03 06月
完全なる自己放棄( abandonment )により
神とフェース・ツー・フェイスに出会う
坂 達 也
日本人程「頑張ること」の好きな国民はいないと思います。少なくとも言葉の上では、挨拶代わりに「頑張って!」「頑張りましょう!」が合言葉です。つまり日本人程「自分で何事も努力することを奨励し、尊ぶ」国民はいないと思います。確かに創造主の神を知らない人にとっては、頼りにするのは自分しかいない訳ですから、人を励ます意味においてこの言葉は、決して悪い言葉ではないかも分かりません。
しかし、クリスチャンとしての私は、この「頑張れ!」という言葉を聞くと、何か複雑な気持ちになります。なぜなら、何事も自分の努力ですることは、根本的に聖書の原理と相反するからです。
何故なら、クリスチャンとは、主を常に見上げ、主の言われることを聞いて、それに従う以外の生き方はないからです。神は私たち人間が、自分の努力で事を為すこと、自分で努力して物事を達成することから「休みなさい」すなわち完全なる自己放棄(complete abandonment)を先ず要求しているからです。
もっとはっきり言えば、神は私たちに自分では何もしてはいけない、只々「主の御顔を見上げて待ちなさい」と言われるのです。そこに要求されるのは「忍耐」です。そうすれば、全て主が、私たちに必要な「心の思い」を私たちの心の中に入れて下さり、それに忠実に従えばそれができるようになるのです。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28−30)と主は言われます。その根底には「愛」があり、愛がすべてです。
さて今日は、その「完全なる自己放棄(complete abandonment)」をすることについてビル・ジョンソン師の証しをお分ちしたいと思います。それは1971年に、当時ベテル教会の主任牧師であった彼の父親が取り次いだメッセージを聞いて彼が決意したことです。
お父さん先生は、私たちが「神ご自身に対してミニストリーをする」ことと「人々に対してするミニストリー」とは全く違うと語りました。ビル師は、その前から自分を神に放棄する( surrender )コミットメントをしていました。しかし、そのメッセージを聞いて時、口に言い表せないような深い感銘を受け、更なる決意をしたのです。神はそれに素早く応じられ、それ以来聖霊の臨在と神の力を受け始めました。
そして1995年に至って、彼は「私は、もっと主を求めます。それがいかなる代価であっても、私はその代価を払います。」と日夜泣き叫び始めました。それは8ヶ月続きましたが、10月のある夜、遂に神がそれに答えて下さったのです。但し、それは私が予想していない方法ででした。」と言います。
ビル師は、突然死んだように寝た状態からはっきりと目覚めた状態へと一瞬にして変へられ、突如として全く説明のできない物凄い力が彼の身体の中を走り始めました。それはあたかも壁のソケットに自身を差し込むことによって1000ボルトの電流が彼の身体に流れ始めたかのようで、その電流に打たれ、神の前で彼は何も身動きできない状態になったと言います。
それは神の御声を聞くとか、ビジョンを見るとかというレベルを遥かに超えた、彼はそれまでの人生で経験したことのない「物凄い圧倒的な力」そのものであった、それは神ご自身としか言いようがないーーと言い、これが彼が8ヶ月祈って来たことへの神の応えであったのです。
このパワー(電力)サージのうねりはその夜を通して続いたそうです。そして朝方6:38AMにやっと止まり、彼はベッドから完全にリフレッシュして飛び起きたと言います。
彼は、後日、これが「神とフェース・ツー・フェイスに出会った」経験であったということを知ったそうです。(以上はビル・ジョンソン師の著書:Face to Face with GOD からとったものです。)
モーセは神と口と口で語った
このビル・ジョンソン師のお話しから思い浮かぶのは、モーセが主の前に40日40夜、食べず、飲まずに主と共に過ごした経験です。それによって彼は神と「親しい友人」のように話し合う間柄になりました。そのモーセは荒野の旅に出ると、宿営の外に会見の天幕を張り、そこで彼は「神と口と口とで語り・・・(目の前に)主の姿を仰ぎ見ている」(民数記12:8)と書かれていますから、私たちが真に決意して望めば、本当に「神とフェース・ツー・フェイスに出会える」のです。
それには「神に出会えるなら、どんな代価でも払う」という決意と、時間を掛けてそれをまっとうする実行力、そして忍耐が必要です。
ヤコブの場合は、祝福を得るためにはどんな代価を払っても神にしがみ付いて離さず、神(天使)と格闘して遂に勝ちました。そして、生涯びっこを引いて歩くという代価を払いました。
私たちクリスチャンは、神とお話しができると聞いて、それならやってみようとその訓練を始めますが、多くの人が簡単に諦めて、結局辞めてしまいます。
「主と共に歩く」ことも同じです。主と共に歩くためには、先ず「完全に自己放棄(complete abandonment)」して、無心で主について行けば、主が必ず語ってくれ、それが聞こえるようになり、後はそれに従って行けば良いのです。まさに「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(終わり)
