WWGM

Walk With God Ministries


30 12月

新年への抱負ーー 「結束」と「揺り動かし」の2019年 リック・ジョイナー (最後に坂 達也の付記を含む)  2018年12月30日


新年への抱負ーー 「結束」と「揺り動かし」の2019年

 

リック・ジョイナー (最後に坂 達也の付記を含む

 

 2018年は注目に値する素晴らしい年でしたが、2019年はそれ以上の年となるでしょう。これからは年ごとに更に素晴らしくなって行きますが、特に2019年には、大規模な霊のムーブメントの鍵となる要素が多く集約されてきます。そしてそれによって2020年には、原子爆弾のような霊的大爆発が起こり始めます。ではそのために集約されてくるいろいろな要素とはなんでしょうか?

まず第一に、主との交わりがますます深まり、主と一つに結び合わされてくることです。多くの人が主との関係において、今まで以上に麗しい交わりの時を経験し始めています。主を求める者たちは、ますますこのような素晴らしい主との交わりを経験していくでしょう。

また、個人同士や、いろいろなミニストリー、ムーブメント間の一致や協力が増し加わってくるでしょう。聖書には「ふたりはひとりよりまさっている。」「三つ撚りの糸は簡単には切れない。」と書かれています。ですから、二人また三人が同じ目的で一致するならば、その力も成果も何倍にもなるのです。

それは、これからの10年間で教会の働きが 一世紀の教会 を越えるようになる兆しとなります。このようなことが霊において起き始めると、目に見える部分では様々な問題や分裂も増えてくるでしょう。これに関して私はヘブル12:25−29が与えられました。

ヘブル12:25-29「語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。

 あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。『わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。』

 この『もう一度』ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。私たちの神は焼き尽くす火です。」

すべてのことにおいて主に従うことは、一つの選択肢であるとか、してもしなくてもいいというようなものでは最早ありません。主の御言葉や、人生における主の導きをおろそかにすることへの代償はますます大きくなっていきます。それはヘブル12章の初めの部分に強調されている通り、神が私たちを愛しておられるからです。主の御声に従わないことが、破滅的、あるいは死に至るような時代を迎える前に、主はご自分の民を整える必要があるのです。ですから主の訓戒と処罰の素早さと度合いは増し加わっていきます。しかしそれと同じように、主に従ったときの実も増し加わります。

 

国家、文化、宗教、経済の内部の断層はますます不安定になり、世界中でずれや揺れが増加します。安定していて堅実だと思われていたところに大きな揺さぶりが起ります。時のしるしを見て私たちがするべきことは、揺れ動くものから離れて、揺り動くことのない御国のために生きる決意をすることです。「岩なる主」の上に人生を築くならば、どのような世の嵐もそれを破壊することはできません。岩なる主の上に人生を築いた人は、揺れ動くこの世の流砂の中から多くの者を救い出します。

愛と献身を主に第一に捧げる事と、人生上の大きな決断のときに神の国を第一とすることは、岩なる主の上に人生を築くための最も重要な原則です。この原則に従う者はどのような時代においても恐れることなく、義、平安、喜びという御国の本質へと成長していきます。

今私たちは、終末の「収穫」の時に入ろうとしています。歴史上最大の神のムーブメントが起ころうとしているのです。御国への最大の刈り入れが始まりました。

このような収穫はかつて起こったこともなく、これからも起こることはないのです。それは古の義人や天使たちさえも見たいと望んだことですが、今私たちはそのただ中に生かされているのです。

今人々の上には深い闇が広がっています。しかしその闇の故に光がもっと明るく輝くのです。イスラエルの最悪の背教の時代に偉大な預言者たちが出現したように、今世界中に偉大なる勇士たちが起こされ、御国到来の良き知らせを説き広めようとしています。そして、国々は「光」のもとに来るのです。(イザヤ60:1−5参照)最後には光が勝利すること、最後には真理が打勝つこと、そして私たちも主の光と主の真理の中を歩むならば必ず勝利者となることを、絶対に忘れないでください。(以上でジョイナー師のメッセージ終る)

 

 

 私(坂 達也)は上記のメッセージを読んで、主より今朝、次の二つの御言葉が与えられました。

 

1ペテロ4:7ー14「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。不平を言わずにもてなし合いなさい。あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」【新共同訳】

 

ヤコブ書5:7−8 兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。」(新共同訳)

 

 上記の御言葉は「万物の終わりが迫っているー主が来られる時が迫っている」今の時に最も必要な主からの警告です。それは

 (1)思慮深くふるまい、よく祈ること

 (2)火のような試練が来る、しかし、それはキリストの苦しみにあずかることーそれをこの上ない喜びと思いなさい!ーヤコブ書1:2のテーマ(終り)


