Archive for 2月, 2018:
27 02月
リバイバルがやって来る!誰がその火を点け、
誰がその実となる未信者を導くのか (その三)
ビリー・グラハムの死が世界に大リバイバルをもたらす
坂 達 也
ビリー・グラハム師が99歳で天に召されました。彼は生涯を通じて、2億1千5百万人の観衆に向かってゴスペルを語り、それにラジオとテレビの聴衆を加えれば、その総数は少なくとも220億の人たちが彼の福音のメッセージを聴いたと云われ、そして、その内少なくとも3億2千万人の人が救われたと云われます。人間の歴史において、未だかってこれ程の宣教活動をした人はいません。
そのグラハム師が云われた言葉の中で、私が最も学ぶべき感銘した言葉を一つ挙げるとすれば、師が「エヴァンジェリストとして成功する秘訣は、もっと多くの時間を聖書の学びと祈りに費やすことである。」と云われた言葉です。
ついては多くの預言者が、神から彼に対する預言をいただいています。今回そのうちの二人の預言をご紹介します。
最初に、オーストラリヤの預言者ラナ・バウサーLana Vawser 師の預言ですが、彼女は、主が、二年前の約二ヶ月の間、断続的に、ビリーグラハム師に関する預言的な夢を見せてくださったと云い、その冒頭で、先ずビリー・グラハム師個人の家庭での生活の様子をビジョンで見たと証ししております。
1)ラナ・バウサーLana Vawser 師の預言
私は夢の中で、ビリーグラハム師が天に召される時が来たら、エリシャがエリヤに願った「エリヤの二倍の霊の油注ぎ」(2列王記2:9)を地に解き放つと主が云われるのを聞きました。エリシャのミニストリーとは、めざましいしるしと奇跡、そして顕著な預言的宣言と命令に満ちたものでした。この「天からの布告」は夢の中で二度与えられたので、それが「証しすべき天命」であると私は受取りました。そしてその瞬間、私の回りの大気に電気が走りみなぎるのを感じたのです。それは聖霊による力であり、聖霊が一つの時代が終り、次の新しい時代の始まり(ニュービギニング)を告げる——その時代とは、人間の歴史始って以来最高の霊の働きによる「最大のハーベスト」の時に入ることを意味します。
ビリーグラハムの死は、イエス・キリストの福音に対する「師の油注ぎ」がこれからの時代の働き人全体に大きく注がれることを象徴します。それは霊に満たされたビリーグラハム師の口からほとばしり出た、純粋にして美しく、且つ単純でストレートなメッセージにこそ力があり、それが今の時代に最も必要な「霊の覚醒 great awakening 」をもたらすと確信します。その覚醒はエバンジェリストだけではなく、すべてのクリスチャン信仰を持つ者の心に宣教の火を点けるものであるのです。
彼の死が、これから収穫にたずさわる人たちに、油注がれた収穫のマントを着せ、大きな霊的シフトを地上のあらゆる場所にもたらします。そのシフトは既に始っていて、これからどんどん加速されて行きます。それに従って神の栄光の輝きが目に見えて増して行くでしょう。
キリストにあっての義と真実の実、それに神の愛の炎が益々増し加えられ、既に救われた人たちの多くが、主イエスに遭遇する経験をし、初めて救いの真のゴスペルに触れたかのように、改めて救われる経験をもう一度するでしょう。
多くの人たちが預言のマントをいただいて、主がされておられることをビジョンを通して霊の目で見る能力と油注ぎが増し加えられます。それはエリシャが若い従者の目を開いて、見えるようにしてくださいと主に祈ったようにです。(2列王記6:17)それが倍増する油注ぎがいただけるのです。そして主から御ことばをいただき預言することによって、天で行われていることを地で行う、そのための主のやり方を知り、宣言し、人に教える、そうすることによって癒しを含む多くの回復の奇跡とか realignment 再調整、再配列、その他考えられないような神の力を発揮することができるようになります。
私たちがビリーグラハム師の死後、彼がそうであったように、師のきよい、へりくだった、誠実で愛に溢れ、すべてを主に委ねる生き方を踏襲するように主から示されました。それがビリー・グラハムの神聖さとへりくだりのマントと云えます。そして、主は最後の収穫の時に私たちが最も注意すべきことは、プライドと傲慢さを持たないこと、そして恐れないことであると強調されました。すなわち、最も重要なことは、私たち自身のしたいことのアジェンダとか、自分たちの考えで刈入れの仕事を行わないことです。私たちが主ご自身の考えとやり方ですべてのことを行うことに徹して初めて、最後の大収穫と聖霊のムーブメントになります。(以上でラナ・バウサー師の預言終り。)
