリスチャンとなると、さらにその数は減る。けれども、それにも変化が見られようとしている。私たちは、もっとも優秀で信頼できる主の兵士として、ゆだねられているものに対して、普通の兵士がしているのと同様の管理を日々していくようになるのだ。
私たちの戦いの武器は肉の武器ではなく、それよりはるかに強力だということを理解しなければならない。神の強力な武器は、愛、真実、真理に対する妥協のない愛といった、霊的なものである。油注ぎのもとで語られた真理こそ、この地上で最強の力となる。すぐれた兵士のように、私たちにゆだねられた尊い真理を絶え間なく手入れし、管理している必要がある。私たちは、何のためらいもなく、つねに標的の中心に命中させることのできる、もっとも熟練した狙撃兵にならなければならない。私たちの武器は、いざという時に動かないという事があってはならないのだ。
国々はやがて、圧倒的な軍隊によって宣言される真理の、圧倒的な力に膝をかがめるだろう。そして、その軍隊は、この時代の最大の闇に立ち向かい、それを押し戻すのである。あらゆることにおいて、彼らが何の妥協もせずに決然と立つため、すべての悪はその前で退却するようになる。
この世の軍隊は殺したり、破戒したり、略奪したり、荒らしたり、強姦したりして、領土を進軍して行くが、来たるべき軍隊は、そうではない。破戒行為の代わりに、その軍隊に征服された人々には、いやしや回復、解放がもたらされる。彼らがやって来るのは、取るためではなく、与えるためなのだ。そのような軍隊がやがてこの地上に解き放たれようとしている。それは、いまだかつてこの地が見たことのない軍隊である。そして、今まさにこの地上全体で、その一員となるべきすべての人に軍隊の召集がかけられているところだ。
この軍隊は、その一員ではないすべての者に恐れを抱かせるだろう。その中には、多くの眠っている、あるいは、惑わされているクリスチャンも含まれる。この世は、いまだかつてこのようなものを見たことがない。エリヤの霊は、主の初臨の時、主のために道を備えるようにと、バプテスマのヨハネに与えられていたが、今や、主の再臨の備えをするために、何万人もの人々に下っている。ちょうど、ヨハネを見るために、ユダヤのすべての民が彼のもとに来たように、今起こされつつある人々の声を聞き、彼らからバプテスマを受けるために、すべての国々が彼らのもとに来るようになる。
新しいラッパの音
前述したように、教会がこの決意を自分のものにするにつれて、教会は軍事基地として考えられるようになり、効果的な霊的軍隊を訓練したり、装備したり、配置したりするための軍事基地の特徴を呈するようになる。やがて、教会は、陸・海・空軍等を有する一軍隊として、実際に編成されていくだろう。これら軍隊はすべて、相互援護を行ない、機会を活用できるよう互いに助け合って、一致と調和の中で共に機能していけるようにもなる。
今は教理上の強調点が教会内での運動やグループの特徴になっている場合がよくあるが、このように、教理上の強調点よりも、機能や目的の方を中心にした組織化が始められていくだろう。
苦難の時代が進んで行くにつれて、十字架の兵士たちは、これからなされる軍事訓練や軍事行為とともに、危機のただ中における彼らの愛や揺るぎない平安によっても、知られるようになる。彼らの行く先々で、愛や平安、揺るぎない安定感がもたらされるからだ。彼らは、真の自由の戦士であり、被抑圧者の真の擁護者であって、罪とそれがもたらすすべての結果という、あらゆる束縛の中でも最悪のくびきから、人々を自由にするために戦うのである。
変化
実際には、どのようにしてこのことが起こるのだろうか。言葉では明確に意識していなかったにしても、すでにこの変化を経験し始めている運動や宣教団体が多くあり、なかには教会もある。リーダーたちは、ただ教理上の強調点というよりも、共通の目的や働きを中心にして集まり始めている。これが起こると、かつては互いの対立点にみえた教理が、互いに補足するものとして見られるようになるだろう。心や動機の中に、御国の拡大という高次元の目的を維持している人々には、この変化は容易である。
他の人々にとっては、この変化は必ずしも容易ではないかもしれないが、それでも、変化は起こってくる。ちょうど、世界大戦のために国民が動員され、一般市民だった人々が、世界を支配しようとしている悪の存在を知って、すぐれた戦士になっていったように、やがてクリスチャンも、前世紀に世界が直面したのよりもはるかにまさる悪や脅威に気づくようになる。多くの者は、今世界を脅かしている悪の圧制に屈するよりは、たとえそれが死であっても、どんな代価でも払う方がよいと考えるようになる。偽りの下で生きるよりは、真実のために死ぬ方がいいのだ。
来たるべき時代には、十字架の兵士として生きる目的の重大さが、すべての真のクリスチャンとともにますます宣言されるようになる。仕事や物質的な快適さの追求が、信者の一番の目的になるのではなく、真理のために戦うことが、私たちの人生の主要な焦点、目的になっていく。キリストに似ていることや、私たちが召されている働きをすることが、人生の成功を測る真の基準になるだろう。ちょうど、兵士が日常の雑事にかまけることがないように、十字架の真の兵士も、もっとも簡素な生活をして、一時的でなく永遠にかかわる事に身をささげるのである。
女性
03 09月
ラムジー夫妻
ジョンベネちゃん殺害の容疑者としてカーという男性がタイで逮捕された一連の報道により、10年前の事件にまたスポットがあてられました。テレビでジョンベネちゃんのコンテスト場での姿がまた何度も映し出されました。ご存知のようにカー容疑者は現場に残されたDNAと一致せずアリバイもあり、警察当局の早まった動きが批判されています。真犯人の発見が待たれます。
ジョンベネちゃんの両親であるラムジー夫妻は娘を殺されたばかりか、自分たちにも容疑がかけられ、マスコミにいろいろ取沙汰されました。どれほどの苦しみだったことでしょうか。
コデイロ師が牧するニューホープ・クリスチャン・フェロシップ教会は、この春のイースター礼拝のゲストとして、ラムジー夫妻を招かれました。その折に、コデイロ師が持っているコネクティング・ポイントという番組のゲストとしても招かれ、それが今回の騒動がきっかけで再放送され、私も見ることができました。
彼らの語ったことで心に残ったことを書きます。
1.ジョンベネちゃん事件の前(何年前かは忘れましたが)上の娘を交通事故で亡くしている。そのあとパトリシア夫人は卵巣癌であることがわかった。この二つの信仰の試練をすでに受け、信仰が強められていたからこそ、ジョンベネちゃんの死やその後のもろもろの試練に耐えることができた。
2.ヨブ記で、最後に神がヨブにすべてのものを倍にして与え祝福した。羊、らくだ、牛、雌ろばの数はそれぞれ倍になった。しかし、子供たちの数は前とおなじで息子7人、娘3人であった。それは、前に死んだ息子7人、娘3人はいなくなったのではなく、天で生きているのだから合計が倍になったのだ、ということを主から教えられた。
3.天国での再会を確信しているので、毎日を生きていくことができた。
パトリシア夫人は卵巣癌から一度癒されたのですが、その後再発し、この放送のときにはもう死を覚悟されていました。しかし、彼女の姿は死を恐れるというよりは、もうじき愛する娘たちや共に苦しみ支えてくれていた母親に会えるという期待と喜びで一杯のようでした。彼女はこの2ヶ月後に亡くなりました。ハワイを去るときに彼らは「このように晴れやかな気持ちになれたのは事件後はじめてです。」というコメントを残されたそうです。(終わり)トップページへ戻る
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