16 12月
マリヤのようになる (その2)
マイク•ビクル(IHOP Kansas)
博士たちが帰ったすぐ後、天使が夢でヨセフにヘロデによるイエス殺害の企みを知らせ、エジプトに逃げるようにと警告しました。想像してみてください。若いマリヤは妊娠中、親戚や友人たちから恥を受け汚名をきせられました。
そして今度は、王が自分の幼子を殺すというので、外国の地へと逃げねばならなかったのです。これが神に祝福され厚意を受けていることなのでしょうか?
神のすばらしい約束を心から受け取り、神が示される通りの道を歩いていても、時としてこのように全く予期せぬ困難に出会うことがあるのです。
この後、マリヤの人生は更に困難になっていきます。
ヨセフはイエスが12歳のときにはまだ存命でしたが、その後何年かして亡くなり、マリヤは寡婦となりました。マタイ13:55−56によると、イエスには4人の弟と数人の妹がおりました。夫を失った女性が7、8人の子どもたちをどのようにして養ったのでしょうか?
夫を失くした痛みと悲しみに加えて、マリヤはたくさんの子どもを抱えた寡婦として大きなプレッシャーに耐えねばなりませんでした。
イエスが30歳になったとき、彼は6週間大工仕事を休んで荒野で断食と祈りをしました。そして聖霊の油注ぎを受けて家に帰りましたが、イエスが育ち愛した町の人々は彼を退けました。
イエスは最も信頼に足る若者であり、評判もすばらしくよかったのです。しかしユダヤ会堂の長老たちは、イエスの「自分はイザヤが預言したその者である」という言葉に激怒しました。怒りのあまりイエスを崖から突き落とし殺そうとしたこともあったのです。(ルカ4:29)
マリヤは息子が町の長老たちにひどい取り扱いを受けるのを見なければなりませんでした。その後もイエスがミニストリーをしていた間、マリヤは信仰により自分の心を神の約束に合わせ一致させる必要があったのです。ガブリエルは「イエスは偉大な者となる」とマリヤに言いました。ですからどうして町の長老たちがこれほどまでイエスに反対するのかと、マリヤは訝しく思い悩んだのではないでしょうか。
イエスがミニストリーを始めらてからも主の兄弟たちは主を信じませんでした。(ヨハネ7:5)ということは、マリヤがイスラエルの神を敬うように育てた子どもたちは、若者になってからも「イエスを信じなかった」のです。イエスのミニストリーの期間中、マリヤは自分の子どもたちの霊的状態に苦慮していたに違いありません。親しい友人や家族の中にもイエスの言動を見て「彼は気が狂ったのだ」と思っていた者たちがいました。(マルコ3:21)
ユダヤ教の最高指導者たちは、イエスは悪霊に憑かれていて人々を惑わす危険なカルトのリーダーだと結論づけました。(ヨハネ7:47、8:48)彼らはマリヤがイエスをみごもった時の「不品行の噂」で、主と主のミニストリーの信用を傷つけようとしました。(ヨハネ8:41)
端的に言えば、イエスの生涯とミニストリーはガブリエルが約束したような「偉大なもの」とは全く見えなかったのです。多くの点で、それはまるで正反対に見えました。マリヤは「神の約束を信じ神の正しい導きを信頼する」ことを、くり返し何度も決意し直す必要があったのです。
数年後に、マリヤは息子がイスラエルから拒絶され十字架で死ぬのを見ていました。ユダヤ教の指導者たちの企みで、群衆はイエスではなくバラバのいのちを求めました。三年半のイエスのミニストリーは何も実を結ばなかったように見えたのです。
イエスは何千人もの人を癒しましたが、復活後に主を信じて祈りの場に集まって来たのは120人だけでした。(使徒行伝1:15)マリヤは神の召しに従い神の導きを信頼して人生を送りましたが、人々からの誤解や予期せぬ苦しみを耐え忍ばねばなりませんでした。
そして息子の地上でのミニストリーは終了しましたが、息子は王として称えられるのではなく、国から拒絶されたのです。
神の約束はなかなかやって来ず、そればかりか成就するのは不可能にさえ思えました。しかしマリヤは初めから神を信頼していましたし、この時も恵みによって神を信頼し耐えることができたのです。
マリヤは約束の成就の全貌を見ることなく死にました。彼女はガブリエルを通して与えられた神の言葉により、聖霊によってみごもり、神の御子をこの世に誕生させました。
しかし、ガブリエルはマリヤに「息子は偉大な者となり永遠に治める」とも言ったのです。イエスが地上にいる間、多くの者からさげすまれ、兄弟や故郷の人々、そして国の政治家や宗教の指導者たちから拒絶されました。イエスは罪人に救いをもたらすために苦しみ死なれたのです。
イエスに対する約束の完全な成就を私たちもまだ見ることができません。しかしすべての人が、「主は愛と力と恵みとに満ちた偉大な方である」とわかる日がやってきます。マリヤは初代教会のリバイバルにその栄光をほんの少し垣間みたかもしれませんが、それが完全に成就するのは将来のことです。
