23 04月
デイビッド・ウイルカソーン師 ー 1986年の預言
「私は、世界に一大伝染病が蔓延し、バー、教会、政府事務所が軒並み閉じるのが
見える。その疫病は、未だかってなかった程にニューヨークの街中を震わせ、それ
まで祈らなかった信者を激しい祈り手に変え、聖書を熱心に読む者にし、神の人た
ちは激しい悔い改めを教壇から泣き叫ぶ。そして第三の霊的アウエークニングがそ
こから起こり、それがアメリカと世界を一掃する。
坂 達 也
ウイルカソーン師が始めたブロードウエイにあるタイムズ・スクウェア教会はニューヨークでも私たちが好きな教会の一つで、妻の柚実子が昇天する直前に二人で訪ねましたが、いつもの様に超満員でした。
師は、正に今ニューヨークで起こっていることを、幻で見たのです。また彼だけではありません。リック・ジョイナー師を含む多くの預言者が二〇二〇年からアメリカだけでなく世界的に第三のアウエークニングが起こり、リバイバルが始まると言っていますから、興奮せざるにはおられません。遂にその時がやって来ました!!
上記でウイルカソーン師は「ニューヨークの街中を震わせ、それまで祈らなかった信者を激しい祈り手に変え、聖書を熱心に読む者にし、神の人たちは激しい悔い改めを教壇から泣き叫ぶ。」と預言しました。私はこれが今回のパンデミックを神が起こし、世界を震わせている最大の理由であると確信します。何故なら、それ無くして第三の霊的アウエークニングは起きないからです。
このウイルス・パンデミックへの解決策は、世界中で目下暗中模索の状態ですが、最近アメリカで分かって来たことは、検査を受けない人が、自分も知らないうちにウイルス菌が身体に入り、知らないうちに癒されている人が非常に多いということです。
実は私は、昔から鼻水が出る程度の症状の軽い風邪はしょっ中引いていますので、最近も軽い風邪は毎週と言ってよいぐらい引いています。ところが昨日は、同じ風邪引き症状でも身体が何時もよりだるいので、「もしかして」「遂にやられたか・・・」と思ったのです。しかしよく考えてみると、特に高熱ではないし、咳き込むこともそれ程ない、また他にどこも異常はないので、私は知らない内にウイルスに罹り、知らない内に癒されていて、今回のウイルスへの抗体が既にできている、あるいは軽い風邪引き症状が作り出したのかもしれません。(というのは、私はワクチンを打ってもらわないのに流感に罹ったことがないのです。)
一つだけ確かなことは、この病気が、私を含めて全ての人間にとって絶対に避けられない「肉体の死」という可能性を今リアルに見せているという事実です。
それで思い出すのは詩篇91:6、7に「・・・また暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。千人が、あなたの傍に、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには近づかない。・・」と書かれていることです。
死を恐れない、あるいは、不安を感じない人間は通常いません。とすれば「創造者の神」がいるのかいないのかー「人間はどこから来て、どこへ行くのか」というような「人間存在の根本問題」を、この際好むと好まざるにかかわらず、すべての人間に神が考える機会を与えておられるのではないでしょうか。
人間の身体は絶妙にうまくできている
普通に健康な人間であれば、人間の身体には「抗体という免疫力」が備わっていて、多くの場合、細菌と呼ばれる外敵に打ち勝つことができるように造られています。この事実は高校の授業で習います。ところが人間は感情の動物ですから、強い外敵に対しては「恐れと心配」を持ちます。その恐れとか心配が異常に強い場合は、その免疫力を弱めることも知っています。そこで私は昨日、何が私たちの持つ免疫力を弱めるかを考えてみました。
怒る、怖い、腹を立てる、いらいらする、憎む、うらむ、悪いことをして後ろめたい気持ちになるーーこのような「良心の呵責」というネガテイブな気持ちを持てば、それが微妙にマイナスに影響しないでしょうか?
