23 06月
時は迫っている
坂 達 也
先週私は、「終末の日に主だけを見上げる」というメッセージを書きましたが、これに続く格好のメッセージを、たまたま導かれて見つけましたので、今週はそれを載せさせていただきます。
下記のメッセージは2009年11月7日に私自身が書いたものの一部です。
時は迫っている
坂 達 也
「聖書が何を要求しているかを一言で要約せよ」と言われれば、私は躊躇することなく「創造者の父なる神の御声に聞き従え」であると申し上げます。「聞き従うなら祝福を、従わなければのろいを」(申命記11:27,28)が聖書の単純明快な中心テーマの一つであり、それをこの世で最も忠実に(死に至るまで)実行して私たちのために模範を示されたのがイエス・キリストでした。一方従わねばこうなると言う見せしめを、私たちはイスラエルの長い歴史を通して知ることが出来ます。
そのことに気がついている人は本当に幸いです。今の時代、世の終わりが刻々と近づいて来ていますが、それは人間が自分の思いで自分のために生きた時代、云ってみれば「個人の野心の時代」が終焉すると言う意味です。このことは、当然ながら、自分のために生きるのが通常の未信者の世界に当てはめられますが、私はそれ以上にクリスチャンに向かってそれを申し上げたいのです。
真のクリスチャンとは
クリスチャンが今最も厳しく反省しなければならないことは、「自分のしたいことをして、何となく自然体で生きている」姿勢です。クリスチャンと云えども放っておけば自然に流されて「個人プレー(自分中心)のかたまり」のまま人間的に生きてしまいます。そのような生き方の正反対が「主の御声に聞き従った毎日」を生きる生き方です。
そのためには多くの場合、人間が自然に生きる生き方に逆らって生きねばならず、それには大変な信仰による決意と努力が必要です。まさにヨシュア記1:8にある「この律法の書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさなければならない。」の「律法の書」を「御心を知りたいと言う願いと祈り」に置き換えて実行することにあると思います。それは主のご計画にのみ従って生きることをとことん思い詰めることです。
そのような願いと思いで日夜を過ごせば、常に主に飢え乾き、主を求める生き方になるはずです。いや、逆に真に飢え乾く人でなければそのような願いと思いは持てないかもしれません。いずれにせよ、それ以外の生き方をしている人は主イエスの後を追っている真のクリスチャンとはいえません。この生き方のためにこそ、私たちはイエスの後を追って自分の(自分に死ぬ)十字架を担いで生きねばならないです。そして、これを実行し本当に主の御声を聞く人だけが主に助けていただいて「死ねる」のであると思います。とどのつまりは、人間関係において「自分に死んで主に生きてもらう」ことをどこまで実行するか、実行できるかの問題ではないでしょうか。
イスラエルの民は、自分たちが直接神の御声を聞いて死ぬといけないから、モーセが聞いてそれを民に話してくれるように頼みましたが(出エジプト20:19)、これはある意味ではていの良い「逃げ」であり、現代のクリスチャンの多くも教会生活を通してそうしているのではないでしょうか。私たちクリスチャンは誰でも主の御声を直接親しく聞く特権があるだけではなく、それを実行する義務があり、重ねて申し上げますが、そうしなければ基本的にクリスチャンとは言えないのです。
今「先を急いでおられる」主は、そのような人だけを求めておられます。なぜなら、そうでない人は使いものにならないからです。主に用いれられるかどうかは、主の御声に忠実に聞き従うかどうかの一点にしぼられます。
しかし「何かする」ことがクリスチャンの究極の目的ではないと反論される方もおられるでしょう。その通りです。私たちは「イエスのようになる」あるいは「イエスを頭とした一つのからだの一部になる」、「イエスの花嫁になる」ことが最終目的です。つまりは「すること」ではなく、「なること」です。
しかし、その最終ゴールに達するためにこそ、主は私たちを召して修行させます。それが主の御用をすることである訳です。その一番卑近な例が教会形成(あるいは特別な目的を持ったミニストリー=例えば私たちのWWGM)とその運営にあります。
主は、私たちにそれぞれに役割や、仕事を与え、それを私たちが御心に従って逐次実行する時に成果を挙げさせ、成し遂げさせます。すなわち、「・・・になる」ためには「・・・を実行する」と言うドリルを通して訓練されるのです。(終わり)
14 06月
終末の日に主だけを見上げる
坂 達 也
「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」(1ヨハネ4:18、アンダーラインは筆者による)
私はこの聖句をこのパンデミックが始まって以来、執拗にかみしめて参りました。
