25 02月
私たちは「愛することを学ぶ
ためにこの世に送られた」
坂 達 也
先週ご紹介したボブ・ジョーンズという人は大変ユニークな預言者でした。一度悪魔に殺されて天国の入り口まで行き、そこでイエス・キリストに会って、他の死んだ人と同じように「この世であなたは愛することを学びましたか。」聞かれました。彼は一応「Yes」と答えましたが、その後で主から「あなたは地上に帰りなさい。地上に帰って、わたしの(身体である教会の)リーダーたちに影響を与え、10億のたましいを救う準備をしなさい。」= それは「わたしが聖書で与えると約束したすべての賜物を多くの人に数倍増して与えるために。」と言われたのです。
ここで二つのことが分かります。一つは、ボブは「地上で愛することを学んだか」と聞かれて一応「学んだ」と答えましたが、それから地上に帰された後に「再婚した奥さんボニーさんから真の愛を学んだ」と答えていますから、真の愛を学ばせる為にもう一度この世に帰されたことになります。
ボニーさんという奥様は、預言者の妻にふさわしい預言の賜物と、その上、聖書に詳しいという、夫のボブが認めるように「理想的な秘書役」を務めました。そして身体に多くの痛みを抱える夫を最後まで献身的に仕え、支えた「看護婦」でもありました。加えて、それ以上に私たちがあるべき姿ー花婿イエスの花嫁としての「従順」をもって、愛と喜びに満ちて、夫に仕え尽くした「妻」であったことをボブ師は認めたのです。この仲むずまじい夫婦のやりとりの一端は、ユーチューブ「Bob Jones 2012 Shepherd’s Rod」でご覧になれます。
2つ目に、ボブはその愛を基に「10億の人の救い」(世の終わりのリバイバル)起こすためのリーダーを養育するという任務を与えられた」と私は解釈します。こんな人は滅多にいません。
そこで彼は、誰に会っても「主から直接何か預言の言葉を聞いたか」と常に聞き、アメリカの既存の教会の指導者たちだけでなく、世界から集まって来る人、特にこれから活躍が期待される若い人たちに向かっての主からの預言を、死ぬ直前まで、忠実に伝えたのです。
その「10億の人の救い」 という世の終わりのリバイバルが、正に2020年の今年から始まろうとしています。というのはボブの預言の一つに「アメリカン・フットボールのカンサスシチー・チーフがスーパー・ボールに勝ったら、それからリバイバルが始まる。」というのがあり、それが今年つい最近になって実現したからです。このことを預言者ショーン・ボルツ師が「ボブ・ジョーンズ師は、私に少なくとも10回は、神からの預言でそれが起こる、そして、それが起こったら、その年位から、神は、神の 「Apostolic Chiefs 使徒のチーフになる人たち」を起こし始めると語った」と言います。
2014年のバランタインデー2月14日に天に召されたボブ・ジョーンズ師は、真に私たち「主の教会」への「愛の使者」でありました。その愛とは selfless AGAPE の愛です。それはロマ書13:10に「愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、、愛は律法を全うします。」また、1テモテ1:5に「この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を目標としています。」と書かれている通りです。
私たちクリスチャンは、その神のアガペの愛を何としても学びとらねばなりません。その為には、アガペの愛そのものであるイエス・キリストに常に個人的に接し、イエスご自身から直接学び取るだけでなく、それを現実にこの世で実行しなければならないことは明白です。
リック・ジョイナー師は「そのような真の愛を知って、実行している人には人が集まる」と言います。それが「コイノニアの愛」であり、そのような愛の実行者が二人、三人(スモールグループ、多くて十二人)が集まるところに、人が集まる、そのことがイザヤ書60に書かれています。
「暗やみが諸国の民をおおっている。(現在は、まさにその時代になりました)しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。・・・目をあげて、あたりを見よ。彼らはみな集まって、あなたのもとに来る。」(イザヤ60:2−4)
あなたが輝き、地の塩となっているところにはもっと多くの人が集まるのです。そのようなリバイバルが起きると、大きな「既存の教会」にも人は集まりますが、それよりはるかに大きな割合で、コイノニアの小さなグループにこそ、より多くの人が集まる、するとそのグループが直ぐ大きくなり過ぎますから、そこから別のスモールグループが生み出されどんどん分身して行く。それが進めば、大きな既存教会の成長よりも、より早く、より大きく成長して行くーー実は、そのようなビジョンを見たとジョイナー師は言われます。
コイノニアの愛のグループでは、先ず一人一人が直接主からのことばを聞く「霊の耳」を持つ訓練をします。それによって毎日それぞれが個人的に主に直接聞いて、その時に必要な「主の御心」をそれぞれが受け取り、「頭だけのクリスチャン」にありがちな「人間的な思いとか考えの一切をとりこにしてキリストに服従させ、私たちの行動を全て聖霊に委ねる(2コリント10:5)という生き方をし始めると、人がどんどん集まる。その結果が、世界で10億の人が救われるだけでなく、霊的弟子訓練もできて行くのです。
その為に最も必要なものは「主からの知恵」です。例えばリバイバルによって癒しが起こり始めても、その癒しが一時的なもので終わるのではなく、持続させる「知恵」を主からいただくことが究極的な健康保持につながります。あらゆる事態において私たちに最も必要なものは「識別の力」と神の「知恵」であり、その元はすべて「神の愛」から出ていると言われるのです。
従って、私たちがこの世を去る時に、天の門の入り口で「この世であなたは愛することを学びましたか」と主イエス・キリストに聞かれることは、そう言う意味であるとボブ・ジョーンズ師もジョイナー師も言われます。(終わり)