次に、ランス・ウオールナー師の預言をご紹介します。師は先ず、2006年に預言したキム・クレメント師の預言のことばと、その後で、同じ2006年にベニーヒン師とマーク・シュロナ師がそれぞれ預言し合ったテープの録画を紹介します。この三人の預言は、前に紹介したラナ・バウサー師の預言とほぼ同じであり、どちらもビリー・グラハム師が死ぬ日に、エリヤのマントが弟子のエリシャに渡されたと同じように、ビリー・グラハムのマントが地に解き放たれることを預言し、それが次の世代に大きな影響を与えることを預言しました。その後でウオールナー師が、キム師とベニーヒン師/シユロナ師の預言の解釈という形で、ウオールナー師自身の預言的考えを次のように説明します。以降はウオールナー師のメッセージです。
2)ランス・ウオールナー師の預言のことば
ビリー・グラハム師は、エリヤのような偉大な聖人が天に召されたとき、エリヤのマントがエリシャの上に落ちたように、天に召される日にビリー・グラハムのマントが地に解き放たれます。そのマントは、それ迄神によって隠され、長い間霊的訓練を受けて来た一団のクリスチャンの上に落ちるのです。そしてそのマントを纏った彼らがヨルダン川を渡ります。
ビリーグラハムは確かに神から特別に与えられたマントを持った人でした。世界185の国々を廻って宣教し、彼程アメリカの歴代大統領を含む世界の多くの国家元首と政治家に会って、個人的に神を説き、交わりを持ったエヴァンジェリストは他にいません。まさに彼は「国政のエヴァンジェリスト」というにふさわしい人です。
世界には、GDP順にいって1位アメリカ合衆国が22兆ドル、次はその半分の中国で11兆、3位は日本の4.8兆ドル、4位ドイツ3.4兆、5位英国2.5兆ドルと大国が続く中で、1兆ドル以下の小国が170カ国もあります。そこで神はトランプ大統領を起し、圧倒的世界一の経済国であるアメリカの地位を維持させるとともに、世界に台頭する悪魔の配下にいるグローバリストたちを抑える役目を果たさせるのです。
トランプ大統領は、既に自分が公にクリスチャン信仰を持っていることと、イスラエルと世界のクリスチャン国を助けることを約束しております。そしてイスラエルの首都はエルサレムであることを世界に向かって宣告しただけでなく、アメリカは大使館をエルサレムに移すことを前倒しでこの5月に実行すると最近発表しました。
それと時を同じくしてビリー・グラハムの死を期して、彼のマントを着た真の神の宣教の精鋭軍団が世界中で起こされますが、それは既成のクリスチャン教団教派が大きくなったのではなく、むしろ個人として世界中に立ち上がり、神によって世界に解き放たれる人たちであり、この人たちによって世界中にリバイバルが起こされます。
今はその時に入ったのです。サイラス(クロス王)の再来といわれるトランプ大統領(訳者注:これはウオールナー師自身が以前に主からいただいた預言です)が今後世界の政治家に協力を呼びかけ、世界中に宣教のための大競技場を提供させる等の便宜を図る一方で、ビリー・グラハムのマントを着た多くの若い宣教の精鋭たちが世界中に起こされ、出て行きます。その人たちとは、今30歳前後のミネリアムと云われる世代の若い人たちが中心です。その人たちの多くは、ごく普通のクリスチャンであって、単にリバイバルという個人の「魂の救い」だけに携わるだけでなく、むしろ、グラハム師のマントが世界の政治家に関わったように、地に御国を建ち上げるという主の本来のご計画に沿った、国家 nations という単位で、国そのものを大きく改革することが最終的な目的であり、デスティニーであるということにご注目ください。
従ってこの若者中心のリフォーマーたちが、国の政治経済、工芸文化、芸術からメデイア関係に至る迄のあらゆる分野に進出し、天から前代未聞の全く新しい創造的なアイデアと知恵をいただきながら必要な奇跡を起こすのです。こうして170カ国の小国に宣教が押し進められ、世界全体に終末の大収穫がもたらされるというのが主の御心です。(ウオルナー師のメッセーメッセージ終わる。)
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以上、私はビリー・グラハム師の死を迎えるに当っての画期的な預言を二、三ご紹介しましたが、もう一つ上記のウオールナー師のメッセージに付け加えるとすれば、彼はメッセージの途中で、晩年のビリー・グラハム師自身が自分がしたことを顧みて述懐しているビデオテープを紹介したことです。その中でグラハム師は自分が語って来たことを一言でいえば十字架のメッセージであることを強調しておられたことが印象に残りました。
