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Walk With God Ministries


26 12月

主が私たちに期待される2018年  坂  達 也           2017年12月26日


主が私たちに期待される2018年

 

                  坂  達  也

 

 皆様にとって2017年はどんな年でしたでしょうか。多くの人が厳しいところを通された「戦いの年」であったといわれます。私にとっては一にも二にも「待つ」ことを学ばされた忍耐の年でした。丁度一年前、私たちの息子家族がニューヨークに移ることが決定し、そうであれば私たち夫婦もその後を追うことが主の御心であることと確信し、息子家族が一月末に引っ越したので、早ければこの春には移動と思い立ったのですが、その実現が遅れに遅れ、とうとう一年後の年末になってしまいました。そしてこの十二月八日に、三年半ぶりにニューヨークに戻って参りました。そして今新しい住まいへの入居準備に追われておりますが、やっと「忍耐と信仰に立って待つ」年を終えて、主が具えられた新しい道を主と共に、より一層の信仰で歩む期待に胸を膨らませつつ新年を迎えようとしております。

 

 新しい年とは新しい出発 new beginning です。皆様は新年の門出に当り、どのような期待と決意をもってこの新しい門をくぐられようとしておられるのでしょうか。

 ユダヤ暦では,去る9月20日夕刻より既に、ロシュ・ハシャーナ5778年という新しい年に入っております。この新しい年は「新しい門」(あるいはドアー)をくぐる年であると、テキサス州にあるGlory of Zion International 教会のチャック・ピアース師は言われました。

 師は、昨年5777年(2017年)は剣の年であり、その年を通じて(あるいは始まりとして)主は古い組織を切り捨て、新年には私たちに新たなアイデンティテーを解き放つゆえ、今こそ強さと力を象徴する剣を手に、身に武具をまとって約束の地に出て行きなさい、5778年はその新しいドアー(門)に大胆に入って行く年である、と言われました。

 

  その後しばらく経った昨年11月末に、私はたまたま敬愛するポール・キース・デイビス師のビデオメッセージを聞いたのですが、師が昨夏に見た幻ー幼虫がさなぎとなり、時が来るとその殻を破って空中に舞い上がる姿ーの話をされました。彼は幻の中で一つの殻が破れて中から複数の人間が空中に舞い上がる幻を見たのです。彼はその幻を見た時、今こそクリスチャンが霊的に「トランスフォーメーション」されて天に舞い上がる時が来たことをはっきりと主から示されたそうです。そして天に向かって舞い上がったのは「神の息子・娘たち Huios 」であるとデイビス師は宣言しました。

 

 私はその話を聞いたとたんに、黙示録12章5節に書かれている次のくだりを思い浮かべました。「女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖を持って、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。」

 私はこの5節に出て来る「男の子 a man child」とは誰かという疑問を、実は、30年前から持っていました。ですからデイビス師の見た幻は、もしかして、黙示録に出て来る「男の子」が神のみもとである天の御座に引き上げられることを指すのではないかととっさに気が付き、はっとしたのです。

 ここでご参考迄に下記に黙示録一12章の最初の12節をご紹介します。

 

「巨大なしるしが天に現れた。一人の女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。

 また、別のしるしが天に現れた。みよ。大きな赤い竜である。・・・・その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた。また、竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。

 (5節)女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖を持って、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。女は荒野に逃げた。・・・さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。

 こうして、この巨大な竜、すなわち悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は(地上に)投げ落とされた。・・・そのとき私は天で大きな声が、こう言うのを聞いた。『今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。11節)兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。それゆえ、天とその中に住む者たち、喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」(黙示録一二:一から一二)

 

 5節の初めに出て来る「女」とは、「十二の星(部族)の冠をかぶる」イスラエルを指すといわれていますが、私はその解釈でよいと思います。但し私たちクリスチャンは「霊のイスラエル」ともいわれるので、ここの場合は、全クリスチャンを指す「主の教会」と私は解釈しています。そして「男の子 a man child」は通常イエス・キリストを指すといわれ、これも問題ないと思います。但し、この場合私は、イエスご自身よりも、主と共に世界の国々を牧する真にキリストに似た者となった神の子(息子・娘)と解釈したいのです。

 そして「その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。」ですが、その神の子(息子・娘)たちは、今は天の右座におられる主に属する者として、たとえ肉的には天に「携挙」されなくても、既に心と霊は完全に主とつながった人たちです。(霊と幻で天に行き来するクリスチャンは既に大勢いることもご考慮下さい。)聖書によれば、私たちクリスチャンとは主(聖霊)が私たちの内に住み、私たちは「霊的に」天の父の右座に主と共に既に住んでいるはずです。そのことはヨハネ17:14ー26に書かれています。また、ロマ書8章をもご参照ください。