一方、人を愛する、喜ぶ、嬉しい、人に良いことをして上げた、感謝したり感謝される、平安で安心、何の憂いもない状態の時は免疫力がグッと上がりますね。それはまさに、1テサロニケ16−18に書かれている「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。・・」です。
この状態で毎日を過ごし、神を賛美礼拝していれば、最高の免疫力・抗体ができた状態で生きている事にならないでしょうか。
加えてクリスチャンであれば、イエス・キリストを救い主として信じる信仰を持ちますから、全能の神の力を信頼し、全て神が解決してくれるという信仰と共に「永遠のいのち」が与えられるという、100%免疫力以上のポジテイブな力となります。
そして私は、以上のことが1ヨハネ4:18「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。・・・恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」ことと大いに関係ある事に気が付きました。
すなわち、私たちが「恐れ」を持つ時には抗体不足で病気になりますが、恐れが全くない時は、恐れとその恐れの原因の全てを閉め出すと、この上記の御言葉を解釈します。何故なら「私たちが持つ愛が全きものとなる時=恐れが全くない時」とは、私たちが「愛の神」の持つ力をそのまま発揮できるからです。
神は愛する人間を自分の子供として、どんなことからも永遠に必ず守ってくださる方であるからです。
そして、その夜私は、主の御前で一時間ほど激しく祈りました。それは私を脅す私たちの敵である「悪魔」に対して、十字架上で私たちのために既に勝利を得て下さったイエスの血潮の力を叫び、勝利を宣告するという闘いでした。
このパンデミックの時こそ、恐れを持つ未信者を信仰に導く絶好のチャンスではないでしょうか。リバイバルの時です!(終わり)
16 04月
天国と復活の希望
マイク・ビクル
今は十字架上で死んだイエスが、蘇り、昇天することをお祝いする季節です。一方図らずもパンデミックの真っ最中にあって、今程人間が、死を気遣う時は無いと思いますので、以下の証は大変タイムリーであると思います。そこで以前(2016年12月18日)にWWGMに載せたものですが、再載させて頂きますので、ぜひご高覧いただきたいと思います。 坂 達也
第一コリント15:1−4、20、49
「・・・しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。・・私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。」
この復活の章といわれる箇所は、私たちクリスチャンの信仰生活の錨となるものであり、常に心に留めるべきものです。私たちが自分はどのような者であって最終的にはどこに行くのかを知らないならば、その時々の人生のドラマに翻弄されるだけで、神がご自分の民を召されているキリストにある栄光ある偉大な目的という大切なシナリオを見失ってしまいます。
ルカ20:36でイエスは私たちに「復活の子」というアイデンティティーを与えておられます。私たちはリアルな肉体の復活をするのです。私たちはその事実をふまえて人生を歩んでいくのです。
2週間ほど前に、私は死を真近にしている一人の女性と話す機会があったのですが、それはすばらしい希望を与える話でした。それはマーサ・スティーブンという方ですが、彼女はこの話を是非人々に伝えてほしいと言われました。彼女は私が32年前に牧会をしていた時からの友人で、非常に忠実な信徒でしたが、今は85歳を過ぎて死の床についておられます。私は彼女に電話をして「マーサ、いかがですか?」と訊きました。勿論、彼女は自分が死を迎えていることを知っていましたし、私もそれを知っていました。彼女の答えは「マイク、私はびっくりしているんですよ。本当にショックです。・・死を迎えるプロセスは本当にすばらしいわ!」と言ったのです。そして「私は死んだら天国に行くのは信じていました。それはうれしいことです。でも私はずっと死ぬのがとても怖かったのです。でも私はびっくりしました。死ぬって、とてもすばらしいのです!」私は少しとまどって「そうですか、それはすばらしいことですね。ちょっとくわしく話してくれませんか?」とお願いしました。
私は30年ほど前に、私の大好きなトピックについて彼女と話したことがありました。私は死に関する本を沢山読んでいました。・・私たちが死ぬ日は人生で最も重要な日です。その日は必ず来るのですが、人々はあまりその事を考えません。私がその研究を通してわかったことは、多くの人が死ぬ少し前、30分とか1時間、又ある場合は数日前に、生と死の境のベールがわずかに開かれて天国を垣間見る経験をしていることであり、まわりに居合わせた家族がそれを証ししています。また、中には死んでから又生きかえって、その経験を話している人もいます。彼らの話には多くの共通点があり、殆どのものは聖書の言葉が正しいことを証明するものです。
