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16 10月

リバイバルの前には、先ず悔い改めがなされねばならない    フランシス・フランジパン    2020年10月17日


リバイバルの前には、先ず悔い改めがなされねばならない

 

                  フランシス・フランジパン

 

 

 真のリバイバルは、ただ起こるものではありません。主が人々を訪問される前には、その前に人間の心の中が整わなければなりません。

 

わたしたちは救いを心から求めなければならない

 

 今日の教会ミニストリーでは、心の中で、罪を悔い改めようともしないで、神に助けを求めて叫ばなかった人々を救い出そうとして、前に出て来てもらい、祈ることがあまりにも多いように見受けます。その結果は,教会でそのように祈られた人々は、限られた救済を受けることができても,すぐに罪と抑圧に陥ってしまいます。

 解放を成功させる鍵は、解放を宣べ伝える前に、その人が解放される準備ができていて、解放されたいと思っているかどうかを見極めることです。その人たちは、本当に悔い改める気持ちを持っているでしょうか。偶像を捨てたでしょうか?彼らの心は真に神の方に向いているのでしょうか?

 

 個人としての私たちに対する神様のパターンは、教会として、あるいは一つの都市に対する神様のパターンと同じです。主は、私たちが助けを求めて叫ぶまで、私たちを救い出さなかったように、私たちの教会と都市のための戦いは、相当数の私たちが祈りの中で神に向かって叫ばない限り、勝利することはできません。都市全体の教会を祈りに導くキリストの目的は、全能者が応答できるような適切な心の態度を、先ず提供することです。聖書によると,救いとは,ある人が自分の現状を嫌悪して神に助けを求めて泣き叫ぶようになったときに始まったプロセスの最終段階です。

 

救出・解放者たち

 

旧約聖書は、救出とリバイバルのための神のパターンを明らかにしています。彼らはイスラエルの圧政者を打ち負かすために、神によって油注がれ、力を与えられた人たちでした。彼らは神によって特別に遣わされたのですが、彼らの到着はイスラエルの悔い改めと同期していました。悔い改めがなければ、救いはありません。

 この旧約聖書のリニューワルのパターンの本質は、現代の私たちにも適用できます。祈りと悔い改めが深く広く浸透している都市では、リバイバルが起こるのを目にすることができますが、実際にそれを起こす「解放の為の働き人」を目にすることはできないかもしれません。

 繰り返しになりますが、イスラエルのモデルを見てみると、国全体の罪が敗北をもたらし、外国の力による支配をもたらしたのです。そして彼らは異なる神々を崇拝するようになり、その結果、イスラエルはあからさまに神の律法を無視したので、経済的、文化的、物理的に国家が崩壊しました。かつては神の祝福を享受していた人々が、今では絶望と惨めさがこの地に満ちてしまいした。

 このような苦しみの中で、人々は神に向かって泣き、深く悔い改めたので、主は救出のための解放者を起こされ彼らの元に送られたのです。こうして悔い改めたイスラエルは、外からの圧政者に勝利しました。そして真の礼拝が確立されると、国家の平和と繁栄が続きました。

 

 リバイバルへの道のりは、予定表に従って設定されたものではなかったことに注意しなければなりません。裁きがいつまで続くのか、どれ程の悔い改めがいつ神の心を動かすのか、誰も予想することはできません。裁きにかかる時間は、常に私たちが予想しているよりも長くなるでしょう。決定的な要因は、心から罪を認め、真摯に神に立ち返ることです。それが起こる時、その土地の癒しが続きました。

 ネヘミヤは、民族の解放に先立つ悔い改めのパターンについて語っています。彼は祈りました。「そこで,あなたは彼らを敵の手に渡され,敵が彼らを苦しめました。彼らがその苦難の時にあなたに叫び求めると,あなたは天からこれを聞き入れ,あなたの大いなる憐れみによって,彼らに救う者たちを与えられ、彼らを敵の手から救ってくださいました」ネヘミヤ9:27

 