そして今回、再びこの聖句の意味するところを味わってみて、「全き愛」とは神を象徴し、「恐れ」とは悪魔を象徴することが分かりました。
「恐れ」を引き起こし、挑発するのは、この世の人間を支配しようとする悪魔です。その悪魔には「地獄の苦しみという懲罰」が既に有史以前から定まっているのです。これが上記の「なぜなら恐れには刑罰が伴っている」の意味であるのですから主を褒め称えます。
そうであれば、真の霊的成長を遂げたクリスチャンには「恐れ」が全くない、いや、あってはならないということを、私たちは理解しなければなりません。しかし、弟子訓練途中のクリスチャンには「恐れ」が全くないとは言い切れません。現に私も含め、多くのクリスチャンは、今回のウイルス・パンデミックで「恐れ」を感じました。しかし、これこそ信仰の問題であることを今しっかりと噛みしめます。
全知全能の神を信じ切って「神の救いの力」に頼る、それが「恐れを完全に取り除く」唯一の方法です。そしてこの際にこそ、何としても未信者に「イエス・キリスト」を信じることを勧める、神が与えて下さった絶好の機会ではないでしょうか。
これこそ神が用意された「第三の霊的アウエイクニング」の引き金となります。そして私たちが未信者を「リバイバル」に誘導するのを、神は期待しておられます。まさに神のなさることに絶対間違いはない、パンデミック恐慌は神の愛から出ていると言い切れると私は信じます。
「神は私が呼ぶ時答えて下さる」
とは、私の家内が昔から愛し、私のために残してくれたバジレア・シュリンク Basilea Schlink さんの珠玉のような作品の一つに付けられた題名です。彼女はご存知の通り、ドイツのキリスト教会指導者で、後にルーテル派内に設立されたマリア福音姉妹会の共同創立者です。
この方は、詩篇50:15「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」を引用し次のように書きました。「このみことばは、聖書に示されている終末的様相をますます帯び、多くの苦悩が心をむしばもうとする現代に生きる私たちへの、神からの力強い呼びかけです。・・・今、このような呼びかけが天と地を造られたお方、私たちをあがなって下さった主イエス・キリストがなされているのです。主はその愛ゆえに私たちの心が悲しみに満ちていることを、また私たちがあれこれの問題に対処できないでいるのをすべてご存じです。愛に満ちたまなざしで、イエスは私たちの心にあるすべてのことをごらんになります。主おひとりが、私たちの心をわかって下さるのです。なぜなら、主は苦しみを受けられ、私たちと同じように試みに会われたからです。しかし、それだけではなく、主は、私たちがどのような悩みの中にあっても助けを備えていて下さり、すべての問題を解決できる唯一のお方なのです。イエスとは「神は救いたもう」という意味です。・・・言いかえれば、主イエスが私たちを助けず、救い出さないことなどありえないのです。
また、この方の別の著作「苦難のさなかをゆくともー迫害前夜に生きるキリストの弟子ー」の中で、
「聖書には終わりの時に迫害されるクリスチャンのことが記されています。『兄弟たちは、小羊の血と自分たちの証の言葉とで、彼(サタン)に打ち勝った』(黙示録12:11)どのような時に『打ち勝つ』という言葉が使われているのでしょうか。それは戦いが行われる時のみです。なぜなら、戦いなくしては勝利もないからです。」と言われます。私たちクリスチャンは今こそ、その戦うための武器を取らねばなりません。
アメリカは既に第二の市民戦争 Civil War に入っている
リック・ジョイナー師は、以前からアメリカには第二の市民戦争が起こることを預言して来ました。(第一の市民戦争とはリンカーン大統領時代の1861ー5年に行われた南北戦争を指します)そのリック師が10日ほど前のブログで「それは既に避けられないどころか、現在既にその第一段階に入っている。現在の政治政党とかメデイアにおいて、真二つに割れた市民の多くの人が、事実既に、武器(銃)を、個人的に購入して備えつつある」と言っていました。師は、ロマ書13:4を引用し、権威に逆らう人には権威者が持つ剣(当時の武器)がその悪業に報いると書かれていることを指摘しています。
実は、それを裏書きするような事態が、このところアメリカで現実に起こっていることをお知らせしなければなりません。
それは60万人の戦死者を出した歴史的な「南北戦争」を思い出させるようなお話です。当時、アメリカ合衆国を離脱して、植民地主義者、奴隷制度反廃止派のために戦って敗北した「南部連合国軍」に属する有名な将軍とか政治家の銅像が、現在の南部11州には、今でも大事な記念として数多く保存されています。ところが近来、その記念碑とか銅像を破壊しようとする動きが活発になる一方で、その取り壊し、あるいは移動を禁止する法律が各州で可決され、加えて、その連合軍国旗を保護する運動がこのところ相次いで起こっているのです。