 そこで私は早速デイビス師にメールで、主が今こそ Huios を熱望しておられるという師のメッセージに感謝の意を伝えると共に、黙示録一二章への私の疑問をお分ちし、その疑問に師が答えを下さったことを感謝しました。すると師は数日後にそれに対する確認と励ましの返事を下さいました。

 

 私は思ったのです。今年5778/2018年は、剣、すなわち「鉄の杖」を持ち「Huios  神の息子・娘」という新たなアイデンテイテー をいただいて「霊的に成熟した真のクリスチャン」になる、すなわち、その人たちとは主が帰って来られる前に地上で整えられ、真に御国の王に仕える「すべての国々の民を牧するはずの者」以外の何ものでもないのではないか。ーーそれは黙示録14:4に書かれている「女に汚されたことの無い童貞ー彼らは小羊行く所にはどこにでもついて行く、神および小羊にささげられるべく、人々の中から購われた初穂」であり、又、真の「キリストの弟子たち」であるーということに気が付いたのです。この「男の子」こそ主と共に世界の国々を牧する「主に選ばれた人たち」であり、このことがマタイ書の最後に書かれている「大宣教命令」の意味であるのですから、そのことをもう一度皆様ご自身でお確かめください。(マタイ28:18ー20)

 尚、一節に出て来る「巨大なしるしが天に現れた。一人の女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。」 とは、千年に一度現れるか現れないかと言う、天空に現れる星座/惑星/太陽/月の配列現象であるといわれます。そしてこの現象が、たまたま2017年9月23日、すなわち五七七八年ロシュハシャナ新年を迎える時期に起こったと言うのですから実に驚きです。

 

 ここでお断りしておきますが、私は上記のような聖書箇所を持ち出しましたが、それによって世の終わりの神学をこの紙面で論じるつもりでは全くないことです。なぜなら聖書を含む霊の世界では、この世的「時間と空間」の観念とは違い、時が前後交錯して書かれていたり、又、聖書のことばの解釈は二通りにも三通りにもできる、あるいは当てはめられるとしても問題ないと信じるからです。従って別の解釈とかお考えを持たれる方はどうぞ私のいうことをお聞き流しくださるようお願い致します。

 

「Huios  神の息子・娘」とは永久に仕える「主の奴隷」

 

 数年前に天に召されたウエード・テーラー師は、ある時、自分は「永久に主に仕える奴隷 bond servant になるコミットメントをしたいと決意し、教会の講壇の端を「戸口の柱」として自分の耳をあて主に突き刺してくださるように願ったそうです。(出エジプト記21:5−6参照ください)ご存知の通り、市場で売買されるイスラエル人の奴隷たちは、六年働いた後、七年目のヨベルの年には解放されました。しかし、もしその家の奴隷であることを自らが選ぶならば、彼らは耳を戸口の柱につけてきりで刺して通され穴をあけられました。それは彼らが永久にその家の主人に仕える奴隷となる儀式でした。これはクリスチャンが「主なる神に永久に仕える」という型を示したものです。そして、耳に穴を開けられることの意味は「主の御声を聞く」ことが、永遠に主にだけ仕える絶対の前提条件であることを示しています。

 「Huios 神の息子・娘」とは、自ら進んで自分の人生に対する一切の権利を無条件で主に明け渡し、自分の人生を全て主に委ねる「愛で仕える主の奴隷」になる決意をしたクリスチャンです。キリストともに死に、キリストと共によみがえり、神と一体となって「主と共に歩む永遠の命」を生きるクリスチャンです。そのような「神の子」になりきった者は、主が必要なもの一切をその人のために用意されるだけでなく、永遠に最高の人生を生きさせて下さるのです。残念ながら、今の時代のクリスチャンはそのことを知識として知ってはいても、それこそが神からのこの上ない福音であると心から信じ、その決意で生きてはいません。第一、奴隷などという言葉は古い観念で禁句であるとおしかりを受けることを覚悟でこれを書いております。

 

 しかし聖書で神は、すべてのクリスチャンがそうなることを望んでおられると私は信じます。残念なことに、それを実行する人はほとんどいませんし、それを考えること自体が古いといわれるでしょう。その生き方を選んだ人は、むしろ、「主に選ばれた人」の生き方ではないかとさえ私は思います。

 主がこの世に再臨される前の最後の「御国建設」の時代に絶対に必要な「器」「忠実な主のしもべ」「真のキリストの弟子」として用いられる人のことを指すのではないでしょうか。これこそマタイによる福音書の最後に書かれている、普通「大宣教命令」といわれるクリスチャンであると信じます。

 