さて最後にお伝えさせていただきたいことがあります。それは昨日トランプ大統領からの発表があり、この2月28日と3月1日の二日間、ビリー・グラハム師の遺体がワシントンDC米国議会議事堂のキャピタル・ロタンダといわれる大ドームの下に運ばれ、師の特別の功労を称えるべく(国葬に準ずる)特別に安置され一般の人々に公開されます。その後の3月2日にビリー・グラハム師の生誕の地ノースカロライナ州シャーロット市にある師の記念図書館にて告別の葬儀が行われ、それに大統領が出席します。その後で遺体はその地に埋葬されることになったようです。
ところで、シャーロット市といえば、同じ町に「スーパーナチュラル」ミニストリーでおなじみのシッド・ロス師の住まいとミニストリーの本拠地があります。また、そこからそれ程遠くないところにリック・ジョイナー師の本拠地もあります。ロス師は昨日の放映で、このビリー・グラハム図書館をぜひ訪問することを奨めるとともに、この図書館内には一つの樹を切り倒した古い根株があることを紹介しました。
それは昔グラハム師がバイブル・カレッジに在学中の或る夜、自分の信仰に疑いが起きた時、この切り株に聖書を持ってひざまずき、必死の思いで主に「私は主のみ言葉が書かれているこの本をよく理解できません。しかし今夜、私は主に向かって、この本に書かれているすべての言葉を信じます。」と泣きながら決意の宣誓をし、その信仰の告白と嘆願が本日のグラハム師の偉業を築き上げたと書かれているそうです。すばらしいではありませんか。ビリー・グラハム師は数日後に、この切り株のあるご自分の出発点とも云える記念図書館に帰って来て埋葬されるというのです。この場所は彼の肉の生家としての出発点であるとともに、この世で主からいただいたデスティニーを成し遂げて帰って来た地であるとも云えましょう。誠に神のなさることは何と奇しくすばらしいではありませんか。ハレルヤ!(終り)
21 02月
リバイバルがやって来る!誰がその火を点け、
誰がその実となる未信者を導くのか (その二)
坂 達 也
先週はこの2月8−11日に開催されたモーニングスター・ミニストリーにおける「アドバンス預言カンファレンス」で語られたリバイバルとアウェークニングへの預言についてご報告し、特にジェロマイヤ・ジョンソン師のメッセージに焦点を当てました。
そこで今回はその前日の講師であったポール・キース・デイビス師のお話をご紹介’します。
師は前にもお話ししたかと思いますが、約3年前に奥さんが家を出て行かれ、その衝撃と悲しみの中で、首の付け根辺りの背骨を痛めるという大変な事態になり大きな手術を受けることになりました。一時は一人で立つことも歩くこともできず、痛みに苛まれ食べることすらままならなかったといわれます。また手術後の回復が思わしくなく、再び背中の手術が必要と医師に云われたのですが、師はそれを断りました。そのような大変な痛みと苦しみの最中にあった2015年6月の或る夜、9時過ぎでしたが、濃い主の臨在が彼の寝室を満たし、上を見なさいという声が聞こえて、見上げると天井が吹き抜けて天の御座に座っておられる御父を肉眼以上にはっきりと見ることができたと言われます。それは本当に生きておられる父なる神に会うという劇的な経験であったのです。師は「それは私が痛みと苦しみの頂点にいた時でした。私はその感激で1時間半泣き続けました。そしてそれ以来今に至る迄、その濃い主の臨在が私から去らないのです。」と言われます。
「御父は、『わたしはあなたを養子としてわたしの子どもにしたのではない。 あなたはわたしの朽ちることのない永遠不滅の「種」から生まれ(それは人間の精子を思わせる霊の精子)、実際にわたしの種があなたの中に入っている』と言われました。それは1ヨハネ3:9に書かれてある通りです。ですから天におられる父なる神は、私を養子という形で他人の子どもを引き取ったから子になったのではなく、実の『父の種から生まれた真の息子』であることを強調されて『我が子よ、わたしは決してあなたから離れず見捨てることはしない。』とはっきり言われました。ですから、キリストとともに死に、キリストとともによみがえった私たちクリスチャンは、真実『神の子』であり、天におられる主イエスの父と私の父は同じ父であるという明確な確信をいただきました。」と師は言われます。
そこに師は、御父と主イエスと自分の関係が特別なものー霊の関係は肉の関係より遥かに強いリアリティーを持つ超親密なリレーションシップーであることを感じることができたといいます。そして父の子である自分はこの世が造られる以前から、終末の時代の「この時間」に生まれて生きる、そして予め天で定められた時が来る迄は「決して死なない」というデスティニーを持っていることを確信したそうです。