それと相まって、先月ジョージ・フロイド氏という黒人が、ミネソタ州のミネアポリス市にある店屋で、偽札使用で物を買おうとした容疑から、市の白人の警官が駆けつけ、武器を持たず無抵抗のフロイド氏の首の上に自らの膝を載せて押さえ込み窒息死させたという、大変由々しい事件が起きたのです。
この事件は残念ながら、どう見てもその白人の警官が黒人を憎んでの仕業としか言いようがありません。このニュースを知ったアメリカ全土の人たちは激昂しました。そして、まさに一瞬のうちに挙国一致して反対デモに立ち上がったのです。それは黒人社会だけではなく、ほとんどの白人社会の人々も、あるいは世界中の人々が憤慨し、その連鎖反応として大都市では、商店舗の破壊行為を含む激しい暴動に発展したことは、日本でも大きく報道されましたから皆様もよくご存知の通りです。
この前代未聞の恐るべき憎しみの犯罪は、やがて黒人に対するものだけに止まらず、すべての「人種差別反対へのデモ」に発展しました。幸いアメリカ国内では、小都市のほとんどが警官引率の元に平和裡のうちに行われました。その中には、白人の多い私の住んでいるニューヨーク郊外の小さな村のデモも含まれ、私はその様子を目撃しました。しかし、この騒ぎに便乗して、テロ組織が加わるという、かってないほどの争乱騒ぎになったことは本当に不幸な出来事としか言いようがありません。これで分かることは、アメリカには、特に黒人対白人というアメリカの市民戦争の深刻な古傷としこりが、未だ癒されていないことが明らかとなったのです。
勿論神はこのような事件が起こり、世界に拡がる事を知っておられました。そして、世界を終末の大リバイバルへと導いて行かれます。
アメリカ国民はトランプ大統領の共和党の政策と
民主党の政策を比較してどちらを選ぶか
現政権を強力にリードするトランプ大統領とその共和党の勢いに対し、民主党としては、政策的には何も出せない、あるいは、何を出しても勝ち目が無いと見ているのでしょうか、結果的に見れば、トランプ大統領のすることなすこと全てに徹底して反対する策を取っているように私には思えます。
それが、例え国の興亡に不利となり、国民のためにならないことが分かっていても、むしろ、そうなることによって国民がトランプ大統領に圧倒的な不満を抱かせ、彼のせいにして政権を奪い返す、すなわち、国民を犠牲にしてまでも政権を取り返すことだけに興味を持っているとしか思えないのです。
その例を挙げてみれば、トランプ大統領の推し進めて来た民主主義・資本主義・民間企業を重視する自由経済に対し、民主党の候補者は、バイデン氏は今のところ何も言わない、程の良い無策主義、他の有力な候補者たちは、ほとんどがコミュニスト共産主義・社会主義による「すべて国がまかなう大きな政府」を主張しています。これはイデオロギーだけで大衆を取り込む、しかし実行すれば、すぐ破綻することが目に見えています。
トランプ大統領がウイルス警戒の政策もさることながら、国民の経済を立て直す政策を今取ろうとしていますが、民主党はその反対にウイルス政策に重点を置き、その結果国民の経済状態が悪化、失業者が増えれば、政府の援助金をどんどん出させて、財政赤字を大きくし、国の借金を益々大きくすれば、その結果ドルの力は弱まり、国を不景気にすれば、その責任をトランプ大統領に課し、政権を奪い返す事だけを狙う。
トランプ大統領が中国の台頭を警戒すれば、バイデン氏は、中国と仲良くする。等々。
要するに今の民主党幹部には愛国精神は何も無いと言って過言ではないと思います。とにかく国の力を弱め、不景気になる政策を取ることによって、国民がトランプ大統領を見放すのを待つしかない。もっとも、実際に彼らはそう言っているのではありませんが、彼らの行言動からはそうとしか取れません。
神はアメリカを見捨てるのでしょうか。決してそうではないと思います。この機にトランプを立てたのは神です。神は今、世界を歴史的にかってなかった程の一大危機に落とし陥れることによって、人類の目が、神を見上げるのを待っておられます。
「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。アーメン。」(終わり)
03 06月
完全なる自己放棄( abandonment )により
神とフェース・ツー・フェイスに出会う
坂 達 也
日本人程「頑張ること」の好きな国民はいないと思います。少なくとも言葉の上では、挨拶代わりに「頑張って!」「頑張りましょう!」が合言葉です。つまり日本人程「自分で何事も努力することを奨励し、尊ぶ」国民はいないと思います。確かに創造主の神を知らない人にとっては、頼りにするのは自分しかいない訳ですから、人を励ます意味においてこの言葉は、決して悪い言葉ではないかも分かりません。