24 12月

Merry Christmas イエスさまのお誕生日を心よりお祝い申し上げます            WWGM 坂 達也  柚実子


Merry   Christmas 
イエスさまのお誕生日を心よりお祝い申し上げます
           WWGM       坂 達也  柚実子
   クリスマスといえば「光の祭典」と言えないでしょうか。特にアメリカでは、都会でも田舎でも、飾り付けたクリスマス・ツリーをはじめとして、家の前庭とか屋根・窓の輪郭を電球と種々の飾り物で美しく飾り、夜でもその飾り付けで辺り一面がこうこうと光り輝いている今は、一年を通して街が最も美しく輝いているシーズンです。
 イエスさまがお生まれになったときは、色々な超自然の奇跡が起きましたね。イエスご誕生のストーリーを聖書で何度読んでも、その奇跡の情景に圧倒されます。中でも預言者イザヤはやみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」(イザヤ9:と言い、イエスを「大きな光」と称しました。イエスはご自身が創造者として、被造物を肉の光を必要とするものとして造られただけでなく、霊的な光をも必要とするように造られたと信じます。特に創造主として主イエスは、この目に見える全宇宙とその中に住む生き物を人間のために造られたのですが、その人間こそ最も霊の光を必要とします。また、イエスご自身も「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」ヨハネ 8:12)と言われましたが、まさにイエス・キリストとはすべての人を照らすそのまことの光」(ヨハネ 1:9)としてお生まれになったのです。すなわち、神は真の霊の光が輝く光そのものです。ですから聖書には「神の栄光 glory of God」と言う言葉が数多く出て来ます。それと同時に、その神の輝く光を「見よ behold、 see 」という意味の言葉が旧・新約聖書を通じて、それこそ数えられない程、何千という回数使われています。これを知っただけでも、人間が光を見上げること、しかも「心の目がはっきり見えるようになる」(エペソ1:18)ことがいかに大切であるかがわかります。
 その良い例の一つが2コリント3:18です。そこにはわたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すようにつつ (beholding 栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは(聖)なる主の働きによるのである。」【口語訳】と書かれています。ここで書かれている「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」の「変えられる」とは英語のトランスフォーム「変革される」という意味です。そして後に続く2コリント4:6では「『光が、やみの中から輝き出よ。』と言われた神は、私たちの(暗い)心を照らし、キリストの御顔にある(輝く)神の栄光を知る知識を輝かせて(与えて)くださったのです。」とあります。
 ここで私は、ルカ9:28で「・・イエスはペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために、山に登られた。祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。」と書かれているのを思い出します。いわゆる山上の変貌と言われるところです。イエスが祈られるとイエスの御顔が変わり、ものすごく輝き出しました。ここでの「変わる」という言葉は英語ではトランスフィギュアですが、原語では3:18のトランスフォームと同じmetamorphoo ですから同じ意味です。これは何を意味しているのでしょうか。
 そこでもう一つ思い出していただきたいことがあります。それは罪を犯す前のアダムとエバは裸であったにも関わらず、その身体は光り輝く光の衣を着ていたのが、罪を犯すと同時に彼らが裸であることに気が付いて神から隠れたことが創世記3:7−11に書かれています。ということは、山上で祈った時にイエスの御衣が光り輝き出したことと、罪を犯す前の裸のアダムとエバが着ていた「輝く光りの衣」と同じ状態であったことを、神は山上で祈るイエスの変貌(トランスフィギュア)を通して私たちに見せてくれたのであると思います。
 イエスは神でありながら、私たち人間と同じ人間としてこの世に生まれて来られ、人間として生きられ、しかも罪を犯さなかった。そして、私たちの罪を背負って十字架に付いて死なれ、甦って、永遠の命を持つ霊の身体に変わられるという模範を示されただけでなく、私たちがキリストを信じ、キリストと共に十字架につき、キリストと共に死に、キリスト共に蘇り、キリストと共に永遠の命で生きる、いや、キリストが私たちの中に生きていて、私たちは神の神殿であり、同時に私たちも天の神の右座にキリストと共に座して生きることを願っておられるのです。私たちはキリストのからだであり、一心同体となる花嫁です。
 ですから私たちが天を見上げて祈る時、キリストを心の目で見上げつつ、じっとキリストを見つめて時を過ごす時に、私たちはキリストの栄光から栄光へと変革され、私たちの内面がキリストに似た者へと変えられて行くのであると信じます。それはキリストが多くの時を父なる神を見上げ、見つめて時を過ごされたからであり、弟子たちは主にそのような父との親密な祈り方をどのようにすればよいのかを教えてもらいたいと願ったのです。
 ここで私は、私の著作「主を見つめて待つー霊に目覚め・神の声を聞く方法ー」で触れた「コンテンプレイテイブな祈り」の重要性 を改めて強調したいと思います。私は最近改めてこの祈りの必要なことを感じ、毎日実行していますが、この祈りによって私たちのうちにおられる聖霊の臨在をより身近に感じ、主と共に歩む助けとなっています。それと同時にこの祈りによって私たちの心・魂が栄光から栄光へと変えられ、私たちの内面が真にキリストに似た者に変えられることと共に、私たちが主からいただいたデステニーを正しく歩むための導きと力をいただけることへの確信を覚える次第です。
 最後に量子論と量子力学が、その基盤において、人間の見ることによって(科学者は観測と言いますが)、元来波長として流れる光子とか電子、その他の量子自体が個々に持つ「意識」に作用し、その量子の流れを見つめる人の心・思いに沿ってこの世のものに具体的に具象化、あるいは組み立てられ、造られて行くことが実験的に証明されていることは新年に改めてご紹介しさせていただきたいと思っておりますので、お祈りくだされば幸いです。
 それでは、どうぞ皆さま、新しい年に向かって主と、皆様方のグループ・ご家族と一層の親しいコイノニアの関係に入れますように、心からお祈りしております。(終り)