 主のシェカイナの栄光が真昼の太陽のように輝き出る迄、主は試煉を与えてそのような「神の子たち」を訓練し、私たちの中の不純物を取り去られます。今がまさにそのときではないでしょうか。

 今、私たちは主の栄光が現れる終末の時に入ろうとしています。皆さん、新しい年の門出の門で、耳にキリで穴をあけられ、殻を破って天に舞い上がる蝶となる決意をしようではありませんか。

 

世界は激しく揺すぶられている

 

 世界は今大変な混乱・混迷の状態にあることを否む人はいないと思います。一言でいえば、それはヘブル人の手紙12:26ー27に「・・・『わたしは、もう一度地だけではなく、天をも揺り動かす。』このもう一度という言葉は、決して揺り動かされることがない(霊的な)ものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。」と書かれているように、すべての被造物が激しく震われています。先ず、世界中の天と地が揺り動かされています。前代未聞の猛烈な嵐とか、干害、地震、火山噴火、それによる飢饉、風水害による天災のみならず、人災も戦争とテロ、民族は民族に、国は国に敵対し、迫害、その他の破壊行為は激しさを増す一方です。

 これはまさに、すべての隠れた罪を神は今一気に明るみに震い出す御計画であるように見えます。それはあたかも創造者の神が、人間の犯して来た罪がどれ程多大で、深いものとなったかを示し、特にクリスチャンがいかに頽廃堕落しているかに目覚めさせるのが真の目的であるように思えます。

 アメリカは、つい10年位前迄は70%近い国民がクリスチャンといわれ、世界一のクリスチャン国であることを私は誇りに思って来ました。しかし、今では何とクリスチャンと名乗れば身の危険を感じ、肩身の狭い思いをしなければらなくなるという、世界一のクリスチャン国が一変してクリスチャンが迫害される国と変わり果てたのです。それでは70%のクリスチャンはどこに行ってしまったのか?どこにも行きません、その人たちのほとんどは名ばかりのクリスチャンであることを主が暴露しておられるのです。

 今アメリカでは御存知のように、すべての公共団体と政治組織にたずさわる人だけでなく、民間企業・教育文化・メディア関係を含むあらゆる社会組織においてのあらゆる不法と不道徳行為による罪ーそれは、殺人、暴行、詐欺、人種差別・メディアのうそ・腐敗と癒着行為・不正が問われています。特に最近では、著名な政治家からメディア関係幹部・ハリウッドの有名人等に、過去現在の道徳的不品行、特に性的暴行、嫌がらせ行為が明るみに出た結果、国会議員には退任を、民間人には組織から解雇されるケースが続々と出て来て、まるで蜂の巣を突いた様相を呈しており、しかもそれが急速に世界に波及しつつあります。どう考えても今は通常の時代ではないように思え、そのすべての世界情勢は、いよいよ神が地における御国の体制を整えるのを急いでおられる兆候であるように思えます。

 

ひっ迫する北朝鮮問題とイランの核兵器開発

 

 最近の軍事専門家による分析では、北朝鮮の核爆弾がアメリカ全土に実質とどくようになる迄には後一年足らずといわれ、ハワイをはじめ本土の国民は特に EMP 爆弾を真剣に危惧し始めております。過去三代のアメリカ大統領が、北朝鮮の核開発を口では警告しても実質野放しにして来たのと違って、トランプ大統領は真剣に先制軍事行動に出ることを検討していることはまぎれもない事実です。アメリカは、中国が北朝鮮に完全な経済封鎖(特に石油)を実行することを期待して圧力をかけて来ましたが、案の定中国はそこまでは踏み切りません。

 端的に言って、私は、中国とロシヤは北朝鮮とイランに少しばかりの核を持たせ、彼らを先ず矢面に立たせてアメリカの出方を見る、そして、最終的には中国とロシアがアメリカを打つ構図ー少なくともこの四国によってアメリカを共通の敵として包囲する構えーが見えて来たように思います。

 一方トランプ大統領はそれを見越して、北朝鮮だけでなくイランとシリヤの化学兵器問題にも厳しい手を打つ強い姿勢を見せています。併せて、エルサレムに大使館を移すという選挙公約を今実行に踏み切ることを発表し、世界は騒然としています。これは明らかに、アメリカとイスラエルが上記の四国だけでなくアラブ諸国に対しても全面的な宣戦布告を宣言したかのように見えます。世界はいよいよ二分化しつつあり、既に事態がアメリカ対北朝鮮だけの問題を超えていることを示しています。これこそマタイ二四:六の「戦争と戦争のうわさ」という終末の徴が整いつつあるように思えてなりません。そのような中で日本はどうなるのでしょうか。

 

トランプ大統領への祈りのお願い

 