26 05月
「成熟した大人」(ギリシャ語でHuios)になること
グラハム・クック (Growing up in Godセミナーより抜粋)
先週に続いて、今回はグラハム・クック師のとても愉快で楽しい「証し」をご披露させて頂きます。これは暫く前にWWGMに載せたメッセージですが、私はこのお話を読むと本当にクリスチャンが真に「神に似る人」に変えられるとこうなるという実話です。お楽しみ下さい。
クリスチャンが霊的に子供から大人に成長する過程で、最終的に成熟しきった大人になることとは、その人の内なる人が神のご性質のようになることです。真に神のように誠実で清い性質と品性を持つようになり、それが常に外に表われる言動をする「成熟した大人」(ギリシャ語でHuios)にならねばならないのです。
しかし、そのような霊的成長過程であなたは、聖霊と真っ向から対立することになることを覚悟しなければなりません。なぜなら、あなたの内におられる聖霊の役目は、あなたの生涯を通して「あなたをイエス・キリストに真に似た者にすること」であるからです。
就いては、それに関して皆さんが知らねばならないことがあります。それは、神はクリスチャンである私たちが、この世に生きている間に真に「キリストに似た者」になることしか望んでおらず、それ以下で終わるとは全く考えておられないと言うことです。
そうであれば、私たちはこの世に生きている間にキリストに似た者に本当にならなければならないのです。このことは、単なる概念とかシンボル、あるいは象徴的な話として受け取らないで下さい。主は、実際にリアルにそうなることを意味しておられるからです。
それは実際生活で私たちが人と話したり、人のことを考えたりする時に、キリストに真に似た者として相手に対応できるということです。
しかも、それは相手の人たちがとる言動とは全く無関係です。彼らの言動によって影響を受けそれに反応するのでなく、ひとえに「あなたはその人とどう対応するのか」というあなただけの問題であるのです。あなたという人がどのように外に表れるかだけがポイントです。相手の出方次第(彼はこう言ったとか、こんなことをしたとか)で相手を責める―と言うようなことでは全くありません。なぜなら、御国では人を責めることなど存在しないからです。キリストにある私たちにはもはや恥も罪定めはないのです。又自分が肉的になってしまったことを相手のせいにしたり、状況のせいにしたりすることもあってはなりません。
「どれだけ神から祝福を受けるか」を決めるのはあなた自身であり、あなたにかかっています。あなたは「祝福された者」であるはずですが、それはあなた次第であり、あなただけが祝福を受けるための責任者なのです。あなたは主の約束をいただいている人です。しかしその約束を実際に受け取るかどうかはあなた自身の責任です。しかも、それはあなたがどんなに落ち込んでいたり、迫害にあっていたりする最中でも同じです。事実、迫害とか苦しみの中を通っていたり困難な目に会っている時でも、神から大きな祝福を受けている時と同じように、すべてを有益なものとする道があるのです。
あなたの内にはどんなことがあっても止めることの出来ない「いのち」が内在しています。勿論、あなたの意志でそれを止めるなら別です。それはあなたが決めることであって他の誰の責任でもありません。
神があなたに与えたいと願っている祝福を、あなたが受け取るかどうかの責任は、あなた自身にあることを学ばねばなりません。神が常に与えたいと願っている祝福に自分から積極的に近づき、主の御計画に沿って日常の生活の中でその祝福を受け取り、その祝福を人々のために用い始めるのです。そうすることによって、あなた自身がキリストのイメージ、似姿となり、それを人々に表すことが出来るようになります。それが霊的に成熟することの最終的段階であり、完全に成熟した神の息子Huiosになることの意味です。
あなたはもはや自分だけが祝福されることはできなくなります。あなたの周りのひとたちは全部あなたから祝福を与えられる可能性が充分にあるのです。あなたが現れると、誰であっても、あなたから祝福を受けることから身を守ることは出来ません。
聖書には「心を尽くし、思いを尽くし・・・あなたの主である神を愛せよ。・・・あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」とあります。ここであなたの隣人と言うのは、それがいつであっても、どこであっても、たまたまあなたの傍に立っている人、坐っている人のことです。飛行機の中でも、喫茶店の中でも、仕事の中でも、銀行の中でもです。全くの他人だとしてもあなたを通して神の祝福を受けることから身を守ることができる人はいないのです。主と共に歩くあなたは、他人の人生を変える力を常に持っているのです。あなたがその力をつねに持ち運んでいるからです。それは他の人がすることとか言うこととは無関係です。あなた自身が、一人だけで、あなたの住むコミュニティー全体を変える力を持っているからです。それはあなた次第です。そのような人になることを選ぶかどうかというあなたの意志一つです。