17 12月

破れない網 デイビッド・コレンダ           2018年12月17日


破れない網

 

デイビッド・コレンダChrist for All Nations)

 

 

次の二つの話は多くの点で非常に似ていますが、同じ出来事を記したものではなく、一つはイエスの地上でのミニストリーの始めに弟子を召されたときのことであり、もう一つはイエスが復活された後に起こったことです。

 

ルカ5:4−7

話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとりませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやってきて、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、ニそうとも沈みそうになった。

 

ヨハネ21:3

シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。しかし、他の弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。

 

両方の話には漁師が出てきます。彼らはプロの漁師でしたが、一晩中一匹も魚がとれませんでした。その時一人の人があらわれて、魚の取り方を教えたのです。彼らはそれに従いおびただしい魚が取れました。しかし、違いがあるのに目をとめてください。一つ目の話では「網が破れた」(訳者注:新改訳では「網が破れそうになった」とありますが、原語では「網が破れた」です)とありますが、2つ目の話では魚が大きな魚でいっぱいであったにもかかわらず「網は破れなかった」とあります。

 

今私たちは最大の収穫の時を迎えていると信じますが、私が一つ懸念していることがあります。大漁で網が一杯になることと、その魚をちゃんと捕まえることとは違うのです。多くの魂が救われても、実を成らせるものはどれほど残るでしょうか。私が神学校にいた時、教師から「あなたのミニストリーが失敗したときには、どうしますか?」と問われました。その教師は「すべての者は必ず失敗する」と想定していたようです。でも私は教師とは違う想定をしたいと思います。あなたは漁に行き、多くの魂を救い、あなたの網は一杯になるのです。しかし、その時、ある危機があなたを襲います。失敗した時ではなく、成功した時にこそ危機が来るのです。皆さんは今ミニストリーで苦労しているかもしれませんが、成功したならば、もっと大変なのです。あなたのミニストリーが人々に知られメディアから注目されるようになった時、又経済面でも多くの収入が得られるようになった時、危険がやってくるのです。私のミニストリーもその成功の重みに耐えられなくなってつぶれるのを私は経験しました。けれどもその経験によって多くのことを学ぶことができました。今の世代を神が回復し、収穫をもたらされるとき、私たちがつぶされない為にはどうすればよいかを私は学んだのです。

 

この二つの話には、3つの非常に重要な違いがあります。その違いこそ、一つ目の話では網が破れ、二つ目では破れなかった理由です。

 

1.舟の数

ルカ5:7には 「別の舟にいた仲間」とありますが、ヨハネ21:3ではペテロの「私は漁に行く。」という言葉を聞いて他の弟子たちは「私たちもいっしょに行きましょう。」と言い、一つの小舟に乗り込みました。一つ目の話では弟子たちは違う舟に別れて乗っていましたが、2つ目の話では、彼らは一つの舟に一緒に乗っていました。彼らにはユニティーがありました。ルカの「(網が)破れた」という言葉はギリシャ語ではスキゾーと言いますが、英語のスキズム(分裂)と同じ語源です。教会の分裂、家族の分裂、社会の分裂などはサタンの常とう手段です。分裂によってどんなよいものも壊されていくのです。神があなたを祝福し始めると、サタンはあなたの結婚、家族、親しい関係、教会やミニストリーの仲間に分裂をもたらすのです。嫉妬や内争、苦々しさほどミニストリーを壊すものはありません。そしてそれはまさに神がミニストリーを祝福し始めるときに起こるのです。

 

