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Walk With God Ministries


30 12月

ニネベの断食      フランシス•フランジペイン             2019年12月30日


 

ニネベの断食

 

フランシスフランジペイン(Ministries of Francis Frangipane)

 

 

 断食には色々なタイプがあります。あなたがもし長期の断食をしたことがあるならば、それが人生を変革するような経験であることがおわかりでしょう。罪を示されたニネベの王は、その国の貴族や民衆と共に、食物と水を完全に断ちました。神は彼らの真摯な悔い改めを見て、ニネベを滅ぼされませんでした。ニネベの人々は、「断食を伴う祈りがどれほど神の心を動かすか」という見本となったのです。(ヨナ3、ルカ11:32)

断食はリバイバルを活気づけるパワフルな道具ともなりますが、又ただの宗教的な慣習に堕ちてしまい、何の霊的意味も持たなくなることもあります。パリサイ人は週に二回断食をしましたが、それは人々から見てもらうためでした。パリサイ人の断食は宗教的プライドであり、全く霊的価値のないものでした。

 

真の断食とは

 

断食の根本的目的は、私たちが霊的目的地に素早く到達するのを助けることにあり、断食が 「fast (早い)」と呼ばれるのはそれが理由なのです。イエスは「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。(マタイ5:6)」と言われました。私たちの飢え渇きは、自分や家族、教会、町、国家の上に義が満ちることを求める飢え乾きです。断食は私たちをその目的地に速く到着させるのです。

しかし私たちは、断食を「自分に課す刑罰」にしてしまってはなりません。断食は「肉体の苦行(コロサイ2:20−23)」ではないのです。断食は実のところ「恵みの賜物」なのであり、主と長時間交わることのできる機会なのです。普段なら食事をして肉体を養う時間を、自分の霊を養うために用いるのです。主ともっと親しくなり、御ことばを読み、暗記し、自分や人のために祈るのです。

 

イザヤ58章には、断食は又、神の愛を人々に示す時でもあると書かれています。

イザヤ58:6−7

「わたしの好む断食は、これではないか。

悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、

しいたげられた者たちを自由の身とし、

すべてのくびきを砕くことではないか。

飢えた者にはあなたのパンを分け与え、

家のない貧しい人々を家に入れ、

裸の人を見て、これに着せ、

あなたの肉親の世話をすることではないか。」

 

ですからあなたが断食をするときには、不遇な人や傷ついた人を助ける手段を考えてください。食事のための費用を貧しい人々の援助団体に寄付するのも一つの方法です。

 

ニネベの人々

 

ニネベの王に戻りましょう。彼は「人も、獣も、牛も、羊もみな、何も味わってはならない。草をはんだり、水を飲んだりしてはならない。(ヨナ3:7)」という布告を出し、国民に完全な断食をさせました。

イエスご自身も、ニネベの人々が神の前に真摯に悔い改めた結果起ったことを、「打ち破りの見本」として賞賛されています。

皆さん、今アメリカには打ち破りが必要とされています。そして祈りと断食なしには決して起らない打ち破りがあるのです。私たちもニネベの人々と共に立とうではありませんか。(終り)

 

 

訳者よりの付記         

 

今、打ち破りが必要なのはアメリカだけではありません。クリスチャンであれば誰でも、個人的に主に対する真の愛とその信仰の程が試される時がやってまいりました。そして日本が羊の国になるか、山羊の国になるかも、私たちクリスチャンの信仰に掛かっています。

新年には、主に示された時と方法により、日本とアメリカのために、ぜひ断食を伴うお祈りをしていただくことを切にお願い申し上げます。2020年良いお年をお迎えください。     坂  達也・柚実子


23 12月

権力より愛を選ばれた主 エディー L.ハイヤット            2019年12月23日


権力より愛を選ばれた主

 

エディー L.ハイヤット(Hyatt International Ministries)

 

 

「愛」と「権力」とは水と油のようなもので、混じりあうことはありません。有名な社会学者であるウイラード•ウオーラー氏は、愛と権力には逆相関があることを発見しました。個人的な人間関係において、「愛が増し加わると権力が減少し、権力が増し加わると愛が減少する」という事実に彼は気が付いたのです。

 

彼はこの驚くべき現象を表すために「principle of least interest 最小関心の原則」という言葉を作り出しました。それは即ち、「その関係に最も関心がなく最も気にかけない人が、最も強い権力を持つ」という原則です。

