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31 10月

緊迫する北朝鮮情勢       坂   達  也           2017年10月31日


緊迫する北朝鮮情勢
                  坂   達  也
トランプ大統領のアジア訪問を間近に控えたアメリカでは、北朝鮮に対する軍事行動に踏み切る場合の戦闘態勢への準備が着々と進められているニュースがこのところ連日のように報道されています。ついては、日本での新聞テレビ情報は、アメリカのリベラルなニュースソースがほとんどではないかと思われますので、今回はフォックス・ニュースを中心とした概してトランプ政権を支持するニュースメデイアからの情報をご報告させていただきます。
昨日のニュースでは、アメリカの最新鋭スチルス核爆撃機 B−2をトランプ大統領の日韓中訪問に先行して、太平洋から極東三国近海に向けた地区(場所は明らかにせず)を巡回(警戒待機)することが発表されました。又、北朝鮮では、アメリカ軍の襲撃に備えて灯火管制とか避難訓練が大都市ではない地方の核武器製造場所とか発射基地に近い小都市で行われたという情報も入っています。
これによって、北朝鮮側もアメリカの軍事態勢が急速に強化されていることを十分把握していることがうかがわれます。その証拠でしょうか、この6週間程は北からの弾道ミサイル発射が鳴りをひそめています
そこで、一つだけ確かなこととして今トランプ政権が一致して強調していることは、北朝鮮を核武器保有国にすることだけは断じて許さないと言う決意です。これによってトランプ政権が前オバマ政権が執って来た政策と完全に決別したことが明白にうかがわれます。
それが如実に顕われているのが、つい最近迄は武力を使わない平和裏の交渉を強調して来たペンス副大統領が、数日前に厳しい表情で、トランプ大統領と完全に一致して、武力行使を辞さないことを明確に表明したことです。それをマチス国防省長官も韓国の板門店訪問時に(韓国駐在の3萬5千人のアメリカ兵士を対象に)同じ内容を表明したのです。そればかりか、マチス長官は技術的に見て、北朝鮮の核ミサイルがアメリカ本土にまで到達できるようになるのは時間の問題であり、そうなれば今や北朝鮮のアメリカ本土攻撃の可能性が現実問題として大きな脅威となって来たと述べ、従ってアメリカは、今これ以上待つ時間の余裕は全くない緊急事態の中にいることを指摘しております。
上記の緊迫した情勢を裏付けるかのように、アメリカの前国連大使ボルトン氏は、トランプ大統領が、再三警告して来た北朝鮮に対するやむを得ない場合の「軍事行使」の可能性が今急激に高まって来ていることを次のように説明しています。それは、第二次世界大戦勃発寸前に、当時のフランクリン・ルーズベルト大統領がナチの艦隊に対して「先制攻撃」をすべきであると主張した「暖炉前での会話
Fireside chat」ーこれは未だに語り継がれている有名な話であるようで、ネットにも載っていますーを引き合いに出し、今や北を先制攻撃する可能性は単なる脅しではないことを強調しています。(御存知のように第二次大戦では実際には日本とドイツが先制攻撃をしました。)
ということは今回、北朝鮮が先に攻撃するのを許したら大変なことになりかねない、この際は絶対にアメリカが先制攻撃すべきという考え方があるということです。特に、北が EMP爆弾をアメリカ本土に落とす計画があることはアメリカではかなり知られており、下手をすればその一発の爆弾がアメリカの命取りとなるとさえいわれています。(それについて私はWWGMの紙面で数ヶ月前にご報告しました。)
それをいえば、リック・ジョイナー師も北朝鮮に対しそのような先制攻撃を早期にしなければ、考えられない程多大な被害を与えることになると、最近も改めて警告を発しています。
それゆえに、最近の北朝鮮に対するアメリカの対応は本当に目を見張るものがあります。例えば、最近のアメリカ軍と韓国軍隊の合同演習の際、アメリカは何と、未だかってない3艘の航空母艦をそろえて北に向かって対峙させました。加えて、76機のアメリカ核爆弾攻撃用爆撃機B−52を24時間以内に戦闘態勢に入れる準備体制が整いつつあることを、大統領自らが表明しています。これはまさに挙国一致の体制といっても大げさではありません。
その一方で、このところ約6週間の間、北朝鮮が核ミサイル実験で鳴りをひそめていることにお気付きでしょうか。この間、アメリカ側は軍事面の強化という大きなプレッシャーを与えるだけでなく、北朝鮮との間で、公にはされてはいませんが、密かに話し合いが行われていることを私は感じております。
そのことは既にアメリカが、北に対する経済的圧力を掛ける目的で、北朝鮮と取引する国とは取引を停止することを宣言し、事実それが効力を発揮し始めているといわれます。現実に、北の経済的困窮は益々顕著になって来たといわれています。ですから、私たちが祈らねばならないことは、何としても平和裏のうちに北朝鮮から核軍備を完全放棄する約束を取り付けることにあります。そして最終的には北(朝鮮)と南(韓国)が統合することを祈るべきではないでしょうか。
そのためにも、特に今回の旅行でトランプ大統領の最後の訪問地中国で予定されている習近平主席との会合が、今後の世界の力関係を大きく左右する非常に重要な会談になるといわれます。特に習主席は、つい先週、毛沢東以来の膨大な権力を手中に収めたばかりで、独裁者として地位を高めつつある彼とトランプ大統領が今回どのように渡り合うかが注目されております。ひいてはこの会談の結果が、北朝鮮の独裁者金正恩代表の今後の出方に大きく影響を与えることはいうまでもありません。
最後にもう一つ注目すべきことを申し上げるとすれは、アメリカはトランプ大統領に代わって以来、オバマ大統領時代に比べると、軍事行動力においてその対応のスピードが格段に速くかつ効果的になって来たことを、ボルトン氏等が指摘していることです。
 そのよい例が、アメリカの強力な支援によってイラクにおける ISIS の首都といわれるラカ Raqqa が最近奪回されたことに見られます。これはアメリカ側にとって大変大きな勝利であり、今やシリヤとイラクにおける ISIS の支配地域は、僅かそれぞれ5%と3%しかないといわれます。そして、中東に置ける次の課題はイランが支援するイラクのアサド政権を倒すことにあるといわれ、ひいては中国とロシヤの急激な接近と、北朝鮮、イランの核兵器問題をトランプ大統領の率いるアメリカが今後どう扱って行くかが注目されるところです。
 いずれにせよトランプ大統領になって以来、オバマ時代に低下したアメリカ軍の戦闘能力と軍紀の乱れが回復途上にあることだけは確かです。それと共に、最近アメリカでも大きくではありませんが多少話題にのぼることは今回の衆議院選挙で大勝した日本の現政権が自国防衛という建前で今後どのような形でアメリカに協力するかです。但しはっきり言えることは、日本の軍隊の台頭についての根強い懸念はアジアにおける隣国だけでなく世界的に見ても未だに消えていないということです。
これは全く私個人の印象ですが、今回の選挙で安倍首相は北朝鮮への脅威に対して自分がアメリカの大統領と電話会談をしたりして北朝鮮問題の解決に一役買っているかのように国民に見せたことです。私はそれが気になりました。そしてどうも日本の国民はそれを信じたようであることです。
私は前にも書きましたが、安倍首相が福島災害の復興に力を入れるより、むしろ自分のアベノミクスの売り込みにより大きな関心を持ち、自国の深刻な原子炉汚染問題を満足に解決できていないことを忘れて、海外で日本の原子力発電技術を売り込もうとして来たことに大きな疑問を持ちます。これはモラルと見識の問題であるからです。彼は世界で唯一の原爆被災国の首相として、北朝鮮の原爆製造に絶対反対するという立場で強行に北朝鮮に抗議することが正しいのではないでしょうか。(終り)