18 02月
バレンタイン・デーを迎えて
預言者ボブ・ジョーンズ師を思う
坂 達 也
先週の金曜日、2月14日はバレンタイン・デーでした。私は毎年バレンタイ・
デーが来るとボブ・ジョーンズ師が天に召された日であることを思い出します。
そこで2014年の2月14日に天に召された師のために、リック・ジョイナー師が司式をしたモーニングスター教会での盛大なメモリアル・サービス式典(2月21日)の様子をもう一度久し振りにユー・チューブで見ました。
最初に紹介されて、ボブの思い出を語ったのは、カンサスシテイーにあるIHOPのマイク・ビクル師でした。ビクル師は1983年にカンサスシテイーに移り、そこでボブに会いました。ボブはマイクが手を差し出しても握手もせず、いきなり「あなたは24時間絶え間のない、若い歌い手とミュージシャンと共に主を礼拝するミニストリー(今の Ihop )を持つ、そこに世界中からsong birds 歌い手が集まる、そして、イスラエルとの関わり合いを持ち始める。後にハリー・トルーマン大統領が住んでいた125エーカーの土地に移る(実際にイスラエルに好意を持つ大統領はフリーで自分の土地を IHOP に寄贈した)等のことを預言し、それが25年後に実現したのです。
次に高壇に上がったのはポール・キース・デイビス師でした。彼は最初の出会いからボブが全くこの世的でない天の御国のことしか考えていない「変人」である経験を語りましたが、彼はボブと6年間密着して一緒に仕事をした人で、リック・ジョイナー師と共に最もボブと親しかった人の一人です。
そのデイビス師が強調して語ってくれたことで一つ確かなことは、ボブはエライジャ級の預言者であったことでした。以下はメモリアルサービスの時ではなく、デイビス師自身のミニストリーで、ボブが9歳の時に起こったことを、デイビス師が分かち合ってくれたことをご紹介します。(彼のミニストリー:2014年3月4日の録画より)
ボブが9歳の時の話:ボブは向こうから白い馬に乗った大きな男がやってきた。よく見ると馬の足は地に付いていない、そしてシルバー色のトランペットを持っていた。ボブはそれは世の終わりに現れるガブリエルであると信じた。するとガブリエルは馬の鞍の上に乗せていた牛皮でできたマントをボブに投げた。しかしボブは世の終わりが来たのだと思って、拾わずに家の中に駆け込んだ。ボブが39歳の時、ガブリエルが戻って来てマントを再び投げたのでボブはそれを拾った。その時からボブの預言的ライフが始まり、ボブはテクニカラーの幻とか夢を見るようになった。そして私は、ボブが人の内臓に入って行くのを見た。1974か5年に、ボブはホモセクシャルコミュニテイーに起こる病気エイズを預言した。また、その頃大流行し始めた Abortion 妊娠中絶用の錠剤が発売されることの預言を受け、それを訪ねた教会で話した。すると悪魔が現れ, ボブがその話をし続けるなら殺すと通告したにもかかわらず、その直後にその錠剤薬の話を他の人に話した。すると翌日ボブは下腹部が破裂し口に血がのぼったので救急車で病院に運ばれたが、結局診察台の上で死んだ。ボブは天に上り、クリスチャンの列に並んでいた三人の人と共に光の衣を着て順番を待っていた。もう一つの列には大勢の人が、それぞれ生前に仕えたお金、アルコール等に似た着物を着て地獄に落ちて行くのを見た。
ボブの前に並んだクリスチャンのうち先頭にいたのは9歳の女の子で、主はその子に、この世で「あなたは愛することを学んだか。」と聞くと、答えは「Yes」、主は「その通りだね」と言って彼女にキスとしハグをし、天の門の中に入れました。次は少し年老いた婦人で、彼女は主は愛したが、夫を亡くした時に恨みの気持ちを持ち、それ以来、人を愛さなくなったと告白すると、主はそれを認め、中に入ることを許したが、ご褒美は与えられなかった。次の女性は黒人で、彼女の周りには多くの御使いが付き添っていたが、ボブには一人の御使いしか付いていなかった。彼女はエバンジェリストで多くの人を天に送った。主は彼女にキスをして中に迎へ入れた。次にボブの番が来ると、主は彼に「あなたは地上に帰りなさい。」と言い、それに答えてボブが「帰りたくない。私は帰ってもあまり役に立ちません。」と言うと主はボブに「あなたは魂の救いを願うかと聞き、それに「Yes」と答えると、「あなたは地上に帰って、わたしのリーダーたちに影響を与え、10億のたましいを救う」そして「わたしが聖書で与えると約束したすべての賜物を多くの人に数倍増して与える。」と言われた。
ボブ・ジョーンズ師が残した最も有名な言葉といえば、既に上記で紹介したように、人々が死んで天の入り口でイエスの前に立つ時、主は誰に対しても唯一つだけ質問をされる。それは、この世で生きた生涯で「あなたは愛することを学んだか。Did you learn to love?」という質問です。
私はこの質問の意味は考えれば考える程深いと思います。先ず思い出されるのは弟子たちに聞かれてイエスは、マタイ22:37、39で「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。これがたいせつな第一の戒めです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せと」という第二の戒めも、それと同じように大切です。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」その上に、マタイ5:44で「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」とありますから、本当に「神は愛」以外の何ものでもありません。ジョーンズ師は続けます。「神のなさることのすべては愛という土台の上に建てられている。もしあなたが本当にこの世で愛することを学んだのなら、その神があなたがたにしてもらいことのすべてにおいて従順を尽くしたはずであると言われます。主がそう言われるのは「主と私たちは結婚するように造られていて、そのための準備であるからです。」ハレルヤ!