 

これは結婚に問題のある夫婦がカウンセリングを受けるときに明確に現れます。カウンセラーは二人と話すと「愛が少ないのはどちらの方か」をすぐに見分けられるのです。なぜならば、「愛が少ない方の人」は「権力の座」に座って様々な要求を出すからです。本当に愛している方の人は、権力を手放し、結婚を守るために進んで犠牲を払うのです。愛と権力とは、少なくともこの世では、共存しないようなのです。

 

神が人間への愛をこの世に現される時が来たときにご自分の権力を捨てられた理由は、ここにあるのです。パウロはピリピ2:6−7で、キリストが御父と共におられたときの力を捨て、仕える者の姿になったことを書いています。

 

ピリピ:6−7「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」

 

これが神の愛を現すためにこられた救い主が、家畜小屋で生まれ、最初のベッドは飼い葉おけだった理由なのです。そしてこれがキリストが裕福な貴族の家ではなく、貧しい家に生まれた理由です。(ヨセフとマリヤは羊を買う余裕がなかったので、羊の代わりに律法で許されている「山ばと一つがい、或は家ばとのひな二羽」を捧げました。レビ記12:8、ルカ2:22−24)

 

そしてそれは又、イエスがエルサレムやローマのような権力の中心地から遠く離れた小さく名もないナザレで育ったことも説明しています。イエスがヘロデの王座やピラトの権威、或は大祭司の地位に全く興味を示さなかったこともそれは説明しています。イエスは神の愛を現すために来られたのであり、権力を求めながら愛を示すことはできなかったのです。

 

ですからイエスが弟子たちに「権力を求めるのではなく仕える者となるように」と教えられたのは当然のことでした。例えば、ヤコブとヨハネがイエスのもとに来て、御国の2つの権威の座を願ったとき、イエスは彼らの権力への願望を叱責しました。(マタイ20:20−28、マルコ10:35−41)

 

権力は、人々に目に見える外面の行動を強要しコントロールしようとします。「愛」は人々の心にやさしく働きかけて内面を変えます。しかし、間違えないでください。この愛は決してめめしい感傷的な愛ではありません。か弱い自己中心的な愛でもありません。この愛は強靭な耐久力を必要とします。この愛は「相手にとって最高なこと」を望み、それを実現させるために「自分の願うことを自ら進んで犠牲にする」のです。この愛(ギリシャ語の新約聖書では「アガペ」です)の究極的な手本はイエス•キリストに見ることができます。

 

権力にまさる愛

 

この例を考えてみてください。ある父親が反抗的な息子に困り果て、何度も叱責し懲らしめていました。ある日、また懲らしめをしようと息子の前に立った父親は、深い悲しみと嘆きに圧倒され、そのまま息子の足もとに崩れ落ち激しく泣き始めてしまいました。息子は驚愕しそのまま無言で立っていました。しかし、その時から彼は変えられたのです。愛を表すシンプルな行動が、権力や強さを示す行動よりもっと効果的であることがあるのです。

 

旧約聖書では、神はご自分の力を現されました。神はシナイ山で雷鳴を轟かせ、海を分け、軍勢を滅ぼし、太陽や月を留めることさえなさいました。しかしながら、神の民はそれでも反抗し続けました。それはまだ神の愛を見ていなかったからです。

 

ここにクリスマスと十字架の意義があります。神がご自分の権力を捨て、人類に神の愛の深さを現してくださったのです。そしてイエスは弟子たちにも同じアガペの愛の中を歩むようにと召されたのです。

 

ヨハネ13:35−35でイエスは言われました。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し(アガペ)合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたががわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

 

教会と権力

 

教会は初めの200年の間、キリストの愛を世に現し、その影響を全世界に広めて大きな成果をおさめました。教会は大ローマ帝国を軍隊や剣を用いることなく征服したのです。

 

しかしながら、コンスタンチヌスが教会に権力を混ぜ入れ始めたのです。教会は国家の権力を使って宣教活動を広げ始め、それによって「愛」は逃げ去ってしまったのです。キリストの名において恐ろしい暴虐が行われ、中世の教会は権力を得ましたが影響力は失っていきました。

 

宗教改革は、教会が権力から離れてキリストの福音へと戻る運動でした。しかし、今日の教会には「権力、力」を追い求めている者がまだ沢山います。彼らはその点において、キリストよりもコンスタンチヌスにより近い者だと言えましょう。