マリヤのこころ
マリヤの人生は、神の導きに対する心の正しい応答の形そのものです。完全に理解できない時でも、彼女は神の導きを信頼し続けました。すべてを失うかもしれないような時にさえ、マリヤは「あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と言ったのです。(ルカ1:38)
このようにマリヤが神を信頼し進んで神に用いられ、神を喜びとしたことは一度だけではありませんでした。それは彼女の一生を通しての生き方そのものだったのです。彼女は困難に出会う度に何度も又自らを捧げ直したのです。彼女は神を信頼し、自分の心を神の言葉と合わせ一致させていったのです。
状況が厳しくなった時にもあきらめることなく、神の恵みによって耐え抜いたのです。
私たちはあまりにもしばしば、自分の祈りが直ぐに聞かれないと、「神は本当に約束を果たしてくださるのだろうか?」と疑い、信仰をなくしてしまったり、或は、「自分の祈りがあまりに弱くて効果がないのだろう」と結論づけてしまいます。
しかし、私たちの祈りは確かに「人間の弱い祈り」ですが、それはイエスの血潮の力によって充分に効果があるものであり、神の御こころと一致した祈りなので、神のもとに届いていくのです。
自分の祈りが弱くて効果的でないと感じてしまうとき、私たちはどのようにしてマリヤのような信仰を持つことができるのでしょうか? 祈りの効果は、目に見える祈りの結果や、祈った時の感情的高揚の有無で測るのではなく、神が御ことばの中で何と言っておられるかで測らねばなりません。
イエスは「誰でも願い続けるならば受け取る、誰でも探し続けるならば見つける」と宣言しておられます。(マタイ7:7−8)
私たちのすべての祈りは聞かれています。私たちが祈りを捧げたときに何も感じなくてもです。祈ったときにどういう感じがしたとかではなく、その祈りがどれほど神の御こころと御ことばとに一致しているかで判断してください。愛する皆さん、私たちのか弱い祈りは、自分を感動させはしないかもしれませんが、神の心は動かすのです。
使徒ヨハネは私たちが祈ったときの感じ方に関係なく、「祈りは聞かれている」と確信してもよいと強調しています。第一ヨハネ5:14で彼は「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」と言っています。
神は私たちの日毎の行動を、私たちが肉の思いで評価するのとは全く違う方法で評価されます。キリストにある私たちの人生の豊かな栄光は、私たち自身の目や今の時代の人々の目からは隠されているのです。しかし神の栄光やマリヤへの約束の成就は、イエスが再臨される時に共にすべてはっきりと表されます。
コロサイ3:3−4には「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。」と書かれています。
ここで難しいのは、往々にして、私たちが自分の人生の中に神の栄光を見ることができないことです。神の栄光は、私たちの感情や五感からは隠されているので、私たちはそれを感じたり認めたりできないのです。私たちは自分の人生を、小さくてか弱く、退屈でつまらないものとして見てしまうのですが、イエスは栄光の富というレンズを通して私たちの人生を見てくださるのです。
主は私たちには見えないものを見られます。私たちの祈りに関してもそうです。私たちの多くの「小さな従順な行動(祈りも含む)」は神の目には栄光に富んでいるのです。自分の「か弱い祈りの価値」を理解することによって、私たちは自分の祈りを「意味があり適切で力があるもの」として見る力が与えられます。肉の目では弱いものに見えるかもしれませんが、神のみこころに沿ったすべての祈りは、神にとっては大切であり重要であることを私たちは信仰で確信しなければなりません。
神がマリヤを導き用いられた方法は、神の完全なリーダーシップを表しています。神の約束の成就はしばしば遅延し、苦難の中で一歩づつ徐々にゆっくり実現していきます。そのゆっくりしたプロセスの中で、私たちは主にしがみつき、愛と信仰とへりくだりにおいて成長させられていくのです。
主のパートナーとなることの大切さ
たとえ歴史を変えるような事のために神に用いられたとしても、その人が愛において成長するとは限りません。神はマリヤを召し彼女がもっと偉大な愛に成長するための旅路につかせたのです。
神は敵意に満ちた世の中でご自分の御こころと目的を明らかにされ、敵を用いて神の民(私たち)が愛とへりくだりを学び、神とのパートナーシップにおいて成熟していくようにされたのです。神は、どのような事があっても常にあきらめることなく「はい」と応答し信頼する者たちとパートナーになることを望んでおられます。