尚上記マタイ22:40には「律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」と書かれていますが、私の聖書の「律法全体」の右側には、いつ書いたか分かりませんが「神の御心」という添え書きが、そして「預言者」の右側には「私たち」という添え書きが付いていることに気が付きました。恐らくこの添え書きは誰かが言ったか、書いてあったものに相違ありませんが、そうです、私たち自身が皆「預言者」にならなければならない、そして花婿のすべての言葉を聞いて、それに従順を尽くすことが最大の目標ではないでしょうか。
ところで、ボブ師は前の奥さんが召された数年後に、今の奥さんのボニーさんと再婚しました。そして分かったことは、ボブ師は「あなたは愛することを学んだか。」という質問に対し「私はボニーから『愛することを学んだ。』」とはっきり答えています。何とすばらしいこの世での結婚関係の証しでありましょうか。ボニーさんは、御国のこと以外に何も考えない、頑な一徹に主に仕え、来る人拒まずで人を教え導いたボブ師、特に最後の頃は身体的にこの上ない大きな苦しみの中を通った夫を献身的に尽くしたボニーさんから「愛を学んだ」と証しされたのです。
最後にポール・キース・デイビス師による、ボブが天に召される直前に起こったことをボブ師の証として述べさせていただきます。
ボブは2014年の一月に地元の病院に入院したのですが、その直前のある時彼はベッドから立とうとして立ち上がった途端に足の骨が折れて(カルシューム欠乏症)床に崩れ倒れた。その後衰弱の一途を辿り、召された2月14日の数日前は、ベッドから頭をあげることもできない状態にあった。そんな彼が夜中の2時頃にその病院の事務長室のドアを開け、歩いて中に入って来た。そのドアにはキーパッドが付いていてその支配人(リック師の知り合いのクリスチャン)と秘書しか暗証番号は知らないはずのドアをボブが番号を押して入って来たのです。ボブが入って来たのに驚いていると、ボブはその支配人に主からの預言を伝えたいから書き取って欲しいといい、色々な人への預言を語り出した。支配人は全く知らない人ばかりで、英語で書いたつもりが、後で見ると東洋の言葉のような外国語になっていたというのです。ボブは最後の最後まで主からの預言を伝えることに徹した人であったという驚くべき話。ボブは言い終わって、自分の病室に歩いて帰り、朝の6:22AMに召されたのでした。後で分かったことは、支配人室に入って来た時ボブは「私に触るな。私は未だ完全に霊の身体に変わり切っていないー変わりつつある状態であるからと叫んだそうです。(続く)
11 02月
裸のアダムとエバよ、今こそ輝く衣を着る時が来た
坂 達 也
下記のメッセージは私たち夫婦が2017年の日本旅行から帰って来た時に書いて掲載したものですが、たまたま私は今この記事を読んで、まさしく、これから来る終末の大リバイバルを前にした現在の私たちに当てはまるものであると強く感じましたので今週のメッセージとさせて頂き、最後に本日の私自身のメッセージも加えさせて頂きます。
==============
三週間にわたる今回の日本旅行を通して感じたことを一言でいえば、今はイザヤ書60:1−3に書かれている時代に入っているという実感でした。
「起きよ。光を放て。あなた(クリスチャン)の光が来て、主の
栄光があなたの上に輝いているからだ。
見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。
しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。
国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩
む。···」
「見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。」とありますが、それはアメリカだけではなく、日本もそうなって来たことを今回はっきり実感しました。そして世界中にそのやみが急速にひろがりつつあります。
先ず異例な天災が世界を襲っていること。局地的豪雨をともなう未曾有の大型台風とかハリケーン、加えて、多発する地震と火山活動によって世界は膨大な被害を被りつつあります。
一方そのような天災とともに、世界を深いやみの真中に陥しこんだのはテロと言う人災であり、それによる破壊活動も益々激しさを増しています。それは特にアメリカにおける政治の頽廃と、超リベラルなメディヤの挑発による民衆や学生の暴動というテロ行為を引き起こしているだけではありません。北朝鮮とイランによる核兵器実験と言う深刻な挑発行為も、世界中の人心を脅かす大きなテロの一つと言えないでしょうか。
なぜ神はそれらが一挙に起こることを許しておられるのでしょうか。
その理由を挙げるとすれば、神は敢てこの世をとことん暗くすることによって「クリスチャンが輝き出す」ことを、この世の人々に見せようとされているのではないかーということに気が付きました。そして、今回私はそのことを旅の後半で強調しました。これからの終末の時代には真にキリストにつながったクリスチャンが台頭して、そのクリスチャンがそれぞれ個人的に輝き出すことを見て、神を知らない人々が神の存在に目覚める。それだけではありません。その輝きを増す「力あるクリスチャン」が、その国の政治も経済も変えるのです。それが最終的に終末最後の大リバイバルへの引き金となるのです。