マーサはそのことを憶えていました。そして「マイク、あなたの言ったことは本当だったわよ。生と死の間のベールが本当にちょっとだけ上げられる時があって、死の向こうがチラッと見えるの。2日前にはイエス様を見ました。1、2分だけだったけれど、私はそれが夢ではないことがわかったわ。主は何も言われなかったけれど部屋の隅に立って私に微笑まれました。イエス様が去ったあと、主の臨在の感覚の波が私に押し寄せてきました。2、3時間もの間、私は主に愛されているのを感じ、主への愛を感じたの。こんなに強烈な感覚を持ったのは今までなかったわ。恐れなど少しもなく、ただ喜びだけがあって、最高に平安で穏やかな気持だった。」「それから私は眠ったのですが、夢を見ました。夢の中に天使が現れ、何も言わなかったけれど、又あのすばらしい愛と喜びの感覚の波が押し寄せてきて1、2時間も続いたのよ。私は死のプロセスがこんなにすばらしいものとは知らなかった。それから又数日してから、私は天使のクワイヤーが歌っているのも聞いたの。・・・2、3日毎に私はチラッとベールの向こう側が見えるのだけど、そのあと何時間も平安と喜びの至福の時をすごすのよ。マイク、本当に驚きです。死のプロセスはまったくすばらしいわ。確かに天国はもっとすばらしいと思うけれど、死がこのようなものとは知りませんでした。若い人たちにこのことを教えてくださいね。主は私をこのように生かしておられるのは、みんなにこのことを知らせるためだと思いますから。」
マーサは人生を信仰深く歩んで来て、沢山の友人がおりましたので、みんなに自分の体験を話しました。早く天国に行きたいと主に申し上げるのですが、主は目的をもってこの期間を伸ばしておられるのでした。
彼女の結婚生活はすばらしいものでした。ご主人はもう亡くなったのですが、40年以上の結婚生活でした。マーサは「私たちの結婚は最高だったわ。」といつも言っていました。ところが私が昨夜又電話したとき、彼女は次のように言いました。「マイク、あなたに話したいことがあります。死ぬことは結婚よりいいわよ。」私は「えっ、何ですって?」と言いましたが、彼女は、「世界中で一番すばらしい結婚をしていた私が言うのだから間違いありません。死の経験は本当に結婚よりすばらしいのです。みんなにそのことを知らせたいの。どうか今日私が天国に行けるように祈ってちょうだい。」私は「マーサ、いやいや、もう少しこちら側に留まって私に情報を沢山ください。この情報が私には必要です。」と言いました。(笑)私たちはこのリアリティーをいつも思い出す必要があります。第一コリント15章にある私たちが持つ復活の希望は人生の錨であり、毎日思い起こすべきものです。
先ずパウロは「キリストは私たちの罪のために死んだ」と言っています。罪のないお方が私たちの罪の代価を支払ってくださったのです。神の法廷で私たちに罪が無いことを宣言されました。私たちの罪が処理され、負債が支払われました。
次に「キリストは三日目によみがえられました。」です。肉体を持った人が死に、よみがえりの肉体をもってよみがえられたのです。歴史上の出来事です。旧約で預言者エリアが人をよみがえらせたことがありますが、その人は何年か後にはまた死ぬのです。ですから「息を吹き返した」と言ったほうが適切でしょう。しかしイエスは完全な超自然的な肉体をもってよみがえられました。そのようなことはイエスが初めてでした。20節でパウロは「キリストは眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」と言っています。キリストの復活はあなたにも関係が大有りです。「初穂」という言葉は、これからも多くの者がキリストと同じようによみがえることを示唆しています。信者が死んだときには瞬時にして彼の霊は主と共にあります。一瞬でもどこか途中でさまようということはありません。肉体は地面や海など、それぞれの場所で朽ちていきます。神はイエスが再臨される終りの時に、それらの朽ちた肉体が墓から再生されて出てくるように命じられるのです。
すべての信者は自分のDNAのよみがえりの身体を与えられます。それぞれが自分のDNAを持っていることは大切なポイントです。あなたは自分というアイデンティティーをもってよみがえるからです。同じ人種、性格、特徴、能力、姿などは全くあなたであり、それが完全になっているのです。ですから私たちが互いを見た時に、誰かがわかりますし、以前のことも憶えていますから、問題なく関係を続けられます。イエスが初穂となり、私たちイエスを信じる者は救いを受け,主と同じようによみがえるというすばらしい約束が与えられたのです。
私が読んだ数えきれないほどの死の体験談や直接本人に聞いたことで共通していることがあります。(私はすべてを信じるのではなく、聖書と一致していることだけを取り上げています。)ある人は交通事故で死んだのですが、自分が死んだことが全くわかりませんでした。「ああ、危ないところだった。」と言って起き上がり、あたりを眺めると自分の身体が地面に横たわっています。「へえー、これはどう言うことだ?私はちゃんと生きている。あそこに横たわっているのは誰だろう?僕に似てるなあ..」と彼は思ったというのです。それほど死んだ後も「自分は生きている」という感覚はリアルなのです。彼は救急隊員に助けられて息を吹き返したのですが、私たちは死んだ瞬間にキリストと同じよみがえりの身体を頂けるのです。