23 10月

イエスの血潮の力       リック・ジョイナー        2017年10月23日


イエスの血潮の力

 

リック・ジョイナー

 

黙示録12:11−1

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。

 

ここで私たちは勝利するための究極的な戦略を与えられています。

1.小羊の血

2.私たちの証のことば

3.死を恐れないで生きること

 

私たちはどれほど小羊の血の力を本当に信じているでしょうか?

私はかつて、一つのアメリカの教会のリーダー達のグループから、ある有名な伝道者が罪から回復するために助け導くように頼まれました。私はそれが主の御こころだと知り、引き受けました。

すると、そのリーダーたちの中から多くの人が、一人ずつ私のところにやって来て、彼らが信じるところの「人が回復されるためのガイドライン」や「基準」を私に押しつけようとしました。最初私は彼らの考えや意見を歓迎していましたが、彼らが十字架の持つ救いと回復の力を制限していると分かった時、会うのを止めました。彼らは神の力ではなく自分の意見を述べたかっただけでした。説明いたしましょう。

 

リーダーたちは、この伝道者が完全に回復されるためには「絶対にこのくらいの時間は必要である」という自分の考えを押しつけ、十字架の力に制限を加えようとしました。私は彼らがどこからそのようなガイドラインを得たのか、聖書のどこにそれが書いてあるのか、と訊ねましたが、彼らは答えることが出来ませんでした。それはただ「回復されるには、彼の生活でこれこれが出来るようにならねばならない」という彼ら自身の尺度であり、その中には彼らにさえ出来ないこともあるのではないかと私は訝しく思いました。

 