イエスはご自分の業を受け継ぐ人を求めておられました。それは一人で受け継ぐことは不可能です。主はそれを5つに分けられました。エペソ4:11には「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。」とあります。ですから一人でキリストの業を受け継ぐことは不可能であり、それぞれ五分の一、即ち20%を受けた者たちが集まって一致して働くことが絶対に必要なのです。これは主が立てられた素晴らしいプランです。それは「あなたは他の人々と一緒に働くべきだ。」というのではなく、あなたの賜物の召しを十分に達成するためには、あなたはどうしても他の人々を必要とするのです。

 

ご存知でしょうか。「牧師」と「伝道者」の間には、往々にして諍いが起こります。牧師は「伝道者は人が大勢集まればいいと言う。そしてベイビークリスチャンを沢山作って満足し、あとの面倒は全部牧師にさせる。」と言います。伝道者は「牧師は自分の小さな群れのことばかりに気を配り、教会の壁の中に閉じ籠っている。外の世界では多くの者が失われ地獄へと向かっているのに。」と言います。サタンは両者をこのようにして分裂させます。それは両者が一致して働くならば、サタンは自分がやられてしまうことを知っているからです。私たちが共に働き、各々の欠けているところを補い合うならば、素晴らしい神の業が表れるのです。

 

ここには(モーニングスター・ミニストリー)には預言的な人が多くおられますが、はっきり言って、彼らはちょっと変な人達です。(笑)彼らの口から出てくる言葉の半分も私には理解できません。私は全く違います。私は実践的で、現実的な人間です。ですからややもすると預言の賜物を軽蔑してしまいそうになります。でも私は預言者の預言が必要ですし、預言者も私のような者が必要なのです。又、預言者だけで教師がいないならば、大きな問題が起こります。エペソ4:7に「しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。」とありますが、これは非常に大切な言葉です。ここにある「恵み」という言葉は「超自然的な力」という意味です。各自に与えられている賜物を機能させる電池が恵みです。恵みがなければ賜物があっても 、それを働かせることはできません。

 

あなたが持っているのが20%だとすれば、どうすればよいのでしょうか。ピリピ1:7でパウロは「あなたがたはみな、私が投獄されているときも、福音を弁明して立証しているときも、私とともに恵みにあずかった人々であり、私は、そのようなあなたがたを、心に覚えているからです。」と言っています。ピリピの人々はパウロの恵みを共に受け取っていたのです。即ち、私たちはお互いの人生の恵みをお互いに分かち合い、お互いにあずかることが出来るというのです。20%受けた者たちが集り一致して働くとき、100%の業が出来るのです!そして「キリストの満ち満ちた身たけにまで達する(エペソ4:13)」のです。お互いに「私はあなたが必要です!」と言いましょう。

 

ある時私はペットショップに水槽を見に行きました。タツノオトシゴやクラゲ等がおりましたが、一つの水槽には蟹が沢山入っていました。それには蓋がついていなかったので、私は店の人に「蓋がないと蟹が逃げるのではありませんか?」と訊くと、彼は「大丈夫ですよ。一匹の蟹が上に上ろうとすると、他の蟹が必ずそれを引きずり下ろしますから。」と言いました。私は「蟹はなんと私の知っているクリスチャンに似ているのだろう。」と思いました。(笑)

 

私たちは自分よりもっと祝福されている人がいるのが好きではありません。自分より繁栄している人がいるのが嫌です。自分の教会より大きくなっている教会があるのを好みません。ですから神が水槽の底から誰かを引き上げると、「キリストのからだ」はその人を引きずり下ろすのが使命だと感じるのです。

 

エペソ5:14−17に書かれている神の武具はすべて前方の敵に対するものです。ですから敵が後ろから攻撃したら、防げないのです。私は主にそのことを訊ねると、主は次の18節を示してくださいました。「すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」とあります。つまり私たちはお互いの後ろを守る武具となるのです。あなたは兄弟姉妹の後ろの武具なのです。神はキリストのからだがそのように機能するようにデザインされたのであり、各自が一人で戦うようには意図されてはないのです。一人で戦うならばやられてしまいます。けれども残念なことに兄弟姉妹同士が背中を突き刺すことが何と多いことでしょう。

 

ヨハネの福音者を書いた使徒ヨハネは21章でペテロの名は20回ほど書いていますが、自分のことは「主に愛された弟子」と言っています。ヨハネにとって「主に愛されている」ことを知っていれば、自分が何者であるかを人に宣伝する必要もなく、他に何もいらなかったのです。教会が必要としているのはイエスの愛の啓示です。イエスがあなたをどれほど愛しておられるかを知るならば、私たちはパーフォーマンスをする必要もなく、他と較べたり競い合うこともないのです。

 

2.絶対服従かどうか

 

ルカ5:4「深みに漕ぎ出して、網(原語は複数 nets)をおろして魚をとりなさい。」

 