師は続けます。「この世の中には『永遠のいのちの霊の法則』と『罪と死の霊の法則』があることをはっきり霊的理解を持たないで生きてしまえば、私たちは死の霊の法則を甘んじて受取ってしまう。そのようになりかけていた私に対して主は『止めなさい!ストップしなさい。』といわれたのです。それは私があまりにも痛みが激しく耐えきれなくなったときに『主よ。どうぞ私をもう天に引き取ってください』と主に二度も嘆願したからでもあります。私が死の霊に脅かされ、それに同意していたことを知っておられた主ははっきりと『あなたを天に引き取る時は未だ来ていない。だから、永遠の命の霊によって生きなさい。』と私に命令されたのでした。主は『私たちは罪と死の霊の法則に縛られたまま、それを受け入れた生き方ーライフスタイルーを脱ぎ捨て、本来既に持っている「永遠のいのちの霊の法則」で生きねばならない。そうすれば病気とか悪魔の誘惑に負けることはない。そして神が定めた時が来る迄、全く健康な身体で生きることができる。』と私を強くたしなめられました。」
師は、自分は超自然の力で癒しのミニストリーを強調しようとして言っているのではないこと、むしろそのような力は『永遠のいのちの霊の法則』で生きる者には既に具わっていることを強調していわれたのです。私はこれを「霊的覚醒」と表現したいと思います。
しかし問題は、どうすればそのようにいのちの霊の法則で生きることができるのか、です。これは信仰の訓練であり、それはジムに通って毎日筋肉トレーニングをするのに似ていて、一日二日しても効果は目に見えない。しかしたゆまずその信仰の筋肉訓練を続けるなら必ず効果が現れ、本来持っている永遠のいのちの霊の法則で生きる生き方ができるようになる。筋トレを怠ればその結果も数日では現れないが、一月、二月怠ればお腹のベルトの穴の位置が変わり、遂にはズボンを新しく新調しなくてはならなくなるのと同じであるといわれました。
それでは、その信仰のトレーニングの方法は何かといえば、それは先ず、命の霊の法則で生きる信仰の上にしっかり立つことから始めなさいと主は言われたそうです。その点ボーン・アゲインしたクリスチャンであっても、この世で生きている間は、この永遠の命の霊の法則と罪と死の霊の法則という二つの法則が重なり合っており、死の霊の法則の(誘惑に)陥らず命の霊の法則だけに堅く立って生きることによって、決して病気にならない、あるいは、それに打ち勝つことができるといわれます。
そして師は、チャック・ピアースがいわれることに同意して「今私たちは、新しい希望をいただいて、新しいシーズンに入ったのであり、主が「この新しいニュービギニングのシーズンを勝ち通しなさい。あなたの持つ新たな信仰の戦いの向こう側は勝利であり、その信仰があなたを既に勝利した側に立たせてくれている」といわれて励まされたとそうです。
そのための具体的に何をすればよいのかーその秘訣を主に聞くと先ず「毎朝起きたときに、聖書の御ことばから、いのちの霊の法則のことばを選んで、それを声を出して唱えなさい」といわれたそうです。そこで師は、最初に詩篇の103を選んでそれを口に出して高らかに宣言しました。そして、これを始めてから既に一年近く経つと師は言われたのですが、その師をテレビ画面で見ますと、全く見違える程元気になられ、私たちが4年前に師に会った時よりももっと若返ってはつらつ、生き生きとしておられるのを見て私たち夫婦は心から感動しました。
このデイビス師が極限の苦しみの頂点にいる時に真の神に出会い、真の神を知ることができたことに私は心打たれました。主イエスの苦しみたるやその昔キリストが十字架をかついでゴルゴサの丘に向かうシーンが映画で演じられたことを思い出しました。実際に主が味わられた苦しみはそんなものではないといわれますが、過去・現在・未来に存在するすべての生きものが苦しむ痛みの総計に有り余る苦しみを、創造者の神ご自身が私たちに代わって味わってくださったのです。そのような考えられない程極度の苦しみと痛みのほんの一部を私たちが味わせていただけるとすればーこれ以上の特権がこの世の中にあるでしょうか。この特権こそ、主の十字架を信じ、自分の十字架を担いで、喜び勇んで主の後を追って歩く人だけに与えられた「永遠の命の霊の法則で生きる」特権であると私は信じます。そのような苦しみを味あわせていただいた人は最も幸いな人、特別に選ばれた人ではないでしょうか。今そのような苦労の中を通されている人は幸いです。
そしてデイビス師の話しが終わる頃に静かに壇上に現れ、師の側に並んで立たれたのはリック・ジョイナー師でした。リック師は、この一、二年の間、膝の手術後、複雑な問題から同じような激しい痛みと苦しみを味わって来られました。その彼が、或る時痛みをこらえつつゆっくり歩いていると、一人の少女が近寄って来てリック師の膝には悪霊がついているのが見えると言い、その子が祈ると80%程の痛みが取れたという証しをされました。リック師は詳しいことは云いませんが、最近主から多くのビジョンを見せられて来たといい、それを今数冊の本に書き上げたところであると言いましたから、私はうなずけるのですが、激しい敵の攻撃を受ける最中に書かれたその本は、さぞすばらしい本ではないかとその本が出版されるのが楽しみです。