 反トランプの動きは益々激しさを増しており、アメリカは孤立し、世界は不穏な空気が高まる一方です。まさしく「この巨大な竜、すなわち悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は(地上に)投げ落とされた。・・・地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」の様相です。しかしそれは神のご計画の一部であって恐れる必要はありません。トランプ大統領は選挙公約以上に、クリスチャンとして正しいことは正しいと、たとえ世界中を敵に回しても恐れず、神をこそ畏れる姿勢を明確に示し始めていることに私は拍手を送ります。今は私たち世界中のクリスチャンが正しいことを正しいといい、黒白をはっきりさせ、恐れず、それを堂々と表明する時が来たと思います。それが私たちへの「踏み絵」であると信じます。

 

 特に申し上げられることは、トランプ大統領は信頼できるクリスチャンリーダーたち、特に預言者の意向に耳を傾けており、クリスチャン・コミュニティーとの連絡が密にとられていることは、日本の一般の皆さんには知られてないと思います。この時期に敢てイスラエル支援への決断が表明されたことはその証拠の一つでありましょう。しかし今こそアメリカとトランプ大統領は、世界のクリスチャンからの祈りを必要としています。

 この緊急時、年末年始に当たって、ぜひともイスラエルとアメリカへの一層の祈りの支援をお願い申し上げます。最後にまた、この一年間、皆様から大変なご支援とお祈りの励ましを頂戴しましたことを末筆ながら心から御礼申し上げ、ご挨拶とさせていただきます。(終り)


18 12月

新しい靴       ボニー・ジョーンズ               2017年12月18日


新しい靴

 

ボニー・ジョーンズ

 

 

フレッシュな油注ぎ

 

今シーズンに私は靴に関する夢を数回見ました。靴は主との歩みを表しています。今は新しいシーズンであり、私たちは今まで歩いたことのない道を歩くのです。主は次のように語ってくださり、私は聞いたことをただそのまま書きました。

比喩的で面白く素晴らしいと思いました。

しかし面白い話ではありますが、私はこの言葉を真剣に真面目に受け取っています。今はキリストのからだが主と共に歩き、他人の召しを羨むのではなく自分の召しを遂行すべき時だと思います。嫉妬やプライドを持つ余裕はありません。主が別の人のためでなく、自分のために備えてくださったコースを完走せねばなりません。この主の御ことばは面白いですがとても重大です。どうか読んで祝福を受けてください。

 

主の話「全員が新しい靴をもらう」

 

すべてのクリスチャンが新しい靴を受け取ります。なぜでしょうか?

古い靴がすり減ったからです。ある人たちは今までどこにも行かずに同じところをぐるぐる回っていました。なぜでしょうか?人生を歩む「目標とその行程表」がないからです。今日、わたしは聞く耳のある者に行進命令を出します。

 

ある者たちは山を登っていましたが、頂上に着くことはありませんでした。なぜでしょうか?

彼らが途中で止めてしまったからです。道が険しくなりあきらめてしまったのです。障害物で先が見えなくなったのです。太陽の光がまぶしく目がくらみました。彼らは神の御子から啓示を受けても、プライドが高かったので自分の計画を捨ててわたしに従うことができなかったのです。それで彼らの靴はすり減りました。ほこりまみれでボロボロになり、底には穴があきました。

 

ある者たちは人生のレースを走り出したけれど止めてしまいました。彼らは死よりも命を選び取る決意が固まらず、すぐ脱げてしまうようなゴム草履(フリップ・フラップ)をひっかけていい加減に歩いていました。彼らは舌にくつわをかけることをせず、何の自制もできませんでした。彼らの足はすぐにくたびれ、道ばたにすわって誰かが水をもってきてくれるのを待っていました。

また、ハイヒールで歩こうとした者たちがいました。彼らはすぐに足が痛くなり、驚いてすぐ靴を脱いでしまいました。彼らのゴールは自分を高くして人々に感銘を与えることでしたが、歩き続けることが出来ませんでした。彼らは少しずつ背が伸びるのを待つべきだったのですが、プライドの故に早く高くなりすぎたのです。高ぶりは滅びに先立ちます。彼らも道ばたに座り、リフレッシュされるのを待っていました。

ある者たちは小さすぎる運動靴と締め付けすぎた紐で走り始めました。彼らの足は豆が出来て痛くなりました。なぜでしょうか。もっと大きな靴が必要だったのです。成長するスペースが必要でした。彼らは謙遜で臆病で、ものを言うのを恐れていました。口にくつわをはめ、痛みをこらえて走り続けました。そして傷つき渇いてレースを終え、それなりのよい報いを受け取りました。

 

すべての者は、今日、新しい靴を受け、新しい任務を与えられます。彼らはそれを受け取るでしょうか、拒むでしょうか?今まで通りに歩くでしょうか、それともわたしのあとを歩き始めるでしょうか?