マリヤのように私たちも神の約束に同意し一致し、困難な状況にあっても神の導きを信頼する必要があります。たとえ遅延や不幸な出来事がおきたときでも神の約束は真実です。主はそれらを私たちの益になるように用いられるのです。(ローマ8:28)
私たち達が約束をしっかり握りしめて困難な中でも神を信頼して喜ぶことを選びとるならば、神は恵みを与えてくださり、喜びをもって忍耐し、愛に成長する力を与えてくださいます。私たちが主の召しに喜んで応答するならば、神はそれに答えてありあまるほどの恵みを与えてくださるのです。(終り)
09 12月
マリヤのようになる (その1)
マイク•ビクル(IHOP Kansas)
クリスマスの物語は、御父がある女性を用いてどのようにご自分の息子を地上にもたらしたかを証しする驚くべき物語です。それは栄光に満ちており、御父がどのように私たちを導かれるのか、そして私たちがその導きにどのように応答すればよいのかを明確に示しています。
天使ガブリエルがマリアに「あなたはみもごって、救い主を産む」と告げたとき、マリアは主の導きを信頼して「はい」と答えました。神はこのような信頼した心からの応答をご自分の民の中に探し求めておられるのです。
クリスマスの物語を読むとき、私たちはただマリヤの決断の気高さを賞賛するだけであってはなりません。実にマリヤの人生は、私たちが一生を通して神の導きに正しく応答するように励ましてくれるお手本であり、それは困難な状況において特にそうなのです。
御使いのガブリエルは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」(ルカ1:28)
ガブリエルがあなたに現れて、「あなたの人生はこのようにすばらしくなります」と宣言することを想像できますか? 神から特別の厚意を受けるということは、すばらしくすべてが祝福された人生を送るのだ、とあなたは思うのではないでしょうか。しかしながら、マリアが受けた栄光ある神の約束は、予期しなかった多くの苦しみを通りながり次第に解き明かされて行くのです。
マリアは一生のあいだ、ガブリエルの力強い言葉を忘れないで、神からの約束をしっかり心の中に持ち続けていなければなりませんでした。
マリヤに挨拶したあとガブリエルは、彼女が聖霊によってみごもり男の子、イエス、を産むと告げ、その子はすぐれた者となりいと高き方の子と呼ばれると言いました。
そしてイエスは、ダビデの王位を与えられ、永遠の治めるであろうと告げました。ガブリエルはイザヤが何百年も前に預言したことを伝えたのです。
イザヤ9:6 「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」
マリヤはこの聖書の預言をよく知っていました。そして今ガブリエルが、まさに彼女こそがその救い主を産む者だと告げたのです。その時マリヤは恐れや疑いによって尻込みするのではなく、神がされると言われた栄光の約束に心から進んで応答したのです。彼女は神を信じたのです。
ガブリエルが最初にマリヤに言った「おめでとう Rejoice(喜びなさい)」という言葉は、実際に役立つ励ましの言葉であり、神の約束を常に心に抱いて人生を送る中で彼女がいつも心がけたことでした。それはこれから起ころうとすることに「一度だけ大喜びしなさい」というのではありません。
マリヤは、これから経験する多くの困難や人々受ける誤解の中で、自分の人生を必ず主が正しく導いてくださっていることを「常に喜び、常に信頼せよ」という命令をしっかりと握りしめている必要があったのです。困難の中でも神の約束を喜ぶことを選び取ることによって、マリヤの心は常に神の心と一つになり、それによって忍耐力を与えられ、信仰が成長していったのです。
厚意と逆境
神の厚意のもとにある人生とはどのようなものでしょうか?マリヤが思いもよらなかった様々な苦労を何十年にも渡って耐え忍んだことを私たちは見落としがちです。ガブリエルが言ったように、マリヤは聖霊によってみごもりました。神が共におられましたが、彼女はその時大変な恥辱を負うことになったのです。
ガブリエルの訪れの後、マリヤはユダヤから南に100マイル離れた村まで旅をし、そこでエリサべツと3ヶ月暮しました。そしてナザレの家に戻ったときには、彼女が妊娠していることは人々にわかったことでしょう。彼女はすでにヨセフと婚約をしていたのですから、これは大問題でした。
当時は、婚約を破棄するためには正式な離婚手続きが必要でした。もしマリヤが他の男と一緒であったのならば、石打ちの刑になるのが法律で決められていました。彼女は神によってみごもったと言いましたが、人々にはマリヤはひどく厚顔な嘘つきか、もしくは妄想家であると見えたに違いありません。
マリヤの婚約者であったヨセフは、非常に悩みました。うわさは近所に広まりました。30年以上経った時でさえ、マリヤの不品行のうわさはまだエルサレムでされていたのです。(ヨハネ8:41)