ピリピ3:21「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じすがたに変えてくださるのです。」
第一ヨハネ3:2、3「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対する望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」
これが私たちの持つ望みであり、私たちが人生の様々な風に揺り動かされないようにする錨です。様々な偽りの教義の風が吹き起こってくる時、あるクリスチャンたちはその風に吹かれてしまいます。又波も起こってきます。それは困難な状況、あなたをあきらめさせ断念させようとする問題の波です。しかしそのような風や波に襲われたとき、それに負ける必要はありません。あなたには錨があるからです。少しぐらついたり揺れたりはするでしょう。しかし決して動かされないための錨があるのです。それこそが私たちが持つよみがえりの望みです。教えの風や困難の波が襲ってくるときに、「私は吹き飛ばされない、あきらめない。私はよみがえりの息子、娘であって、行くべき目的地を知っているのだから。誰に仕えているか、誰を愛しているか、誰を信頼しているか、私は知っている。私は主を知っている!」と言えるのです。ヨハネはこの望みを持つ者は自分を清めると言っています。キリストが清くあられるように、主に従う私たちも復活の望みを持ちつつ自分を清めて生きていくのです。(終り)
07 04月
何故神は、今回のコロナウイルスが
世界を蔓延することを許されたのか(2)
坂 達 也
今週は先週に引き続きパンデミックを起こすことを許す神の目的を聖書から学んでみたいと思います。
恐れは人間を神に向けさせ、しがみつかせる
「恐れ」は人間を神に向けさせ、しがみつかせることを私たちは知っています。その良い例がアブラハムの孫に当たるヤコブです。
彼は双子で先に生まれた兄のエサウを騙して長子の権利を奪いました。又、父のイサクをも騙まして、親からの祝福を独り占めしました。それに気が付いたエサウが400人の部下を連れて、ずる賢い弟のヤコブに仕返しに来ると聞いて、ヤコブは非常に恐れたのです。そこでヤコブは神に祈り泣きつきました。(創世記32:7ー11)
そこで一人になったヤコブに神が送った御使いが現れ、二人は腕ずくで闘い始めました。明け方近くまで闘った御使いが、勝てないと見ると、ヤコブのももつがいを打ちました。こうして自分の力は使えなくなったヤコブはそれでも諦めず、必死に御使いにしがみついて離しませんでした。
神はヤコブを試したのです。ヤコブという名前の意味は supplanter 「騙してでも奪い取る」と言う意味です。すなわち、ヤコブは神の祝福を受けるまではどんなことでもする」男でした。(これについては創世記27:35、37をご参照下さい。)神はヤコブの意図が本物であることを見てとって、ヤコブに新しい名「イスラエル」という名前を与え、最後に祝福しました。イスラエルとはイエス・キリストの名前の一つです。(ホセア11:1、マタイ2:15、イザヤ49:3)これに関しては私の拙書「キリストの弟子」をご覧ください。
私は今回のパンデミックで神は「人々に恐れを持たせ」それによって人々が神であるイエス・キリストに必死にしがみつかせる意図を持っていることに気が付きました。
もう一つの例もあります。それは民数記21:4、5ですが、これこそパンデミックの元祖で最たるものの一つです。
「民は神とモーセに逆らって言った。『なぜあなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物(マナを指す。)に飽き飽きした。』そこで主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。民はモーセのところに来て言った。『私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈って下さい。』モーセは民のために祈った。すると、主はモーセに仰せられた。『あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。』モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。」
これは明らかに神が蛇(サタン)に疫病を起こさせ、人々がそれに感染することを許された。しかし、その救助策として、モーセに「青銅の蛇」を作り、それを旗竿の上高くに上げ(これは十字架上のイエス・キリストを指す)それを仰ぎ見上げる者は癒されるようにされたのです。ハレルヤ!