同じように、私はデイビス師がこの終末の時代にこれから大きく用いられることを今回の彼を見て確信しました。また今回のカンファレンスで彼から預言の油注ぎを受けて「永遠の命の種を持って生きる信仰に堅く立つ決意を新たにしたクリスチャン」こそが終末の時代に主のために大いに用いられる人に選ばれ加えられたことをも確信しました。今回の預言のカンファレンスを画面上ではありますが目の当たりに見て本当に励まされました。
再度申し上げますが、今苦しみの中を通されている方は大勢おられます。しかし、その人たちは特別に選ばれた人、主に用いられる人であることをはっきりとお伝えしたいと思います。私がここ数年知り合った方々の中にもそのような方がおられます。どうぞこのメッセージを読まれ励まされてくださるようお祈りしております。
このような苦しみ、痛みに遭う(主がそれを許される)時には、主がその人に特別の任務を用意されていると信じます。その逆境が大きければ大きい程、その荒野の体験が長ければ長い程、その人は主に大きくすばらしく用いられるのです。事実私は今迄、主に用いられた著名な信仰の持ち主で、苦しい荒野の試練と逆境を通されていない人を見たことがありません。(終り)
13 02月
リバイバルがやって来る!」
誰がその火を点け、誰がその実りとなる未信者を導くのか
坂 達 也
私たち夫婦がヘンリー・グルーバー師夫妻を日本に初めてお連れした1995年頃の日本は、大げさに言えば、国中のクリスチャンが「リバイバル」「リバイバル」とリバイバルへの期待と掛け声で湧いていました。私たちを招いてくださったある教会では一日4時間から8時間もリバイバルのために祈り込まれていたことが懐かしく思い出されます。それ以来「リバイバルがやって来る」という声は聞こえて来ましたが実際にはほとんど何も起きていません。そして今ではたまに「リバイバル」という言葉を聞いても誰も興奮しません。
そんな中で最近また「リバイバルがやって来る!ー早ければ2018年に、あるいは2019年、そして20年には世界中に広がる」と云う声が掛ったのです。私たちはその事を先週ご紹介しましたが、それを読んでも恐らく誰も「そうか!」と興奮して椅子から立ち上がった人はいなかったと思います。しかも「やって来る!」と云ったのがリバイバルの歴史に詳しい、そして最後の大リバイバルに関する多くの預言を主からいただいて「ハーベスト」という本を著した預言者の第一人者である、リック・ジョイナー師が云われたのであってもです。
そんな思いをもって4、5日経った後、折からジョイナー師のモーニングスター・ミニストリーで、年一度の「アドバンス預言者カンファレンス」がこの2月8−11日に開催されました。私たち夫婦はこの実況を聞きました。色々な意味で、このカンファレンスで語られたリバイバルとアウェークニングへの預言は、いよいよ本物のリバイバルが来ることを真摯に宣言していると受け取りましたが、それは、決して浮ついたものではなく、むしろ厳粛な思いと「主からの厳しい叱責」を会場にもたらしました。講師はチャック・ピアース師、ポール・キース・デイビス師、それにほとんど無名の30歳のジェロマイヤ・ジョンソン師でした。そしてジョイナー師が日曜日の礼拝で締めくくりました。
その報告を全部させていただく紙面がありませんので、今日はハイライトとして弱冠30歳の預言者ジェロマイヤ師の預言とそれを受けたジョイナー師のメッセージを要約してお伝えします。
ジェロマイヤ師のメッセージ
私はアメリカの色々な教会を訪れました。最近では、多くの教会からリバイバルのための預言とメッセージを頼まれて訪ねるのですが、そこで預言、超自然の力、奇跡、癒し、或は祈りやワーシップを強調すれば会場は沸き、喜ばれますが、「ホーリネス(聖さ)」と「罪の悔い改めの必要」を語ると、会場はシュンとして静かになってしまいます。私は天国の実質とリアリテイーとは、何をさておいてもホーリネスが根底にあり、クリスチャンの本質は十字架、イエスの血潮、復活の力にあると説くと、その集会での献金謝礼はグンと落ちて旅費にもならないのです。確かにアメリカには多くのすばらしい教会があり、中でもビルジョンソン師のべテル教会とマイク・ビクル師のIHOPの二つはアメリカを代表する二大教会と云えます。しかし、聖書では「三つを束ねると最も強い」と言われます。その三つ目の教会とは、他ならぬサウス・カロライナ州のこのリック・ジョイナー師のモーニングスター教会です。本教会の担う責任は、迫り来るリバイバルにとって最も重要かつ最も必要な「罪の告白と悔い改め」を説き、神を畏れ「神聖さ」を第一に強調する最も大きな任務があると私は固く信じます。リバイバルの歴史を見れば明らかです。代表的なリバイバリストにジョナサン・エドワードがいますが、彼は「ホーリネス」と「悔い改め」のメッセージ抜きではリバイバルは絶対に起きないことを示した代表的なメッセンジャーと云えます。(以上ジェロマイヤ師)