ヨハネ21:6「舟の右側に網(原語は単数 net)をおろしなさい。そうすれば、とれます。」

 

一方はnetsと複数であり、もう一方はnetと単数になっています。ルカ伝でイエスは複数の網をおろせと言われましたが、彼らは一つの網しかおろしませんでした。彼らはイエスのお言葉に半分しか従わなかったのです。

 

私はある時 ロンドンで「伝道者としてあなたがボンケ師から習った一番大切なことは何ですか。」と訊かれました。

私の答えは「ボンケ師は神の言葉に100%服従した。」ということです。徹底的服従です。ボンケ師はこう言いました。「神が私に何かを命じられならば、私は跳び上がって即座に従います。私が従うかどうかを神はじっと見ておられるのを私は感じるからです。」

 

イエスが何かを命令されるときは、細部に至るまで理由があるのです。人々は不信仰の故に従いません。弟子たちはプロの漁師でしたが、イエスの言葉に従いました。一方は「深みに漕ぎ出して複数の網をおろせ」であり、もう一方は「舟の右側に一つの網をおろせ」というものでした。ルカ伝では、多分弟子たちは「一晩中一匹もとれなかったのだから、複数の網を下ろす必要はないだろう。一つで十分のはずだ。」と思ったのです。そして彼らにとって理に適ったやり方で(即ち一つだけ網をおろして)イエスに従ったのです。これから起きることが彼らの今までの経験、理解を越えたものになることを知らなかったからです。神のなさる事は超自然的です!奇蹟が起ころうとしていたのです!

 

3.魚の入った網を舟の中に入れるかどうか

 

ルカ伝では弟子たちが魚が一杯になった網を舟の中に入れようと持ち上げた時に、網が破れました。一方ヨハネ伝では弟子たちは魚で一杯になった網を引いて小舟で海辺までやってきました。ペテロはその網を陸地に引き上げたのです。(訳者注:新改訳には「シモン・ペテロは舟に上がって」とありますが、原語にはありません。口語訳は先に陸に着いていた「シモン・ペテロが行って、網を陸へひきあげると」となっています)ペテロは魚の入った網を舟に入れるのではなくイエスのもとに持って行ったのです。

 

魚をあなたの舟に入れようとするとき、網は必ず破れます。 収穫が「自分の成果、自分の栄誉、自分のミニストリー、自分のエゴ、自分の願望、自分の夢」になるならば、それは破滅への下地を作っているのです。多くの人は魚を自分の舟に取り込もうとしますが、それは自滅へと導きます。私たちはあくまでもキリスト中心であるべきです。私たちがイエスの十字架と血潮、御臨在の確かさに焦点を当てるなら、そして私たちのすべての業が自分にではなくイエス・キリストに焦点を当てるものであるならば、収穫があるばかりか、それは残り実を実らせるのです。

 

ヨハネ伝にはこの後に、イエスとペテロの会話が描かれています。イエスは「ペテロよ、あなたは羊を愛しますか?

それなら羊を養いなさい。」とは言われませんでした。主は「ペテロ、あなたは私を愛しますか?」と問われました。羊を飼うペテロの動機は、羊への愛ではなく、イエスへの愛であるべきだからです。人々はよく、「どれほどある国を、又ある人々を私は愛しているか」と言いますが、そのような愛があなたの動機ならば、もし彼らがあなたの背中を突き刺したとき、あなたは彼らを養う気持をたちまち失ってしまうことでしょう。

 

私は羊を愛していますが、それが理由で羊のところに行くのではありません。私の第一の動機は私が主を愛しているからです。私は主を愛し、主は羊を愛されるのです。私はそのために命を捧げています。あなたのキリストへの愛が再びすべてを越えるものでありますように。私たちの人生に主が再び第一のものとなり輝きでますように。

 

15節で主が「あなたはこの人たち以上に、わたしを愛しますか。 Do you love me more than these?(訳者注:原語の意も『these これら』であって、『この人たち』とは言っていない)」と訊かれたのは、「あなたはこの沢山の魚以上にわたしを愛しますか?」という意味だと私は思います。魚を獲ることはペテロの職業であり、大漁は彼の成功を意味します。ペテロにとっての成功、人生の目的がそこにありました。イエスは「それより以上にわたしを愛しますか?」と訊かれたのです。

 

主は私たちにも訊いておられます。「あなたは自分のミニストリー以上にわたしを愛しますか? 収穫よりもわたしを愛しますか?