 

クリスマスに私たちは、神がご自分の権力を捨てて地に来てくださり、人類への愛を現してくださったことをお祝いします。この愛は十字架において頂点に達しました。なぜならばローマの十字架上にかけられている人の姿ほど弱さを表すものはないからです。

 

私たち教会に「クリスマス」が問いかけるチャレンジはこれです。私たちは権力を捨てることにおいてキリストの手本に見習っているでしょうか? 純粋な愛で歩んでいるでしょうか? それとも、コンスタンチヌスのように愛に権力を混ぜ合わせているでしょうか?

 

ピリピ2:5−8でパウロは、私たちがどのような態度や道を取るべきかをはっきりと述べています。

 

あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリストイエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまでも従われたのです。」

 

正義は必ずなされる

 

愛は私たちを無抵抗で傷つけられやすくするので、人から利用され傷つけられるのを恐れて「愛によって歩きたくない」という誘惑が来るときが私たちにはあります。そのような時、「正義」は愛には欠くことのできない本質的な要素であることを忘れてはなりません。神は正義の神であり、誰もそれを避けることはできません。

 

ですから、主が再びこられる時、主の権威、力は全面的に現されるのです。次は主は家畜小屋の赤児としてではなく、宇宙の力ある主権者として来られるのです。主の愛を拒んだ者たちにとって、それはうれしいことではありません。ヨハネは人々が山や岩に向かって「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。(黙示録6:16)」という姿を見たのです。

 

テサロニケの教会が激しい迫害の中にいたとき、「だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うように務めなさい。(1テサロニケ5:15)」とパウロは励ましました。

しかし彼は同じテサロニケのクリスチャンに次のようにも言っているのです。

「苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いを従えて天から現れるときに起こります。そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。(2テサロニケ1:7−9)」

 

クリスマスにあたり、私たちは全能の神に仕えている者として権力を追い求める必要がないことを忘れないでください。そうではなく、互いに愛を示し、今日神の愛を受け、来るべき神の怒りを受けることのないようにしてください。

(終り)


16 12月

マリヤのようになる (その2) マイク•ビクル             2019年12月16日


マリヤのようになる (その2)

 

マイクビクルIHOP Kansas)

 

 

 博士たちが帰ったすぐ後、天使が夢でヨセフにヘロデによるイエス殺害の企みを知らせ、エジプトに逃げるようにと警告しました。想像してみてください。若いマリヤは妊娠中、親戚や友人たちから恥を受け汚名をきせられました。

そして今度は、王が自分の幼子を殺すというので、外国の地へと逃げねばならなかったのです。これが神に祝福され厚意を受けていることなのでしょうか?

 

神のすばらしい約束を心から受け取り、神が示される通りの道を歩いていても、時としてこのように全く予期せぬ困難に出会うことがあるのです。

この後、マリヤの人生は更に困難になっていきます。

 

ヨセフはイエスが12歳のときにはまだ存命でしたが、その後何年かして亡くなり、マリヤは寡婦となりました。マタイ13:55−56によると、イエスには4人の弟と数人の妹がおりました。夫を失った女性が7、8人の子どもたちをどのようにして養ったのでしょうか?

夫を失くした痛みと悲しみに加えて、マリヤはたくさんの子どもを抱えた寡婦として大きなプレッシャーに耐えねばなりませんでした。

 

イエスが30歳になったとき、彼は6週間大工仕事を休んで荒野で断食と祈りをしました。そして聖霊の油注ぎを受けて家に帰りましたが、イエスが育ち愛した町の人々は彼を退けました。

イエスは最も信頼に足る若者であり、評判もすばらしくよかったのです。しかしユダヤ会堂の長老たちは、イエスの「自分はイザヤが預言したその者である」という言葉に激怒しました。怒りのあまりイエスを崖から突き落とし殺そうとしたこともあったのです。(ルカ4:29)

 

マリヤは息子が町の長老たちにひどい取り扱いを受けるのを見なければなりませんでした。その後もイエスがミニストリーをしていた間、マリヤは信仰により自分の心を神の約束に合わせ一致させる必要があったのです。ガブリエルは「イエスは偉大な者となる」とマリヤに言いました。ですからどうして町の長老たちがこれほどまでイエスに反対するのかと、マリヤは訝しく思い悩んだのではないでしょうか。