神が介入されマリヤの言葉は真実であると分かるまでは、ヨセフはマリヤとの関係を解消しようと考えていました。主はマリヤを非常に劇的な方法で用いられましたが、マリヤは自分が最も愛する人たちから恥辱と誤解を受けたのです。それのすべての経験を通して、マリヤの心は愛と信仰とへりくだりにおいて成長していったのです。
私たちが愛と信仰とへりくだりにおいて成長するのは、思いがない困難や神の約束の成就の思いがけない遅延を経験するときにも、神を信頼することをくり返し選び取ることによってなのです。
私たちが怖じ惑って肉で行動してしまいそうになるとき、立ち止まって「神よ、私はあなたの導きを信頼します。」と言うならば、私たちは自分の心を神の心と約束に一致させているのです。神の約束を信じて、困難な中でも信仰と感謝をもって応答するならば、私たちはマリヤと同じように喜ぶことができるのです。
このように自分の心を何千回も一致させるプロセスを通して、私たちは、愛と信仰とへりくだりにおいて少しずつ成長して行くのです。マリヤは人生の中でこのプロセスをくり返し行い、それによって主への愛に成熟し、主の正しい導きに対する確信に成熟して行ったのです。
マリヤはお産が間近になった時、人口調査のためにヨセフと共にベツレヘムへの辛い長旅に出掛けなければなりませんでした。そしてベツレヘムに着いたとき、彼女は産気づきましたが、宿がありませんでした。
彼女は汚い家畜小屋の中で出産のために苦しみ、生まれたばかりの愛する子を寝かせるには飼い葉おけしかありませんでした。天使ガブリエルは「神の厚意、祝福があなたに注がれている、その子は永遠に治める者となる」と告げたのですから、出産の時の環境はもう少し良くてもいいのではないかと、私ならば思ったことでしょう。
マリヤはすばらしい神の約束をガブリエルを通して与えられたあと、何ヶ月もひどい恥ずかしめを受けながらすごし、今はお産に適した場所も赤ちゃんを世話する場所も与えられなかったのです。
このようにマリヤは苦難を通らされましたが、イエスの誕生に際してはいくつかの超自然的な出来事が起こりました。イエスが生まれて間もなく、羊飼いたちが飼い葉おけの中の赤ちゃんを見るために興奮してやってきました。
それは天使が救い主が生まれて飼い葉おけの中に寝ていると彼らに告げたからです。彼らは天使の軍勢がマリヤの子の誕生を祝い神を称えているのを見たと、マリヤに告げました。
マリヤとヨセフがイエスを神にささげるためにエルサレムに行ったとき、シメオンとアンナがイエスの栄光ある身分を預言的に証言しました。その後、東方の博士たちはイエスを礼拝するために贈り物を携えてやってきました。
マリヤはガブリエルの訪問を受けてからずっと多くの患難に耐えてきたのですが、これら超自然的な出来事によてイエスに関する約束を確認することができ、神が本当に自分と共におられるのだという励ましを受けることができました。
これらのすばらしい主の約束を確認できる出来事があってからの人生は少しは楽になるかと、マリヤは期待したかもしれません。しかし確かに神はマリヤの人生に力強く働かれていましたが、それ以後も多くの困難や失望、忍耐させられることを彼女は経験せねばなりませんでした。(続く)
03 12月
プレイズとワーシップの違い
スコット•フィリップス
プレイズ(賛美)とワーシップ(礼拝)には大きな違いがあることを理解することは大変重要です。まずプレイズについて次の3つの事を理解することが大切です。
プレイズは自然なもの
聖書が多くの箇所で明確に語っていることですが、自然界のものはすべて、唯一まことの神を生き生きと賛美しています。
詩篇96:11−12「天は喜び、地は、こおどりし、海とそれに満ちているものは、鳴りとどろけ。野とその中にあるものはみな、喜び勇め。そのとき、森の木々もみな、主の御前で、喜び歌おう。」
すべての被造物は、創造主への絶え間ない賛美に参加しています。バラの花、草の上の露、或はふくろうの鳴き声や牛のモーという声など、すべての自然界は創造主を賛美していると言ってもよいでしょう。朝小鳥がさえずる声や夕方のコロロギの鳴き声の中にはメロディーもあります。これらはすべて神によって創造されたものたちの賛美の合唱の中で歌っているのです。
プレイズはすべての者がすること
エルサレムに入城されるイエスを群衆は喜んでむかえ賛美しました。主は、彼らをしずめるようにと言われた時、「もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」と言われました。これは賛美が止む事はないことを語っています。天の軍勢も自然界もすべてが賛美しているのです。
聖書は「すべてのものはひざをかがめ、すべての口が『イエスは主である』と告白する!」(ピリピ2:10−11)と言っています。今主を賛美するか、それとも後になってから賛美するかのどちらかですが、いずれにせよ、あなたは必ずイエスを賛美するのです。