成果よりもわたしを愛しますか? 成功よりもわたしを愛しますか? 癒しや奇蹟よりもわたしを愛しますか?」と。

魂の収穫はすばらしいものです。私たちはそれを求めます。しかしそれよりも私たちの主への愛がはるかにまさっていなければならないのです。なぜならば主への愛が一番になっているならば、他のすべてのものは正しい位置に置かれるからです。しかし、私たちがそのフォーカスを失うならば、網はやがて必ず破れるのです。

 

ある有名なミニストリーが崩壊したとき、友人がそのリーダーに崩壊の理由を訊ねました。彼の答えは次のようなものでした。「私たちは神が養うのではないモンスターを造ってしまいました。ですから自分たちでそのモンスターを養う方法を考えねばなりませんでした。」

また、私の友人の若い伝道者がある聖書大学でメッセージをしたとき、キリストの愛に迫られて泣いてしまいました。彼が話し終えたとき、 学長が「私もかつてはこの人のようにキリストへ愛に燃えていた。しかし今や私は学校運営のビジネスマンになってしまった。」と皆の前で泣きながら告白したそうです。

私はこれらの話を聞いて、「主よ、どうかこのような事が私に、そして今の世代に起こりませんように。どうか私たちが初心に留まれますように。自分のエゴを満足させるためにモンスターを造ることがありませんように。どうかお金を儲けるビジネスマンになりませんように。私は有名になったり、お金を得るためにミニストリーを始めたのではありません!あなたを愛する故に伝道者になったのです。あなたが召してくださったので、命をささげたのです。」

 

私はイエスが今、私たちを初めの愛に呼びもどしておられるのを感じます。それが出発点でしたし、私たちはそこに常に留まらねばならないからです。もし焦点が出発した時よりもずれてしまっていると感じる方、又動機がいろいろなもので汚されていると感じる方は、どうか心の中で主に祈ってください。「どうかもう一度正しい位置にもどしてください。あなたとアラインしますように。

他のことに心が動かされて間違った動機になってしまったことをお赦しください。 主が再び中心となりますように。成功とか、人々とか、お金とかではなく、屠られた小羊を高く上げることだけが動機となりますように。それだけが私たちの焦点となりますように。」と。 (終り)


11 12月

信仰がそれを可能にするーー神を完全に信頼することによって クリスタル G.H.ロウリー


信仰がそれを可能にするーー神を完全に信頼することによって

 

クリスタル GH.ロウリー

 

 

ヘブル11:19「アブラハムは、神が人を死者からよみがえらせることもおできになる、と信じたのです。それで彼は、その信仰によってイサクを死者の中から取り戻したのです。これは象徴的な型です。」(意訳)

 

神の声を知る

 

私たちは、物事に対する考え方・見方を、常識とは違ったやり方に変えて行かねばなりません。自分の生き方・考え方を、この世的、常識的な基準で行うならば、物事をはっきりと「信仰の目で見る」という見方が汚され曇らされます。ですから何であっても私たちが、物事への見方を信仰の目で見るようになれば、その信仰的な考え方が私たちの心と魂の中に取り込まれ、育まれ大きくなって行くのです。

この世が指し示す方法や方策が必ずしもすべて間違っているというわけではありません。しかし、 この世的な観点から物事を見始めるようにしないことが肝要です。すなわち私たちは、「神の声を知る」という土台からスタートせねばなりません。これが人生のすべてにおいて鍵となります。

大抵の場合私たちが「信仰」ついて考えるとき、それは「普通世の中の人々が考えるようなロジック(論理的で、理屈にあったこと)とは異なるだろう」と考えます。 「信仰で一歩踏み出すこととは、クレイジーと思えるような事を神は私たちにさせるのだ」と私たちは思いがちです。

しかし私が強調したいのは、もし自分の思考パターンが変革されれば、神が「せよ」と言われることがすべて通常のことのように思えるようになるのです。それが出発点です。歪められた考え方から出発するのではありません。真理であり純粋であられる神ご自身から出発するのです。ですからそれがロジカルでないことはあり得ないのです。

 

神をどのように喜ばせるか

 

ヘブル11:6「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」

神に喜ばれるには、神を信じなければなりません。つまり神を信じ信頼することが不可欠です。 信頼することなしにその人と関係を持つ事ができるでしょうか?健全な関係を築くためにはその人を信頼する信仰が必要です。そうでないとよい関係にはなりません。例えば、相手を信頼することなしに健全な結婚生活ができるでしょうか?結婚がうまく行くためには絶対に信頼が必要です。

神と私たちの関係においてもそれは真理です。私たちは神にのみ信頼せねばなりません。もし神への信頼という信仰が100%でなければ、私たちは完全に神を信頼してはいないのです。神が言われることは真理です。神は人のように偽りを言うことは決してありませんから、神のことばは絶対的な真理です。神は私たちの造り主です。私たちがどのように機能するかをご存知です。

神は私たちに何が必要かをご存知です。神は私たちが必要なものはすべてご存知です。神は私たちのすべてをご存知です。製品を作る人がそれを使用するためのマニュアルを作るように、神は私たちを完全に働かせる方法をご存知です。