それはあなたがキリストの大使として、どのように人の前、あるいはコミュニティーの前に現れたいかによるのです。人がどれほど酷いか、状況がどれほど悪いとかには全く問題ではありません。あなたが一人の完全に成熟しきったHuiosとしてその町に現れると、その社会を変えてしまうほどの力を持っています。使徒行伝には「世界中を騒がせてきた者たちが、ここにもはいり込んでいます。」とあります。あなたがやったことが、その後の30年間も「信じられないことが起こった話」として語り草になるのです。あなたはそのような人になる可能性を持ち、あなたがそこを通って行くだけでそのコミニティーを変える人になれるのです。
「成熟した大人」としての私の経験
私は30年前にロンドン近郷のある会社で働いたことがあります。その会社は色々な企業の会社にアプローチして、その会社によい社員を斡旋したり、各種の社員教育のトレーニングを提供する会社でしたが、私が入社した時は全部で24人の社員がいて、私はその24番目の何もよく分からない新米社員でした。
その24人の中には人材をリクルートすることが専門のアドバイザーとか社員教育のエキスパートが多くいました。それとセールス部門があり、そこでは、大中の企業にアプローチして、その会社の業績を上げるためにより良い社員を斡旋したり、社員教育をするプランを作成します。多くの場合全く知らない会社に電話をしてアプローチし、年間契約の提案書を作り、その仕事に対する入札価格を持って交渉に行きます。私はたまたまそのセールス部門に配属されました。
入社後6ヶ月ほどしたある日、突然私の前に社長のジョージが現れ、私にある会社に提出するプレゼンテーションをしてもらいたいと言うのです。私は面食らって、他にもっとよい人がいるでしょうと2,3のセールス担当者の名を上げたのですが、皆都合が悪く、結局私しかいないと言うことで無理やり私がその仕事を担当することになりました。社長はこれはある大会社への提案でこの入札が取れれば大いに助かる、二日後に一緒にその会社に行くからそれまでよく読んで準備をするようにと言われ、大きな提案書類を手渡されました。
二日後に私はジョージと彼のベントレー(高級車)に乗って出掛けました。そして、ロンドンにあるその大会社のビルの最上階の40階にある豪華な社長室に通されました。そこには社長と担当者たちが待っており、こちら側はジョージと私だけ、私はそれまでに経験したことがない程に緊張し、堅くなってプレゼンテーションを行いました。その最後の段階になって相手の社長がジョージに「提案の内要はとてもよかったが、つまるところ一体値段は幾らなんだね。」と聞くのです。それに対して私は提案書の最後に記入されている入札価格を言うだけでよかったのですが、その時、主が突然私に声を掛けられ「グレイ(グラハムの愛称)、わたしを信じますか?」と言われたのです。それを聞いて私は「オーNo! 主よ、今だけは黙っていていただきたかったのですが・・・後にしていただければ・・・」と心の中でうなりました。しかし主は「わたしを信じるか?」と又聞かれます。そこでやむなく私は「今だけは信じたくはないのですが、・・・ハイ信じます。」と消え入るような小声で答えました。すると主は「その値段を倍にしなさい。」と言われたのです。この間に3-4秒掛かりましたが、相手の社長は再び値段を催促して来ました。そこでジョージが私の方を見るので、思い切って私は倍の値段を言いました。それを聞いたジョージは慌てふためき、心の中で「あの男は精神異常のけがあるので、今の値段はどうぞ聞かなかったことにして下さい・・・」と叫んでいるのが私にはよく分かりました。狼狽したジョージは一瞬椅子から落ちそうになりましたが、相手の社長は担当者とその値段について話し合っていたので、ジョージの様子には気付いた様子もなく、にこにこ顔で「この値段は悪くない、契約しよう」と言ったのでした。
そこで話は決まりました。昼食後に無事契約が取り交わされ、ジョージと私は社長室を後にしました。エレベーターの中で二人きりになると、全く気まずい空気になり、ジョージが「一体何が起こってあの値段を言ったのか」と聞きました。そこで私は自分がクリスチャンであること、「倍にしなさい」と言う神の声を聞いたのでそうしたことを告白しました。社長は「神の声を聞いたというだけで、事もあろうに私の会社がこの大会社との大事な契約を反故にしかねないことを分かって言ったのか。」と、もっと気まずい空気となりました。それから車に乗り帰路につきましたが、この間全くの沈黙が続きました。降りる前に私はジョージに「私は首ですか」と聞くと社長はしばらくした後に「分からん。」と答えました。
三日後に昼食を済ませて自分の席にもどると、机の上に分厚い書類が置いてありました。それは新しい別なプレゼンテーション用の書類でした。表紙に走り書きのメモが付いていて、最後のページを見よ」とあったので、その指示に従って私は最後のページを開くと、値段を入れる欄が空白になっていました。(笑い)そこにもう一つのメモが張り付けてあり、それに「あなたの大きな上司に聞いて書き入れよ」と書いてありました。(会場爆笑)そこで私は祈って主に値段を聞きました。その値段と会社の人たちが通常計算する価格とを比べると、主からの値段は会社の出した数字の1.7倍ほどでした。そこでジョージは主からの値段を採用して私にプレゼンテーションをさせたのですが、その仕事も決まりました。その後も二つの仕事を同じ方法で、いずれも高い主の値段で仕事を取ることに成功しました。