私はこの事をもっと深く掘り下げて考えました。そして彼らがこの伝道者の回復に非常に厳しい基準を設ける理由は、彼が同じ罪に陥らないように悔い改め、癒され、強められるためというよりは、彼の罪によって「キリストのからだ」が酷い辱めを受けたからだということが分かってきました。回復させるのは罰することではありません。それはその兄弟を悔い改めに導き、癒し回復させることです。

 

これは今「キリストのからだ」の中で何が起こっているのかを暴露し、警鐘をならすものでした 。後にある人が話してくれたのですが、伝道者を公に誹謗したリーダー達に追随した人達は、その後皆、罪に堕ちたり、離婚したり、死亡したりしたそうです。私は誰かの面目をつぶすためにこれを言っているのではありません。私も同じような罪を犯していたかもしれないのです。私は人々が十字架の救いと回復の力を自分の考えで制限するという過ちを犯さないようにと、お話ししているのです。なぜならば、十字架の力を制限することは、回復されねばならない人が犯した罪よりも、もっと重大な罪であることが往々にしてあるからです。ヤコブの手紙にあるように、リーダーや教師として影響力が大きいほど、私たちは厳しい裁きを受けるのです。

何かのために十字架の力が働くのにどれくらい時間を要するかを、自分の意見で決めてしまうことは、非常に恐ろしいことです。もしあることには3年とか5年が必要だと決めるのは、何を根拠にしているのでしょうか?

第2ペテロ3:8に「しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一年は千年のようであり、千年は一日のようです。」とあります。この言葉が意味することの一つは、私たちが千年かかると思うことを主は一日でできるということです。また、私たちが一日でできるはずだと思うことを、主は千年かけてされるということでもあります。タイミングは主の御手にあるのです。

この伝道者の回復に関して、私が聖書的ではないと思う意見を伝えにきた人達に、私は「主を否む罪は、この伝道者が犯した罪よりも重いでしょうか?」と訊ねました。彼らは皆、主を否むことの方が重い罪であると言いました。そこで私は「どうして主は、主を否んだペテロをわずか数週間で教会の最高の指導者とするために回復されたのに、なぜあなたはそれより軽い罪からの回復のために何年間も必要だと言うのですか?」と訊きました。

 

ガラテヤ6:1に「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。」とあります。「御霊の人」であるならば、どのような過ちを犯した人でも回復させることができるのです。十字架の力で贖えないもの、完全に回復できないものは、何一つありません。(終り)


19 10月

ミニストリーの三つのタイプ   ネイサン・ショウ          2017年10月19日


ミニストリーの三つのタイプ

 

ネイサン・ショウ(ハート・オブ・デイビッド・ミニストリーズ)

 

 

ベタニヤのマリアは聖書の中で私が一番好きな人物一人です。私は彼女の途方もないイエスへの愛と献身が大好きです。イエスは12弟子に劇的なしるしや不思議を行う権威を与えられました。(マタイ10:1)病人は癒され、悪霊に憑かれた者は解放されました。このような事はマリアに関しては記されておりません。しかし彼女は度々「イエスの足もとにいた」と言うことで、特別に注目されるのです。(ルカ10:39、ヨハネ11:32、12:3)

ヨハネ13章に、イエスが水で弟子の足を洗ったことが書かれています。その一つ前の12章を見ると、マリヤが高価な香油をイエスの足に塗り、髪の毛でぬぐったことがわかります。

ヨハネ12:3「マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。」

マリヤの行為はその家の空気を変えました。 2種類のパワフルな香りが放たれました。一つはナルドの香りであり、もう一つは崇拝と献身の霊的かぐわしさでした。

イスカリオテのユダは「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人びとに施さなかったのか。」と責めました。彼は高価な香油の値段を正確に知っていました。(これは一年分の給金に相当します)しかし、彼はこれが無駄だということだけで反応したのではありません。マリヤのイエスへの献身と崇拝という霊的香りが、ユダの心を暴露させたのです。

 

ここで二つの霊の統治力がぶつかり合いました。マリアは愛の統治を、ユダは欲の統治を放ったのです。

「しかしこう言ったのは、彼が貧しい人びとのことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金庫を預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからです。」(ヨハネ12:6)統治力は霊的空気に影響を及ぼしそれを変えていきます。

 

ミニストリーのレベル 

 

最近、私はこの二つの霊的統治力についてメッセージを語りました。すると数日後に、神はそれに関する更に深い洞察を与えてくださいました。神が示してくださったのは次にことです。

この聖書箇所においては、3つの方向に「もの resources」が動いています。

1.      イエスへ:マリヤの高価な香油がイエスの足に注がれた

2.      貧しい者へ:金入れの中の金は貧しい者たちのために使われた

3.      ユダへ:ユダは金入れから金を盗んでいた

この3つのものの流れの方向は、3つの異なるタイプのミニストリーを表しています。

1.      神へのミニストリー「すべてを注ぎ出す献身」

2.      人びとへのミニストリー「人びとの必要を満たす」

3.      自分のためのミニストリー「自分の欲を満たす」

 