イエスがミニストリーを始めらてからも主の兄弟たちは主を信じませんでした。(ヨハネ7:5)ということは、マリヤがイスラエルの神を敬うように育てた子どもたちは、若者になってからも「イエスを信じなかった」のです。イエスのミニストリーの期間中、マリヤは自分の子どもたちの霊的状態に苦慮していたに違いありません。親しい友人や家族の中にもイエスの言動を見て「彼は気が狂ったのだ」と思っていた者たちがいました。(マルコ3:21)

 

ユダヤ教の最高指導者たちは、イエスは悪霊に憑かれていて人々を惑わす危険なカルトのリーダーだと結論づけました。(ヨハネ7:47、8:48)彼らはマリヤがイエスをみごもった時の「不品行の噂」で、主と主のミニストリーの信用を傷つけようとしました。(ヨハネ8:41)

 

端的に言えば、イエスの生涯とミニストリーはガブリエルが約束したような「偉大なもの」とは全く見えなかったのです。多くの点で、それはまるで正反対に見えました。マリヤは「神の約束を信じ神の正しい導きを信頼する」ことを、くり返し何度も決意し直す必要があったのです。

数年後に、マリヤは息子がイスラエルから拒絶され十字架で死ぬのを見ていました。ユダヤ教の指導者たちの企みで、群衆はイエスではなくバラバのいのちを求めました。三年半のイエスのミニストリーは何も実を結ばなかったように見えたのです。

イエスは何千人もの人を癒しましたが、復活後に主を信じて祈りの場に集まって来たのは120人だけでした。(使徒行伝1:15)マリヤは神の召しに従い神の導きを信頼して人生を送りましたが、人々からの誤解や予期せぬ苦しみを耐え忍ばねばなりませんでした。

そして息子の地上でのミニストリーは終了しましたが、息子は王として称えられるのではなく、国から拒絶されたのです。

神の約束はなかなかやって来ず、そればかりか成就するのは不可能にさえ思えました。しかしマリヤは初めから神を信頼していましたし、この時も恵みによって神を信頼し耐えることができたのです。

マリヤは約束の成就の全貌を見ることなく死にました。彼女はガブリエルを通して与えられた神の言葉により、聖霊によってみごもり、神の御子をこの世に誕生させました。

しかし、ガブリエルはマリヤに「息子は偉大な者となり永遠に治める」とも言ったのです。イエスが地上にいる間、多くの者からさげすまれ、兄弟や故郷の人々、そして国の政治家や宗教の指導者たちから拒絶されました。イエスは罪人に救いをもたらすために苦しみ死なれたのです。

 

イエスに対する約束の完全な成就を私たちもまだ見ることができません。しかしすべての人が、「主は愛と力と恵みとに満ちた偉大な方である」とわかる日がやってきます。マリヤは初代教会のリバイバルにその栄光をほんの少し垣間みたかもしれませんが、それが完全に成就するのは将来のことです。

 

マリヤのこころ

 

マリヤの人生は、神の導きに対する心の正しい応答の形そのものです。完全に理解できない時でも、彼女は神の導きを信頼し続けました。すべてを失うかもしれないような時にさえ、マリヤは「あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と言ったのです。(ルカ1:38)

 

このようにマリヤが神を信頼し進んで神に用いられ、神を喜びとしたことは一度だけではありませんでした。それは彼女の一生を通しての生き方そのものだったのです。彼女は困難に出会う度に何度も又自らを捧げ直したのです。彼女は神を信頼し、自分の心を神の言葉と合わせ一致させていったのです。

 

状況が厳しくなった時にもあきらめることなく、神の恵みによって耐え抜いたのです。

私たちはあまりにもしばしば、自分の祈りが直ぐに聞かれないと、「神は本当に約束を果たしてくださるのだろうか?」と疑い、信仰をなくしてしまったり、或は、「自分の祈りがあまりに弱くて効果がないのだろう」と結論づけてしまいます。

しかし、私たちの祈りは確かに「人間の弱い祈り」ですが、それはイエスの血潮の力によって充分に効果があるものであり、神の御こころと一致した祈りなので、神のもとに届いていくのです。