ジェロマイヤ師は「私たちクリスチャンリーダーと教会は、神を喜ばすメッセージをすべきでしょうか、それとも人間を喜ばす説教をするべきでしょうか?」と問い掛け、「自分はモーニングスター・ミニストリーにこの預言を伝えに来た」とはっきりと宣言したのです。そしてジョイナー師は、そのメッセージが神からの預言と受け取り、彼自身その責任を預かることを日曜の礼拝メッセージではっきりと認めました。
「輝く聖さ」を持つクリスチャンが今こそ現れよ
ところで私は、今朝コンピューターのデスクトップに、どういう訳か未だに残っていた昨年6月に掲載したWWGM のメッセージの原稿ーーフランシス・フランジペン師の「輝く聖さ」という表題にふと気が付き、目が吸い込まれました。普通なら既に所定のファイルに移されているはずのこの原稿がどうして残っていたかはわかりませんが、今日の題材はマタイ5:8に書かれている「聖さ」にあると言う思いを昨夜から与えられていましたので、私はこれは主からであると確信しました。以下はそのフランジペン師のメッセージからの抜粋です。
「・・・聖霊は私たちをイエスの御前、イエスの臨在へと導いてくださり、そこにおいて私たちはイエスと結び合わされ交わることによって(イエスの)聖さを受けとらねばなりません。私たちが求める聖さとは、キリストご自身が持っておられる素晴らしいいのちです。・・・すると、私たちは普通に言うところの「イエスを信じる信仰」以上のものを持ち始めます。私たちは、実にイエスが持たれる信仰のレベルと質をもって、イエスと同じように信じ始めるのです。私たちを聖くするのは、私たちの内におられる神です。
小さな止まり木に満足気に心地よく座っていた私たちを揺すぶり振り落としてもらいましょう。そうすれば私たちは大きなおののきと大きな喜び、深い礼拝と聖なる畏れをもって、ご自分の意志と目的のために私たちを引き寄せてくださった神のリアリティーへと近づくことができます。・・・考えてみて下さい。初めに創造主はご自分の姿に似せて人を造ろうと思われましたが、そのお方の御霊があなたの内に、今、おられるのです。
聖くなるために・・・あなたは二人の主人に兼ね仕えることはできません。光と闇に、罪と義に、自分と神に、同時に仕えることはできません。光があなたの内にあります。しかし闇も又、あるのです。私たちの世界は暗やみの世界です。私たちの肉の思いは、いまだに暗やみが活躍する舞台になっています。選択を迫られる世界で私たちは光を選び取らねばなりません。
もしあなたが自分の意志と思いを神に集中するならば、あなたの全身は光で満ち、あなたの内におられる神の栄光を完全に表すことができます。しかし、もしあなたに二心があり、罪や悪の思いに留まり続けるならば、あなたの光は徐々に暗くなり、遂には暗やみで満ちてしまいます。イエスは「だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。」(ルカ11:35)と警告されたのです。・・・
自分の救いに関して何もせず、神を求めず、神に従うことを拒否するならば、あなたは闇の中にいるのです。「まあ、いつか自分は何となくそれなりに良くなっていくだろう」というような、当ての無い希望で自分を慰めるのをやめてください。決意という武具で身を固めてください!もしあなたの光が闇の中に埋もれているとしたら、その闇はどんなにか恐ろしいことでしょう。光の子たちよ、あなたがたは闇を憎まねばなりません!闇は地獄の実体です。それは神の存在しない世界なのです!・・・
私たちのからだはあかりが輝くように栄光で輝くのです。これは途方もなくすばらしい希望ではありませんか。私たちのからだ全体が神の臨在によって輝き、暗い部分が全くなくなるというのです。
霊的に成熟した者、あるいは神の聖者のためには、光と栄光に輝く衣が用意されています。それは変貌の山でイエスが着ていた衣と同じものです!それは永遠の中でだけまとう輝きではなく、今ここで、即ち「曲がった邪悪な世代のただ中で」「世の光として輝く」ことです。(ピリピ 2:15、16)
エペソ5:8「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」今、あなたは光のこどもです。これは単なる比喩ではありません。神の栄光があなたの内とあなたの周りにあるのです。それが霊的なリアリティーです!