プレイズするのに才能は不要
賛美は自然で誰もがするべきものですから、賛美をするためには何の才能も徳も必要ではないことがわかります。賛美をする理由は数えきれないほどあります。健康や富や知恵を与えられていることで私たちは神を賛美します。又、家族や家や必要な物を与えられていること、或は癒し、いつも守られていることに関して神を賛美します。これらは主がしてくださったことを感謝する賛美です。
ワーシップとは何か
それでは次にワーシップについて考えてみましょう。誰でもすべての人は、意識的に、或は無意識に神をワーシップしています。しかし実のところワーシップは、気弱な人のものではありません。それはプレイズとは全く異なるものです。聖書で最初にこの言葉が用いられたのは次の箇所ですが、「言葉はそれが聖書の中で最初に用いられたときの状況がその意味を最もよく表しているという法則(the Law of First Reference)」によるならば、私たちはここからワーシップの意味を深く知ることができると思います。
創世記22:1−5
これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出掛けて行った。三日目にアブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたはろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝(worship)をして、あなたがたのところに戻ってくる。」と言った。
ワーシップは決して一面的なことではなく、多くの要素を持ち、多くの事柄を網羅していることを理解することが大切です。
真のワーシップの3つの面
1.真のワーシップは「降服 Surrender」する行為
アブラハムは、自分の希望、信仰、夢をすべて神の御こころと御手に委ね、降服することを決意して旅に出ました。
2.真のワーシップは「服従 Obedience」の行為
アブラハムは神から命令を受けたとき、何一つ疑いや不平なしに、それを果たすための作業に取り掛かりました。これは私たちには簡単なことではないかもしれません。多分ぶつぶつと不平を言うかもしれません。しかし、私たちが絶対的な服従という境地に到達するならば、その時こそ私たちは「ワーシップの領域」へと入っていけるのです。
3.真のワーシップは「いけにえ Sacrifice」の行為
いけにえはワーシップを完全なものにするための鍵となる要素です。いけにえのないワーシップはワーシップではありません。
ワーシップに必要なもの
アブラハムは旅に出るとき、3つのものを持っていきました。真のワーシップをなすためには、私たちは正しい材料を用意し携えて行かねばなりません。
1.薪
すでに死んでいるもの、火がつきやすいもの、燃えてしまうもの。即ち、いろいろな問題や疑いなどであり、すでに死んでいるもののことです。誰でもそのような薪をもっています。もしあなたが神のために生きているならば、火を燃やすに充分なたきぎを集めることができるはずです。
2.火
熱いもの、光があるもの、すでに死んだものと死ぬべきなのにまだ生きているものを焼き尽くすもの。火はそれに触れるのものすべての分子構造を変えます。あなたが薪に火を近づけると、死んだものを燃やすと共にその中でまだ生きているものを取扱い燃え尽くす環境を作りだすことができます。
3.刀
ワーシップが本当に始るのはここからです。誰でも火はおこせますが、いけにえのないワーシップはただの野外料理です。私たちがすべてのものを捧げて祭壇に置くならば、その時、神が私たちの人生にもっと豊かにかかわってくださるのです。
「すでに死んだもの」を整え並べたならば、あなたは火を燃やし始めることができます。そしてそれは同時に神が捧げることを要求された「まだ生きているもの」の上に刀を振り上げる時なのです。あなたが賛美を超えて神の臨在の中に喜んで入りワーシップするとき、神はあなたに約束だけではなく確約をくださるのです。あなたが賛美の歌を歌うだけではなく、もっと奥深く神の臨在へと入って行く事を心から願うとき、あなたは想像をこえた神の祝福を受け取るのです。
ワーシップは人類に与えられた究極の光栄な特権です。御父が求められるのはまことのワーシップであり、そこは天使さえも入りたいと願う領域なのです。しかしそこはあなただけが占めることができる領域です。あなたには他の誰にも歌えない歌があるのです。あなたには他の誰にもない捧げものがあるのです。あなたは他の誰にも輝かすことのできない光を持っているのです。
肉のヴェールを超えるとき、聖霊の富と栄光があなたを待っています。(終り)
25 11月
神の車線に合流せよ