自分の祈りが弱くて効果的でないと感じてしまうとき、私たちはどのようにしてマリヤのような信仰を持つことができるのでしょうか? 祈りの効果は、目に見える祈りの結果や、祈った時の感情的高揚の有無で測るのではなく、神が御ことばの中で何と言っておられるかで測らねばなりません。

イエスは「誰でも願い続けるならば受け取る、誰でも探し続けるならば見つける」と宣言しておられます。(マタイ7:7−8)

私たちのすべての祈りは聞かれています。私たちが祈りを捧げたときに何も感じなくてもです。祈ったときにどういう感じがしたとかではなく、その祈りがどれほど神の御こころと御ことばとに一致しているかで判断してください。愛する皆さん、私たちのか弱い祈りは、自分を感動させはしないかもしれませんが、神の心は動かすのです。

 

使徒ヨハネは私たちが祈ったときの感じ方に関係なく、「祈りは聞かれている」と確信してもよいと強調しています。第一ヨハネ5:14で彼は「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」と言っています。

 

神は私たちの日毎の行動を、私たちが肉の思いで評価するのとは全く違う方法で評価されます。キリストにある私たちの人生の豊かな栄光は、私たち自身の目や今の時代の人々の目からは隠されているのです。しかし神の栄光やマリヤへの約束の成就は、イエスが再臨される時に共にすべてはっきりと表されます。

 

コロサイ3:3−4には「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。」と書かれています。

ここで難しいのは、往々にして、私たちが自分の人生の中に神の栄光を見ることができないことです。神の栄光は、私たちの感情や五感からは隠されているので、私たちはそれを感じたり認めたりできないのです。私たちは自分の人生を、小さくてか弱く、退屈でつまらないものとして見てしまうのですが、イエスは栄光の富というレンズを通して私たちの人生を見てくださるのです。

 

主は私たちには見えないものを見られます。私たちの祈りに関してもそうです。私たちの多くの「小さな従順な行動(祈りも含む)」は神の目には栄光に富んでいるのです。自分の「か弱い祈りの価値」を理解することによって、私たちは自分の祈りを「意味があり適切で力があるもの」として見る力が与えられます。肉の目では弱いものに見えるかもしれませんが、神のみこころに沿ったすべての祈りは、神にとっては大切であり重要であることを私たちは信仰で確信しなければなりません。

神がマリヤを導き用いられた方法は、神の完全なリーダーシップを表しています。神の約束の成就はしばしば遅延し、苦難の中で一歩づつ徐々にゆっくり実現していきます。そのゆっくりしたプロセスの中で、私たちは主にしがみつき、愛と信仰とへりくだりにおいて成長させられていくのです。

 

主のパートナーとなることの大切さ

 

たとえ歴史を変えるような事のために神に用いられたとしても、その人が愛において成長するとは限りません。神はマリヤを召し彼女がもっと偉大な愛に成長するための旅路につかせたのです。

神は敵意に満ちた世の中でご自分の御こころと目的を明らかにされ、敵を用いて神の民(私たち)が愛とへりくだりを学び、神とのパートナーシップにおいて成熟していくようにされたのです。神は、どのような事があっても常にあきらめることなく「はい」と応答し信頼する者たちとパートナーになることを望んでおられます。

 

マリヤのように私たちも神の約束に同意し一致し、困難な状況にあっても神の導きを信頼する必要があります。たとえ遅延や不幸な出来事がおきたときでも神の約束は真実です。主はそれらを私たちの益になるように用いられるのです。(ローマ8:28)

私たち達が約束をしっかり握りしめて困難な中でも神を信頼して喜ぶことを選びとるならば、神は恵みを与えてくださり、喜びをもって忍耐し、愛に成長する力を与えてくださいます。私たちが主の召しに喜んで応答するならば、神はそれに答えてありあまるほどの恵みを与えてくださるのです。(終り)


09 12月

マリヤのようになる (その1) マイク•ビクル(IHOP Kansas) 2019年12月9日


マリヤのようになる (その1)

 

マイクビクル(IHOP Kansas)

 

 

 クリスマスの物語は、御父がある女性を用いてどのようにご自分の息子を地上にもたらしたかを証しする驚くべき物語です。それは栄光に満ちており、御父がどのように私たちを導かれるのか、そして私たちがその導きにどのように応答すればよいのかを明確に示しています。

 