ではあなたのうちにまだ残っている暗やみはどうなるのでしょうか? パウロを続けて言っています。エペソ5:11、13「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい...けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。」
あなたの暗やみを隠さないで、明るみに出してください。暗やみの言い訳をしないで、告白してください。憎んでください。断ち切ってください。なぜならば、暗やみがそのまま闇の中に留まっている限り、それはあなたを支配するからです。しかし暗やみを光の中に持ち出すならば、それは光となります。今まで隠していた罪を持って神の恵みの御座に大胆に進み告白するならば、神はすべての罪からあなたをきよめてくださるのです。(第一ヨハネ1:9)あなたがもし再び罪を犯すならば、また悔い改めてください。あなたの中で罪の習慣がなくなるまで何度でも悔い改めてください。」(引用終り)
私はこのフランジペン師のメッセージに改めて心打たれました。なぜならマタイ5:8「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」という御ことばこそは、私にとって最も大切な座右の銘として来た御ことばの一つであるからです。この真に「主を見ることができるようになる」ためにはこの「聖さ」が絶対に必要です。
前にもご紹介しましたが、ピアース師が今回も語られたことがあります。それは、今年(ユダヤ暦5778年)の課題は、クリスチャンが信仰を改めて改革・リフォーメイションする「新しい出発ーニュービギニング」の年であることです。いよいよ終末のリバイバルが来ると預言されて来た大ハーベストが始ろうとしています。
しかし問題は、誰がその火付け役になるのでしょうか。そして誰が、これから生まれて来る大漁のリバイバルの網にかかった人たちを真の悔い改めに導き、真のキリストの花嫁に育て上げるのでしょうか。
そのために、私たちはサムエルを育てようとした大祭司エリであってはならないのです。ーーエリは主を愛しましたが自分の二人の息子 ホフニとピネハス二を厳しく躾けることをしませんでした。主は、今の時代の教会のリーダーたちが、エリと同じように信徒を甘やかし「熱狂的であれば後の罪は放任する」という大きな罪を犯していることに怒りを発しておられると、ジェロマイヤとジョイナーの両師がそれを指摘していることを最後に改めて強調させていただきます。そのような今の教会の信徒こそを先ず誰かが厳しく悔い改めに導く責任があるのではないでしょうか。
終末の時代に生かされている私たちクリスチャンの教会の多くは、今本当に惑わされています。それは真の福音からは程遠い「妥協し水増しされた福音」しか語られていないとジェロマイヤ師は叱責しました。私はそのメッセージを真摯に受止めました。どうぞ皆さん、これについてぜひお祈りいただきたいと心から願う者です。(終り)
05 02月
心の目を開いてください
坂 柚実子
黙示録22:18、19「私は、この書の預言のことばを聞くすべてのものにあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」
マタイ5:18「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅び失せない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。すべてが成就されます。」
私たちは聖書の言葉を変えることは神が禁じておられることだと教えられています。これに反して讃美の歌に関しては、「主にむかって新しい歌を歌え」と詩編の中に何度も書かれていますし、またイザヤ書や黙示録にも「新しい歌」という言葉が出てきます。
イザヤ42:10「主に向かって新しい歌を歌え、その栄誉を地の果てから。」
黙示録5:9「彼ら(四つの生き物と二十四人の長老)は、新しい歌を歌って言った。」
聖書の御言葉は永遠に変わらないもの、一方歌はどんどんと新しい歌を歌ってよい、いや、歌わねばならない、ということに私は興味を持ちました。讃美は私たちの霊や魂から出るものです。慣れ親しんだものだけではなく、その時の私たちの心から出る讃美を主は喜ばれるのだと思います。その最たるものはスポンテニアス(即興的)な霊歌でしょう。又その時代に新しく作られる曲は、その時代に沿ったものとなるのも当然だと思います。
私は「心の目を開いてください」というテーマの歌が3つあるのに気がつきました。
1.まず 新聖歌38番で、クララ・スコット(Clara Scott により1895年に作詞作曲されたものです。
わが目を開きて さや(明)に見せたまえ
今まで知らざりし みふみの真を
我今しずかに 我が主を待つなり
主よ 与えたまえ 悟りを
Open my eyes that I may see
Glimpse of truth Thou hast for me
Place in my hands the wonderful key
That shall unclasp and set me free
Silently now I wait for Thee
Ready, my God, Thy will to see
Open my eyes, illumine me,
Spirit Divine!
