26 09月
裸のアダムとエバよ、今こそ輝く衣を着る時が来た
坂 達 也
三週間にわたる今回の日本旅行を終えた感想をご報告します。一言で申し上げれば、今はイザヤ書60:1−3の時代に入っているという実感でした。
「起きよ。光を放て。あなた(クリスチャン)の光が来て、主の
栄光があなたの上に輝いているからだ。
見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。
しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。
国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。・・・」
2節に「見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。」とありますが、それはアメリカだけではなく、日本もそうなって来たことを今回強く感じました。そして世界中にそのやみが急速にひろがりつつあります。
先ず異例な天災が世界を襲っていること。局地的豪雨をともなう未曾有の大型台風とかハリケーン、加えて、多発する地震と火山活動によって世界は膨大な被害を被りつつあります。
一方そのような天災とともに、世界を深いやみの真中に陥しこんだのはテロと言う人災であり、それによる破壊活動も益々激しさを増しています。それは特にアメリカにおける政治の頽廃と、超リベラルなメディヤの挑発による民衆や学生の暴動というテロ行為を引き起こしているだけではありません。北朝鮮による核兵器実験と言う深刻な挑発行為も、世界中の人心を脅かす大きなテロの一つと言えないでしょうか。
なぜ神はそれらが一挙に起こることを許しておられるのでしょうか。
その理由を挙げるとすれば、神は敢てこの世をとことん暗くすることによって「クリスチャンが輝き出す」ことを、この世の人々に見せようとされているーということに気が付き、私は今回そのことを旅の後半で強調しました。これからの終末の時代には真にキリストにつながったクリスチャンが台頭して、その人たちがそれぞれ個人的に輝き出すのを見て、神を知らない人々が神の存在に目覚めないでしょうか。それだけではありません。その輝きを増す「力あるクリスチャン」が、その国の政治と経済、社会も変えるのです。その人たちが最終的に終末最後の大リバイバルへの引き金となるでしょう。
日本の国を御国として立て直すのも、最後のリバイバルを起こすのも、主は日本のクリスチャンに期待しておられます。そのために今最も必要なことは「人間的・宗教的になり下がったクリスチャンとその教会」を抜本的に変革することであると私は痛切に感じたのです。
私は今回、従来のように教会を訪ねること以上に、個人的に二人三人のクリスチャンの集まりとか、ホーム・チャーチで親密なお交わりをさせていただくことに重きを置きました。なぜなら真のクリスチャンとは、最終的に個人としての主と交わることによってのみ育まれるものであって、マスプロダクションではないからです。(但し、大きな教会では小グループによる弟子訓練が可能です。これには大変な指導力が必要です。)
私たち夫婦は今回日本で20名近くの新しい「主を真に求める」人たちにお会いすることができ、相互に大変恵まれ励まされました。これからも、個人的にイエスの御声を聞き、聖霊と共に歩むことにご興味のある方はぜひご一報ください。喜んでお会いさせていただきます。
ところで今回日本で、私は初めて「団体としての教会」を離れた、あるいは「離れたいと願っている人々」に対して「クリスチャンの難民」という形容語があるのを知りました。今世界中に難民が溢れているように、日本ではクリスチャンの難民が問題になって久しいことを以前から私は憂いておりました。それは幕末末期に、侍の多くが「浪人」として溢れていたことと似ているような気がします。
この問題への対策として今回、私は「クリスチャン個人が光り輝く」ことの重要さを改めて認識しました。幾人かでもクリスチャンが輝き出すことによって、逆に輝かないクリスチャンが明るみに出されます。それが刺激となり、やがてクリスチャン全体の霊性の向上を期待したいと思うのです。
罪を犯す前のアダムとエバの身体は神の栄光で輝いていた
最初のクリスチャンであった彼らは、裸であったにもかかわらず、身体全体が輝いていて着物を着る必要はありませんでした。しかし、罪を犯すとともに彼らを包む栄光の衣は消え、彼らは自分が裸である事に気付いたのです。そこで神が近づくと彼らは慌てて園の木の茂みに身を隠したことが創世記3:8−10に書かれています。