 私たちはこのプロセスを決して急いではなりませんし、私たちの祈りがすぐに神の介入を発動させない場合でも、挫折してはいけません。主は,国家が反逆の重圧の下で真に砕かれるのを待っておられます。しかし、私たちの真にへりくだった「執り成しの祈り」が,全能者に対する国民的な応答となる時に、その祈りこそが、私たちの最初のフルーツとなるのです。

 時には霊的な活動が活発になることもしばしばあるかもしれませんが、「民族的なリバイバル」が起こる前には、神に向かって「一致して叫ぶ民族」が存在しなければなりません。この期間は「苦難の時」と呼ばれ、国民が何年も主に向かって叫び続けなければ「民族的リバイバル」は完成しません。

人の不幸、神の心

 イスラエルがより深く罪に陥っている時には、神はイスラエルの罪の重荷と結果が彼らの魂を謙虚にするのを待っておられました。しかし、主はイスラエルの悲しみを無視されたのではありませんでした。彼らが反抗していた時でさえ、主は彼らの苦しみを感じておられました。主が「・・・イスラエルの苦しみを見るに忍びなくなった」(士師記10:16)とき、主は彼らに救う者たちを遣わされました。イスラエルの惨めさと絶望は、彼らが神様のところに戻るために準備されたものであったのです。

 出エジプト記のモーセと主の出会いにも、このパターンが見られます。(出エジプト記3:7-8 参照)

 主なる神は自分の民の苦難を見、彼らの叫びを聞き、彼らの苦しみを知っておられることに注目してください。神は人間の苦難から決して遠く離れておられません。事実、神は私たちの社会の悲惨さを背負っておられるのです。私たちの苦しみが神を苦しめ、私たちの苦しみが神の悲しみとなるのです。

 出エジプト記のテキストに戻りますが、神が聞いたのは単に彼らの祈りだけではなく、彼らの叫びを聞いたことにも注目してください。必要なものについて祈ることと、必要なもののために泣くこととは全く別のことです。神が慰めるのは嘆く者たちに対してです。

 

 私は1970年、カリスマ的刷新の時にキリストの救いの恵みに与りました。この神の動きは、100万人の母親たちの「昼も夜も」絶え間ない叫びの中から始まったのです。それは、自分の子供が麻薬に手を出したり、反抗的になったりしていることに深く悩んでいた母親(と父親)の絶え間ない叫びから生まれました。彼らの祈りは宗教的な規律ではなく、彼らの存在の中心となるものでした。彼らの絶え間ない執り成しの涙と泣き叫びが神の前に勝り、神は彼らの子供たちを救い出してくださいました。

 

 私たちの時代にリバイバルを遅らせているのは、おそらく、私たちが悩んでいても、社会の状況に悩まされているわけではなく、悲しんでいても、まだ泣いているわけではないからでしょう。

 まだ少数派ではありますが、これらの執り成し者たちは自分たちの街の苦悩を魂に宿しています。彼らは虐げられている人々の叫びを聞き,生まれてもいない人と生まれてきた人の苦しみを知っています。神は彼らの祈りに応える準備ができています。彼らの苦悩の胎から、神は救いをもたらされるのです。

 祈る教会は、「執り成し」に捧げる時間とか期間を制限してはなりません。神は季節だけではなく、祈りの生活を求めておられます。

  これらすべてがリバイバルとどのように関係しているのでしょうか。霊的なリニューワルは、私たちの都市と国家のための唯一の解決策であるからです。それは、神に助けを求めて絶え間なく叫ぶすべての人への神の答えです。

 主よ、魂の救いの代わりに一時しのぎの助けを求めたり、あなたの完全な御心の代わりに近道を求めたりすることをお赦しください。主よ、私たちは、あなたの心が苦しんでいる人々の真の叫びを拒むことができないことを知っています。だから、私たちは今日、あなたに叫びます。あなたの臨在の雨を私たちに送り返してください。慰めと無関心を求める私たちの欲望から私たちを清めてください。あなたがあなたの誠実さを尊び、私たちの土地に復興をもたらすことができる場所に私たちを連れて来てください!あなたの栄光のために、私たちは祈ります。あなたの栄光のために祈ります アーメン(終わり)