Archive for 8月, 2018:
27 08月
あなたは本来、預言の賜物を持っている!
ジョン・ヴィール
1コリント14:1「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。」
ご存知かどうかわかりませんが、もし御霊に満たされたクリスチャンであるならば、あなたは本来預言的であるのです。「本来」とは、「基本的な性質として備わっている」ということです。預言の賜物はあなたが人々を祝福するようにと、神が与えられたものです。
預言の賜物はあなたの遺伝子の深い霊的レベルの中に文字通り埋め込まれているのです。それはあなたに属し、あなたの中に存在し、あなたからスーパーナチュラルに無理なく天然的に流れ出るべきものです。神から与えられている自分の中の預言的賜物をずっと知らずに放っておくと、それは発達せずに忘れさられてしまいます。
預言の筋肉を活性化する方法
主のことばを預言的に話すことは、「預言者」だけがすることではなく、神がすべてのクリスチャンに与えておられる正当な特権です。預言者や預言的な人のそばに長く留まると、あなたもその影響を受けるのです。
そして彼らと真近に接触すると、あなたも預言をするようになります。預言の霊は人から人に簡単に伝染することを私は見てきました。すべての人の内には預言の霊によってだけ埋められ完成されるのを待っている一つの空間があるのです。私たちすべての内にある予見者の種が、預言的活動によって水を与えられるや否や、発芽し始めます。
預言的遺伝子を働かすためには、それを活性化し使わねばなりません。あなたの内にすでにある預言の賜物を、刺激し揺り動かして活性化すればよいだけなのです。これはウエイト・トレーニングによって筋肉を鍛えるのに似ています。
ある筋肉にウエイトを長くかけるばかけるほど、その筋肉はもっと発達し強くなります。預言の賜物もそれと同じように反応するのであって、使えば使うほど強くなるのです。
活性化はこのプロセスで一番重要なものであり、それは賜物を大きくするだけでなく、その鋭さや強さをも増し加えてくれます。預言の賜物の活性化は、あなたが誰かに頼るのではなく、自分自身で神に聞くことができるようにしてくれます。あなたが持っている「自分で神に聞く本来の能力」を増し加えます。そしてあなたの霊の耳を主の周波数に合わせ、あなたが本来持っている預言的性質にアクセスできるようにしてくれるのです。
あまり預言的でなかった人が活性化されることによって預言的になった例を私は多く見てきました。活性化は彼らの中にある預言的賜物を喚起するだけではなく、その活発な動きによってその人が持つ他の賜物にも刺激を与えてくれます。
活性化のミニストリーを受けたある女性が、手が熱くなるのを感じたと言いました。それは癒しの賜物のしるしであると思ったので、彼女にそう告げました。そしてしばらくすると彼女は癒しの賜物を用い始めました。このようなことは私が活性化のミニストリーをするとほとんどの場合起ります。預言の活性化から多くの素晴らしい預言的覚醒のあかしが生まれています。
使わないものはやがて弱くなる
活性化のクラスをしている時、私はある啓示を受けました。一人の女性に手を置いて彼女の預言的賜物を活性化していると、彼女の中に3つの大きさの違う賜物があるのが見えました。実際それらはきれいに包まれリボンで飾られたプレゼントのように見えました。
そのうちの一つが他のものより大きく、それが彼女の一番主な賜物のようでした。すべての人は幾つかの賜物を持っていますが、普通そのうちの一つが主で他のものより大きいと私は思います。彼女に関して言えば、預言の賜物が一番大きいとわかりました。他の賜物、例えば、癒し、信仰、見分け等は比較的小さく、それは多くの場合、全く、或いはたまにしか使われていない結果なのです。
このことも又、人間の筋肉と非常に似ています。長い間ずっと放っておくと、筋肉は退化したり小さくなったりします。運動不足で小さくなればなるほど、筋肉は弱くなります。あなたの神からの賜物も、それと同じで、あまり用いないと小さく弱くなるのです。しかし神があなたに与えた賜物は決してなくなりません。
ローマ11:29「神の賜物と召命とは変わることがありません。」
主はあなたに何かを与えてから「返せ」と要求するようなことはなさいません。しかし賜物は用いられなかったら弱くなっていくかもしれません。使わないものは何でもだんだん弱くなっていくのです。天からあなたに与えられた能力は、誰かの打ち破りの鍵となるものです。その能力があなたの内にはっきり表れるのを多くの人が待っているます。あなたはすべての人の打ち破りのために召され遣わされるのではないかもしれませんが、ある人のためには絶対に召されているのです。
霊の賜物の食べ物
預言者になろうとしている人や預言的な人へのアドバイスは、「預言的賜物を出来る限り使いなさい」ということです。使えば使うほど、それは強くなります。考えてみてください。何でも長く続けるほど、上達しますね。あなたの賜物は訓練され強くなるのです!