選択権は彼らにありますが、わたしはすべての者に新しい靴を差し出しています。平和の靴や愛の靴、彼らが想像したこともないほどの高みに連れていく靴です。啓示の靴、奇蹟の靴、繁栄の靴、成熟の靴です。

 

誰がわたしについてきますか? 誰がわたしと一緒に歩きますか?

さあ、来なさい、今日から一緒に歩き始めましょう。あなたが求めさえすれば靴は無償で与えられます。わたしに従って来なさい。

 

新しい歩み

 

わたしの子どもたちはこの道を歩いたことがありません。それは今が新しい時であり、新しいシーズンであり、彼らが過去にしてきたことは今のシーズンには役に立たないからです。わたしは創造しようとしています。新しい音や歌、新しい内臓や身体の部分を創造しています。ワーシップと讃美の家を造っています。男性や女性のグループの親しい交わりを造り出しています。わたしは新しい仕事の機会を造り、新鮮な香りを漂わせてます。

 

わたしの子どもたちは疲れたりつまずいたりしません。やすらかに歩きその荷は軽いでしょう。彼らは困難にぶつかるでしょうか?

確かに困難はあるでしょう。彼らは社会を変革させていく者であり、世はそれを喜ばないからです。彼らはわたしの名の故に糾弾、罵倒されますが、決して動かされません。それはわたしが彼らと共に歩いているからであり、人びとはわたしを動かすことは出来ないからです。

 

新しいアイデンティティー

 

現在、アイデンティティーの危機が起こっていますが、わたしの子どもたちにはそのような危機はありません。彼らが新しい靴を受け取り、わたしのうちに歩み始めるならば、自分が何者であるか、どのような位置を占めているのかと疑う者は一人もいないでしょう。なぜでしょうか?

キリストのからだの中にアイデンティティー泥棒がいなくなるからです。嫉妬、プライド、恨みは道ばたに捨て去られました。それを捨てなければ新しい靴は支給されません。捨てるのが困難な者もいましたが、ある者たちは素早く脱ぎ捨てました。

 

すべての者は疲れて痛んだ足を足湯で癒してもらいました。次に彼らの足を柔らかく滑らかにして新しい靴を履く準備をするために新しい油が塗られました。

靴は一人ひとりのためのオーダーメイドでした。同じものは一つもありません。わたしは一つひとつ彼らの任務にあわせて選びました。ある者は短距離を全速力で走り、ある者は山に登り、ある者は長距離を走るのです。ある者たちはハイヒールで歩くことさえ学び、新しい高みに上げられるでしょう。(以上が主からの言葉です)

 

結論:今は 新しい歩み、主にある新しいアイデンティティーの新しい日です。過去のことを振り返ることはもうできません。私たちは後ろ向きにレースを走る事はしません。ゴールを目指して人生のレースを走り、倦み疲れてはなりません。私たちは測り直され、サイズを合わせ、清められ、フレッシュな油を注がれました。私たちの旅路は今始まったのです。主の後に従い、信仰の一致をもって共に聖霊の橋を渡ろうではありませんか。(終り)

Bonnie Jones
The Prophetic Ministry of Bob and Bonnie Jones
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Website: www.didyoulearntolove.org


12 12月

主の臨在に浸る(ソーキング)    パム・ワトソン         2017年12月12日


主の臨在に浸る(ソーキング)

 

パム・ワトソン (Pursuit church in Auckland, New Zealand)

 

 

詩編37:7「主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。」

 

これがソーキング(soaking 浸る)の本質です。私たちが神の臨在の中に浸るとき、それは安息して神を待ち望む姿勢です。このように主を待ち望むことを、以前は「タリイング tarryingじっと留まって待つ」という言葉で表現していましたが、それは主を待ち望んで何時間もそこに留まることでした。しかしそれはほとんどの場合、聖霊に満たされるのを目的とし、聖霊を受ける準備を整えながら、嘆願しながら、長時間待ち続けるというものでした。

幸いなことに、今私たちはイエスと神の御こころをより深く知るようになり、私たちが嘆願するまでもなく主は御霊を私たちに注ぎたいと願っておられることを理解しています。ですから主にソーキングするとは、タリイングのように懸命に神に叫び求めるのではなく、主に安息し信仰によって受け取ることを強調しています。

 

栄光から栄光へと変えられる

 

第二コリント3:18「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

 