又、シナイ山で神と40日間向き合った後のモーセの顔があまりにも輝いていたので、民は眩しくてモーセを見られなかったことを思い出して下さい。その後モーセは主に向かって叫んだのです。「私にあなたの栄光を見せて下さい!」(出エジプト 33:1) そしてモーセは神の後ろ姿を見て、さらに霊的に変えられました。これは新約の時代に生きるクリスチャンが最終的になるべき姿の型を示されたのであると信じます。
又、ルカ9:28、マタイ17:1にこう書かれています。イエスがペテロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登った時に、祈っておられるイエスの御顔が突然変わり、御衣が白く輝き出しました。そこにモーセとエリヤも現れたのです。
一体何がイエスの身体とかモーセの身体を変えたのでしょうか。
聖霊が私たちの細胞を変える
2コリント5:17に「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」と書かれています。
私たちがイエスを信じて霊的に生まれ変わると、その人は主の十字架の御業により霊的に新しく造られた者となり、その結果として、聖霊が私たちの中に住むようになります。これが抜本的な「新しい創造」の始まりです。これによって先ずその人の心が霊的に変えられるだけでなく、すべての細胞にその人格的変化が記録されるので、例えば、超自然の霊的特質の一つである「神の平安」が身体中の細胞とか臓器にその影響を記録されることが最近の科学によって証明されています。人間の身体のすべての細胞には, その表面に identity receptor 又は Human leukocyte antigens (HLA) ヒト白血球型抗原が存在し、人間が神を信じて霊的感化を受けるとそれがその人の細胞に影響を与え、その人のアイデンテイテイー(人格証明)が変わるのです。
クリスチャンになり霊的感化を受け始めると、それが細胞に生物学的に記録されるのであれば、その人の一生の「伝記」そのものが、その人の「クリスチャンとしての証し」となり、その人の「永遠の身分証明」となるといえないでしょうか。昔、グルーバー師が天国のお黄金の道で知らない人と出会った時に、話さなくてもお互いに相手の人の全貌が分かったと言われた意味がよく分かります。
ここで重要なことは、「聖霊が私たちの中に住む」といっても、それが本当にあなたの中に住み始めた聖霊が生きて自由にあなたと共に活動していればの話であって、そうでなければ輝き出ないと思います。これがクリスチャンの最大の問題であると思います。本当にあなたが常に聖霊と共に歩いていれば、あなたは聖霊の衣をいつも纏っているので、あなたの身体は光り輝き、奇跡がどんどん起こり始めるでしょう。すなわち、私たちの身体は「新しい創造」によって聖霊の臨在が常に活発に活動するとき、私たちは罪のないオリジナルの人間にリバイブされ、身体が輝き出る元々のキャパシティーを持つているのです。
ルカ11:36に「もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。」とあります。この御ことばは「聖さ」が完全になったときの姿を明瞭に示しています。即ち、神の栄光 GLORY とは「神のすべて」の現れであり、それがフルに顕われるとき、神のいのち、愛と力、神の神聖さと公正さ、慈悲、知恵によって、もの凄い輝きが出る。これは途方もなくすばらしい希望ではありませんか。私たちのからだ全体が神の臨在によって輝き、暗い部分が全くなくなるというのですから。
そのためには、いつも申し上げますが、2コリント3:16−18の祈りが非常に重要であると私は信じます。「人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」この祈りをすればする程、私たちは新しい創造により「主に似たもの」に変革されて行きます。
ここで先日、8月7日のWWGMでご紹介したキャシー・ウオールターズ師の言葉を思い出してください。