天使ガブリエルがマリアに「あなたはみもごって、救い主を産む」と告げたとき、マリアは主の導きを信頼して「はい」と答えました。神はこのような信頼した心からの応答をご自分の民の中に探し求めておられるのです。

 

クリスマスの物語を読むとき、私たちはただマリヤの決断の気高さを賞賛するだけであってはなりません。実にマリヤの人生は、私たちが一生を通して神の導きに正しく応答するように励ましてくれるお手本であり、それは困難な状況において特にそうなのです。

御使いのガブリエルは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」(ルカ1:28)

 

ガブリエルがあなたに現れて、「あなたの人生はこのようにすばらしくなります」と宣言することを想像できますか? 神から特別の厚意を受けるということは、すばらしくすべてが祝福された人生を送るのだ、とあなたは思うのではないでしょうか。しかしながら、マリアが受けた栄光ある神の約束は、予期しなかった多くの苦しみを通りながり次第に解き明かされて行くのです。

 

マリアは一生のあいだ、ガブリエルの力強い言葉を忘れないで、神からの約束をしっかり心の中に持ち続けていなければなりませんでした。

 

マリヤに挨拶したあとガブリエルは、彼女が聖霊によってみごもり男の子、イエス、を産むと告げ、その子はすぐれた者となりいと高き方の子と呼ばれると言いました。

そしてイエスは、ダビデの王位を与えられ、永遠の治めるであろうと告げました。ガブリエルはイザヤが何百年も前に預言したことを伝えたのです。

 

イザヤ9:6 「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」

マリヤはこの聖書の預言をよく知っていました。そして今ガブリエルが、まさに彼女こそがその救い主を産む者だと告げたのです。その時マリヤは恐れや疑いによって尻込みするのではなく、神がされると言われた栄光の約束に心から進んで応答したのです。彼女は神を信じたのです。

 

ガブリエルが最初にマリヤに言った「おめでとう Rejoice(喜びなさい)」という言葉は、実際に役立つ励ましの言葉であり、神の約束を常に心に抱いて人生を送る中で彼女がいつも心がけたことでした。それはこれから起ころうとすることに「一度だけ大喜びしなさい」というのではありません。

マリヤは、これから経験する多くの困難や人々受ける誤解の中で、自分の人生を必ず主が正しく導いてくださっていることを「常に喜び、常に信頼せよ」という命令をしっかりと握りしめている必要があったのです。困難の中でも神の約束を喜ぶことを選び取ることによって、マリヤの心は常に神の心と一つになり、それによって忍耐力を与えられ、信仰が成長していったのです。

 

厚意と逆境

 

神の厚意のもとにある人生とはどのようなものでしょうか?マリヤが思いもよらなかった様々な苦労を何十年にも渡って耐え忍んだことを私たちは見落としがちです。ガブリエルが言ったように、マリヤは聖霊によってみごもりました。神が共におられましたが、彼女はその時大変な恥辱を負うことになったのです。

 

ガブリエルの訪れの後、マリヤはユダヤから南に100マイル離れた村まで旅をし、そこでエリサべツと3ヶ月暮しました。そしてナザレの家に戻ったときには、彼女が妊娠していることは人々にわかったことでしょう。彼女はすでにヨセフと婚約をしていたのですから、これは大問題でした。

 

当時は、婚約を破棄するためには正式な離婚手続きが必要でした。もしマリヤが他の男と一緒であったのならば、石打ちの刑になるのが法律で決められていました。彼女は神によってみごもったと言いましたが、人々にはマリヤはひどく厚顔な嘘つきか、もしくは妄想家であると見えたに違いありません。

 

マリヤの婚約者であったヨセフは、非常に悩みました。うわさは近所に広まりました。30年以上経った時でさえ、マリヤの不品行のうわさはまだエルサレムでされていたのです。(ヨハネ8:41)

神が介入されマリヤの言葉は真実であると分かるまでは、ヨセフはマリヤとの関係を解消しようと考えていました。主はマリヤを非常に劇的な方法で用いられましたが、マリヤは自分が最も愛する人たちから恥辱と誤解を受けたのです。それのすべての経験を通して、マリヤの心は愛と信仰とへりくだりにおいて成長していったのです。

私たちが愛と信仰とへりくだりにおいて成長するのは、思いがない困難や神の約束の成就の思いがけない遅延を経験するときにも、神を信頼することをくり返し選び取ることによってなのです。