教会やミニストリーの働きの多くは、この中の一つに当てはまります。私は公のミニストリーだけを指して言っているのではありません。エペソ4:11にある5つのミニストリーはすべてのクリスチャンが働けるように整えるものです。(エペソ4:12)

 

1.「すべてを注ぎだす献身」は、最も高度なレベルのミニストリーです。それはすべてを神ささげるのです。このレベルのミニストリーは神の意のままになることが必要とされます。神に仕えるとか、神と共に働くとかだけではなく、「神の足もとにすわる」のです。人間の目にそれはとても無駄なことのように見えるかもしれません。

どうしてイエスの足もとにすわってあなたの時間を全部浪費するのでしょうか?

一瞬で一年分の給金を無駄にするのでしょうか?

 

2. 「人びとの必要を満たす」も、非常にパワフルなレベルのミニストリーです。そのためには、時間、お金、エネルギーが用いられ、それによって神の御こころが表わされるのです。人びとは癒され、解放され、変えられ、貧困から抜け出ることができます。福音書の中に記録されている奇蹟の大部分は、この人間の必要に対する直接的なミニストリーです。

3.「自分の欲を満たす」は一番低いレベルのミニストリーです。このミニストリーは「この働きは自分のために何か得になることがあるか?」といつも考えています。「欲」は他人のものを自分のものにするのです。金入れの中のお金は貧しい人たちを助けるためのものでした。クリスチャンの歩みを始めて間もないとき、私たちの動機はしばしば自己中心的でした。しかし成長するにつれて、これは変っていきます。神は私たちの未熟さに対しては恵み深くあられます。しかしただ未熟というだけではなく、ユダは偽り者でもあったのです。

ユダはイエスや他の弟子たちと共に生活していたことを考えてください。神に人生をささげ、もっと学び成長したいと真剣だった人びとが周りに沢山いました。彼の自己中心的な欲には弁解の余地がありません。ユダは敵の策略に負け、遂にはサタンが入るまでになったのです。(ルカ22:3)

 

イエスはマリヤの惜しみなく捧げる愛をかばい、「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。あなたがたは、貧しい人びととはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。」(ヨハネ12:7−8)と言われました。イエスは弟子たちに、ご自分が死ぬことを数回予告されましたが、彼らには理解できませんでした。マリヤはイエスの死が近いことを悟り、埋葬の日のためにイエスに油を塗ったのです。

マリヤはイエスの足もとにすわったので、主の御心の深い洞察を得ることができました。彼女はイエスが進もうとしておられる道の目的を悟りました。主の深い悲しみと必要をマリヤははっきりと識別したのです。十字架への道は容易いものではありませんでした。高価な香油で主に油をそそぐことのよって、マリヤは主の御こころに直接仕えたのです。

祭司の主要な任務は、神の御こころに仕えることです。ツアドクの子孫たちはこの任務を与えられました。(エゼキエル40:46、44:15、48:11)しかし、私たちは皆、祭司として召されているのです。(1ペテロ2:5、黙示録1:6)人間の必要に対して仕える人は、簡単にバーンアウト(燃え尽き)してしまう可能性があります。人びとの必要は広大であり、その仕事は大変骨が折れることだからです。神の御こころに仕える秘訣を学んだものは、超自然的に支えられます。

 人間の必要に仕えて、神のこころに仕えることをおろそかにする者たちは、敵の策略に落ちやすくなります。ペテロ、ヤコブ、ヨハネがイエスが最も苦しんでおられる時に寝てしまったのはそれが原因です。(マタイ26:36−46、マルコ14:32−42)

マリヤは神の御こころに仕えることによって霊的空気を変えました。霊の激しい衝突を生み出しました。この衝突はマリヤをひどく傷つけたかもしれません。しかし、イエスは彼女をかばいました。マリヤは主との親密さによってこの衝突の衝撃から、まるで繭の中にいるように守られたのです。12弟子はイエスと共に歩き、しるしや不思議を行う権威を与えられました。マリヤはイエスの足もとにすわりました。

私たちは「しるしや不思議を行うこと」と「イエスの足もとにすわること」のどちらかを選ぶ必要はありません。私たちはどちらにも召されているのです。マリヤは終末の時代のための預言的モデルです。そしてマリヤの預言的モデルによってもたらされるしるしと不思議は、弟子たちが当時行ったしるしと不思議を優に越えるでしょう。神は多くのベタニヤのマリアのような者たちを今の時代に召し出されているのです。あなたはそのお一人でしょうか?(終り)


16 10月

私たちの霊的履歴        坂 柚実子           2017年10月16日


私たちの霊的履歴

 

              坂 柚実子

 

