22 02月
ゴリアテには兄弟がいた
フランシス・フランジペン
次のような状況を思い浮かべて下さい。あなたは、病気や抑圧、またはそれと似た困難と戦っています。 あなたが神を求めると、何らかの方法で神の恵みがあなたの人生に触れます。あなたの勝利は、言葉や祈り、又は励ましの言葉によってもたらされたかもしれません。でもあなたは、はっきりと主が自分を解放して下さったことを知っています。神の恵みの五つの滑らかな石を使って、ゴリアテを倒したのです。
しかし、数週間後とか、数ヶ月後、あるいは数年後に、すべての古い症状が、急に復讐しに来たかのように戻ってきました。或いは、もしあなたが病気で苦しんでいたなら、それがもっとひどい状態になる、或いは、人間関係や特定の罪と戦っていたのなら、そのすべての成果がすべて失われたかのように、あなたは振り出しに戻ってしまう。
そんな経験をされたことはありませんか?このようなネガティブな経験は、あなたの心からの信仰を奪い取ってしまいます。信仰の力と期待する力を失ってしまい、霊的麻痺により魂は固まってしまいます。教会にはまだ通っているかもしれませんが、信仰はまったく反応しなくなっています。他の人が病から解放されたという証しをすると、彼らもまた「癒しを失う」のではないかと密かに心配してしまうと疑うのです。
多くの人にとって,そのような結果をもたらすのは、信仰を揺るがす「幻滅感」です。聖書には「期待が長びくと心は病む。」(箴言13:12)と書かれています。この「心の病」は,主との歩みを妨げる霊的な病気です。「信仰は望んでいる事がらを保証する」ものでしたよね?もしあなたが望みを失ったら、あなたの信仰は空洞のようになります。神に失望させられたと思うような時、どのようにして神を信頼することができるでしょうか?あなたは、得ていた「打ち破り」を失ってしまったのだろうか?とか、「自分は惑わされていただけで、実際には打ち破りではなかったのか?」と疑ってしまう。
親愛なる兄弟姉妹、あなたが経験しているのは、神の祝福を失ったことではなく、全く新しい霊的な戦いである可能性が高いのです。この新しい戦いは、神に解放された人たちの人生に再び潜り込もうとサタンが使う、非常に巧妙で効果的な偽りです。
この繰り返し起こる戦いについて祈っていると、「ゴリアテには兄弟がいた」と、聖霊が私の心に語りかけて下さいました。私はすぐに、ペリシテ人の巨人とのダビデの戦いを思い出しました。私たちは皆、ダビデが神を信頼してゴリアテを打ち負かし、偉大な英雄になったことを知っています。しかし、2サムエル記21章を見ると、状況が変わっているのです。
「ペリシテ人はまた、イスラエルに戦いをしかけた。ダビデは自分の家来たちを連れて下り、ペリシテ人と戦ったが、ダビデは疲れていた。それで、ラファの子孫のひとりであったイシュビ・ベノブは、ダビデを殺そうと考えた・・・しかし、ツェルヤの子アビシャイはダビデを助け、このペリシテ人を打ち殺した。」(2サムエル21:15-17)。
ダビデが子供の頃にゴリアテを倒した数年後、王となった後、彼は他の巨人に立ち向かわなければなりませんでした。事実、第一歴代誌20:5には、ダビデと戦っていたうちの少なくとも一人は「ゴリアテの弟」で、四人は彼の子供たちであったと書かれています(2サムエル21:22)。これらの巨人はゴリアテの親族で、ゴリアテに似ていて、彼と同じように高ぶっていて、同じような服を着ていて、おそらく同じような臭いさえしていたと想像できます。聖書には、ゴリアテの子孫の一人と戦っているときに、「ダビデは疲れていた」(第二サムエル21:15)と書かれています。でも巨人たちと戦っていたとき、王の頭の中にどんな思いがよぎっていたのかについては沈黙しています。おそらく「ゴリアテは殺したはずなのに、どうして戻ってきたんだ。」と思っていたのではないでしょうか。 しかしゴリアテは戻ってきていませんでした。 死んだのです!ダビデは実際には巨人の親族と戦っていたのです。 同じ戦いに見えただけです!