そしてそれがいつも押されたり引っ張られたりして訓練されると、奥深さを増していきます。あなたの賜物の重さが増し、長い間食べ物を与えられるので賜物は肥え太っていくのです。
イザヤ10:27「その日になると、彼の重荷はあなたの肩から、彼のくびきはあなたの首から除かれる。くびきはあなたの肩からもぎ取られる。(欽定訳:
これは牛があまりにも太った(油注がれた)ので、くびきが壊れることを言っています。「御ことばを食べる」のと似ていますが、あなたは自分の賜物を用いる毎に賜物に食物を与えているのです。毎日聖書を読む事を怠ると霊的に弱くなっていくのが分かると思います。
マタイ4:4でイエスは悪魔に「『人はパンだけ生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」と言われました。聖書は神の生けることばであり、私たちの健康を維持し霊を肥やすために毎日食べる必要があります。太ることは重くなるということであり、霊的には良いことなのです。同じように、私たちが一週間食事をしなければ、疲れ、消耗し、気力がなくなります。あなたの預言的賜物の霊的な面と実践的な面との相乗的レベルを保つためには、あなたは肉体的にも霊的にも栄養を取らねばならないのです。(終り)
20 08月
ゴリアテには兄弟がいた
フランシス・フランジペイン
このような場面を思い浮かべてください。あなたは病気や鬱と戦っています。あなたは神を求め、神のめぐみがあなたに触れてくださったと感じます。その勝利は誰かの言葉や祈り、また励ましを通して与えられたかもしれませんが、あなたは主ご自身が救い解放してくださったと確信しています。あなたは「5つのなめらかな石」という神のめぐみを用いて、あなたのゴリアテを打ち負かしたのです。
しかし、それから数週間、あるいは数ヶ月か数年経ってから、突然昔の症状がもっと激しく、まるで仕返しでもするかのように、襲ってくることがあります。もしあなたが何かの病いと戦っていたのだとすると、今までで一番ひどい症状があらわれます。もしその戦いが人間関係、あるいはある罪に関することならば、今までの進歩はすべて無に帰し、振り出しにもどったように感じます。
このようなネガテイブな経験はあなたの心から信仰を少しずつ取り去っていきます。期待と信仰を失い、霊は麻痺してしまい、あなたの魂は生気と自由さを失います。まだ教会には通っているかもしれませんが、信仰は鈍っています。
人の癒しや解放の証を聞いても「彼らもいずれ癒しを失うかもしれない」と密かに心配するようになります。
このような否定的な経験は多くの人の信仰を揺るがし幻滅感を抱かせる結果となります。箴言13:12に「期待が長びくと心は病む。望みがかなうことは、いのちの木である。」とありますが、「心が病む」とは、霊的に病むことであり、神との歩みを妨げ無力にします。思い出してください。信仰は望んでいることがらの保証、実体なのです。もし希望を失うならば、信仰もうつろになり実体のないものになります。もし神があなたの期待を裏切ったのだとしたら、もはやあなたは神を信頼することができるでしょうか。
「私はブレークスルー(打ち破りの勝利を得た経験)を失ったのだろうか、それともただ自分を騙していただけであって本当はブレークスルーなんて初めから無かったのだろうか。」とあなたは訝しく思うのです。
愛する皆さん、今経験している困難、苦しみは、あなたが神の祝福を失ったのではなく、全く新しい霊の戦いに遭遇している可能性が大きいのです。新しい戦いは、非常にずる賢く戦略的な惑わしであり、救いを受けた人たちの中にサタンが再びじわじわと入り込もうとする常套手段です。
繰り返し起こるこの戦いについて私はずっと祈っていたのですが、ある時聖霊が私の心に「ゴリアテには兄弟がいた。」と語られました。私はすぐにダビデがペリシテの巨人と戦ったときのことを思いました。ダビデが神に信頼しゴリアテに打勝ったことは誰でも知っています。
しかし、第二サムエル21章では状況が変っているのがわかります。
2サムエル21:15−17「ペリシテびとはまたイスラエルと戦争をした。ダビデはその家来たちと共に下ってペリシテびとと戦ったが、ダビデは疲れていた。時にイシビベノブはダビデを殺そうと思った。イシビベノブは巨人の子孫で、そのやりは青銅で三百シケルあり、彼は新しいつるぎを帯びていた。しかしゼルヤの子アビシャイはダビデを助けて、そのペリシテびとを撃ち殺した。...」(口語訳聖書)
少年ダビデがゴリアテを倒してから長い年月の後、ダビデ王は別の巨人たちと直面せねばなりませんでした。第一歴代誌20:5によれば、ダビデと戦った者のうち少なくとも一人はゴリアテの兄弟であり、4人は彼の子どもでした。