このことは新約聖書のヨハネ3:14−15で次のように引用されています。
「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠の命を持つためです。」
そして更に、1コリント10:11で「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」と書かれていますから、まさに今それが起こっているとしても不思議ではありません。
又、上記に続いて13節で「・・・あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(終わり)
02 04月
何故神は、今回のコロナウイルスが
世界を蔓延することを許されたのか
坂 達 也
私は今回のコロナウイルスのパンデミックによって、この世で最も大切なことを学びました。それは前にも触れましたが愛と恐れの関係についてです。
1ヨハネ4:18に「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」とあります。
神は敢えて、私をニューヨークの最も危険地域に置かれました。しかも、私が住むアパートで一人の陽性者が出たのです。高齢者の私は最も危険人物の一人でしたから、正直なところ、私は恐れを感じました。
それによって私の愛は「全きものとなっていない」ことを知らされたのです。そして、上記のみことばの次節4:19に「目に見える兄弟を愛していない者に目に見えない神を愛することはできません。」と書かれていますから、私の心はぐさりと刺されました。牧師の端くれにせよ、教師の立場にある私にとってこれ以上恥ずかしいことはないという思いに駆られました。
そこで私はこの十日ほどの間、一日2−5時間、主に異言で必死になって祈りました。
そこで私は「愛」について改めて学ぶ必要を感じ、たまたま自分が2013年12月17日付で書いたメッセージを少し書き直して下記に掲載させて頂きますのでご高覧ください。
「愛とは何か。」
聖書全体を通じて一番大切な「神からの命令(戒め)」は何でしょうか。イエスご自身の説明によれば、それは「二つの戒め」です。
「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」(マタイ22:37−39)これは神と愛に関する、驚くべきほど究極的なステートメントではないでしょうか。それでは一体、愛とは具体的に何なのでしょうか。
愛の定義は色々言われておりますが、真っ先に思い浮かぶのは1ヨハネ4:7−8です。「 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」
このみ言葉によって愛とは神ご自身であり、神のみが愛の源である」ことが分ります。私たちがイエス・キリストを信じて以来、私たちの内におられる聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれています。(ロマ書5:5)上記のみ言葉でもう一つ重要なポイントは「神を知っています。」ではないかと思います。私たちは神に対し心からの愛があるなら、必然的に神を、単に頭の知識として知るのではなく、親密 intimacy に知る関係に入らずにはおられないのです。
しかし神を愛するとは、「神の律法全体を守ること」が切っても切れない愛の一部であることをクリスチャンははっきり認識する必要があります。そこがこの世一般の愛のコンセプトと異なります。それがヨハネ 14:15に「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」
「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ 15:10)
私たちは、イエスご自身がなさったこと、即ち、律法全体を成就されたこと、そしてそのためにこの世に来られたこと(マタイ5:17-19)を、同じように成し遂げることが私たちの最終目標であり、それが父なる神に対する私たちの愛であるのです。それを可能にする唯一の方法は、イエスが「父の愛の中にとどまっている」ように、私たちも「主イエスの中にとどまり、イエスが私たちの中にとどまる」ことであると思います。
第二の戒め
又、愛の使徒と呼ばれるヨハネは何よりも「私たちが互いに愛し合うこと」を繰り返し強調しました。私たちは、神を愛すること(第一の戒め)に関しては、イエスを信じてクリスチャンになり、曲がりなりにも教会に集っている限り、その信仰の程度は別にして、基本的に神を愛していることを周りが認めてくれますから特に問題にはなりません。なぜなら神が霊的存在で、その人と神との直接の係わり合いが肉的によく「見えない」「聞こえない」からです。ところが「第二の戒め」となるとそうは行きません。周りの人にはその人が隣人とか兄弟姉妹をどのように愛しているかが一目瞭然ですから、直ぐ批判の対象になります。正直に言って「自己中心」から抜け切れない私たちにとって、この「他人を愛する」こと程難しいことはこの世の中で他にはないと思います。その他人への愛の実践 love in action がいかに難しいかを自らの経験を通して克服した人の一人は使徒パウロです。そのパウロが書いた「愛」の章と言われる1コリント13章をこれから御一緒に読んでみたいと思います。分り易くするために、この章全体を三つに分けてみます。