私たちが怖じ惑って肉で行動してしまいそうになるとき、立ち止まって「神よ、私はあなたの導きを信頼します。」と言うならば、私たちは自分の心を神の心と約束に一致させているのです。神の約束を信じて、困難な中でも信仰と感謝をもって応答するならば、私たちはマリヤと同じように喜ぶことができるのです。

 

このように自分の心を何千回も一致させるプロセスを通して、私たちは、愛と信仰とへりくだりにおいて少しずつ成長して行くのです。マリヤは人生の中でこのプロセスをくり返し行い、それによって主への愛に成熟し、主の正しい導きに対する確信に成熟して行ったのです。

マリヤはお産が間近になった時、人口調査のためにヨセフと共にベツレヘムへの辛い長旅に出掛けなければなりませんでした。そしてベツレヘムに着いたとき、彼女は産気づきましたが、宿がありませんでした。

彼女は汚い家畜小屋の中で出産のために苦しみ、生まれたばかりの愛する子を寝かせるには飼い葉おけしかありませんでした。天使ガブリエルは「神の厚意、祝福があなたに注がれている、その子は永遠に治める者となる」と告げたのですから、出産の時の環境はもう少し良くてもいいのではないかと、私ならば思ったことでしょう。

マリヤはすばらしい神の約束をガブリエルを通して与えられたあと、何ヶ月もひどい恥ずかしめを受けながらすごし、今はお産に適した場所も赤ちゃんを世話する場所も与えられなかったのです。

 

このようにマリヤは苦難を通らされましたが、イエスの誕生に際してはいくつかの超自然的な出来事が起こりました。イエスが生まれて間もなく、羊飼いたちが飼い葉おけの中の赤ちゃんを見るために興奮してやってきました。

それは天使が救い主が生まれて飼い葉おけの中に寝ていると彼らに告げたからです。彼らは天使の軍勢がマリヤの子の誕生を祝い神を称えているのを見たと、マリヤに告げました。

マリヤとヨセフがイエスを神にささげるためにエルサレムに行ったとき、シメオンとアンナがイエスの栄光ある身分を預言的に証言しました。その後、東方の博士たちはイエスを礼拝するために贈り物を携えてやってきました。

 

マリヤはガブリエルの訪問を受けてからずっと多くの患難に耐えてきたのですが、これら超自然的な出来事によてイエスに関する約束を確認することができ、神が本当に自分と共におられるのだという励ましを受けることができました。

 

これらのすばらしい主の約束を確認できる出来事があってからの人生は少しは楽になるかと、マリヤは期待したかもしれません。しかし確かに神はマリヤの人生に力強く働かれていましたが、それ以後も多くの困難や失望、忍耐させられることを彼女は経験せねばなりませんでした。(続く)


03 12月

プレイズとワーシップの違い スコット•フィリップス 2019年12月3日


プレイズとワーシップの違い

 

スコットフィリップス

 

 

 プレイズ(賛美)とワーシップ(礼拝)には大きな違いがあることを理解することは大変重要です。まずプレイズについて次の3つの事を理解することが大切です。

 

プレイズは自然なもの

 

聖書が多くの箇所で明確に語っていることですが、自然界のものはすべて、唯一まことの神を生き生きと賛美しています。

 

詩篇96:11−12「天は喜び、地は、こおどりし、海とそれに満ちているものは、鳴りとどろけ。野とその中にあるものはみな、喜び勇め。そのとき、森の木々もみな、主の御前で、喜び歌おう。」

 

すべての被造物は、創造主への絶え間ない賛美に参加しています。バラの花、草の上の露、或はふくろうの鳴き声や牛のモーという声など、すべての自然界は創造主を賛美していると言ってもよいでしょう。朝小鳥がさえずる声や夕方のコロロギの鳴き声の中にはメロディーもあります。これらはすべて神によって創造されたものたちの賛美の合唱の中で歌っているのです。

 

プレイズはすべての者がすること

 

エルサレムに入城されるイエスを群衆は喜んでむかえ賛美しました。主は、彼らをしずめるようにと言われた時、「もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」と言われました。これは賛美が止む事はないことを語っています。天の軍勢も自然界もすべてが賛美しているのです。

 

聖書は「すべてのものはひざをかがめ、すべての口が『イエスは主である』と告白する!」(ピリピ2:10−11)と言っています。今主を賛美するか、それとも後になってから賛美するかのどちらかですが、いずれにせよ、あなたは必ずイエスを賛美するのです。