 8月末から9月にかけての今回の私たち夫婦の3週間の日本伝道旅行中、WWGMを読んでいて下さる方々と会う機会を沢山頂きました。長年の友人知人はもとより、初めてお会いした方々もありました。ある昼食会には数人の初対面の方が集まってくださいましたので、まずお互いを知るために、各々が「霊的履歴」を話すということになりました。お一人おひとりが神の導きにより今の場所にいるということであり、現在は喜びのある信仰生活をしておられることを感じました。

 

又、ある会ではカトリックの方々とお会いし、カトリックとプロテスタントの違いなどを話しあうことができました。カトリックの方からはカトリックが持つ問題点を、またプロテスタントの私たちからはプロテスタントが持つ問題点を分ちあいました。その中で一人の方が「両方から『いいとこ取リ』はできないのでしょうか?」と言われ、私は、それこそ神が望まれていおられることではないかと思いました。

神は歴史を通して、そのときどきに必要な聖書の真理にスポットライトを当て、それを新しい啓示として与えてくださいます。新しい啓示から新しい教派が生まれたならば、生まれた教派はそれ以前の教派がすでに持っている啓示、真理、知恵をおろそかにせず、そこから学ぶべきことは全部学ばねば損であると思います。またそれ以前の教派は、神が他の人やグループに与えられた新しい啓示にも心を開いてこそ、神の与えようとしておられるすべての真理を受け取ることができるのだと思います。それが「宗教の霊」に打ち勝ち、生ける神との関係を保つ道ではないでしょうか。

 

宗教改革

 

 先日CGNジャパンのインターネット放送で、9月に開催された宗教改革500周年集会における新宿シャローム教会の牧師稲福エルマ先生のお話を聞くことができました。非常に感銘を受けましたので、ここでご紹介させて頂きます。師はカトリック教会が持っていた問題や間違いの故に宗教改革が必要であったことを説明された後、次にように述べられました。

 

「カトリックであろうと、正教会であろうと、またプロテスタントであろうと、同じような失敗を繰り返す危険があるのです。神様の臨在を失い、御ことばから離れ、だんだん形式的なキリスト教という宗教になってしまう危険性です。ですから改革、トランスフォーメイションは、今なお私たちの中に継続して起こって行かねばならないことをおぼえていきたいと思います。

 

中世はカトリック教会が支配しておりましたが、500年前にそれが大きく変革されました。ルターが立ち上がり、信仰によって人は救われることを説いたのです。しかしその変革はそれで終ったのではありませんでした。1600年代にも沢山の神の御わざが起りました。その一つはバプテスト運動であり、洗礼の真の意味が再び回復されました。1700年代に起こった御わざの一つはホーリネス・リバイバルであり、クリスチャンは聖さを求めるべきであることを唱えました。1800年代には福音派運動が盛んになり、すばらしい世界宣教へのヴィジョンが与えられるようになりました。1900年代にはペンテコステ運動として、それまで失われていた聖霊の力を受ける聖霊のバプテスマの真理が教会に回復されるようになり、これによって教会が更に大きく変革されました。もっと自由な教会、もっと生きた信仰、燃えるような礼拝を捧げる教会が世界に誕生するようになりました。1960年代にはカリスマ運動を通して、キリストのからだの一致という真理が語られました。その後も、癒しのリバイバル、讃美のリバイバル、『信仰の言葉』のリバイバル、祈りの家のリバイバル等々、神様は今もなお継続して、教会を回復しておられることを感謝いたします。

 

私たちは本当に変えられて、変えられて、トランスフォームするのです。その目的は何でしょうか。それはキリスト・イエスの栄光を顕す教会に私たちはなりたいと願います!

 

ハガイ2章9節に『この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。』とあるように、神様は世の終りの教会をますます栄光に満ちた教会にしてくださる、それは初代教会よりも更にまさるすばらしい教会になることを神様は願っておられることを信じます。

 

エペソ5章27節には『(イエス)ご自身で、しみやしわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。』と書かれています!アーメン!

日本の教会はそのような教会になっているでしょうか?まだではないでしょうか。ですから私たちは更に500年前に始まったトランスフォーメーションの御わざを祈り求め、完成されるように信じて祈っていきたいと思います!」

 

以上が稲福師の力強いメッセージです。教会がトランスフォームされ続ける必要性を説かれました。私はアメリカからの宣教師であられる師の、日本の教会に対する深い愛と情熱を感じました。

 

私たちの霊的履歴

 

 さて、今日は私たちの「霊的履歴」をお話ししたいと思います。

私は日本では、日本キリスト教団の教会に小さい時から結婚するまで通っていました。特に中学から大学までは南部長老派(日本キリスト教団に合流した教派の一つです)の宣教師によって設立されたミッション・スクールに通いました。そこで信仰深い先生方の導きで高校2年のときに信仰を持ちました。毎朝の朝礼で讃美歌を歌い、意味が本当には分からないままではありましたが、沢山の歌詞を心に蓄えることができました。今も思いがけない時に口から出てくるのは讃美歌です。