「聖霊は、ご自分のために、あなたに働いてほしいとは望んでおられるのではなく、私たちが神の御霊に自分を明け渡し『どうか私を通してお働きください』とお委ねすることを望んでおられるのです。私たちはただ自分を聖霊に明け渡せば、すべて主が事をされるのです。それがピリピ2:13に書かれている「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」の意味です。・・・
イエスが地上のミニストリーとしてエルサレムやベタニヤ、ガリラヤの町を走り回ったのは、人びとの必要を満たすためではなかったのです。実際のところイエスは次の3つのことをしただけです。
1.御父が「せよ」と言われたことをした
2.御父が「言え」と言われたことを言った
3.御父が「行け」という所に行った 」(以上ウオールターズ師引用)
これはまさにヨハネ5:19に書かれていることそのものではありませんか。「・・・子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」
イエスは、聖霊を通して、父がいわれることを耳で聞き、目で見て行うことに徹せられたことが上記の御ことばからよく分かります。本当に主がされたことはそれだけであり、それがポイントではないでしょうか。私は最近リッチ・ベラという牧師のお話しをビデオで聞きましたが、彼は驚いたことに「主の御声が聞こえると同時に、それが目で見えるようになった。」というのです。私はそれを聞いて本当にうらやましく思いました。でも私たちが聖霊と忠実に歩むようになるとき、そうなれると信じます。
最後に、もう一度申し上げます。ほとんどのクリスチャンが、ボーンアゲインした自分の内には「聖霊が内住している」ことを頭では理解していていても、現実にはその聖霊と共に生きていないという事実です。
私も長い間、その聖霊の臨在の実感がなく、なるほど、聖霊は私たちを助けてくれる「ヘルパーさん」と考え、有り難いと思いつつも結局はほとんどの場合、自分で「聖書的に良いこと」を「自分で」選び、それを「自分の方法とタイミング」で行っていたに過ぎないことに気が付かされました。
ヘブル4:10に「神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。」とあります。私たちも自分のわざではなく、信仰によって神の平安に入ろうではありませんか。(終り)
25 09月
御ことばを歌う
ジュリー・マイヤー (IHOPカンサス)
今日は、主の歌を歌うこと、そしてそれによって預言を解き放つことをお話したいと思います。非常に多くの方から預言的な“主の歌”についての質問を受けますが、誰にでもできる簡単なことによって、ワーシップの中で主の声を聞くことができます。
この方法は、主婦であっても仕事をしている人でも簡単にできます。家の中でも車を運転している時でも、バックミュージックが何もなくても出来るのです。
1コリント14:1に「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい」とあります。私は「主の御こころを知りたい!主が今語っておられることを知りたい!」と心から思うことが度々あります。
例えばあなたが教会の賛美チームに入っていて、日曜礼拝のとき急に主の歌を歌い預言しようと思っても、それには少し無理があります。私たちは毎日の生活の中で主に向かって主の歌を歌い、預言していなければならないのです。
主の歌や預言は、あなたが一人でいる時、まわりに誰もいない時、即ちあなたと神だけのときにしていることが、他のときにも自然に溢れ出すことだと思います。ですから、私はいつも聖書の御ことばを私のこころに向かって歌っています。ダビデは「新しい歌を主に向かって歌え」と何度も繰り返し言っています。
ダビデの生涯を学ぶならば,彼が大きな危機に直面したときや窮地に追いやられたとき、彼が何をしたかを知ることができるでしょう。彼は主に新しい歌を歌ったのです!新しい歌を歌うことがダビデを助けたとすれば、それはあなたや私をも助けるはずだと私は思います。あなたは困難に直面したとき、イエスの愛を確信できないことがありますか?もしあなたが、「私は神に愛されている、私は絶対に神のお気に入りだ」と信じられないでいるとすれば、あなたが誰かに「神はあなたを愛しています」と言ってもあまり説得力はないでしょう。
「私は神に愛されている」と確信するのは、主から愛の言葉を聞くことから始まります。そしてそれは神の御ことばを知り、主との関係を私たちのうちに築くことから始まります。御ことばは神から私たちへのラブレターです。その愛の御ことばを私たちが心に本当に受け取るために最も素晴らしい方法があります。それは御ことばを歌うことです。