同じように、あなたも多くの勝利を収めています。今直面している巨人が、過去に倒したものに似ているからといって、最初の戦いで実は勝利をおさめていなかったという嘘を受け入れてはいけません!神の恵みの力によって、あなたは全能者を信頼し、自分のゴリアテを征服したのです。 最初の巨人は死んだのです。 サタンはかつての敵のように見せかけて、信仰の盾をすり抜け、再びあなたの人生への入りこもうとしているのです。拒絶してください。あなたは解放されていなかったという嘘を受け入れてはいけません。
信仰に立ってください。「私たちの信仰、これこそ世に打ち勝った勝利です」(第一ヨハネ5:4)。ゴリアテを倒すのを助けてくださった生ける神は、 彼の兄弟を倒すためにも力を与えて下さいます。
父よ、あなたのしもべとしてあなたのもとに来ます。ダビデのように、倒したと思っていた敵との戦いで私も疲れていました。しかしあなたの聖霊の力によって、これが私が前に倒した同じ敵であるという偽りを暴きます。イエスの御名によって、敵をしかりつけます。主よ、イエスがたびたび御使いによって強められたように、私にも御使いを遣わし超自然に強めてください。主の御名において、アーメン。(終わり)
15 02月
プレイズとワーシップの違い
スコット•フィリップス
プレイズ(賛美)とワーシップの間にある大きな違いを理解することは大変重要なことです。
そこでまずプレイズについて次の3点を説明したいと思います。
1. プレイズは自然なもの
これは多くの箇所で聖書が明確に語っていることですが、自然界のものは、唯一まことの神を生き生きと喜んで共に賛美しています。
詩篇96:11−12「天は喜び、地は、こおどりし、海とそれに満ちているものは、鳴りとどろけ。野とその中にあるものはみな、喜び勇め。そのとき、森の木々もみな、主の御前で、喜び歌おう。」
すべての被造物は、地上で行われている創造主への絶え間ない賛美に参加しているのです。バラの花、草の葉の露、或はふくろうの鳴き声や牛のモーという声さえも、すべての自然界は創造主を賛美していると言っても過言ではありません。朝の小鳥のさえずりや夕べのコオロギの鳴き声の中には美しいメロディーがあります。それは神が創造された全てのものの賛美の大合唱に合わせて歌っているのです。
2.プレイズはすべての者が必ずすることである
エルサレムに入城されたイエスを群衆は喜んでむかえ賛美しました。主は彼らをしずめるようにと命じられましたが、それに対して主は「もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」と答えられました。それは賛美は止むことはなく、必ず続けられることを示しています。天の軍勢も自然界も常に賛美しているからです。
聖書は「すべてのものはひざをかがめ、すべての口が『イエスは主である』と告白する!」(ピリピ2:10−11)と言っています。そのような日がいつか必ず来るのです。ですからあなたは今主を賛美するか、それとも後になってから賛美するかのどちらかですが、いずれにせよ必ずイエスを賛美するのです。
3.プレイズするのに才能はいらない
賛美は自然であり誰もがするべきものですから、賛美をするために何の才能や徳は必要ではないことがわかります。賛美をする理由は数えきれないほどあります。健康や富や知恵を神から与えられていることを感謝し、賛美します。家や家族や必要な物を与えられていること、癒し、守られていることに関して神を賛美します。私たちは主がしてくださっていることを感謝し賛美するのです。
ワーシップとは何か
次にワーシップについて考えて見ましょう。誰であってもすべての人は、意図的に、あるいは無意識であっても神をワーシップしています。しかしながら、ワーシップは軟弱な人のものではありません。ワーシップはプレイズ(賛美)とは全く異なるものです。聖書で最初にこの言葉が用いられたのは次の箇所ですが、「言葉はそれが聖書の中で最初に用いられたときの状況がその意味を最もよく表しているという法則(the Law of First Reference)」によるならば、私たちはこの箇所からワーシップの意味を深く知ることができると思います。
創世記22:1−5
これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出掛けて行った。三日目にアブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたはろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝(worship)をして、あなたがたのところに戻ってくる。」と言った。
ワーシップは決して一面的なものではなく、多くの側面を持ち、いくつかの事を含んでいることを理解してください。
真のワーシップの 三 つの側面
1.真のワーシップは「降服 Surrender」の行為
アブラハムが旅に出たとき、彼は自分の希望、信仰、夢をすべて神の御こころと御手に委ねて降服することを決意して出かけたのです。
2.真のワーシップは「服従 Obedience」の行為
神から命令を受けたとき、アブラハムは何一つ疑いや不平なしに、その命令は果たす為の準備に着手しました。これは私たちには簡単なことではないかもしれません。多分ぶつぶつと不平を言うかもしれません。しかし、私たちが「絶対的服従」という境地に到達するならば、その時私たちは「ワーシップ」の領域に入っていけるのです。
3.真のワーシップは「犠牲 Sacrifice」の行為
犠牲はワーシップを完成させる重要な部分です。犠牲のないワーシップはワーシップではありません。
ワーシップに必要なもの
アブラハムは旅に出るとき、3つのものを持っていきました。真のワーシップをなすためには、
私たちは正しい材料を用意し携えて行かねばなりません。
1.薪
すでに死んでいるもの、火がつきやすいもの、燃えてしまうもの。それはいろいろな問題や疑いなどで、すでに死んでいるもののことです。誰でもそのような薪をもっています。もしあなたが神のために生きていると言うならば、火を燃やすに充分なたきぎを集めることができるはずです。
2.火
熱いもの、光があるもの、死んだものとその中の死ぬべきなのにまだ生きているものを焼き尽くすもの。火はそれに触れるのものすべての分子構造を変えます。あなたの薪に火を近づけると、まだ生きているものを取り扱い燃え尽くす環境を作りだすことができます。
3.刀
ワーシップが始るのはここからです。誰でも火はおこせますが、犠牲のないワーシップはただの野外料理です。私たちがすべてのものを捧げて祭壇に置くならば、その時、神が私たちの人生ともっと豊かにかかわってくださるのです。
「すでに死んだもの」をキチンと整理すれば、火を燃やし始めることができます。そしてそれは、神が求められる「まだ生きているもの」の上に刀を振り上げる時がきたのです。あなたが賛美を超えて神の臨在の中に喜んで入っていくワーシップをするとき、神は約束するだけではなく、断言して誓ってくださるのです。あなたはただ歌を歌うこと超えて神の臨在の中に喜んで入ってワーシップするときです。あなたが賛美よりも歌よりももっと深く入っていこうと願うとき、想像をこえる神の祝福をあなたは見るのです。(創世記22:6−7)
ワーシップは人類に与えられた究極の特権です。御父が求められるのはまことのワーシップであり、天使も願うことですが、そこはあなただけが行く事ができる領域なのです。あなたには他の誰にも歌えない歌があるのです。あなたは他の誰にもない捧げものがあるのです。あなたには他のだれにも輝かすことのできない光を持っているのです。
肉のヴェールを超えるとき、聖霊の富と栄光があなたを待っているのです。(終わり)