ハキーム•コリンズ (Hakeem Collins Ministries)
ある時、私が祈っていると、主が預言的なヴィジョンを与えてくださいました。ヴィジョンの中で、狭い道路に「合流地点」という標識が立っているのが見えてきました。その意味を主に尋ねると、神はキリストのからだが迎える次のシーズンについて語ってくださり、私たちがどう決定するかによって私たちの目的地が決められる、と言われました。
私たちが今という重要な転換期にする決断は、これから数ヶ月、あるいは一年間の私たちの歩み方を決定することになるのです。神は、私たちはこの年を最後まで力強く歩むと言われました。
目的地に着くために私たちが神に示された道を進もうとする時、敵は私たちを混乱させ、挫折させ、妨害し、中断しようとしてくるでしょう。「合流地点」という道路標識は、キリストのからだに対して「心してしっかりと物事を考察し、主に従って信仰をもって行動するように」と注意を促すために主が置かれたものだと信じます。それと共に、今は物事が移り変わる時であり、あなたが自分の行動をシフトし変えていく時だと主は言っておられるのだと思います。
聖霊の導きに従うならば、私たちは少しづつゆっくりと進み始め、体制を立て直し、次のシーズンに何をするか賢明な決断をするようになるでしょう。私たちは今、単に「次の」シーズンというだけではなく、「まさにこのシーズン!」という特別な時に入っているのだと思います。主の民が「リスクをも辞さない信仰」を持って賢明な決断をすることによって、主が用意されているものに素早く到達することを主は願っておられるのです。
合流
「合流 merge」の定義は、「~をもたらす、合併、合体、合同、混ぜ合わせる、徐々に合体する」です。
主は、私たちが「主の御こころ」や私たちのための「主のご計画」に合流することを望んでおられます。「御こころが天でなるごとく、地にもなさせたまえ。」と祈るべきなのに、しばしば私たちは、自分のやり方で行動し、自分の考えや思いで物事を進めて、どうかそれを成就してくださいと主に願ってしまいます。
神は一つの方向に向かって進んでおられるのですが、人生という対面通行の道路で神とは反対の方向に進んでいる人たちがいます。人生では時として、自分がやりたい事に振り回されて、神の示された道とは反対方向に進んでしまうこともあります。
神は今シーズン、私たちが自分のヴィジョンや心配事、夢、願望、目的を主に明け渡すならば、主が私たちに望まれる完全なご計画と到着地点を教えてくださると言われています。
私たちの多くは、ぐるぐると同じところを回り、右折する場所や出口を逃したりしているのです。しかしこれからは、聖霊が突然あなたの人生に来られて、主があなたのために用意されているものの方に合流するようにと合図されます。霊的挫折や衝突や事故はもう起りません。今は聖霊の導きによって正しい決断をするシーズンです。
神は定められた目的地にあなたが安全に遅れることなく到着するのを願っておられます。次のシーズンの到着予定時間は超自然的なものとなるでしょう。今あなたが下す決断は、目的地にいつ、どのように到着するかを決めるデスティニーの決断となるでしょう。神は他の人々のように広い道を選ばないようにと言われました。主は「主の道」に合流するようにと言われています。それは狭い道ですが、あなたの地上での召し、目的、任務を全うする道なのです。
このシーズン、主が「あなたのヴィジョンを主のヴィジョンに、あなたの願いを主の願いに、あなたの意志を主の意志に」と合流させようとされています。その備えをしてください。あなたは聖霊の助けと導きを得て、素早く預言の成就に到達するでしょう。
「あなたが神と共に進むスピードを落とさせるもの、即ち、障碍物、邪魔物、サタンが起こす回り道や妨害を、わたしは取り去っている」と主が言われます。今はシートベルトをしっかりしめて、成功への道を運転する準備をする時です。
神は渋滞を取り除く
神からの夢や目標を成就するのに近道はありません。しかし、あなたの人生の中の渋滞や、あなたの希望を奪い恐れを与える多重衝突を主は取り除かれます。
「あなたが自分のヴィジョンを神の御こころと合流させると決断したことによって、あなたははっきりと見えるようになった」と神は言われます。あなたが前方を見るための視力をぼやけさせてしまう人や場所や物事を、神は取り去られます。
あなたはあなたのデスティニーを成就する道を今走っています。ぐずぐずしている暇はありません。人生のあらゆる状況の中を主が導いてくださるので、あなたはガス欠状態で走るのではなく、聖霊という燃料と知恵で走るのです。
デスティニーの決断の鍵はあなたの手に
慌てることはありません。神はあなたが主のうちに安息し、じっくりとよく考えて、慎重に進むことを願っておられ、あなたが狭い道を選び取り、デスティニーの道へと合流していくことを主は願っておられます。