神の臨在に浸るとき(ソーキングする)、私たちは主を仰ぎ見るようになり、それによって主のように変えられていくのです。主の臨在に浸るとき、私たちは主を見るようになります。そのとき私たちは必ず変えられます。私たちは栄光から栄光へと変えられ、主に似た者へと更に変革されるのです。

 

主を待ち望む

 

イザヤ40:31「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」

 

この有名な聖句は、私たちが神を待ち望むときに何かが起こることを教えています。神という存在が、私たちの上に、そして私たちの中に、現れるのです。それは「私たちの弱さが神の強さと入れ替わること」であり、又、「私たちの足りなさが神の能力と入れ替わること」です。神を待ち望んで時を過ごす時、まさにそれが起こります。

多くの者は毎日の生活の中で、すでにこのことを経験しています。朝、主と時を過ごすとき、私たちの一日は力を受けます。神の臨在にソークするとき、この効果は更に強化されます。

 

神を敬慕する

 

ソーキングとは、また、主を喜び、主を敬慕することです。

雅歌2:3−5「私の愛する方が若者たちに間におられるのは、林の木の中のりんごの木のようです。私はその陰にすわりたいと切に望みました。その実は私の口に甘いのです。あの方は私を酒宴の席に伴われました。私の上に翻るあの方の旗じるしは愛でした。干しぶどうの菓子で私を力づけ、りんごで私を元気づけてください。私は愛に病んでいるのです。」

 

神の臨在にソークするのは、主の陰に座り主の臨在の果実を食べるようなものです。雅歌の花嫁のように、私たちも大喜びでそうすることができます。この箇所はまた、主が私たちを酒宴に伴ってくださる時に何が起こるかも告げています。

 

それはただ主だけに可能なのですが、まず私たちが主の臨在の中に入り座すことから始まります。その時私たちは、自分に対する主の愛のもっと深い領域へと伴われます。それは酒宴の席に喩えられています。これは主に対する私たちの愛が増し加わるだけではなく、主の臨在のぶどう主を飲んだ者の外面にも表れる結果となります。人々が笑い、震え、泣くことも多々あります。そしてそのような経験は「酔う」という言葉で表現されることもあるのです。

 

静まり、そして知りなさい

 

詩編46:10「静まって、わたしこそ神であることを知れ。(口語訳)

 

この勧めも又、静まって神の臨在の中にソークするときに、神を知り神を経験することが出来ると教えています。主の前に静まるとき、神の臨在の重さ、栄光を感じることができます。しかしこの境地を求めるとき、困難を覚えることもあります。それは、私たちの肉は非常に活発で落ち着くのにしばらく時間がかかるからです。

しかし私たちの肉体ですることは、霊的な領域に力強い宣言をすることとなります。私たちが神の臨在の中に横たわるとき、それは主に降伏し安息を求める姿勢であり、主はそのような私たちの願いを受け取ってくださいます。

 

ソーキングの時にワーシップミュージックをかけるのは助けになります。音楽は雰囲気を整え、心を開き私たちの霊が神への崇拝に立ち上るようにします。崇拝は聖徒たちの愛の歌であり、ただただ主を愛し敬慕するとき、私たちは主の臨在の豊かさを更に大きく経験するでしょう。

ソーキングは肉を静まらせ、霊を立ち上らせます。その時、身体の中に住む「霊」こそが「真の自分」であることに私たちは気付きます。私たちの霊が主との交わりと敬慕の中に立ち上がり始めると、私たちの肉体は完全に安息し、私たちの霊は目ざめて主から何かを受け取る用意が整うのです。

 

主の臨在の中にいる結果

 

多くの場合神からの啓示は、臨在の中でソーキングした結果得られる実です。主は御こころの秘密を私たちに明かすことを喜びとしておられます。

解決すべき私たちの問題を取り扱い、私たちの置かれた状況や問題のために知恵を与えることを喜びとされるのです。

ソーキングで主を待ち望むときに与えられるものの素晴らしさや偉大さは、詩編27で示されています。14節のダビデの宣言でそれは最高潮に達します。

詩編27:14「待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。」

この詩編でダビデが言っているすべての事への鍵は、主を待ち望むことです。即ち、「1−3節:敵に直面したときの確信と力、4−5節:神の家、神の臨在の中に一生住む願望、6−8節:喜びのいけにえと御顔を求めること、9−13節:敵に対する勝利と神の慈しみを得ること」です。

 

これらすべては神の臨在から流れ出てくるものであり、私たちが神を待ち望むとき、即ち神の臨在の中にソーキングするときに与えられます。

 

イザヤ30:15−17「神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。』

しかし、あなたがたは、これを望まなかった。あなたがたは言った。『いや、私たちは馬に乗って逃げよう。』それなら、あなたがたは逃げてみよ。『私たちは早馬に乗って。』それなら、あなたがたの追っ手はなお速い。ひとりのおどしによって千人が逃げ、ついに、山の頂の旗ざお、丘の上の旗やぐらしか残るまい。」