(私のためにあなたが与えてくださる真理を垣間見ることができますように、私の目を開いてください。私を解放し自由にする素晴らしい鍵を私に与えてください。今私は静かにあなたを待ち望みます。私の神よ、あなたの御こころを切に求めます。聖なる御霊よ、私の目を開けて、悟りをお与えください。)
これは詩編119:18「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。」からテーマを取っているそうですが、主の御前に静まり、主の真理と御こころを知るために霊の目を開いてくださいと願っています。讃美歌や聖歌の古い訳は、私を含め古い年代にとっては非常に歌いやすく、優れていると思われるのですが、若い人には難解なのでしょう。また英語の歌詞を日本語に訳す時は、散文とは違い、曲の中に収めねばならないので、全部の内容を訳しきれないことが多く、元の歌詞と較べると確かに抜けている部分がありますが、すばらしい訳になっています。深い内容であり、さっと表面的に歌ってしまうのではもったいないものです。
2.次に1976年に ボブ・カル(Bob Cull)が作詞作曲したものです。
開いてください 心の目を
さらに深く 主を知るために
開いてください 心の耳を
さやかな御声を 聞き取るために
Open our eyes, Lord
We want to see Jesus,
To reach out and touch Him
And say that we love Him
Open our ears Lord
And help us to listen
Open our eyes, Lord
We want to see Jesus
(主よ、私たちの目を開いてください。イエス様を見たいのです。主に手を伸ばし、ふれて、「愛しています」と言いたいのです。主よ、私たちの耳を開いて、聞こえるようにしてください。主よ、私たちの目を開いてください。イエス様を見たいのです。)
ボブ・カルは、1960年代末から70年代はじめにかけてカリフォルニアで起こったジーザス・ムーブメントの中で救われ活動した作曲家です。ジーザス・ムーブメントは堅苦しいキリスト教という宗教を見捨てた若者たちが、シンプルにジーザスを求めたムーブメントでした。ベトナム戦争やウオーターゲイト事件が起こる中で、本当に信頼できるものを彼らは求めたのです。
ボブと妻のジョイは1976年にハワイに移住し、ジーザス・ムーブメントをハワイにもたらしました。ハワイの若者たちがボブのメッセージに心を開かなかったとき、彼は苦しみ、その苦しみの中から生まれたのが、「Open our eyes, Lord 開いてください、心の目を」だったのです。ボブは若者を自分の言葉で説き伏せるのではなく、彼らの心の目を主が開いてくださるようにと祈ったのです。難しい理屈ではなく、彼ら自身が 主を見て主の御声を聞くことこそ、真の救いの鍵であることを彼は悟ったのです。「心の目を開いてください。イエスを見て、ふれて、愛を告げたいのです。」というシンプルで熱い思いが歌われています。
3.次に2000年にポウル・ベロシュ(Paul Baloche)が 作詞作曲したもので、かなり乗りのよい曲になっています。
わが心の目を 主よ 開いてください
主イエスを見るために
高く上げられた 栄光に輝く
主イエス あなたに
愛をささげるため
Open the eyes of my heart, Lord
Open the eyes of my heart
I want to see you
I want to see you
To see you high and lifted up
Shining in the light of your glory
Lord, pour out your power and love
As we sing holy holy holy
(私の心の目を開いてください、主よ。私はあなたを見たいのです。私はあなたを見たいのです。高く上げられ栄光の光に輝くあなたを見たいのです。主よ、私たちは「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と歌います。今、あなたのちからと愛を注いでください。)
ポウル・ベロシュは、数々の賞を取っているシンガー、ワーシップリーダー、ソングライターです。教会のワーシップのためにセミナーを開いたり、指導書も出版していて、
教会のワーシップが霊的に高められために力を注いでいる人です。この歌は栄光に輝く王なる主の姿を人々に示し、聖なる畏敬と共に強い敬慕の念を表現しています。
彼はワーシップに関して「it‘s simply about intimacy with God.それは神との親密さに尽きます。」と言っています。
以上ですが、皆さんが一番親しまれたのは、どれでしょうか。
三つとも「心の目を開いてください」と真摯に主に願っていることに心打たれます。「私たちは見える」と主張しない者は幸いなのです。目を開けて頂くことによって何を見たいのかが、少しずつ変化しているのが非常に興味のあるところです。製作された年が1895年、1976年、2000年と離れていて、それぞれにその時代の教会の姿を映し出していると思います。伴奏も、恐らくオルガンからギター、そしてドラムの入ったバンドへと変遷してきたのではないでしょうか。
私の信仰生活はこの3曲が代表するいろいろな時代の讃美を知り、愛し、歌ってきました。それは私にとって大きな財産です。長く歌い継がれているものは、そこに主の息吹が吹き込まれているからに違いありません。ヘンリー・グルーバー師は、「天で今行われているワーシップを聞き、それに合わせなさい。」と常に言われています。それこそがワーシップの究極の秘訣ではないでしょうか。(終り)