そして私は会社での地位が24番目から2番目に昇格され、ジョージは新に私にビジネス・デベロッピング・マネジャーと言う肩書きをくれた上で、大きな個室と私自身の秘書を付けてくれたのです。しかし私はそんな肩書きと責任をもらっても自分だけではどうしてよいのか全く分からず、ジョージに元の地位に格下げして欲しいと頼みました。するとジョージは私の机の上にある電話を指差し、電話帳から適当な会社を選んで電話してその会社から機会を与えてもらい、仕事を取るためのプレゼンテーションをすればよいと助言してくれました。
そして、彼は「私はあなたを格上げして雇っているのではない。あなたがよく知っている『例の人』を雇おうとしているのだ。」と言ったのです。(笑い)
その後大分経ってから、Huiosになるとそのようなことが起るということに私は気が付きました。それはあなたではなく、あなたが一緒に旅をしているお方がそうであるからです。ダニエルが神に属した人であることは誰でも知っています。ヨセフが神の人であることもそうです。
そこで私は主に祈ったのです。月に一度だけ、一つの会社に電話をし、その会社とだけ契約を結ぶという祈りでした。そして後の時間の全部を、自分の預言者訓練学校で教える教材を書くことに費やしました。(笑い)
或る時私は、ロンドンで最も名高い会社のCEOの電話番号を主から教えてもらいました。しかし、そのCEOにはドラゴン(竜)というあだ名で名高い強力な支配力を持つ秘書が付いていて、すべての電話はその秘書を通さずには絶対にCEOには届かないのです。特に見知らぬ人からの電話はまず取り次がれません。主は私にそのCEOに次の火曜日の午後2時23分に電話をしなさいと言われました。その通りに電話をすると、その1分前にその秘書がトイレに立ち、その時たまたまCEOが秘書のデスクの前を通るように主がされたので、彼が私からの電話を取り、私は難なくそのCEOとアポイントが取れました。それを知った秘書は私がCEOに会うために現れると、本当に憎憎しそうな顔で私を睨みつけ、殺し屋を雇って私を殺してやるとまで息巻いたそうです。言うまでもありませんが、その会社と私はよい契約を結ぶことが出来ました。
さて、その頃ジョージは私に、会社にいるすべてのセールスマンを私がトレーニングし、私のやり方で「大きな上司」からの声を聞いて仕事が取れるようにして欲しいと言いました。私はその年にはセールスマン・オフ・ザ・イヤーになっていました。
私がその会社を辞める日に、ジョージは泣き出しました。私は彼にこれからは「私の大きな上司」の仕事にフルタイムで働くことにしたと伝えたのです。私はこの会社を彼らが経験した事がないレベルにまで収益率を上げました。私自身もどのようにしてそこまで成し遂げたかは想像もつきませんでした。あなたがHuiosの域に到達するとそうなるのです。
と言うのは、神は法外としか思えない程あなたと共にいたい方であり、すばらしいということがどんなことなのかをあなたに証明して見せたくてしょうがない方です。又、あなたは神があなたに与えたいと願っておられる油注ぎを決して低く見積もってはなりません。
あなたが完全に成熟した時、あなたは試合をひっぐり返すことの出来るgame changerとなり、あなたが王であり、英雄であり、チャンピオンとなれるのです。誰もあなたに反抗しなくなり、どんな強い反対者に対してもあなたは抜きん出て相手を打ち倒します。あなたが人生から学ぶことは、どのような状況の中からでも浮かび上がり、あなたが占めるべき正しい地位に着けるのです。なぜなら、卓越した神の性質があなたの上に現れるからです。それがHuiosです。あなたはどんな状態からでも栄えることが出来ます。どのような対抗者にもうまく処することが出来るのです。その結果としてあなたが、あなたの隣り近所を、地域を、町を、そしてハドソン•テイラーがしたように一つの国をも変えることが出来るのです。
クリスチャンが宗教的な制度の中に押し込められると、今お話しているようなことは理解できなくなります。宗教的制度は優秀な戦士とかチャンピオンを生み出すようにはつくられていず、単に羊ばかりを育てようとします。そのような羊は人に頼って生きる人たちであり、毎週教会に来て楽しませてもらい、「十一献金をしたから今月の支払いは全部出来るはずだ」と考えて満足して帰ります。こうして教会という企業全体が次の週に向かって進むのです。しかし、あなたが御国の理解と御国の願望を持つコミュニティーに属すると(たとえそのコミュニティーがどんなに小さくても関係ありません)そこから多くのチャンピオンと物事の流れを変えていくgame changerが生み出されます。なぜなら、一人の真のリーダはどんな大きな宗教団体よりもベターであるからです。イエスは「わたしを信じる者は、わたしよりもさらに大きな業をするようになる。それはわたしが父のもとに行くからです。」と言われました。主は、私たちが主よりもよくなることを望んでおられるのです。最もよいものが最後に残されているのです。(終)