1歴代誌20:5「ここにまたペリシテびとと戦いがあったが、ヤイルの子エルハナンはガテびとゴリアテの兄弟ラミを殺した。そのやりの柄は機の巻棒のようであった。」
2サムエル21:22「これらの四人はガテで巨人から生まれた者であったが、ダビデの手とその家来たちの手に倒れた。」
これらの巨人たちはゴリアテの血筋であり、多分ゴリアテに似ており、高慢で、同じような格好で、同じ臭いを発していたと想像できます。2サムエル21:15には、ダビデがゴリアテの子孫と戦ったとき「疲れていた」と書かれています。
これらの巨人と戦った時、ダビデがどう思ったかについて聖書は何も語ってはいませんが、恐らく彼は「ゴリアテは倒したはずだ。なぜまた戻ってきたのだろう?」と訝しく思っていたのではないでしょうか。しかしゴリアテが戻ってきたのでありませんでした。彼は死んだのです!ダビデは彼の血縁者たちと戦っていたのです。しかしそれはあたかも同じ戦いのように思えたのです!
同じように、あなたも今まで多くの勝利を勝ち取ってきたのです。今あなたが直面している巨人は、まるであなたが過去に倒した巨人のように見えるかもしれません。しかし「お前は最初の戦いにも本当には勝利していなかったのだ」という敵の偽りを信じてはいけません!
神のめぐみの力により、あなたは万能の神を信頼し、あなたのゴリアテに勝利したのです。最初の巨人は死んだのです。
サタンはあなたの以前の敵に見せかけ、あなたの信仰の盾を通り抜けて、あなたの人生の中へと又入り込もうとしているのです。サタンに抵抗してください。「あなたは決して解放されたことなどないのだ」という偽りを受け入れてはいけません。信仰に立ってください。信仰は世に打勝つ勝利の力です。(1ヨハネ5:4)あなたがゴリアテに勝利するのを助けた生ける神は、彼の兄弟にも勝利する力を与えてくださいます。
祈り「天の父よ、今、私はしもべとして御前に出ています。ダビデのように、すでに負かしたと思っていた敵と戦うことに疲れています。しかしあなたの聖霊の力により、『これは以前に克服したはずの敵が再び現れたのだ。』という敵の偽りをあばきます。イエスの御名により、敵を叱責します。主よ、どうか天使がイエスを度々力づけたように、私にも天使を送って超自然的に強めてください。イエスの御名により祈ります。アーメン」(終り)
14 08月
二 つ の 椅 子
坂 達 也
私は最近両目が急に見ずらくなりました。実は4−5年前に医師から白内障の手術を受ける時が来たと言われていましたが、恐らく信仰で少し癒されてよくなっていたものが急に元の悪い状態以下に悪くなったと思われ、その手術を行いました。そしてその後、立て続けに痛風(左足親指付け根が痛み出す)から帯状疱疹(背中左側から左腕手首まで)に発展しました。どちらも主な原因がストレスにあり、いずれ過激な仕事をしていた若い頃やったものの再発です。そして未だ疱疹が治り切らない前に、突然急性一過性脳虚血と思われる発作が起き(これは脳梗塞の初期に起こる症状)急患で二日間入院してMRI検査等の結果でそれが分かりました。今は自宅で静養中ですが、更に精密検査を受けております。ということで現在は身体全体が弱っておりますが、少しずつ良くなっており、やっとコンピューターの前で作文ができるように回復しましたので、これを書かせていただいております。
就きましては、最近たまたま私たちのミニストリーが始まった頃に季刊誌として書いていた「マウンテンパークだより」2001年秋号に私が書いた文章に目が止まりましたので、それを下記の通りご紹介させていただきます。
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私もクリスチャンになってからいつの間にか30年近く経ちました。しかし何年経ってもいつもハッとすることが一つあります。それは今の自分は信仰で生きているのかどうかという反省です。少々大げさに言えば、クリスチャンは常に一つの意思決定を迫られていると言えます。それは一瞬一瞬、自分の身分証明を要求されているようなものではないでしょうか。
フランシス・シェフアー師の表現を借りれば、クリスチャンは常に二つの椅子のどちらかに座って生きていると言います。一つは信仰の椅子、もう一つは不信仰の椅子、すなわち古い肉のままの自分で生きている椅子、そのどちらかに座って生きています。そして一日何回椅子を変えようと、いつもどちらかの椅子に座っていて、中間とか両方の椅子のどちらかの椅子に同時に座っていることはあり得ないというのです。