しかし、クリスチャンとしての私は、この「頑張れ!」という言葉を聞くと、何か複雑な気持ちになります。なぜなら、何事も自分の努力ですることは、根本的に聖書の原理と相反するからです。
何故なら、クリスチャンとは、主を常に見上げ、主の言われることを聞いて、それに従う以外の生き方はないからです。神は私たち人間が、自分の努力で事を為すこと、自分で努力して物事を達成することから「休みなさい」すなわち完全なる自己放棄(complete abandonment)を先ず要求しているからです。
もっとはっきり言えば、神は私たちに自分では何もしてはいけない、只々「主の御顔を見上げて待ちなさい」と言われるのです。そこに要求されるのは「忍耐」です。そうすれば、全て主が、私たちに必要な「心の思い」を私たちの心の中に入れて下さり、それに忠実に従えばそれができるようになるのです。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28−30)と主は言われます。その根底には「愛」があり、愛がすべてです。
さて今日は、その「完全なる自己放棄(complete abandonment)」をすることについてビル・ジョンソン師の証しをお分ちしたいと思います。それは1971年に、当時ベテル教会の主任牧師であった彼の父親が取り次いだメッセージを聞いて彼が決意したことです。
お父さん先生は、私たちが「神ご自身に対してミニストリーをする」ことと「人々に対してするミニストリー」とは全く違うと語りました。ビル師は、その前から自分を神に放棄する( surrender )コミットメントをしていました。しかし、そのメッセージを聞いて時、口に言い表せないような深い感銘を受け、更なる決意をしたのです。神はそれに素早く応じられ、それ以来聖霊の臨在と神の力を受け始めました。
そして1995年に至って、彼は「私は、もっと主を求めます。それがいかなる代価であっても、私はその代価を払います。」と日夜泣き叫び始めました。それは8ヶ月続きましたが、10月のある夜、遂に神がそれに答えて下さったのです。但し、それは私が予想していない方法ででした。」と言います。
ビル師は、突然死んだように寝た状態からはっきりと目覚めた状態へと一瞬にして変へられ、突如として全く説明のできない物凄い力が彼の身体の中を走り始めました。それはあたかも壁のソケットに自身を差し込むことによって1000ボルトの電流が彼の身体に流れ始めたかのようで、その電流に打たれ、神の前で彼は何も身動きできない状態になったと言います。
それは神の御声を聞くとか、ビジョンを見るとかというレベルを遥かに超えた、彼はそれまでの人生で経験したことのない「物凄い圧倒的な力」そのものであった、それは神ご自身としか言いようがないーーと言い、これが彼が8ヶ月祈って来たことへの神の応えであったのです。
このパワー(電力)サージのうねりはその夜を通して続いたそうです。そして朝方6:38AMにやっと止まり、彼はベッドから完全にリフレッシュして飛び起きたと言います。
彼は、後日、これが「神とフェース・ツー・フェイスに出会った」経験であったということを知ったそうです。(以上はビル・ジョンソン師の著書:Face to Face with GOD からとったものです。)
モーセは神と口と口で語った
このビル・ジョンソン師のお話しから思い浮かぶのは、モーセが主の前に40日40夜、食べず、飲まずに主と共に過ごした経験です。それによって彼は神と「親しい友人」のように話し合う間柄になりました。そのモーセは荒野の旅に出ると、宿営の外に会見の天幕を張り、そこで彼は「神と口と口とで語り・・・(目の前に)主の姿を仰ぎ見ている」(民数記12:8)と書かれていますから、私たちが真に決意して望めば、本当に「神とフェース・ツー・フェイスに出会える」のです。
それには「神に出会えるなら、どんな代価でも払う」という決意と、時間を掛けてそれをまっとうする実行力、そして忍耐が必要です。
ヤコブの場合は、祝福を得るためにはどんな代価を払っても神にしがみ付いて離さず、神(天使)と格闘して遂に勝ちました。そして、生涯びっこを引いて歩くという代価を払いました。
私たちクリスチャンは、神とお話しができると聞いて、それならやってみようとその訓練を始めますが、多くの人が簡単に諦めて、結局辞めてしまいます。
「主と共に歩く」ことも同じです。主と共に歩くためには、先ず「完全に自己放棄(complete abandonment)」して、無心で主について行けば、主が必ず語ってくれ、それが聞こえるようになり、後はそれに従って行けば良いのです。まさに「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(終わり)