 

信仰の父

 

アブラハムや彼が辿った信仰の旅路を思うとき、本当に多くのことを教えられます。アブラハムは信仰の父と呼ばれます。信仰についてより理解し自分のものとしたいならば、私たちは彼の人生から学び彼の信仰を調べてみるべきでしょう。

あなたがアブラハムだったらどうでしょうか。彼は故郷を出て約束の地へ行きました。どこに行くのか知りませんでしたが、出かけたのです。神は彼が多くの国の父となると告げました。

神は彼の子孫は天の星や海辺の砂のようにおびただしくなると言いました。アブラハムに約束された子孫の数は驚くべきものです。しかし、彼は年老い、サラも年を取っていました。彼らには子どもがなく、サラは子を産むには年を取り過ぎていました。アブラハムは一人の子を何十年も待ちました。待っている間にアブラハムは「年寄り」から「すごい年寄り」になってしまいました。お分かりでしょうか?アブラハムはただのお話の中の人物ではなく、実在していた人なのです。そしてついに、アブラハムとサラは約束の子イサクを授かりました。イサクから子孫が生まれました。イサクは賞品であり贈り物でした。彼は神の約束の最初のものでした。多くの子孫を得るために彼は不可欠でした。

 

信頼する決意

 

しかし、神はアブラハムにイサクを生け贄にするように命じられました。何ですって? そんなことがあり得るでしょうか?イサクは約束の子です。イサクが生け贄になったら、空の星や海辺の砂のようにおびただしい数の子孫がどうやって生まれるのでしょうか?イサクにはまだ子がいませんでした。アブラハムとサラにもっと子が生まれるのでしょうか?人間の思いの中にはこのような思いが起り始めることでしょう。

しかし驚くべきことにアブラハムは神に従ったのです。彼は従うことを嫌がりませんでした。私たちはこの話にあまりにも精通しているので、アブラハムがひとりの人間であったことを忘れてしまいそうになります。しかしアブラハムが私たちと同じ人間であったことを知るならば、私たちはここからすばらしいことを学べるのです!

アブラハムはひとりの人間にすぎませんでした。しかし、約束のものを取り去られるという事態に直面したときでも、彼はなお従ったのです。これがほとんどの人が信仰の崖からころげ落ちてしますポイントです。しかしアブラハムは堅く心に決めていました。彼は神に信頼することを、すでに堅く決意していたのです。彼は神が自分にとってすべての源であることを知っていました。これは本当にパワフルなお話です!

 

神のタイミングは完全

 

アブラハムがイサクに刀を振り下ろそうとしたとき、雄羊が丁度その時にあらわれました!神のタイミングは常に完全です。神を信じる信仰によって、神の完全なタイミングに働いていただくならば、私たちは完全な状況を生み出す結果が得られるのです。雄羊が生け贄としてささげられ、イサクは祭壇で殺されることはありませんでした。

もしアブラハムが友人たちからアドバイスを受けていたならば、どうだったであろうかと想像します。もしアブラハムが当時の専門家からアドバイスを受けたならば、多分確実に神に従うことと反対のことを言われたと思います。

アブラハムの友人たちやアドバイザーたちからのすべてのアドバイスは、この世が「良いアドバイス」と呼ぶものであったことでしょう。それは心配してくれる友人たちや専門家が良かれと思って与えてくれたアドバイスでしたが、「違う出発点」からのものだったのです。それは神の声を知ることに基づいていないのです。

 

この世の常識で生きるというベースラインを神のライフラインに変える

 

詩編101:6に「私の目は、国の中の真実な人たちに注がれます。彼らが私とともに住むために。全き道を歩む者は、私に仕えます。」とあります。もし私たちが誰かからアドバイスを受けたいならば、その人が真実で全き人であることを100%確信せねばなりません。その場合でさえ、神の声を知ることを土台にせねばなりません。それが私たちのベースラインです。それが私たちのライフラインです。

確かにアブラハムは神の声を聞いて知っていたのです。彼は神を絶対的に信頼していました。アブラハムは一生神と共に歩み、神を信頼し、信仰によって生きたことにより、自分の考えを変革できたのです。彼はロジカルと言われるこの世のベースラインを退けて、神の声に従うことがロジカルな最高の基準と受け入れたのです。信仰する対象は何でもいい、誰でもいいと言う訳ではありません。私の言う信仰とは神への絶対的信仰です。

絶対に神への信仰によってのみ生きると決意したとき、私たちは自分の考えを変革するのです。御ことばと神の声を自分の人生に注ぎ込むとき、それは生き生きと盛んになり成長します。信仰が人生の中に常に蒔かれ成長するならば、それはロジカルなものとなるのです。信仰は約束のものへのライフラインとなり、私たちは「信仰がそれをロジカルなもの、最も理にかなっている考えとしてくれた。」ということができるようになるのです。(終り)