クリスチャンになった後も、私は長い間不信仰の椅子にどっかり座ったままで、一生懸命信仰で生きようとして来ました。別の言い方をすれば、古い自分をよくしようと努力していました。古い自分(自己中心の魂の部分)を懸命に殺そうともしていました。しかしパウロはこれは全く無駄なことであると言います。私は長い間のこの無駄な努力を重ねた結果、最近やっとその間違いが実感として分かって来たのです。
クリスチャンの内には、死んだ筈ですが実はピンピン生きている「古い自分」と、生まれ変わった「全く新しい自分」という二人の人間が共存しています。信仰で生きるには、古い自分は無視して(臭いものには蓋をして)新しい主と共にボーンアゲインした自分で生きる(主と共に、というより主ご自身が生きてくださる)ーつまり椅子を変えるしかないということです。
シェファー師は「不信仰の椅子に座ったままでクリスチャン生活を送ろうとすると、たとえどんなに大きな声で賛美をし、どんなに熱心に宣教活動しても、それはほとんど全て(主の御心ではなく)自分で考えた肉と魂の行いでしかない。そこでは自分が宇宙の中心に置かれていることに変わりはなく、その人のクリスチャンライフの全てが遊戯であり、その人がどんなに戦うふりをしても、その人は所詮「おもちゃの兵隊」でしかない、なぜなら霊の戦いは肉では闘えないので全く役に立たない兵隊であるからだ、と言っています。付け加えるならば、そういう人は、自分の論理から出た「頭のクリスチャン」でしかないと厳しく決めつけています。そして、「信仰から出ていないことはみな罪です。」(ロマ書14:23後半)を強調しています。「信仰がなくては神に喜ばれることはできない。」(ヘブル11:6)どころか、「信仰から出ていないことはみな罪」であるならクリスチャンにとってこれは大変なことではないでしょうか。
最近久し振りにシェファー師の「True Spirituality] を読見返して見て、もう一度上記の信仰のあり方の秘訣を学んだことは大変有益でした。
今朝も起きて直ぐ、自分は今信仰の椅子に座ることをはっきり決意したところ、いつものように早朝の「主を見上げて待つ」祈りに入るやいなや、主のすばらしい御臨在の中に飛び込んで行くことができ、喜びが溢れ始めました。又、日中車を運転していたときでしたが、はっと思い出して信仰の椅子に坐り直す意識を持った途端に、喜びと主への賛美が心の内に迸り出ました。ハレルヤ。
ところで「信仰で生きる」とはどういうことでしょうか。簡単に言えば、「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。・・・」(ガラテヤ2:20)を信仰で生きることです。少し難しくいえば、「自分のなるべき姿、約束されている身分と責任を今現実のものとして生きるということではないでしょうか。
古い自分ではなく、新しく主と共に蘇った私たちは、神の神殿であり、神の御霊が中におられ、イエスキリストの全権大使としての権威と力を備えた神の世継ぎの一人であるという大変な身分なのですね。しかも神が自分の中に住んでおられるだけでなく、自分もキリストの中に住む、つまり父の右座にキリストと共に位置するという既に今、神の家族の一員であるという、これが私たちクリスチャンの身分証明書であることを、そしてその特権と責任を帯びた人間であることを忘れてはならないと思います。
ということで皆さまも、この辺りでぜひ一度ご自分の信仰の生き方をチェックされることをお勧め致します。 【以上で2001年文章を終わります】
私に今起こっていることの意味
上記に書いた文章に照らし合わせて、私の身体に今起こっていることが何を意味するかは明らかです。そしてこの現実が神からの厳粛かつ重要なメッセージを意味することに気付き、心から反省するに至りました。
実は上記の文章を書いた2年後の2003年春に、私は最初の拙本「主を見つめて待つー霊に目覚め・神の声を聞く方法」の初版を出版しました。この本をお読みいただいた方なら、この「主を見つめて待つ」が上記の文章「二つの椅子」の内容に基づいたテーマを中心として書かれていることにお気付きになられると思います。そうであるとすれば、明らかに私は、自分自身の書いた「クリスチャンの目標」に沿った「信仰の椅子に座った生き方」が15年後の今、出来ていないが故に、疲れ果てた瀕死の病人になったことにお気付きになるはずです。すなわち、正直に申し上げて、私自身が提唱しながら、その生き方がいかに難しいか、私自身が見事な失敗の見本でもあることが一目瞭然です。それを主から今回気付かされ、身を低くし自分の至らなさを悔い改めております。お赦しください。