1コリ13:1-13
1-3節「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」
そこで先ず、最初の1-4節で気が付くことは、パウロ自身が「異言の賜物」を誰よりも用いたオーソリティーであることです。そして「預言の賜物」についても権威者の一人ですし、彼こそ聖書の「奥義と知識」に最も長けた使徒であると私は信じます。「完全な信仰」についてもそれが言えます。加えてパウロは「自分の持ち物すべてを与えた」人であり、「自らをいけにえとして差し出す=自らの十字架を担いで主の後を追った」人であることでも誰にもひけを取りません。その彼が「そのようなこと(6つの例を挙げ)をいくらしても、もし『愛がないなら』それらの行為は『何の値打ちもない』」と断言しているのですから、これを読んで驚嘆しない人はいないと思います。
特にクリスチャンとして最もうらやましい「山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。」とまで明言するのですから、どれだけ愛が大切であるかがお分かりになると思います。
でも、正直なところ私の場合は、このショッキングな記述を読んだ時に一応の驚きは感じましたが、それ以上の感動とか心が揺さぶられるようなショックを感じないで今まで過ぎて来ました。そして、そんな霊的感覚が麻痺したような自分が、同じ自分の中にいることに気が付いて愕然としたのです。むしろ、その事実の方がより大きなショックでした。「なぜなのか」私は自問しました。また「あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じる」ことはクリスチャンとしてこの上なくうらやましいことです。私もそれを強く願って来ました。しかし、「愛がなければ」と共に、それが単なる「頭の知識でしかなければ」何の役にも立たないと言うことにも気が付かされました。「なぜ自分はそうなってしまったのか」―その答えは「宗教の霊」にやられて来たからです。そして私の中には、何と大きなプライドが詰まっているかに気が付いたのです。
自ら「パリサイ人中のパリサイ人であった」と告白するパウロが「あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じている」ことを掲げて、それが本当に主への愛ではなくて、単に自分のための「知識として知っているのであれば全く何の力もない」ことを喝破しているように思えます。それを経験したパウロであるからこそ、2テモテ3:5で「見えるところは敬虔(信心深そう)であっても、その実(力)を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」と言えるのでありましょう。その点私などは、奥義も知識も信仰もあまりなく、ないゆえに「力のない」のは当然でありながら、それを嘆いて来たのは私のプライドからであることに気が付かされました。
又、そのようなパウロであるからこそ、ガラテヤ 5:6で「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰(愛によって働く信仰)こそ大切です。」と言えますし、そんな中を通って苦しんだ結果として、彼は愛の大切さを本当に理解した人になったと信じます。
他人を愛することの難しさ
4-7節「 愛は寛容(我慢すること)であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」
さて、この4-7節ですが、ここでもパウロは、驚く程厳しくてリアルな「愛の実像」を描いてくれています。ここに列記された14の「愛は・・」すべて「他人に対する自分の取る態度」が取り扱われていますが、それらは「自己中心」を微塵なりとも許していないことに気が付かされます。他人に対してあくまでも「親切」にし、他人を「ねたまず」人に自分を「自慢せず」「高慢にならない」又、他人に対して「礼儀を欠かず」「自分の利益を求めない」「他人の不正を喜ばずに真理を喜び」「他人を出来る限り信じ」「他人のすべてをよく期待する」―という9つの品性です。
そして残りの5つである「忍耐強く寛容で」「すべてを我慢し」「いらだたず」「うらまず」「すべてを(特にどんな迫害とか虐待に会っても)耐え忍ぶ」―ということが真の愛だと言うのです。
ハッキリ言えば、パウロの言っていることは最後の5つだけでなく、14のすべてが「他人を愛するためにはすべての面で忍耐が伴う」の一言に尽きるのです。それは別の言葉で言えば他人の至らなさをすべて赦すこと―それが愛であることを示していないでしょうか。これこそキリストがこの世に生まれてから最後にゴルゴダの丘に到達する間に出会った人たちのあらゆる罪の苦しみを自ら味わった上で、最後に十字架刑と言う極刑の苦しみの中で全人類の罪のために死んで下さった愛ではないでしょうか。