主はここで「救いは主に立ち返り、主に安息することから生まれる」と私たちを励ましておられます。これこそがソーキンングの姿であり、ただ主にのみ可能なことに信頼するのです。主に安息することによって実る実は「静かに落ち着き確信がある」ことです。これが私たちの力の源となります。

残念ながら、私たちの肉は非常に強く支配欲があります。私たちは何かをしたい、したい、したいと思うのです。神の臨在にソーキングするには、何もしないことが必要ですから、それは肉に対する侮辱となります。それ故に人々は葛藤し、神に立ち返り安息することを拒絶します。その結果、人々は敵の攻撃に対して肉では勝利できないことを思い知らされるはめになるのです。

 人々は自分の「馬」は戦い抜くことができると思います。そして自分の努力が失敗に終った時も、主に立ち返るのではなく、以前の2倍の努力をするようになります。その結果、彼らは山の頂の旗ざおのようにポツンと残されるのです。それは、枝を打ち払われた木のように、実が一つもなく枯れ果てたように見えるのです。

イザヤ30:18「それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。」

 

主は何と恵み深いお方でしょうか!

 

彼らは待たなかった故に死んだ旗ざおのようになりました。しかし、主はその時が来るまで待っておられ、彼らを恵みあわれむために立ち上がられました。

そして彼らを救われたのです。主を待つことの方が私たちにとってどれほど優れた道でしょうか!

私たちが待つ者になることを選びとるならば、主は私たちを恵み、あわれんでくださり、そして主の正義を現されて私たちの人生を祝福してくださいます。主を待ち望むことを選びとるとき、それは何と素晴らしい実を実らすことになるのでしょうか。

 

ソーキングは努力するだけの価値を持っています。それは時間を要しますし、自分に死ぬ必要がありますが、その報いは大きいのです。主の臨在への覚醒が増し加わるだけでなく、主の臨在のすべての実や益があなたの人生に解き放たれます。ソーキングは自分の家でいつでも一人で出来ることですが、グループですると

パワフルなものとなります。クリスチャンが集まるとき、グループ全体への油注ぎがあり、神の臨在を見つけるのが容易くなります。

どうかソーキングを始めて、楽しんでください!(終り)


04 12月

二本の木 ウエイド・テイラー(パロウシア・ミニストリーズ)    2017年12月4日


二本の木

 

ウエイド・テイラー(パロウシア・ミニストリーズ)

 

創世記2:9,16−17

「神であられる主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。、、神である主は、人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べる時、あなたは必ず死ぬ。』」

 

主はアダムをテストの環境に置かれました。そしてテストのために、アダムの毎日の生活の真ん中に二本の木を植えられました。 「いのちの木」と「善悪の知識の木」でした。

この二本の木は、その意図と目的において多くの点で異なっていました。アダムは一つの木からは自由に取って食べてもよいと言われましたが、もう一方の木から取って食べることは禁じられました。

「いのちの木」は、主がアダムに吹き込まれた霊的いのちと関連していました。アダムが生きるためには、毎日いのちの木から食べる必要がありました。それによってアダムが自分を造られた創造主に完全に拠り頼む生き方が確立されたのです。もう一方の「善悪の知識の木」は、アダムの肉の命と関連していて、神から離れ独立して生きる道を彼に与えるものでした。

 

「いのちの木」の説明はイザヤ53章にあり、イエスがいのちの木であることを明らかに示しています。

イザヤ53:2「彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」

 

堕落した人類は、イエスを 「砂漠の地から出る根」と見ました。彼は見とれるような姿もなく慕うような見ばえもありませんでした。イエスの麗しさは内なるものであり、ただ贖いと啓示を通して初めて認識出来る麗しさなのです。

しかし「善悪の知識の木」はそれとは全く違っていました。それは目に慕わしく非常に美味だったのです。つまり、堕落した人間にとって肉のものはすべてにおいて魅力的に映り、霊的なものは好ましくは見えないのです。

 

神のご計画により、 私たちが主から選ばれるためには支払うべき代価があります。主は霊的な麗しさを内に隠されました。ですからそれは主を心から慕う人々にだけ与えられる「霊的な視力」でしか見ることができません。マタイ22:14に「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」とある通りです。神のご計画により、主の麗しさを見るためには決してあきらめない決意が必要です。「選ばれる者」になるために、知識の木から分離するための代価を払うものは、本当にわずかでしかありません。

 