 

所属していた教会はアメリカからの宣教師によって開拓された小さな教会でした。彼が「土台」を「どどい」と言い、「大間違い」を「おまちがい」と言っていたのが今も耳に残っているのですが、日本語で毎週説教されるのは、ものすごい努力だったと思います。宣教師家族の犠牲的献身によって私は養われたのでした。

 

アメリカのオレゴン州で事業をしていた主人と1969年に結婚し、近所にあった北部バプテスト教会に繋がり、そこで主人も5年後に救われました。

私はそこで「cover to cover(聖書の表表紙から裏表紙まで全部そのまま信じる)」という概念や「妻は夫に従う」という聖書の教えを初めてちゃんと教えられた気がします。確かに妻が夫に従っている素敵な夫婦が沢山いました。

 

そしてやがてその教会のなかに日本語部を作りました。オレゴンには幾つかの教派の神学校があります。最初は、そこに日本から学びに来ている牧師や神学生たちにお願いして礼拝を続けましたが、最終的には主人が按手を受けて牧師となりました。これを通して他の教派の信仰にも触れることとなり、聖霊のバプテスマもこの期間に受けました。

 

1995年夏にヘンリー・グルーバー師夫妻と出会い、不思議な神のご計画により、その秋から日本にお連れすることとなりました。それから10年間、年に二回一ヶ月ほど、案内兼通訳として夫婦で日本に同行いたしましたが、それを通してグルーバー師から「祈りの歩行」の実践や様々な霊的教えを受けることができました。師は聖書をそのまま生きているような方であり、私たち夫婦の信仰に大きな影響を与えてくださいました。

 

2004年にハワイに移ったのを機に、バプテスト以外の教会を経験することができました。まず、フォースクエア派の教会に一年ほどおりましたが、そこは個人的な神との時間、デボーションを強調している教会で、すばらしいことにほとんどのメンバーがそれを実践していました。次に単立の聖霊派の教会に2年ほどおりましたが、そこはエド・シルボソ師の指導のもと、社会のトランスフォーメーションを目指している画期的な教会でした。次にイスラエルに重荷を持つハワイ人によるメシアニックの集会に参加し、安息日やユダヤ教の慣習、祭りを経験し、イスラエル•ダンスを楽しみました。そこで学んだことは聖書の理解を更に深めてくれたと思います。また、それを通じてイエスを信じないユダヤ人と知り合う機会もあり、彼らがクリスチャンや十字架に対して否定的な思いを強く抱いている理由を知ることができたのは、貴重な経験でした。

 

2012年にニューヨークの息子夫婦に子どもが生まれ、その手伝いに出かけました。私たちが住んだコンドミニアムはもともとユダヤ人が建てたところで、現在も住民の半数はユダヤ人という場所でした。一つのビルに2つエレベーターがあるのですが、金曜日の日暮れからの安息日になると、片方のエレベーターは「各階止まり」に設定されます。ユダヤ人にとって自分の階のボタンを押す事は、安息日に禁じられている「仕事」になってしまうからです。私たちはハワイでユダヤ人のことを学んでいましたので、そのような一見愚かに見える「宗教的慣習」も、ある種の尊敬の念をもって受け取ることができたのは幸いでした。

 

教会は息子たちと一緒にブルー・オーシャンというグループに属す教会に通いました。これは「青い海原」にいる多くのノンクリスチャンにも福音を届けるという意味で、「Fully Jesus-Centered. Fully Inclusive.」という考えでした。「イエスを中心とし、イエスを求めて来る人ならば誰も拒まない。」ということだと思います。韓国人牧師による英語の礼拝でしたが、牧師夫人が担当し力を注いでいる教会学校は、子どもの時からキチンと自分の頭で考えさせるという方針を打ち出していました。

 

 息子の転職に伴い、2014年にサンフランシスコの近くに移りました。そこで黒人と韓国人の夫婦が牧会する現在の教会に導かれました。ここはまさに人種の坩堝で、多分15カ国以上からの人びとが集っているのではないかと思います。韓国人、黒人、白人、メキシコ人、中国人、その他私たち日本人等です。黒人も「アフリカン・アメリカン(アメリカの黒人)」だけではなく、ナイジェリアやケニヤからの「アフリカン・アフリカン(アフリカ生まれのアフリカ人)」もいて、その違いも見ることができます。

私たちは長年アメリカで暮らしてきたにもかかわらず、黒人の方と親しく交わる機会が今までなかったのですが、この教会を通して、アメリカの黒人が持つ深い傷を少し理解できるようになったのは幸いでした。多くの違う文化を持つ者が一つの教会を形成していくのは、確かにチャレンジも多く、御霊の働きがなければ不可能なことですが、牧師夫妻の霊的指導によりこのような教会形成が進んでいることはすばらしいと思います。