イエスが自らの一生を通して私たちに示されたのが「御霊の実」のすべてであったと思います。それは「愛、喜び、平安、寛容(忍耐)、親切、善意、誠実、柔和、自制」です。この中のどれ一つを取っても厳しく練られた人間としての最高の品性でないものはありません。中でも一番難しいのは他人に対して常に寛容であるための忍耐と自制ではないでしょうか。
長い間主によって「もうしばらく待ちなさい」と言われ続ける中を、希望を失わず、すべてに自制して、じっと耐え忍んで来られたクリスチャンはたくさんおられます。しかしそのように何の報いもないと思われるような「高い代価」を払って品性を磨き上げられ、最終的に「キリストの香り」を放つ者となるのがレムナントと呼ばれる人たちではないでしょうか。
これはパウロ自身が通った道であるに違いありません。「・・・すべての人に対して寛容でありなさい。だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい。」と言った後で、パウロは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。御霊を消してはなりません。」と1テサロニケ5:14-19に書いています。そこには本当に自分に死んだ姿しかありません。
そして、これこそがあくまで私たちが霊的にキリストの身丈にまで成熟するための訓練です。そのすべてを私たちに内住される聖霊が愛をもって私たちのために日夜して下さっているのです。特に16節の「いつも喜んでいなさい。」17節の「絶えず祈りなさい。」そして18節にある「すべての事について、感謝しなさい。」こそに、他人を愛するために何事にも「耐え忍ぶ」ことを可能にするパワーが秘められており、それがその「秘訣」であり、聖霊による愛の励ましがあると、私は思います。ボブ・ジョーンズ師が言う珠玉のようなレムナントとはこうして生まれて来るのでしょう。
愛は決して絶えることがない
8-13節「8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。10 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」【新共同訳】
13:8に「愛は決して絶えることがありません。」と書かれています。多くの英語の聖書は love never fails と訳しています。日本語の訳「愛は決して絶えることがない」は確かに正しい訳には違いありませんが、パウロの言わんとする全貌を伝えてはいないと思います。私はそれ以上のもっと強い意味、すなわち「偉大な神の愛に宿る限り、私たちがするすべての愛による行いは、神の御心通りに運ばれ、常に完全に成功する、必ず成就する」と言う意味であるからです。
あるいは「『預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。』しかし『愛があれば』どんなことでも失敗することはない」と言う意味であるとも言えます。だから「神は愛である」とも言えましょう。
私は「神の愛」を本当に理解するには、神の愛とはこの宇宙に存在する「最高次元」―そこに神が住まれる「神の領域」=それが「愛」の次元=として考えるのが一番ふさわしい説明であるように思います。私は物理学量子論の「超弦理論」が宇宙の仕組み、特に霊の領域の存在(それがあることだけは私たちには分ります)を近い将来科学的に説明出来る可能性があると申し上げましたが、その最高次元がこの神の住まいの次元であるのです。そして、すばらしいことに私たちキリストを愛する者は、将来その次元で主イエス・キリストと共に永遠のいのちで最高の人生を過ごすことが約束されているのです。ですから、私たちがどんな艱難を通されても、それは神がなさっておられるのですから私たちのために必ずよい結果を生み、実ることを知っており、すべての神がなさることに喜び、感謝出来るのです。13:9-10では、私たちが今経験していることの大部分が不完全で、一時的、あるいは一部分でしかないと言うことが書かれています。それは三次元の世界の話であり、その「この世」の世界は、神が私たちのために具えられた「愛」という高次元に住むための準備と訓練の場所であるに過ぎないのです。
9−12「私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分でしかないのです。完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」と言うみ言葉を通して、今の私たちクリスチャンがどれほど苦労させられ、厳しい忍耐の中を通されていても、それが目的を持った一過性で仮の領域でしかないことを知る時に、私たちは大いに励まされないでしょうか。
そして、この章の最後の言葉が13:13節「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」【新共同訳】で終わっております。(終わり)