イザヤ35:8「そこには大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。」
マタイ7:13−14「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」
ルカ13:24「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。」
門は開かれ、あなたの目標へのハイウェイがあるのです。あなたの行動、言葉、宣言があなたの人生を決めていくのです。これらの聖書箇所を見てください。
今このシーズンにあなたがする決断はあなたのデスティニーと関連しています。人生で行きたい所に行く車の鍵は、あなたの手の中にあるのです。その鍵で何をするかは、あなた次第です。神は今もあなたに話しかけ、指示を出し、指差し、合図をして、あなたを失敗ではなく成功に導く目標への一方通行の車線にあなたが合流するように導いておられます。あなたがすると決断したことをあなたは宣言するのです。
ヨブ22:27−28
「あなたが神に祈れば、神はあなたに聞き、あなたは自分の誓願を果たせよう。
あなたが事を決めると、それは成り、あなたの道に上には光が輝く。」
あなたが成功するかどうかは、今この時、あなたが神の指示、導き、御声に従うかどうかによって決まるのです。今日神の車線に合流し、明日神の恩顧と祝福を経験してください!(終り)
19 11月
人生の目的の書
ダグ•アディソン(InLight Connection)
ユダヤ暦で新しい年となり、新しい霊的シーズンが始まりました。今年主は、今まで苦しんできた人々にフェイバー(特別な厚意)を解き放っておられます。事が思うように進んでいないように見えましたが、主はあなたへの約束を成就されようとしています。約束の成就が遅くなっていることに落胆してはいけないと主が言っておられるのが私にはずっと聞こえています。なぜならばそれはこれから起る偉大なことに私たちを整えるために必要な時間だったからです。
ハバクク2:3「この幻は、なお、定めの時のためである。それは終りについて告げ、まやかしを言ってはいない。もし遅くなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。」
3つの書が開かれる
私は天にある3つの書が、今年開かれるのを見ました。
1。悟りの書
2。サタンの策略の書
3。人生の目的の書
神は人生の目的に対するあなたの更なる悟りを解き放っています。敵の策略を教えてくださり、あなたが障碍を克服するための戦略を明らかに示してくださいます。天にある書物は霊的なものです。それには私たちの人生に対する召しや任務、又、預言的指示が書かれています。
聖書の中には書物や巻物に関する記述がたくさんあります。イエスもルカ10:20で「ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」と語られていますし、黙示録13:8には「小羊のいのちの書」のことが書かれています。
今は、あなたの人生に関する(特に新年に関する)天の書物が開かれる時です。
詩篇139:16「あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物のすべてが、書き記されました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」
悟りの書
ダニエル12:8−10「私はこれを聞いたが、悟ることができなかった。そこで、私は尋ねた。『わが主よ。この終りは、どうなるのでしょう。』彼は言った。『ダニエルよ。行け。このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ。...しかし、思慮深い人々は悟る。』」
主は今年、今までよりも深遠な啓示を開かれていて、あなたのシーズンと召しに関する悟りの書が今開かれています。更に深い洞察、知恵、啓示を受け取る備えをしててください。
イザヤ29:11「そこで、あなたがたにとっては、すべての幻が、封じられた書物のことばのようになった。これを読み書きのできる人に渡して、『どうぞ、これを読んでください。』と言っても『これは、封じられているから読めない。』と言うであろう。」
今まではあなたに理解できなかった事柄を主が解き明かしてくださるのを見ていてください。
サタンの策略の書
エレミヤ11:18「主が私に(敵の策略を)知らせてくださったので、私はそれを知りました。」
私は夜のヴィジョンで、多くの人々に対する敵の策略の書を見せられました。そのヴィジョンで見た私に対するサタンの策略の書は膨大で、ページはボーっとかすみ、細かいことは読めませんでした。私のうちに神の義が立ち上がるのを感じ、私は天の法廷に入り、正義を求めて嘆願し、サタンの悪だくみを教えてくださるように主に求めました。