しかしその主が、私を今回主にあって蘇らせくださる約束を私ははっきりと信仰で受け取りました。
就いては、最近私たち夫婦が送ったお見舞い状に対しご返事をいただいたヘンリー・グルーバー先生からの貴重な励ましをいただいたことを付記させていただきます。その励ましとは下記の4つのみ言葉でした。(但しヘンリー師には私が今このような状態になったことを知らせてはいませんので、ご自身に起こった今回の奇跡的な癒しに対するご自身の見解を書かれたものです。)
1ペテロ5:8−11 「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。」
Ⅲヨハ1:2ー3 「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいるその真実を証言してくれるので、私は非常に喜んでいます。」
ヘブル11:25 ー27 「罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。 彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。」
ロマ 8:18 ー39「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。・・・そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。・・私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。・・・神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
ヘンリーグルーバー師は、今までに少なくとも3度の死の苦しみに会いましたが、今回主が彼を3度目の奇跡的「蘇り」の経験を下さったと最近のビデオで証しています。
私たちは1995年に神のご計画によってグルーバーご夫妻と出会い、日本の愛知県におられる安田先生ご夫妻の招きによって泉の森の開所式に参りました。それ以来ヘンリーグルーバー師は毎年2回か3回、この23年間欠かさず日本を訪れて下さった大変な主の器です。私たちは最初の10年間師にお供し、後は森明先生にバトンタッチして現在に至っております。(加えて、沖縄にも別途毎年欠かさず訪問されています。)
グルーバー師の言われていることは、私たちクリスチャンで「主に選ばれた者」とは、主と同じ十字架の苦しみを受けて培われる「霊的訓練」を何度転んでも起き上がり忍耐を持って「死ぬまで」あるいは「主の再臨まで」喜んで走り続ける者の姿ーそれを言えば、上記のみ言葉はみな、キリストの「使徒」たちが綴った「自分の十字架を担いで主の後を追う」実際の姿を血の涙で綴ったものです。
実は「真の救いー永遠の命」とは、それ程尊く価値のあるものであることを、私たち自身が、後から主に従ってついて来る後輩の「求道者」に見せて励まし伝えねばならないと思うのです。それが福音でなくて何でしょうか。
私にとっては、それが2コリント3:18に書かれている「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を帰られて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」 の御言葉の意味するところであると信じます。(終わり)
07 08月
神からの教えを受け入れる大切さ
スチィーブ・ポーター
「誠実さは、人生がばらばらにならないようにまとめる接着剤です。私たちは常に誠実さを堅く保つように努力せねばなりません。富を失っても、あなたは何も失いません。健康を失うと、何かが失われます。しかし人格を失うと、あなたはすべてを失います。ビリー・グラハム」
心の奥底で私たちの霊は、 「もっと真摯で深いクリスチャン生活を送りたい」と願っています。このような願いを持つ霊は、大いなる富や珍しい宝石、
或いは素晴らしく偉大な能力よりもっと尊く価値があるのです。それは「教えを受け入れる霊 teachable spirit」です。
指示や教訓を尊ぶ
常に更なる深みを目指したいと願う勇士は、教えを喜んで受け入れます。アブラハムの人生を学ぶならば、彼がなぜあれほどまで祝福されたかが明白です。彼は何よりも教えを尊び、神の戒めを喜んで守りました。それはただ「喜んで聞く」だけではありません。「知恵を得たい願望」が「安楽への願望」より大きくなったとき、私たちは「教えを受け入れる」心を持つことができます。
私たちは教えを喜んで受けいれる心を持っているでしょうか? 主から、また人々から知恵を受け取る謙虚さがあるでしょうか?