私たちは歌を歌うとき、よく憶えることができます。何年も前におばあさんから教わった童謡を沢山憶えているのはそのためです。音楽や歌には、私たちが心を開き、心に主の愛が書き記され、主の癒しを受け取れるようにする力があるのです。
私は今までの人生で、とても大変で苦しい時がしばしばありました。とても主の愛を感じることなど出来ない、そのように考えることも出来ない、と思いました。そのような時、私は私のこころに向かって歌い始めるのです。
「私は弱いけれども、美しい
傷ついているけれど、美しい
私が弱いとき、神よ、あなたは愛してくださる
傷ついているけれど、あなたは私の味方
忙しい朝でも、今、あなたの目は私に注がれている」(雅歌1:5参照)
私たちが歌い始めると、それが上手でも下手でも、神は大層喜んでくださいます。みんなシャワーの中ではオペラ歌手のように歌えますよね。あなたが御ことばを歌い出すと、神があなたに対して持っておられる感情がそこに注がれ始めます。
そしてそれは「御ことばは(即ち神は)あなたのことをどう言っているか」を明らかに示してくれます。そして、自分に対して持っていた否定的な思いは、御ことばの真理に変えられていき、あなたは神がどれほどあなたを愛しておられるかを確信できるようになるのです。
これが自分の弱さから抜け出す方法です。これが傷ついた自分から抜け出す方法です。傷つき弱っているまさにその時、神が自分を燃えるような情熱で愛しておられることを感じ、知るのです!それは一ヶ月後に問題がなくなった時にではなく、問題のさ中に神の愛を受け取り癒されるのです。このように私たちをイエスのあふれる愛にもっとも素早く結び付けるのは、御ことばを歌うことなのです。
ここで聖書の言葉を歌う時の3つの段階をお話したいと思います。
私の好きな詩編116:1、2を例として用います。
「私は主を愛する。
主は私の声、私の願いを聞いてくださるから。
主は、私に耳を傾けられるので、
私は生きるかぎり主を呼び求めよう。」
まず、この聖句をそのままの言葉で歌います。バックミューックや楽器を演奏しないでも、ただアカぺラで自分で好きなメロディーを付けて歌えばいいのです。子どもをサッカーの試合に連れて行く時や、一日中忙しくしている時にも、この聖句をいつも心に携えていくのです。そしていつも口ずさんでください。そして一週間それを続けてみてください。
次の段階として、同じ聖句を自分自身の歌に変えるのです。御ことばをとり、それを祈り始め、歌い始めると、それはダビデの主に対する熱い想いを受け取り、それが私自身の想いに変っていきます。最早ダビデが昔歌った歌ではなく、今私が歌う歌となり、神が身をかがめて私に耳を傾けてくださる姿を私は思い描くことができます。私は同じ聖句を使って、自分自身の歌に変え、好きなメロディーを付けて歌うのです。
「イエス様 愛します
どれほどあなたを愛しているでしょうか
あなたが私の祈りを
すべての叫びを
聞いてくださるからです
あなたはいつも私の歌に耳を傾け
私の叫びに耳を傾けてくださいます
今もあなたは身をかがめて
私の小さなささやきに
耳を傾けておられます」
これが次の段階である神の御霊があなたに言われることを聞く鍵となります。同じ聖句を、あたかも神があなたに歌っているかのように歌うのです。これは預言に他なりません。同じ聖句を私の心と魂に、あたかも神が歌っているかのように歌うのです。なぜならば実にそれこそ神がされることだからです。それは御ことばだからです。
「ジュディー
あなたの歌が聞こえますよ
とても麗しい歌声です
わたしは身をかがめて
わたしの耳をあなたの口に近づけ
一言も、一節も聞き逃さないようにしています
わかりますか
あなたの声は美しい
あなたの歌はすばらしい
聞こえます 聞こえます」
愛する皆さん、あなたが御ことばを歌い始め、神の預言のことばを自分のこころに歌いかけるならば、それは溢れ出るようになります。教会のワーシップの中で、また家庭集会の中で、それはあなたの心から、口から、溢れ出てきます。ですから今日、一つ聖句を見つけ出して、それを歌い、それを祈りに変え、そしてそれをあなたの心と魂に預言として歌ってください。これは預言をするためのとてもやさしいステップになります。あなたが毎日そのようにするならば、それは日曜の礼拝の時、とても自然で簡単に神のことばを語ることになるからです。(終り)
18 09月