 

以上私たちが経験してきた教会ですが、それぞれの教会での牧師や信徒との交わりによって教えられ、養われ、助けられてきました。又、教会の構成や運営の仕方も多様であり、それに関しても学ぶことができました。カトリックの教会の経験はないのですが、主人は長年、16世紀のカトリックの霊的な人々から、書籍を通じて多くを学んできました。

 

そして私たちは、アメリカの霊的指導者の本やビデオ、インターネットを通して今も多くを学んでおります。現在WWGMで皆様にお伝えしているのは、そのような人びとの預言や預言的教えであり、それらが少しでも皆様の信仰生活への励まし、助けになることを願っております。どうぞこれからもよろしくお願いいたします。(終り


11 10月

ロバート・ダニエルズ夫妻の車と大型トラックとの衝突  坂  達 也    2017年10月11日


ロバート・ダニエルズ夫妻の車と大型トラックとの衝突

 

                 坂  達 也

 

 

 今回の日本旅行でお分ちした一つの奇跡のお話をご紹介します。

 

 これは私たちの教会があるオークランドの街で起こった話です。私たちの教会の牧師ベンジャミン・ロビンソン師の霊の父母といわれるロバート・ダニエルズ夫妻は非常に霊的なご夫婦ですが、その夫婦が約10年前のある日、ロバート師が運転し、その隣に奥様が座り、後ろの席には二人の友人を乗せて街の中を走っていました。四人を乗せた車がある交差点に差し掛かった時、横合いから一台の大型トレーラー・トラックが信号無視で猛烈なスピードで走って来るのに師は気が付かず、あっという間にトラックの横腹に衝突してしまいました。ところが驚いたことに、一瞬にしてロバート師の車はそのトラックを突き抜け、交差点を過ぎたところの安全な道路脇に停車していました。両方の車も人間も全く無傷で無事であったのです。

 彼にその時の様子を聞いてみたのですが、そのとき四人はしばらくの間呆然とし、黙ったまま瞬時のうちに何が起きたのかよく理解できない状態で過ごしたそうです。トラックは何事もなかったかのようにそのまま走り去りました。

 

 これは量子論現象の一つである「瞬間移動」に違いありません。聖書に書かれた例としては使徒8:39があります。ピリポが宦官にバプテズマを授けた後、主の霊が突然ピリポを取り去り、彼は隣町のアゾトに現れました。また、イエスが弟子たちと小舟で一瞬のうちに対岸に移動した話しも同じ瞬間移動の例です。それと、ブルース・アレン師の本で読んだのですが、広大なシベリヤ大陸で4つの教会を牧会していたある牧師は、毎週の聖日礼拝で、それぞれ500キロ以上も離れた場所にある4つの教会を一日で廻ったというお話です。なぜそんなことができるのでしょうか。

 

霊の世界と量子論

 

 この世に存在するあらゆる物質は、すべてその最小の構成物質である原子とか素粒子レベル(ミクロの領域)ではその大きさは無限に小さく、その量子の間隔は驚くほどすけすけで、全く空っぽといってよい程の空洞であるといわれます。原子の直径は10のマイナス10乗メートルといわれますが、その原子が更に小さな原子核とその周りを回る数個の電子で構成されています。その原子核は更に中性子、陽子、クオーク等の素粒子で構成されています。それらの素粒子の大きさは、物理学上で意味をなす最も小さな長さと言われるプランク長10のマイナス35乗メートル、あるいはそれ以下で、実質「大きさも質量もゼロ」として計算されます。しかもニュートリノと言う極微粒子に至っては、宇宙から大量に降り注いでいて、一秒間に何十兆個も人間の身体をするすると通り抜け、他の物質とはほとんど衝突しないそうです。

 

 この極小物質がどれ程小さくまばらに存在しているかを例えてみれば、原子一個の大きさが地球の大きさと仮定すると、その芯にある原子核の大きさは一つの野球場位の大きさに相当し、その原子核を構成する数個の素粒子の大きさは、野球のボール位と言われます。また、原子核の周りを廻っている何個かの電子もボールサイズであるといい、それ等が地球の表面を飛び廻っているーと形容される程、物質を構成する素粒子間の距離は全くのスケスケであると言うのです。

 

 一方人間一人を構成する原子の数は28桁の数字ー凡そ1兆X1,000兆になると言われ、そのミクロ的に見て天文学的に巨大な人間の身体を、一秒に何十兆個の野球のボール大のニュートリノ粒子が通り抜けるとしても、交通整理のための信号など全く必要ない程透け透けの隙間だらけの空間ということになります。

 