日本の国を御国として立て直すのも、最後のリバイバルを起こすのも、主は日本のクリスチャンに期待しておられます。そのために今最も必要なことは「人間的·宗教的になり下がったクリスチャンとその教会」を抜本的に変えることであると私は信じます。そのために私は今回、従来のように教会を訪ねること以上に、個人的に二人三人のクリスチャンの集まりとか、ホーム·チャーチで親密なお交わりをさせていただくことに重きを置きました。なぜなら真のクリスチャンとは、最終的に個人としての主と交わることによってのみ育まれるものであって、マスプロダクションではないからです。(但し、大きな教会では小グループによる弟子訓練が可能ですが、これには大変な指導力が必要です。)
ところで今回日本で、私は初めて「団体としての教会」を離れた、あるいは「離れたいと願っている人々」を総称して「クリスチャンの難民」と形容するのを聞きました。なるほど今、世界中に難民が溢れているように、日本ではクリスチャンの難民が問題になって久しいことを以前から私は憂いておりました。云ってみれば幕末末期に、侍の多くが「浪人」として溢れていたことと少し似ているような気がします。
この問題への対策として今回、私は「クリスチャン個人が光り輝く」ことの重要さを認識しました。クリスチャンが輝き出すことによって、輝かないクリスチャンが明るみに出されます。それが刺激となり、やがてクリスチャン全体の霊性の向上を期待したいと思います。
罪を犯す前のアダムとエバの身体は神の栄光で輝いていた
最初のクリスチャンであった彼らは、裸であったにもかかわらず、身体全体が輝いていて着物を着る必要はありませんでした。しかし、罪を犯すとともに彼らを包む栄光の衣は消え、彼らは自分が裸である事に気付いたのです。そこで神が近づくと彼らは(神の御声を聞いて)慌てて園の木の茂みに身を隠したことが創世記3:8−10に書かれています。
又、シナイ山で神と40日間向き合った後のモーセの顔があまりにも輝いていたので、民は眩しくてモーセを見られなかったことを思い出して下さい。その後モーセは主に向かって叫んだのです。「私にあなたの栄光を見せて下さい!」(出エジプト 33:1) そしてモーセは神の後ろ姿を見て、さらに霊的に変えられました。これは新約の時代に生きるクリスチャンが最終的になるべき姿の型を示されたのであると思います。
それがルカ9:28、マタイ17:1に書かれています。イエスがペテロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登った時に、祈っておられるイエスの御顔が突然変わり、御衣が白く輝き出しました。そこにモーセとエリヤも現れたのです。
一体何がイエスの身体とかモーセの身体を変えたのでしょうか。
聖霊が私たちの細胞を変える
2コリント5:17に「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」と書かれています。
私たちがイエスを信じてボーン·アゲインすると、その人は主の十字架の御業により新しく造られた者となり、その結果として、聖霊が私たちの中に住むようになります。これが「新しい創造」です。これによって先ず心が霊的に変えられ、すべての細胞が変革されるのです。超自然の「平安」が身体中の細胞とか臓器に植え付けられ抜本的に変えられることは最近の科学が証明しています。
但しここで重要なことは、「聖霊が私たちの中に住む」といっても、それが本当にあなたの中に住み始めた聖霊が生きて自由にあなたと共に活動していればの話であって、そうでなければ輝き出ないと思います。これがクリスチャンの最大の問題であるのではないでしょうか。本当にあなたが聖霊と共に歩いていれば、あなたは聖霊の衣をいつも纏って歩くようになり、あなたの身体は光り輝き、奇跡がどんどん起こり始めるでしょう。
すなわち、私たちの身体は「新しい創造」によって聖霊の臨在が常に宿り活発に活動するとき、罪のないオリジナルの人間にリバイブされ、身体が輝き出る元々のキャパシティーを持つているのです。
ルカ11:36に「もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。」とあります。この御ことばは「聖さ」が完全になったときの姿を明瞭に示しています。即ち、神の栄光 GLORY とは「神のすべて」の現れ=臨在であり、それがフルに顕われるとき、神の永遠のいのち、愛と力、神の神聖さと公正さ、慈悲、知恵によって、もの凄い輝きが出るのです。これは途方もなくすばらしい希望ではありませんか。私たちのからだ全体が神の臨在によって輝き、暗い部分が全くなくなるというのですから。
そのためには2コリント3:16−18の祈りが非常に重要であると私は信じます。
「人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
この祈りをすればする程、私たちは新しい創造により「主に似たもの」に変革されて行きます。
ここで、暫く前にWWGMでご紹介したキャシー·ウオールターズ師の「宗教的思考は人に重圧を加え、宗教の霊は常に何らかの肉の努力奮闘を生み出す」というお話をさせていただきます。
師は「聖霊は、ご自分のために、あなたに働いてほしいとは望んでおられるのではなく、私たちが神の御霊に自分を明け渡し「どうか私を通してお働きください」とお委ねすることを望んでおられるのです。私たちはただただ自分を聖霊に明け渡し、主が事をされるのです。そうするとすばらしことが起ると言われるのです。
それがピリピ2:13に書かれている「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」の意味です。
願いを起こすのも実現されるのも神(キャシー•ウオルターズ)