18 05月
「あなたたちが恐れたり、怒ったり、心配したりする
ことは、みな、わたしのものだ!返してくれ!」と主は言われる
グラハム・クック
このメッセージは、2014年5月7日にWWGMに載せたグラハム師の [Growing Up in Godセミナーより抜粋]したものですが、今の時代の世界を騒がせているパンデミックを何故神が起こされているかーその理由を知るためのタイムリーで適切な主からのメッセージですのでご高覧下さい。
わたしのものを返しなさい
私は毎晩のように夢を見ます。夢の中で私は神に会うのです。神は夢や幻を通して私たちに語ってくださる方ですね。時として私は夢の中で変えられていき、夢から覚めたときには変革されていることさえあります。そしてそれは私にとってすばらしい祝福となります。
私はある夢をシリーズとして毎晩のように見ました。その夢は私が天国の丘の上のテントの中で布地をはった木の洒落た椅子に座っているところからいつも始まります。・・・ ある時のこと、夢の中で私はいつものように丘の上に座って主を待っていました。・・すると主が私のいるテントの中に入ってこられ、ぐっと私を睨みつけられました。「グラハム、わたしのものを返してくれ!」と主は言われました。「すみません、主よ、何のことかわかりません。どういう意味ですか?私が持っているものは全部主がくださったものです。」と私は困惑して訊ねました。
「わたしはあなたにそれを上げてはいない。わたしのものだ、返してくれ!」「主よ、おっしゃることがわかりません...」「ぐずぐずしないで早くしてくれ、わたしのものを返しなさい!」私は殆ど泣きそうになって言いました。「主よ、何のことでしょうか?」主は言われました。「その悩み、その恐れ、その心配、その苦々しさ、その怒りのことだ。わたしはそのために死んだのだ。わたしはその代価を払った。だからそれはわたしのものだ。わたしのものを返してくれ!!」
私は泣きながらくずおれて、「ああ、主よ、何ということでしょう。何ということでしょう。」と何度もつぶやきました。 心配したり、怒ったり、恐れたりしたときのことを私は全部思い出しました。目の前に見ることができました。「主よ、赦してください、ごめんなさい、本当にごめんなさい。わかりました。わかりました。それはみんなあなたのものですね。私のものではありませんでした。私が持つべきものではありませんでした。」
主を見上げると、主はにっこり笑われました。改めて今一度救いを得たような感じでした。主は笑って私を抱き上げ、私の両頬にキスをしてくださいました。そして私の目をじっと見て「息子よ、もしあなたがこれらの物を又わたしから取り返し続けるならば、あなたはわたしが望むような人には決してなれないのです。『わたしの前に置かれた喜び』とはこれなのです。わたしが十字架につくことによって、あなたを痛めつけているすべてのものを拭い去ることができる、あなたの人生のすべての負の部分を取り去ることができる、あなたが心配したり、あせったりする 可能性をすべて取り去ることができる、という喜びを知っていたということなのです。
あなたは最早、恐れたり、怒ったり、心配したりする必要は一つもありません。わたしはこれらすべてのことをあなたから取り去ることができるのです。あなたは二度とそのようなことを経験しなくてもいいのです。わたしはそのようなものの考え方、見方、話し方、生き方から完全にあなたを解放します。わたしはそれを可能にすることを本当に喜んだのです。それ故にわたしは十字架について死ぬことを心から喜んだのです。十字架の上で考えていたのはそのことです。わたしは御父と切り離されることほどの恐ろしいことは経験したことはありませんでした。しかしあなたが御父から切り離されることは今後絶対にないことを知っていたので、わたしは十字架についたのです。そしてわたしはあなたから、心配、焦り、恐れ、すべての否定的思いを抱く力を取り去ったのです。グラハム、わたしのものを返してください。あなたの持ち物ではないのです。あなたは持つことができないのです。わたしのものです。返しなさい。もしわたしに返すならば、そしてそのライフスタイルを止めるならば、わたしはあなたが成長する度合いを加速させます。」と主は言われました。
平安があなたの成長を加速させるのを知っていますか? 喜びもそうです。だから、あなたはすべてのことに喜びを見出すべきなのです。そうすればあなたはもっと早く成長するからです。愛も成長を加速させるものです。あなたが受け入れられ愛されていることを知ると、あなたの中の何かが変ります。その時、あなたはもしかして生まれてはじめてリラックスできるのです。あなたは自分に価値があることを証明する必要がないからです。あまりうまくやれていないと思うときも、価値がない者のように生きる必要はないのです。あなたは自分が受け入れられていて、愛されていることを知っているからです。