わざをするのは主の御ことば
ワンダ・アルジャー(Dove Christian Fellowship)
多くの献身的なクリスチャンは、毎日の過密なスケジュールの中で、いつも山積みになっている自分がすべき「良いこと」のすべてをいかにこなしてゆくかに苦心奮闘しています。その結果、その時「最もすべきこと」に集中して十分力を注ぐことが難しくなっていないでしょうか。これは確かにチャレンジです。
又、何をするにも、欠乏したエネルギーでやっと仕事をするのではなく、あふれる力で働くすばらしさを私たちは皆知ってはいます。そのために主との深い交わりをする必要があることを分かってはいても、私たちは忙しさを理由に「すべてを巧くやらなければ」というパーフォーマンスの要求を満たすことをつい優先してしまいます。
そのような様々な自分自身の声に駆り立てられるうちに「世の中をよくしたい」という願望と「人から認められたい」という自分自身の思いが勝って、知らないうちに敵の“わな”にかかってしまうのです。
それは、自分がやっていることはこれで良いのだろうかーすなわち、本当に世の中を変えているのだろうかーを私たちは考え始めます。そして自分を人と比較し始め、いつも自分の足りなさを感じるのです。その結果、人に追いつくために頑張るとき、私たちは 恵みと心の平安をだんだん失っていきます。
私自身もこの葛藤を持っていたので、その対処方法を最近主に尋ねました。主がまず言われたことは、「立ち止まって、わたしのいうことに耳を傾けなさい 」でした。主は「心を静まらせる大切さ」を思い出させてくださったのです。それは私や、自己不信と戦っている者、何か不安を抱えている多くの者にとって、主からのレーマ(主が今語っておられることば)を聞くために不可欠なことでした。
「わたしはあなたの内で、そしてあなたを通して働いています。それはわたしがあなた(自身)のパーフォーマンスを要求するからではなく、わたしがあなたと結んだ契約の故に、わたしは(あなたの中であなたを通して)働いているのです。わたしはあなたを召し、わたしの目的のために聖め分ちました。わたしは誠実にあなたへの契約を守ります。あなたが迷ったり横道にそれた時でも、わたしの目的は変わりません。なぜならば、わたしがわたしのことばを語ったからであり、それは必ず成就するのです。
自分がどれだけ功績をあげているかと測るのを止めなさい。わたしはあなたの成績をつけてはいません。ただわたしが話したことを行ない、あなたが始めたことを完成することに忠実でありなさい。わたしはあなたのパーフォーマンスではなく、契約の故にあなたをわたしの栄光のために用います。あなたではなく、わたしのことばが業をなしているのです。」と主は言われました。エレミヤ1:12に「わたしのことばを実現しようと、わたしは見張っているからだ。」とあります。
これは驚くべき約束です! 私たちの成功は、私たちが主のために働くからではなく、神が私たちの内に働いてくださる結果なのです。預言者の中の預言者であられる主は、御ことばを私たちの上に語ってくださったのであり、その御ことばの成就を見ることに情熱を注いでおられるのです。自分で何かを起こそうと頑張り、神の御ことばより先に進んでしまう時、私たちは混乱、無秩序、不安に陥るのです。神が私たちのために設けてくださった恵みの境界線を越えて外に出るならば、そこに平安はありません。
詩編16:5−6「主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは私に受ける分を、堅く保ってくださいます。計り綱は、私の好むところに落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。」
私はミュージシャンなので、「パーフォーマンス」に対する思いは私の身体にしみ込んでいます。始めはいつも「自分の最高の演奏をしよう」という良い意図で始めるのですが、それがいとも簡単に「競争」へと(それは他人との競争だけではなく、自分との競争へも)変化して行くのです。それに「宗教の霊」が加わって、あっという間に私は自分で勝手に決めた到達不可能なレベルに達するために、自分と競争してしまうのです。
従順とパーフォーマンスには違いがあります。従順は主から「言いなさい、やりなさい」と言われたことをそのまますることです。パーフォーマンスは自分が必要と考える何かを得るために、主が言われたことを越えてすることです。