 ここで最初によみがえりの身体を持つイエス・キリストがすーっと壁を通り抜けて家の中に入って来られたことを思い出して下さい。実際にどんなに厚い壁であっても量子レベルでは全くのすけすけで、人間の身体が通り抜けるにしても、量子ベースではお互いに触れ合わずにすいすいと通り抜けられるのです。

 

 それではどうして壁とか大理石の表面は堅くて通常では抜けられないのでしょうか。それは物質を構成する原子のほぼ空洞である内部空間は、実は強力な電磁場になっていて、その力が物質に固体性を与えているからであるというのです。(フランク・クロース著「なんにもない無の物理学 P.50」白楊社)

 

 しかし、よみがえりのイエスのように霊的な人間の場合は電磁場間の力を解除することは主の御心によって自由にできると思われます。従ってダニエルズ師たちが乗った車の場合でも、それがピリポの例と同じく主のご計画であったのでしょう、車とトラックの衝突に際しては、主の霊が働いて、素粒子間のスペースに張り詰めている電磁場の力が一時的に解除された。それは壁を通り抜けようとするイエスの身体が、瞬間的にミクロベースのすべての量子がばらばらの状態となり「すり抜け」が可能になったのと同じであったと考えられます。

 

 しかしすべての物質が非常にすけすけな空洞でできているという理由だけでは「なぜ瞬間移動が起きるか」という疑問に対する完全な説明にはなりません。なぜなら「瞬間」と言えば「時間の速さ」が問題となるからです。

 

この宇宙の外側には時間と空間がないのでは

 

 これに対する答えとして、私は最近松原隆彦理学博士が書かれた著書「宇宙はどうして始ったのか」(光文社新書)を読んで、博士が「時間と空間は一体のものであり、時間というのは空間と同じように宇宙の中でしか意味を持っていない・・・宇宙の始まりとともに時間が出現したのであれば、宇宙が始る前に何があったのかを問うことは無意味になる。・・・宇宙の始まりに原因があるとすれば、それは時間や空間を超越したところにある。・・」といわれるのです。(P.178ー181)

 また、郡(こおり) 和範 博士は著書「宇宙はどのような時空でできているのか」(ベレ出版)の中で「宇宙の始まりの前には時間も空間もないといえるかもしれない」といっています。確かにこの質問に対して、物理学者は、今のところ実験による証明ができないゆえに、はっきりとは答えてはいないようです。しかし多くの人たちが肯定的で、その可能性を認めているように見受けます。そこで私自身の考えを申し上げたいと思います。

 

霊の世界が一方に流れる時間と三次元空間とその距離に

           とらわれない自由な空間であるとすれば

 

 私は霊の世界/領域においては、まるで無いに等しい自由な「時間」と「空間」が存在すると信じます。といいますのは、私たちが日常する思考とか夢、意識、想像を考えてみてください。その中では、まるで自由自在の長さと方向性にとらわれのない時間、それに距離のない空間の中で、あっちに飛んだりこっちに飛んで物語が繰広げられることを経験しないでしょうか。それに、私たちが見る夢はどんなに長い夢であっても、それは一瞬でしかないということを聞いたことがないでしょうか。

 私たち人間は、永遠に霊と魂で生きているのであって、肉体はこの世にいる間だけの仮の住まいです。従って霊と魂は時と空間で縛られていないと思います。

 

 そうであればロバート・ダニエルズ師たちが経験した時間感覚を超越した(ゼロ時間の)「瞬間移動」という奇跡は、神が私たちに備えられ、必要に応じて私たちがこの世で利用できる「便利な手段」の一つであると思います。私は冗談ではなく、いつか、ミニストリーで日米往復を瞬間移動で旅行することを願っております。

 

 さて最後に、前述の松原博士は、著書「目に見える世界は幻想か?」(光文社)の中で、「なぜこの世は存在するのだろう。・・・だが、なぜ世界が「ない」のではなくて「ある」のか。こんな複雑な世界があるよりも、何もない方がよほど自然な気もするが、なぜかこの世界は存在している。そこに必然性があったのか、それとも偶然そうなったのか。」という問いを発しています。皆さんはどう思われますか。

 

 私はこの質問はとても深い、むしろ哲学的とさえいえるよい質問であるという気がします。「目に見える世界は幻想か?」ー クリスチャンの私たちにとっては特に「永遠のいのちで生きる霊の世界」こそが実の世界で、この世は一時的に「主のようになるための霊的訓練」という目的で送られて来ている「仮の人生」を今過ごしているのではないでしょうか。

 尚、目に見えるこの世のすべては、あたかも天で制作された物語を、天から光を投影してこの世と言う三次元世界のスクリーンに描き出される映画である、あるいはホログラフィーと形容する科学者もいます。なるほど、この世の物質の99%近くが光でできているといわれますから、私たちはまさに上から光として投影される影として動きまわっているのかもしれません。(終り)


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