もしこれが真理ならば、あなたが一番愚かでまぬけな日にも真理でなければなりません。その日のために用意された真理だからです。主の慈しみはあなたの最悪の日のために用意されているのです。あなたの最高の日のためではありません。神はあなたのすべての必要を、それがどんなことであっても、キリストにあって満たしてくださる方なのです。恵みとは、あなたに力を与える神の臨在です。それによってあなたは、神があなたを見たときにあなたの中に見てくださる人物へと成長できるのです。神があなたをご覧になるまなざしは、あなたに自分自身を好もしい、愛しい、と思わせるものなのです。(終)
15 05月
「主を見つめて待つ」祈りについて
坂 達 也
ご存知の方も多いと思いますが、私は今迄に2冊の本を出版し、目下三冊目の原稿にチャレンジしております。その最初の本の題名は上記の「主を見つめて待つ」です。
私はこの本でコンテンプレーテイブ・プレイヤーという祈り方をご紹介させて頂きました。これは15世紀のカトリックの修道僧によって始められ、その後修道院を中心に広まった祈りと言われます。
私の本の中で紹介しましたが、ペギー・ウイルソン師は、クリスチャンがこの「主を見つめて待つ祈り」に目覚めて実行する時、それは人間が救われる時の「ボーンアゲインの経験」に比べられる程の大きな「新しい出発」となると言っています。また、16世紀のカトリック修道院でこの祈りのリーダーの一人であった十字架の聖ヨハネは次の様に書いています。
「純粋なコンテンプレーテイブな祈りとは『受けとる』ことにある。神の最も高尚な知恵と言葉を受け取るには『静かに主を見上げてじっと待つ』霊によらなければ不可能である。この知恵は魂の活動とは一切関係なく伝達される。」
この神の知識とか知恵は、人間の思い(マインド)での理解を超えるものですから、受け取った時には直ぐにはよく分からないまま霊的に蓄えられると言われるのです。
濃厚な主の臨在を経験したことのないクリスチャンはいないと思います。しかし皆様は、主の臨在とは、先ず個人的に毎日経験すべきものであるということを信じておられるでしょうか。
私の場合は、毎朝主とお会いしたくて一人で主の前に出ます。主の御前に出て静まり、主と共に時を過ごし始めると、主の平安と愛に包まれていきます。そして顕著な主の臨在が現れてくださることも多くあります。主が来られてお傍近くで直々に親しくお会い出来たときは、本当にうれしくて感激と喜びで一杯になります。
勿論いつも主のはっきりとした臨在が来てくださるとは限りません。しかし、たとえ顕著な主の臨在感がなくても、平和で平安な気持ちで満たされていれば、それは御霊の実の顕れですから、主の御霊がそこに臨在されている証拠です。
私たち御霊の内住を受けているクリスチャンは、いつも御霊の臨在と共にあり、その臨在の導きで歩んでいなければなりません。(ガラテヤ5章と6章をお読み下さい)この霊的事実は、信仰で受け取ることであり、私たちの肉の感情とは無関係のはずです。
コンテンプレーテイブな祈りを始めて以来、私は一日中できるだけ多くの時間、特に毎朝の起きた後直ぐに、私の中におられる御霊さまにお声を掛けし、御霊さまに満たされること、それが大いなる楽しみとなっております。多くの場合、私は無言で聖霊様を見上げます。その時は私の頭は空っぽです。あるいは御霊さまである聖霊ご自身の言葉(異言)で話します。それは主の御声を聞くためでありますが、同時に、主と静かで楽しい時を過ごしたいという気持ちからでもあります。
特にパンデミックで隔離した生活を強いられている今は、ほとんどの日を私は一人で食事をしますから、自分一人の時は絶好のチャンスです。食事の感謝のお祈りをした後すぐ、(父と主イエスを代表する)御霊様をお招きして、御三方と共に過ごす時間として、親密な会話をしながら、あるいは今は天にいる家内とか親しい家族・友人も一緒に臨在してくれていると信じて、家内にも話し掛けます。 私は彼らは死んだのではない、天に移って真に霊の命で「生きている」ことが今は本当にリアルに感じられるのです。
ところで、大分前に一度引用していますが、ジョン・ベルトという人が詩篇23:2「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」を引用して、次のように語っています。
「私たちは騒々しい音(音楽も含んでの意味であると思います。)の中で暮らすことにあまりにも慣れ過ぎているが、この騒音中毒症状を打ち破らねばならない。私はむしろ、神と共に過ごす「静かな時」を愛することのリバイバルが起こるべきであると願っている。私たちはこの神と共に過ごす「静けさ」にこそ中毒となるべきだ。神は私たちの心の奥深い場所に住まいたいと思っておられ、私たちに静かで平安の場所を約束して下さっている。この心の奥深い静かな場所において私たちは神を知り(交わり)、親密な関係を築く。そこで主は神の栄光を私たちに顕わして下さる。」
いや「静かな時を愛するリバイバル」とはすばらしいではありませんか。実のところ、私は誰かがこれを言ってくれることを待っていたように思いました。
さてそこで、実は最近、私たちのミニストリーであるWWGMの愛読者の方からお手紙を頂戴しましたのでお分かちしたいと思います。その方は私の著書「主を見つめて待つ」を読まれて感銘を受け、それ以来、私のミニストリーであるWWGMのメッセージをずっと愛読しておられる方です。そして私が今住んでいるニューヨークから書いているものですから、私の最近の新型コロナウイルス禍の災いに対する信仰の証にとても感動され、不安を持っている多くのご友人にWWGMを紹介してくださっている、と書かれていました。それを拝見して私の方こそ大変励まされました。