敵は「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べる時、あなたがたの目が開け、あなたがたは神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と言いました。エバは「ものごとを自分で決める」という権利を「食べた」のです。そしてアダムにも与えたので、彼も食べました。人類が「神のように」なり、創造主から離れて自ら統治しようとしたために、私たちはその恐ろしい代価を今日に至るまで払い続けています。

 

アダムとエバの不従順な行動の後に、主がアダムと共に歩くために園に来られました。アダムは主の臨在から隠れました。彼は自分が「裸だった」ので隠れたと言いました。それは着ていたものを失ったのではなく、「栄光(シェカイナ)の覆い」を失ったのです。それは彼が目に見える主の臨在と主の栄光の中に留まるために必要なものでした。

このシェカイナは今や「炎のつるぎ」となり、いのちの木への道を守るものとなりました。主はアダムがいのちの木から取って食べるのを禁じられたのです。その結果、肉体の死のプロセスが始まりました。創世記3:22で主は「今、彼が、手を伸ばし、いのちの木から取って食べ、永遠に生きないように。」と言われたのです。

 

アダムは霊的には即時に死んで、主の臨在の中に住むことを可能にしていた覆いを失いました。又、少し分かりにくいですが、肉体的にもその日の内に死んだのです。ペテロは「一日は千年のようだ」と言っています。アダムや彼以後のすべての者は、千年以内に死にました。

 

アダムとエバは自分で選びとる権利を「食べ」、それが彼らの一部となりました。主は動物を殺し( 血による最初の贖い)、その動物の皮の衣で二人を覆いました。彼らの罪は赦されましたが、彼らが食べたもの(自分で選び取る権利)は彼らの内に留まりました。

 

私たちは皆、この選ぶ権利をもって生まれてきました。イエスを救い主として受け入れるとき、私たちは罪赦されて新しく造られた者(new creation)となります。しかしこの「自分で選ぶ権利」は私たちの内に留まったままです。私たちはそれをエデンの園で得、主はそれを私たちから取り上げることはなさいません。しかし、私たちはこの自分の人生の権利を自ら差し出すことはできるのです。

 

ヨベルの年に奴隷たちは解放されます。もしそのまま奴隷であることを選ぶならば、彼らは耳を戸口の柱のところできりで刺し通されます。(出エジプト21:6)何年も前のことですが、礼拝中にこのことが私にとってリアルとなり、私は前に出て自分の人生に対する権利を放棄する願いを表しました。そして講壇の端に耳を当て、主に突き刺してくださるようにお願いしました。講壇の端は突然私にとっては戸口の柱となり、私は自分の耳をそこに当てて、主に突き刺してくださるように願ったのです。主は私の人生に対する権利を私から取り上げるのではなく、私が自ら喜んで主に差し出したときに受け取ってくださったのです。

 

しかしその後も私は一度ならず、「主よ、これは正しくありません。This is not right.」と不平を言いました。その時主はいつも、「あなたにはそれを言う権利(rights)はないのだよ。すべてそれを放棄したのだから。」と言われます。長い年月をかけて、私は「主が一番よく知っておられる」ことを学んできました。このような理解は一日で与えられるわけではありませんが、無条件で自分の人生を主にお委ねすることが、私にとって最善の結果となることが分かってきました。

自ら進んで人生に対する権利を無条件に主に明け渡し、自分の人生全ての上に完全な権威を主に持って頂き、「愛で仕える奴隷」になる決意をしたクリスチャンは本当にわずかです。王国には3つの要素が必要です。即ち、「領地、統治者、統治される者たち」です。主は王であられますが、自ら主に統治されることを願った者たちだけを統治されるのです。

 

私がその決意をした時、主はもはやただ「救い主イエス」とか「油注がれたキリスト・イエス、癒し主、御霊を下さる方」とかではなくなりました。主は私が完全に自分の人生を捧げ、私のすべて、私の持ち物すべてを支配される「主イエス・キリスト」となられました。主は私を「主と共に働き、主と個人的関係を持つ者」へと連れ戻してくださいました。エデンの園で失われたものを回復させてくださったのです。

シェカイナは、無条件で自らを主に明け渡した者たちにこれから完全に回復されます。

主に完全に贖われイエスを主とした者たちを通して、主のシェカイナが真昼の太陽のように輝き出るまで、主は私たちに試煉を与え、私たちの中の不純物を取り去られるのです。

 

第二テサロ二ケ1:10「その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者のーーそうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです。——感嘆の的となられます。」

イザヤ60:1−3「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。国々はあなたの光の上に歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」

 

私たちは主の栄光が現れるのを見ようとしています。しかしまず、私たちは自分の人生に対する権利を放棄せねばなりません。それによって主イエス・キリストが栄光の中に来られ、私たちを通して主の命を生きることができるからです。(終り)