時として私たちは教えを受け取る心を失い、健全なアドバイスを拒否してしまいます。
このような時私たちは、ルールに従うよりルールを曲げることを望んでいるのです。しかし、それは決して私たちを祝福の場所へとは導かず、むしろ人生を破壊してしまいます。聖書に「高ぶりは破滅に先立つ」とあるように、私たちは危険な場所で孤立してしまうのです。
私はナアマンのことを思い出します。彼は肉体を蝕む癩病が癒されるのを願いましたが、神のメッセンジャーにヨルダン川に行って7回身を洗うようにと言われたとき、怒ってそこを去りました。確かにそれは一見奇妙で馬鹿げた指示であり、ナアマンの肉の思いには意味をなしませんでした。自分の地にはもっと良い川があるのに、どうしてヨルダンで身体を洗わねばならないのでしょうか?
しかし、彼の本当の問題はヨルダン川ではありませんでした。指示に従い癒されるために必要な謙虚さを、彼のプライドが阻んだのです。最終的に彼の癩病は癒されましたが、それは彼が知恵の言葉に耳を傾け、心を変えて謙虚になり、油注がれた神の人のシンプルで明瞭な指示に従ったからでした。
肉を十字架につける
同じように、私たちも深い信仰生活を送るためには、肉を十字架につけ、たとえそれが自分の考えとは違うときでも謙虚に従う必要があることを悟らねばなりません。そのためには御ことばを求め、聞き、学ぶことを常に追い求めていく姿勢が大切です。謙虚になると私たちはプライドをはぎ取られ、心が柔くなります。そして教えを受け入れるようになり、自分のしたい事を一人で勝手にするよりも、神への親密さを慕い求めるようになります。
教えを受け入れるようになるにはプロセスが必要です。私たちは教えを素直に受け入れる者でしょうか? 学んでいるでしょうか?
たとえ辛くても自分の人格や誠実さを一番大切に守っていきたいと強く望んでいるでしょうか。
箴言8:32「子どもらよ。今、わたしに聞き従え。幸いなことよ。わたしの道を守るものは。」
主に近づいて聖霊のかすかな細い声に耳を傾ける者を神は祝福されます。しばしば私たちは聞くことを拒否し、主の御声、主の警告、そして主からのはっきりした危険信号さえも無視します。もし主に聞いていないなら、私たちは学んでいません。もし学んでいないならば、成長していないのです。このサイクルは決して止まることがありません。ですから今私たちが立ち止まり、「見張り、待ち、聞き、従うこと」を始めなければ、祝福は決してやってきません。
箴言8:34−35で、神は私たちに「見張り、待ち、そして主を
見いだせ」と教えておられます。これらはすべて私たちが毎日実践すべき「行動を表す動詞」であることに留意してください。実際、私たちは主が教えたいと願っておられる事に、いつも油断なく注意を払っているべきです。そしてそれにただ気がつくだけでなく、熱心に知恵と真理を捜し求めねばなりません。エレミヤ29:13に「もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」とある通りです。
神の御声を聞くことを学ぶ
ホセア4:6「わたしの民は知識がないので滅ぼされる。あなたが知識を退けたので、わたしはあなたを退けて、わたしの祭司としない。あなたは神のおしえを忘れたので、わたしもまた、あなたの子らを忘れよう。」
「聞くこと」は神にとって非常に重大なことです!聖書には「もし私たちが神のおしえを退け、知恵を無視するならば、神は私たちを祭司(神の御国の代表者)にはされない」と書かれているのです。私は「神が誰か役に立つ者を捜しておられる時、見過されたくはない!」と願います。私は「神の御心の真ん中のいる」以外のことは何も望みません。
箴言8:32−36「子どもらよ。今、わたしに聞き従え。幸いなことよ。わたしの道を守る者は。訓戒を聞いて知恵を得よ。これを無視してはならない。幸いなことよ。日々わたしの戸口のかたわらで見張り、わたしの戸口の柱のわきで見守って、わたしの言うことを聞く人は。なぜなら、わたしを見いだす者は、いのちを見いだし、主から恵みをいただくからだ。わたしを見失う者は自分自身をそこない、わたしを憎む者はみな、死を愛する。」
聖書は神に聞く重要さを強調していて、この短い箇所にも三度「聞く」という言葉が出てきます。
エゼキエル3:7にはイスラエルの民は「鉄面皮で心がかたくなである」とありますが、もし私たちが神に聞かないという悪癖をつけてしまったならば、この言葉は私たちに直接当てはまるのです。 (終り)