私たちが「もっと」すれば、主は「もっとしてくださる」と思うところに偽りがあるのです。その結果「もっと一生懸命働き、もっと功績を上げるなら、もっと遠くまで、もっと高くまで私は行ける」という人間的な考えにひきずりこまれていくのです。
しかしながら、神の御国においては、「どれだけ速く走るか」とか「どれだけ高く上るか」ではなく、神が自分のために計画されたユニークな青図(ブループリント)にどれだけ忠実に従うかがポイントです。
比較することは私たちを殺します。それは他の人のためのレーンに入ってしまって、自分のユニークな道と目的を見失うことなのです。
主は私たち一人ひとりを召してくださいました。そして一人ひとりの上に御ことばを語ってくださいました。私たちが主に「はい」と答えた時から、主は私たちに与えられた主の目的を成就し、主が始められたものを必ず完成するという契約をかわしてくださったのです。何かを起こさせるのは、私たちの努力にかかってはいません。もうパーフォーマンスをするのはおしまいです。私たちはただ従順と安息、そして主がそれぞれに与えられた恵みの計りの中に、どのような時にも留まること、それだけでよいのです。他の人に追いつこうとしてパーフォーマンスをしなくてもよい。ただ主の御ことばに事を成していただく時、主の超自然的な恵みにより、私たちの人生やミニストリーにすばらしい実が実るのです。
あなたが自分の召しや任務を成し遂げるための恵みと安息の場を捜し求めておられるならば、パーフォーマンスや、奮闘を止めてください。立ち止まって主の御声を聞き、あなたのために備えられた道を歩きつづけてください。他の人達が全員走っているとき、主が「あなたは歩きなさい」と言われたとしても、それを忠実に歩む時、あなたは競争に勝つのです。それはあなたへの主の契約があるからです。(終り)
03 09月
問題はサタンではなくあなたです
ペリー・ストーン
マタイ16:21−23
その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえなければならないことを弟子たちに示し始められた。するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
新約聖書の中には、サタンから直接の影響を受けた人のことが3回出てきます。イスカリオテのユダ、シモン・ペテロ、アナニヤとサッピラです。聖書にはサタンがユダの心に入り、彼はキリストを銀30枚で売ったとあります。シモン・ペテロの場合は彼の心にきた「思い」が、イエスがなすべき事を止めようとしました。アナニヤとサッピラの場合はサタンに心を奪われ、地所を売ったお金を全部捧げると言って、実はその一部を自分たちのために残しておきました。ですからこの3つは、はっきりとサタンが彼らの考えや決断に関与していたのです。サタンが彼らの心、感情に働きかけ、何らかの反応、行動を起こさせていることがわかります。
そして「霊の戦い」と聞くと私たちは、それはただ悪霊やサタンと戦うことだと考え勝ちです。確かに、エペソ6:12には「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」と書かれています。
しかし、聖書を詳しく調べてみると、クリスチャンの戦いのほとんどは、悪霊やサタンに対するものではなく、内なる自分との戦いであることがわかります。あなたの敵は自分なのです。聖書の中にある3つの戦いの例をあげたいと思います。
1.2コリント10:5「私たちは、さまざまな思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ...」
これは私たちの考えや高ぶりとの戦いです。
2.1コリント9:27「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。」
これは肉体の訓練という戦いです。
3.2コリント7:1「...いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖さを全うしようではありませんか。」
これは霊の汚れを清める戦いです。
この3つは、自分の思いの訓練、肉体の訓練、霊の訓練という戦いについて語っています。
皆さんに次の質問をしたいと思います。
「なぜ、多くのクリスチャンが汚れた習慣と戦っても勝利することができていないのでしょうか? なぜ悪い習慣を止めることができないのでしょうか?