人の心を変えることや、御名に栄光を帰す超自然的な事をする能力があるのは、ただ神お一人です。クリスチャンの上に密かにのしかかっている一番大きな重圧を私は「偽りの責任感」と呼びます。この「責任感」は、それが聞こえがよく、道徳的でありうるというところに問題があります。私たちは自分で勝手に「良いと思って」してしまい「自分が何者であり、何者ではないか」を忘れてしまうのです。
よいクリスチャンになり、よいミニストリーをしようと努力をすると、自分にはする力がない事をしようとしてしまいます。私たち自身は誰かを変えたり、何かをさせたりすることは不可能であることを忘れているのです。もしあなたが、あたかも自分が聖霊であるかのように一生懸命になると、しくじります。それは、人の心を変え、真の解放を与えて魂を救うことができるのはただ神お一人だからです。神だけが超自然的奇蹟、しるし、不思議を行えるのです。
過去の多くのリバイバルは「偽りの責任感」によって消滅したことをご存知でしょうか。エヴァン·ロバーツは、一九〇四年にイギリスのウェールズ地方で起こった大リバイバルにおいて神に力強く用いられた若者でした。その地は神の栄光で覆われ、酒場やバーは閉店し、多くのスポーツ競技もなくなりました。ロバーツたちは、神ご自身が望まれることを神にしていただき、自分たちは神の邪魔をしないようにしました。神の訪れが町から町へと広がり、神の力がいたるところで顕されました。そして人びとは神と神の臨在に応答したのです。リバイバルが始まって九ヶ月が過ぎたころ、幾つかの町で重い空気が漂い始めましたが、ロバーツのパワフルな油注ぎは持続されていました。
しかし、やがてロバーツは神経衰弱になり、人びとの上に大きな重圧をかけるようになってしまいました。お分かりでしょうか、私たちは自分の力で強制的に誰かを主に応答させることなどできないのです。ロバーツは、勿論よいと思ってしたのだと思いますが、群衆が自分が望んだように福音に応答しないとき、腹を立てるようになったのです。「彼らは御霊を消している!」と言って会場を去ったり、集会を中止したり、人びとを叱責するようになりました。
でも皆さん、ロバーツは聖霊ではありませんでした。人びとがどのように神に応答するかは、彼の責任ではなかったのです。それは聖霊の仕事でした。
ミニストリーをしている人達が、自分が聖霊になろうとすると、ノイローゼや神経衰弱になることがあります。偽りの責任感が働くときには真の自由はありません。それはその人の肉が働くからです。神にしか出来ないことを頑張って努力するならば、あらゆるストレスをあなたは持つ事になるでしょう。
あなたの責任は、神から言われたことをするだけです。人びとがそれをどのように受け取り応答するかは、あなたの責任ではありません。しかしそれを自分の責任ととれば、それはとてつもない責任であり、その重圧があなたの身体にも影響を与えます。もし誰かのために神からある言葉を受けたならば、それを告げるのはあなたの責任ですが、その人が何をしてどう応答するかは、その人と神との間のことであるのです。
聖霊に導かれることが私たちの責任
多くの教会では「人びとの必要を満たすこと」が大切だと教えます。良いクリスチャンなればそうするのが当然といえるかもしれません。しかしイエスがエルサレムやベタニヤ、ガリラヤの町を走り回ったのは、人びとの必要を満たすためではなかった、と言ったら、皆さんは驚かれますか。実際のところイエスは次の3つのことをしただけです。
1.御父が「せよ」と言われたことをした
2.御父が「言え」と言われたことを言った
3.御父が「行け」という所に行った
あなたの重荷を振り落としてください。それは重苦しく、あなたの喜びを盗むものです。あなたが努力奮闘するように仕向けるものです。私は世界中のミニストリーを沢山知っていますが、一つ申し上げられることは、私が知っている霊の領域で最も鋭くシャープな人たちは、最も軽々としています。
重圧 weights =「重い責任を持つこと」はあなたも他の誰をも助けません。自分で重い責任を感じてする重圧はあなたを宗教の領域に閉じ込めるだけです。
常に平安と安息と信仰から働いてください。ヘブル4:10に「神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。」とあります。私たちは、わざではなく信仰によって神の平安に入るのです。神こそが人の心を変え、御名に栄光を与える超自然的なわざをされる力を持つ方です。(以上キャシー·ウオールターズ師の話)
最後にここで私たちには大きな問題があることをもう一度申し上げます。それはほとんどのクリスチャンが、ボーンアゲインした自分の内には「聖霊が内住しておられる」ことを頭では理解していていても、現実にはその聖霊と共に生きていないという事実です。ー[もし、本当にあなたが目に見える形でいつも聖霊と行動を共にしているのなら、その聖霊をあたかもそこにいないかのように無視して自分で勝手に行動するでしょうか]ー私も長い間、その聖霊の臨在の実感がなく、なるほど、聖霊は私たちを助けてくれる「ヘルパーさん」と考え、有り難いと思いつつも結局はほとんどの場合、自分で「聖書的に良いこと」を「自分で」選び、それを「自分の方法とタイミング」で行っていたに過ぎないことに気が付かされたのです。
私はここでヨハネ5:19に「···子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」と書かれている聖句を思い出します。イエスは聖霊を通して父がいわれることを耳で聞くだけでなく、それを見て行われたーそれはもの凄い注意力ですーしかし、主がされたことはそれだけです。でもそこがポイントではないでしょうか。
私は最近リッチ·ベラという牧師のお話しをビデオで聞きましたが、彼は驚いたことに「主の御声が聞こえると同時に、それが目で見えるようになった。」といわれるのです。それを聞いて私は、本当にうらやましく思いました。でも私たちも聖霊と忠実に歩むようになるとき、そうなれると信じます。