03 12月

「ただ一度のまなざしで」 フランシス・フランジペイン 2018年12月3日


「ただ一度のまなざしで」

 

フランシス・フランジペイン

 

 

雅歌6:10「このしののめのように見え、月のように美しく、太陽のように輝き、恐るべき事、旗を立てた軍勢のような者はだれか。」

人間は単に「宗教」を信じれば満足するようには創造されておりません。

自分の魂の奥底にある強い渇望を満たすためには「宗教」は不十分であることが、はっきりわかる時がくるのです。「宗教」は私たちを満足させないばかりか、イエスをも満足させません。キリストは私たちを実際に個人的に知りたいと思っておられることが聖書に書かれています。

 

マタイ7:22−23

「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」

 

あなたは「でも、主はちゃんと私たちを知っておられます!」というでしょう。勿論、主は全知であられますから、すべてをご存知です。しかし主は愛ゆえに、

主と常に一つに結び合わされた花嫁として私たちを知ることを願い求めておられるのです。主は私たちをご自分の血潮の代価で買い取られたのですから、私たちの魂、私たちの秘密、私たちの夢を所有する権利を持っておられます。主は誰も見ていないときのありのままの私を求めておられます。しかし、力づくでそれをしようとはされません。それは愛の方法ではないからです。

主がまず私たちを愛してくださった故に私たちは愛するのです。主がまず永遠の愛を誓ってくださった故に、私たちも誓うのです。キリストと共に生きる私たちの人生(愛によってキリストと私たちが一つとなる人生)だけが唯一キリストを満足させる教会のデスティニーです。終末の時代に私たちを支えるのは、キリストと一つになること以外何もないのです。

 

神は愛です

 

私は主を恐れることを知っていますし、それが真の知識の初めであることも知っています。そして主を恐れることを喜びとしています。しかしヨハネが言っているように、私たちは皆、神が私たちに持っておられる愛を知り、また信じる必要があります。

第一ヨハネ4:16「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は、神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」

 

パトモス島でイエスの足元に倒れて死者のようになった使徒が、後に「愛には恐れがありません。(第一ヨハネ4:18)」と言っていることを考えてみましょう。「聖なる恐れ」は私たちを罪から遠ざけ、義しく歩むための強い力になることを主は知っておられます。

しかし主に近づくためには、私たちは神への恐れ以上のものを知る必要があるのです。私たちは「私たちに対する神の愛」を知らねばなりません。第一ヨハネ4:18に「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。」とあります。私たちはこの「恐れを締め出す神の全き愛」を知らねばならないのです。この愛だけがキリストの花嫁をデスティニーへと導くことができるのです。

 

神の御こころ

 

今この文を読んで、「神を求めキリストに近づきたい」という思いがあなたの心に沸いてきたかもしれません。そのような思いが起こり、「主の臨在を求めよう」とあなたが感じたその時、キリストのこころの中にも何かが起こるのです。

主は「私の妹、花嫁よ。あなたの一度のまなざしであなたは私の心を奪った。(雅歌4:9)」と言われます。

あなたが 主を見るとき(それがほんの一瞬、「主と共にいたい」と願っただけであっても)、主の胸はときめき高鳴るのです。これが、「主と共にいたい」という私たちの願いに対するキリストの応答なのです。

イエスはただ悪を滅ぼすために地上に帰って来られるのではありません。主は花嫁のために来られるのです。終末における私たちの務めは、単に携挙や艱難ために備えをするだけではなく、キリストご自身をお迎えする備えをすることです!

黙示録19:7「私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。」

 

お分かりでしょうか、私たちの準備はキリストのためなのです。花嫁は、どんなことが世界を襲うのかという恐れでおののいてはなりません。花嫁はこの世に来られる方への愛で満ち溢れているのです!私たちは単なるデイトではなく結婚のために整えられているのです!イエス・キリストにとって花嫁(教会)ほど重要なものは他には何一つありません。主が死なれたのは花嫁のためであり、生きてとりなしをされているのも花嫁のためなのです。

主の愛は私たちを完全に贖う力を持っています。私たちが果たすべき最も尊い務めは、私たちの一瞬のまなざしにさえ胸をときめかせてくださる主に、全てを臆することなく投げ出しお委ねすることです。

 

(祈り)主よ、告白いたします。私は忙しさのために集中できず、私がしなければならないことにだけ心を騒がせていました。実際あなたのために働くことをさえ、あなたの御臨在に留まることの代わりにしていました。私の魂を愛する主よ、悔い改めます。あなたが私を知っておられるように、私もあなたを知ることを願います。主よ、御そばにまいります。(終り)