なぜ、いつも敗北を喫して、勝利を味わうことができず、落ち込んでいるのでしょうか? どうして喜びがないのでしょうか?」
それは私たちがどのようなクリスチャンであるかに関係しています。
クリスチャンには3つのグループがあります。
1.ヨハネ8:36のグループ「ですから、もし子(イエス)があなたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」
このグループの人は贖われて、イエスによって本当に自由にされ、完全に解放されたのです。
ロバートさんは30年前は麻薬売買をしていて本人も中毒でした。しかし、神が彼を解放したとき、彼は100%イエスによって自由にされました。
2.ヘブル12:1のグループ「...私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐を持って走り続けようではありませんか。」
このグループの人は贖われましたが、完全には自由になっていません。主を愛してはいますが、まだ何かと戦っているのです。それは誰かを赦さない苦々しさかもしれません。ですから、すごく大きな事ではなく、完全に縛られているというものでもないかもしれませんが、まだ戦いがあるのです。
3.ガラテヤ5:1のグループ「...ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」
このグループの人は贖われてイエスを愛しているけれども、奴隷のくびきをまだ負っている人たちです。アルコール中毒者が救われたけれど、まだアルコールとの戦いが続いている状態です。ポルノ中毒から救われたけれど、いまだに誘惑に完全に打ちかつことができていない人です。
私たちが勝利の人生を歩むためには、第一のグループ、即ち、完全に自由にされた霊的なクリスチャンにならねばなりません。
誘惑に負けず自分をコントロールし訓練するのは簡単だと言う人は、痩せるためのダイエットを幾つも変える人のことを考えてみてください。それは決して簡単なことではありません。
聖書では私たちは御霊によって歩まねばならないと言っています。その意味は、あなたの思いを常に御ことばと御霊とに一致させて生活するということです。肉の欲望を満たすのではなく、内なる自分を訓練して御ことばと御霊に従う道を選びとるのです。
ある時、一人の青年がやってきて、「情欲をもって女性を見る」という誘惑について相談しました。私は彼がそのような思いから解放されるように祈りました。一週間後に彼は又やってきて「すばらしいです。私はもはやそのような感情に惑わされることがなくなりました。」と言いました。ところがまた一週間後にやってきて、「職場にミニスカートの女性がいて、どうしても情欲の目で見てしまいます。」というので、また解放の祈りをしようとすると、神が私に言われました。「彼に必要なのは悪霊を追い出すことではなく、彼が自分を訓練することです。He
does not need deliverance . He needs discipline
.」ミニスカートの女性を見たら、何回もその人を見るのではなく、すぐに目を逸らして再び見ないように、内なる自分をしつけなさい、と神は言われたのです。
悪魔は今でも私たちの心に働きかけますが、私たちは神と御ことばと聖霊により頼むことによって、いつも自分を訓練し、悪魔の罠からのがれる力を受けることができるのです。ですから問題は悪魔ではなく、あなたなのです。私は怒りっぽい性格ですが、深呼吸をして「今怒りの言葉を発することは止めよう」と自分をしつけるのです。何度も失敗をしてきましたが、だんだんに訓練しています。(終り)