================
本日は、以上のメッセージに、下記のものを加えさせてて頂きます。これは2020年02月02日(前から読んでも後ろから読んでも同じ)のモーニングスターでのリック·ジョイナー師による礼拝メッセージの冒頭で、師が口ずさんだ二言の言葉です。
「イエスは今私たちの中で生きています。そうであるならイエスご自身がご自分の教会を建て上げるのが当然です。!」
これで私(坂)は、荒野を行進するイスラエルの民は、毎朝天から降って来るマナという食物が与えられ、それで一日中生きていたことを思い出しました。それと共にマタイ4:4に書かれている『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」大事な御ことばも思い出しました。
この御ことばは、天からは降って来る「肉のマナ」と共に「霊のマナ」も毎朝降って来る(一日中降って来る)、その「霊のマナ」を私たちクリスチャンは絶対に頂かなければならない。なぜなら、私たちの、元々本質的に生きる命とは霊であるからです。ベテル教会でよく話されるランデイ·クラーク師も、明け方を待たずに二時、三時から起きて主の前に出る、リック師も四時前から起きて主と向かい合うと言います。
すなわち、私たちに内在する主イエスは、私たちに必要な「霊の言葉」をいつも話しかけておられ、そのために私たちの中に入って住んで下さっておられるからです。私たちは、その主の一つ一つの言葉を受け、それに応答しながら生きているのです。
祈りとは、本質的に先ず、主のことばを聞くことであり、それに応答しながら主の御心に沿って生きることであると言って過言ではないと思います。(終わり)
04 02月
天に召された柚実子が残した
皆様への最後のメッセージ
坂 達 也
私は柚実子が昇天した三日後の1月19日(日)に、近くにある日本人教会ニューヨークめぐみ教会にて、折から日本へ旅行中の牧師の代理として礼拝メッセージを取りつがせていただきました。葬儀を前にして取り込み中でしたので、お断りすることもできましたが、実はこの予定は数週間前から決まっていて、しかも私は柚実子からこの日には必ず「このメッセージをして欲しい」というテーマの指示まで受けていたのです。
そんな注文を付けられたことは私の記憶には今まで一度もありません。まるで柚実子は、自分が昇天することを知っていたかのようでした。そこで、私は下記のメッセージは柚実子からの「遺言」として取りつがせていただいた次第です。
また、このメッセージは、この地元の教会だけではなく、私たちが今日まで親しくしていただいたすべての教会の皆様に伝えて欲しいという願いを柚実子は持っていたと確信します。就きましては、柚実子のために私が伝えたメッセージを下記に要約しましたので、ご高覧くだされば幸いです。
==========
創造主の神はすべての人間が生きる
一生の脚本を既に書いて天に保存している
皆さんはこの宇宙に人間を含む全てのものを創造した全知全能の神が永遠の昔から存在することを信じますか。
ご存知の通り、聖書には冒頭で「初めに、神が天と地を創造した。」と書かれていますが、その神が「全知全能の神」であることが、聖書の詩篇139:1−18をお読みになればよくお分かりになると思います。
「あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り私の道をことごとく知っておられます。言葉が私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。あなたは前から後ろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕えます。たとい私が、「おおやみよ。私をおおえ。私の回りの光よ。夜となれ。」と言っても、あなたにとっては、やみも暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです。それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされまし た。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計 は、なんと多いことでしょう。それを数えようとしても、それは砂よりも数多い のです。私が目ざめるとき、私はなおも、あなたとともにいます。」
と書かれていて、その意味するところはこの宇宙にある全てのもの、それはあらゆる目に見えるものだけでなく、目に見えない考えとか思いに至るまでの全てを創造した創造主の神が存在するということです。
私は大学で文学を学び、行く末は小説でも書こうかと思ったこともあったせいか、一人一人顔かたちや性格のことなる多くの人間が、それぞれ生きる環境が異 なるこの世で、人生をどのように生きるかを神がどのように創造するかに興味を覚 えたのです。
神の創造は映画を制作するようなもの
小説にせよ、映画にせよ、作る前に製作のテーマと主人公、そのためのストーリーを はっきり決定してから取り掛かるのが普通です。従って、創造者の神も同じようにして創 造することは容易に想像できます。完璧な神であれば尚更、登場人物も、それぞれの筋書 きも、結末も、全部初めから決まっていて全くおかしくありません。映画の制作では、 原作の物語を先ず選び、それにそって監督は思い通りに物語の進行場面とか舞台装置の小 道具一つまでを綿密に設定し、シナリオを書かせ、選んだ登場人物に自分の納得が行くま でセリフを言わせ、演技をさせ、自分の思い通りのシーンを造りながら物語を進めます。つまり、一本の映画を作るためには、前もって 原作、筋書き、脚本、シナリオ、それに必要なあらゆる小道具迄の詳しい明細が書かれた原本を用意する必要があるのです。