 

プレイズするのに才能は不要

 

賛美は自然で誰もがするべきものですから、賛美をするためには何の才能も徳も必要ではないことがわかります。賛美をする理由は数えきれないほどあります。健康や富や知恵を与えられていることで私たちは神を賛美します。又、家族や家や必要な物を与えられていること、或は癒し、いつも守られていることに関して神を賛美します。これらは主がしてくださったことを感謝する賛美です。

 

ワーシップとは何か

 

それでは次にワーシップについて考えてみましょう。誰でもすべての人は、意識的に、或は無意識に神をワーシップしています。しかし実のところワーシップは、気弱な人のものではありません。それはプレイズとは全く異なるものです。聖書で最初にこの言葉が用いられたのは次の箇所ですが、「言葉はそれが聖書の中で最初に用いられたときの状況がその意味を最もよく表しているという法則(the Law of First Reference)」によるならば、私たちはここからワーシップの意味を深く知ることができると思います。

 

創世記22:1

 

これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出掛けて行った。三日目にアブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたはろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝(worship)をして、あなたがたのところに戻ってくる。」と言った。

 

ワーシップは決して一面的なことではなく、多くの要素を持ち、多くの事柄を網羅していることを理解することが大切です。

 

 

真のワーシップの3つの面

 

1.真のワーシップは「降服   Surrender」する行為

 

アブラハムは、自分の希望、信仰、夢をすべて神の御こころと御手に委ね、降服することを決意して旅に出ました。

 

2.真のワーシップは「服従 Obedience」の行為

 

アブラハムは神から命令を受けたとき、何一つ疑いや不平なしに、それを果たすための作業に取り掛かりました。これは私たちには簡単なことではないかもしれません。多分ぶつぶつと不平を言うかもしれません。しかし、私たちが絶対的な服従という境地に到達するならば、その時こそ私たちは「ワーシップの領域」へと入っていけるのです。

 

3.真のワーシップは「いけにえ Sacrifice」の行為

いけにえはワーシップを完全なものにするための鍵となる要素です。いけにえのないワーシップはワーシップではありません。

 

ワーシップに必要なもの

 

アブラハムは旅に出るとき、3つのものを持っていきました。真のワーシップをなすためには、私たちは正しい材料を用意し携えて行かねばなりません。

 

1.薪

すでに死んでいるもの、火がつきやすいもの、燃えてしまうもの。即ち、いろいろな問題や疑いなどであり、すでに死んでいるもののことです。誰でもそのような薪をもっています。もしあなたが神のために生きているならば、火を燃やすに充分なたきぎを集めることができるはずです。

 

2.火

 

熱いもの、光があるもの、すでに死んだものと死ぬべきなのにまだ生きているものを焼き尽くすもの。火はそれに触れるのものすべての分子構造を変えます。あなたが薪に火を近づけると、死んだものを燃やすと共にその中でまだ生きているものを取扱い燃え尽くす環境を作りだすことができます。

 

3.刀

 

ワーシップが本当に始るのはここからです。誰でも火はおこせますが、いけにえのないワーシップはただの野外料理です。私たちがすべてのものを捧げて祭壇に置くならば、その時、神が私たちの人生にもっと豊かにかかわってくださるのです。

 

「すでに死んだもの」を整え並べたならば、あなたは火を燃やし始めることができます。そしてそれは同時に神が捧げることを要求された「まだ生きているもの」の上に刀を振り上げる時なのです。あなたが賛美を超えて神の臨在の中に喜んで入りワーシップするとき、神はあなたに約束だけではなく確約をくださるのです。あなたが賛美の歌を歌うだけではなく、もっと奥深く神の臨在へと入って行く事を心から願うとき、あなたは想像をこえた神の祝福を受け取るのです。

 

ワーシップは人類に与えられた究極の光栄な特権です。御父が求められるのはまことのワーシップであり、そこは天使さえも入りたいと願う領域なのです。しかしそこはあなただけが占めることができる領域です。あなたには他の誰にも歌えない歌があるのです。あなたには他の誰にもない捧げものがあるのです。あなたは他の誰にも輝かすことのできない光を持っているのです。

 

肉のヴェールを超えるとき、聖霊の富と栄光があなたを待っています。(終り)