このヴィジョンを見たのは2017年でしたが、その時私は「このヴィジョンはこれで終りではなく、まだ続きがあるに違いない」という感じを持ちました。このヴィジョンのことは今まで忘れていたのですが、今月(2019年10月)、あたかもそれが今起っているかのように、主は私をその場面に連れ戻してくださいました。すると前はぼーっとかすんでいたベージが今度ははっきりと見えて、私はサタンの策略を知ることができたのです。
ダニエル2:22「神は、深くて測り知れないことも、隠されていることもあらわし、暗黒にあるものを知り、ご自身に光を宿す。」
主が言われました。「今までは暗やみにかくされていたサタンの策略を、今わたしはあらわす。サタンの策略の書は今開かれる。」
人生の目的の書
イザヤ書にある主の目的の書が天で黄金の巻物のように解かれるのを私は見ました。これはまさにイエスがルカ4:18−19で読まれ、主の地上でのミニストリーの開始を宣言された巻物でした。これは私たちのための主の目的の書です。
この年は私たちが成し遂げるために生まれた目的が開始される時となるでしょう。これが新しい年の預言のことばの中心となるものです。イザヤ61に関する多くのことがこれからどんどんと起ってくるでしょう。
イザヤ61:1−2「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、..」
主は人々を暗やみから解放するために新しい力をもたらしています。先が見えない不安という暗い牢獄の中で、人々が失望し抑圧されているのを私は見ました。主は扉を大きく開けて、闇夜や荒野からあなたが出るようにされています。あなたがそこから出て来るならば、新しい任務と人々を助けるための油を受け取るのです。
イザヤ61:3「シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、
悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。」
あなたの嘆きは終ります。この年は新しいシーズンの始まりであり、あなたは前のシーズンの灰を投げ捨て頭の飾りを受け取るのです。主はこの年、人々を新しい場所に植えられ、主の栄光を現す者とされます。
イザヤ61:4「彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。」
破棄された召しや任務、実現しなかった約束を、神が表し示されるのを注意して見ていてください。これはあなた個人のことでもあり、又都市や国家にも影響を与えるレベルのことでもあります。暴力や犯罪で満ちていた多くの都市や町が、今主の愛に目覚めようとしています。
イザヤ61:5−6 「他国人は、あなたがたの羊の群れを飼うようになり、
外国人が、あなたがたの農夫となり、ぶどう作りとなる。しかし、あなたがたは主の祭司ととなえられ、われわれの神に仕える者と呼ばれる。あなたがは国々の力を食い尽くし、その富を誇る。」
主はこの年、物事を経済的にシフトします。神が人々を召しておられる御国のプロジェクトのための資金を生み出す戦略が立てられるでしょう。新しい厚意と助けがあなたの周りの人々から来るでしょう。
イザヤ61:7「あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、
とこしえの喜びが彼らのものとなる。」
今年は、二倍の祝福の年であり、二倍のものが天から解き放たれます。
イザヤ61:8−9「まことに、わたしは公義を愛する主だ。わたしは不法な略奪を憎む。わたしは誠実を尽くして彼らに報い、とこしえの喜びが彼らのものとなる。彼らの子孫は国々のうちで、彼らのすえは国々のうちで知れ渡る。彼らを見る者はみな、彼らが主の祝福された子孫であることを認める。」
主は公義をもたらし、過去の損失、損害を償われます。あなたの家族や思いがけない人たちに神が働かれるのをよく見ていてください。
イザヤ61:10−11「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。地が芽を出し、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、神である主が義と賛美とを、すべての国の前に芽生えさせるからだ。」
主が今までずっと待ち続け悲しんでいた人たちに、活力と喜びをもたらしています。新しい霊的な権威がもたらされ、主がさらに深く親密な交わりの中でご自分をあなたに現されます!今は驚くべき神の方向転換のときであり、物事は突然シフトするでしょう!(終り)
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