そのことが上記の詩篇139に書かれています。すなわち、神は一人 の人間が生まれる前に、予め、その人が生きる一生の毎日に起こることの明細を書物に記録したものが天の書庫に収納してあると言うのです。この「天にある書」は「デスティニーの書」といわれます。
その他にも、天には多くの書物があることが下記のことばから も分かります。 黙示録20:12、15「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も 御座の前に立っているのを見た。そして数々の書物が開かれた。また、別の一つ の書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書 物に書き記されているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。・・・ いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」
これは「天の法廷での裁判」のシーンですが、次もそうです。 黙示録3:5「勝利を得る者はこのように白い衣を着せられる。そして、わた しは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名 をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。」 父が裁判官、イエスが弁護人、御使いサタンが告発者であるのです。
天にある書物、いのちの書
そうであれば、皆さん、そのような書物を見てみたいと思いませんか。事実天 に行って、その本が収納されている巨大な書庫を見て来た人が少なくとも三人い るのです。その一人は私たちが敬愛するポール・キース・デイビス師です。彼は 超自然の幻を経験し、天の書庫に案内されてその書物を見て来ました。 そのデイビス師が親しかった預言者として知られた故ボブ・ジョーンズ師も、 ある時、御使いに案内されて天の書庫に収納されている膨大な書物の一つ 「Books of Resume 履歴の書」を見たそうです。彼は先ず自分の履歴を見 ました。そして分かったことは、自分が実際に実行したことはその書に書かれて いることに比べ非常に少ないことでした。
ジョーンズ師は、その中で特に最近のリバイバルに関与した一人の著名な預言 者の履歴を見せてもらった時、彼の生涯の最初の50余年に行った履歴とその後の短い晩年 の履歴を比較して、晩年の方がより多くの霊的成果を挙げていたことに気付きま した。これは一体何を物語っているのでしょうか。 それは、主に愛され用いられる人に最も必要なことは「霊的成熟」であること です。晩年になって、成熟すればする程、主とのコミュニケーションが親しくで きるようになる、そうなれば毎日、主に自分の、主によって初めから決まっているその日すべきことを聞いて知り、そ れにより従って生きるようになったからです。
終末の時代に生きる私たちには特にそれが重要です。主は今、本当に激しく求 める人には、霊の油注ぎをかつてない程、超自然的に加速して下さろうとしてい る時代に入っています。ですから、これ迄は目立った働きをしていない無名の人 でも、激しく主との交わりを求め、霊的成熟に専心する人に主は加速的に 油を注がれ、これから大きく用いられる可能性が充分あるのです。
上記の記述から分かることは、創造者の神がいかに人間を愛しておられ、その 人間のためにこの三次元宇宙と地球環境を先ず造られた。そこに人間を生まれさ せ、出来るだけ多くの人間を「自分の子どもにする」ための厳しい霊的訓練を与 えているという事実です。この書物の存在によって、万能の神がいかに偉大な 「愛の創造者」であるかが明らかです。
なぜなら、最初の人間アダムとエバ以来この世に生まれるすべての人間一人一 人に、神は「こう生きてもらいたい」という熱い愛の思いを込めて、まるでラブ レターのようにそれぞれ個人への「創造の日記」を書かれ、その膨大な「創造の 記録」が天に永久保存されているのです。 そのような書物を誰が書いたか − それがイエス・キリストであることは、ヨ ハネ1:1に「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった・・」 から容易に想像できます。 すなわち、イエス・キリストは父なる神のご計画に沿って、すべてを具体的に 創造するに当たり、まるで映画の制作に当たって、制作者と出演者両方に必要な 脚本、台本等が用意される様に、神の創造のために必要な一切のものが書き記さ れたのです。それはあくまで神がその人物にしてもらいたいと期待する「理想的 筋書き」です。
しかし、一方で神は私たちに自由意志を与えているので、その人が自分で勝手に生きた記録も、もう一つの「履歴の書」として天に保管されています。この二つの履歴の書は人間がこの世を去る時の審判の証拠となるのです。ですから最も重要なことは、神が個々の人間のために書いた理想的筋書きとしての履歴の書に私たち人間が「全き 従順」であることです。すなわち神が人間に要求していることは、神のために何かしてもらいたいのではなく、勝手に何もしないで欲しい、むしろ初めから神の役者として、神のシナリオに忠実に従い演じて欲しいということです。理由は、それが最もその人のためになるからです。