そこで私自身、2003年に主が私に書かせて下さった、この「主を見つめて待つ」を久しぶりに読んでみて、正直なところ驚きました。こんなことを言うのはさぞかし高慢に聞こえると思いますが(お赦るしください)本当に「主が書かせて下さった」この本は、すばらしいです。17年前に書いたものではありますが、実際のところ、これから始まる、最後の霊的大アウエイクニングと、それによるリバイバルのために主が用意された、今こそ読んでいただきたい本であると信じます。
そんなことで、この本をぜひ皆さまにお読み頂きたいと、お勧めします。2008年に改定再販したこの本の定価は一応900円となっていますが、住所を書いてお声を掛けて下されば、直ぐ、残り少ない在庫を預かっていただいている日本在住の姉妹からお送り致します。代金はお読みになってから、価値があると思われる金額だけ幾らでも結構ですからWWGMへの献金としてお送りくだされば幸いです。(終わり)
08 05月
コロナ・ウイルスのパンデミックで
神が世界中の人間を恐れさせる理由
坂 達 也
先週私は、人間の体は絶妙にうまく出来ていること、特に人間の身体には抗体という免疫力が備わっていることに触れました。そして、私たちが「恐れ」を持つ時に抗体不足で病気になる可能性が大きいが、恐れが全くない時は病気にならない、と申し上げました。それは私には、創造主の神の創造がどれ程素晴らしいかを物語っていると受け取ります。しかし、人間が死を恐れる要因がもう一つあることを下記に申し上げねばなりません。
この地上では人間は死を恐れる
血と肉で造られている人間は、この地上では必ずいつかは死ぬという「寿命」に縛られています。神が敢えてそのように全ての生き物を造ったのです。従って、人間は一生涯「死の恐怖につながれ、その恐れの奴隷となっていること、また、その人間をこの上なく恐れさせる「死の力」を持つ者は悪魔であることが、ヘブル書2章14、15で次のように書かれています。
「子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」
しかし、神は勿論それを最初からご存知です。そのためにイエス・キリストが十字架上で悪魔に打ち勝ち、その十字架の御業を信じる者は誰でも、死から完全に解放するように最初からご計画されていたのです。それがヨハネ3:16に「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。」と書かれています。その証拠に、その前の14、15節で「モーセが荒野で蛇を挙げたように、人の子もまた上げられねばなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠の命を持つためです。」と書かれています。
この14節のモーセの話は前に民数記21:9で「最初のパンデミック」としてご紹介しましたので覚えておられるかと思います。
しかし問題は、ほとんどのクリスチャンは教義としてはヨハネの3:16にイエス・キリストが十字架上で死んで下さったので、その主を信じれば「永遠の命」がもらえると保証されているにもかかわらず、それでも死は怖いのです。
何故怖いのか?ークリスチャンは先ず、頭で教義を習いますが、本当の救いの信仰に達するには、イエス・キリストが人間としてどれ程苦しんだか、それを自から味わい、経験するまでは、主が悪魔から勝ち取って下さった「永遠の命」の有り難さが本当には分からないのではないかと私は思います。
そこで私は自分の信仰に問題を感じる時は、多くの場合ヤコブ書を読みます。
ヤコブ1:2「私の兄弟たち。さまざまな試練(内からの誘惑、外からの困難に次ぐ困難に出会うという最大限の逆境)に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐(する力;耐久力)が生じるということを、あなたがたは知っているからである。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」
私は逆境に次ぐ逆境に会うと、それを「この上ない喜びを感じる」とは、ちょうど「死の力を持つ悪魔」を、主イエスが十字架上で滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた私たちが解放される喜びに通じると思うのです。
これはまた、スポーツ選手の弛まない長年の厳しい苦しい訓練の結果、遂にオリンピックで優勝するのに似ていると思います。その選手たちの味わう喜びは格別なものでありましょう。イエス・キリストもそれ以上の喜びを十字架上で最後に味わった、何にも替えられない「勝利の喜び」を私たちにも分かち合わせたいと願っておられるのではないでしょうか。
要するに教義を幾ら頭に詰め込んでも、主に似て造られた人間に秘められる無限とも思える「物凄い力」は出て来ないのです。それは十字架の喜びを勝ち得たイエス・キリスト(初穂)にだけ備わっている父なる創造主が有史以前から用意した神の「無限の力」「無限の喜び」、それを愛する「子供たち」である人間にも味わせたい、というのが神の元々の計画なのです。