その点神の子で人間となったイエス・キリストは、最も忠実な役 者であったことが下記の聖句からよく分かります。役者イエスは「子は、父 ( 監督 ) がしておられることを見て(全てを理解して)行う以 外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさる(監督が示す)ことは何で も、子も同様に行うのです。」(ヨハネ5:19) と言い、子である役者は監督が望んでいる演技を霊の目で見て、あるいは監督が実際に やってみせてくれる通りのことを忠実に演ずる責任があることを私たちに示してくれたの です。 また、「わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおり に、これらのことを話している・・・」(ヨハネ8:28) と言い、セリフも全て監督か ら教えられた脚本通りに忠実に話すことを実行しました。イエスは監督のお気に入りの最 高のスター俳優です。 映画監督はよい作品を創るために、その映画に関する限り全くのワンマンの支配者で あり、この点は創造者の神と似ています。さて前置きが長くなりましたが、ここから本題に入ります。
マラキ書と什一献金について
マラキ書3:8ー10「人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。それは、十分の一と奉納物によってである。あなた方はのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。ーー万軍の主はお仰せられるーーわたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」
ここで注意していただきたいのは、神が「わたしを試してみよ」と書かれているのは聖書の中で、ここだけであることです。多くの人はこのマラキ書の御言葉を頭の知識として知ってはいますが、その意味を本当に理解している人は少ないように思います。なぜなら、よく考えてみれば、私たち人間は元々神が望む台本通りに生きることが問われているからです。勿論完全にその神の台本に従い通した人はイエス・キリストだけです。しかし私たちクリスチャンの目標はすべての行いにおいてイエスに似た者になることである以上、もしそうでないなら(実のところ誰もイエスのように完璧にはできないのは確かですが)ーそのできない人には上記の御言葉「あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか」の保証はないと思います。ところが愛のあふれる神は、私たちがたった一つのことだけでも忠実に実行すれば「あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐ」とおっしゃるのです。それが「什一献金」であり、「わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」の真の意味であると私は信じます。
神は私たち人間がこの世で「金がものをいう」ことをよく知っておられ、それで私たちクリスチャンが「出し惜しみ」するかどうかという一番弱いところを試しておられると私は思います。時間があれば、例えばリック・ジョイナー師とか、ジャック・デヤー(Jack Deere ) 師の貴重な体験談をお分ちするのですが、それはまた次回にさせていただきます。私たち夫婦もこの「什一献金」の重要さを十分に体験して来ましたので、その重要性をどれほど強調しても、しすぎることはないと信じる者の一人です。
尚、一つ誤解のないように申し上げたいことは「神があふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐ」ことと、クリスチャンが「厳しい試練を通る、苦労する」こととは全く別のことであることです。なぜなら、ヘブル5:8-9に「 キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。 そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、・・」と書かれているからです。父なる神は、自分の「最愛のひとり子」で「神である」イエスですら、この世に送り、人間として苦労させた挙句に、十字架刑というこの世で最も残忍な極刑に処し、それに耐え忍ばせる苦しみを味合わせたのです。また、ヤコブ書1:2−4、12に「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。 その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。・・・・試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」と書かれていることも「永遠のいのち」を受けるために必要であることです。
ところで、マタイ23:23で「忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中でははるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他の方も(什一献金)おろそかにしてはいけません。」
と言っているのはイエスご自身の言葉であることです。イエスは、新約の時代でも「什一献金」をおろそかにしてはならないと警告しています。しかし什一献金は旧約の律法ゆえに、新約の私たちは守る必要がないと堂々と公言して憚らない聖書学者もいることにお気をつけ下さい。
結論から申し上げれば、聖書は什一献金をすることによって、クリスチャンは少なくとも経済的に神があなたの必要を常に充分に満たしてくれるばかりでなく「神はあふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐ」と約束されていることです。ハレルヤ!(終わり)