それには私たちは、自分の十字架を担いで、ひたすら主の後をついてゆく者にならねばならない、何故なら、その人たちだけが味わうことのできる「無限の力=愛の力」であると確信するからです。つまり、教義よりも、イエス・キリストご自身への個人的な親密な愛の関係を持つことーこれが私たちクリスチャンの目標です。
クリスチャンに絶対必要な神からの知恵
その後ヤコブ書1:5で「あなたがたの中に知恵が欠けた人がいるなら、その人は、誰にでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。ただし、少しも疑わず、信じて願いなさい。そうすればきっと与えられます。・・・」そして12節で「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、命の冠を受けるからです。」と続きます。これがまさに「永遠の命」です。
私はこのヤコブの手紙から12部属を生んだヤコブの信仰とその気迫を感じます。それは彼が2:14で「自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」と問うているからです。
私はこのパンチの効いた、決して「ぬるま湯」的な信仰ではないのが大好きで、読む度に励まされます。私たちクリスチャンが霊的に真にマチュアになるためには、神からの知恵が毎日絶対に必要です。
具体的な例を一つ申し上げれば、預言者のボブ・ジョーンズ師が常日頃言っていたように、多くの人が病気を癒して欲しいと願って祈ってもらいに来るが、その人を単に癒すだけならともかく、聖霊の言葉で祈ると、聖霊から知恵を頂いて、その人の病気をその時癒すだけでなく、その病気が2度と再発しないように、その人の体質、食事ばかりでなく、その人の霊的ライフスタイルを変える知恵をいただけることを強調しました。それがなければ、その人はまた同じ病気になるのです。聖霊は愛を持ってそれを阻止する知恵をくれる、そして使徒パウロが誰よりも異言で(聖霊の言葉で)祈るのは、それが理由であると説明しました。
それは病気ばかりでなく、日常すべてのことで私たちは私たちが気がついていない間違いを繰り返すことのないように聖霊の導きで祈ることを強調したのです。そのような「上からの知恵」については、ヤコブの3章で触れています。また、4:13ー16では「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。・・・信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたのなら、その罪は赦るされます。ですから、あなたがたは互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。癒されるためです。・・」と書いてあります。
人間が自分の自由意志で自分の永遠の将来を決める
最後に思い出していただきたいのは、ヘブル5:8−9に書かれている「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして完全なものとなられたので、ご自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、・・・」の聖句です。
全知全能で100%愛の神は、人間にしてもらいたいこと、もらわなければならないことは一つもありません。あったら全知全能で完璧な神とは言えないはずです。従って、人間は何も心配せず、何にも恐れず、唯々神のいうことに100%従順であり、すべてを安心してすべてを神に委ねることが私たちのためになるのです。そして、人間に生まれたキリスト・イエスにもそれを徹頭徹尾実行することを要求しました。
その結果、一人の何の罪もないイエスご自身が、私たち全人類の罪の身代わりとして十字架で死ぬという償いをした結果、そのイエスを信じれば、その人は無罪放免、永遠の素晴らしい天の楽園で過ごせるという見事な人間救出計画です。
天国において「永遠の命」で愛の神と永遠に過ごす楽園の生活がどれ程素晴らしいか、想像を絶します。でも天を訪問した人の話はたくさんあります。
しかしそれ程素晴らしいことを残念ながら多くの人は悪魔に騙されて知らないのです。そこで人間に与えた自由意志で、そのイエスを最後まで拒み、あくまで自分のしたいことを選ぶ「自己中心」で生きたい人は、そういう人を集める場所(地獄)で永遠に悪魔と住むことを自分で選ぶことになります。残念ながら、自分のしたいことをする人たちだけが一緒に住むと、どれ程の酷い地獄の沙汰になるか、その人たちは分からないのです。
人々に死を恐れさせることは、それによって人々が唯一人の救世主イエス・キリストに目を向けさせる機会を神が用意しておられることを意味しています。また、既にクリスチャンになった人は、一人でも多くの家族、あるいは友人の未信者をキリストに導く最大限の努力をすべき、最後のリバイバルの時に今突入しつつあるのです。(終わり)
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